こんなアチャに手を差し伸べてくれたのが、同じ団地に暮らす不良やその親だった。食べる物がないと聞けばパンを分けてくれたり、小遣いをくれたりした。
アチャは言う。
「団地のみんなに助けてもらって、ここが俺の生きる場所だって思ったね。宝物だよ。この仲間たちと生きて生きたいと思った」
彼は今、その仲間たちとともにラップをやっている。その仲間の体にも、可児市の池長と同じく市外局番のタトゥーが刻み込まれている。彼らにとって、T団地は「異国」ではなく「地元」なのだ。
池長とアチャの例からわかるのは、彼らが「外国人」であることから、日本の子供ではありえないような状況に陥っていることだ。
日本人の子供が、池長のように12歳から3年間も橋の下でホームレスとして生きていくことがありえるだろうか。
あるいは、アチャのようなに、ライフラインの止まった団地の部屋に置き去りにされてしまうことがありえるだろうか。
ほとんどのことが、「外国人」であるがゆえに、子供たちが社会から見捨てられた結果として起きていることなのだ。
冒頭に述べたように、今の日本は外国人による労働力に未来を託そうとしている。ならば、外国人の子供に対してそれに見合った支援をしていく必要があるだろう。
池長やアチャは国籍こそ外国かもしれないが、体に地元の市外局番のタトゥーを掘り、そこで定住しようとている。家族も友人もみんなそこにいる。
そう考えた時、私たちは彼らを「外国の子供」ではなく、「日本に暮らす子供」として受け止め、何をすべきかを考えていく必要があるのではないだろうか。