● ドラマ「せごどん」
● 事実への認識
● MTFが「強者出身」の自覚をしばしば欠く理由
● 脱サラ・農家転業
● 「士農」と「性別」
● 劇画「ケイの凄春」
武家の嫡男である主人公が、いろいろあって
百姓になって生きることを選ぶが、
百姓たちは彼をすぐには受け入れない。
気を許さない、というか、
気を許さない・許せないのが当然だと思う。
サムライはわしらが作った米を取り立てて、
わしらを虐げてきた階層だ。
サムライの家に生まれ育った人間が、
サムライは捨てた、私は百姓だ、と言ったからと言って、
なぜ元サムライをわしらと同じ百姓と思えるのか。
この人は確かにサムライを捨てたらしい。
けれども自分の意思でサムライを捨てるまで、
サムライとしてわしらの米を食ってきたんだ。
百姓の気持ちを、誰が責められる?
● ドラマ「せごどん」
奄美大島に身を隠した西郷は
ドラマの中では「おいは一生ここで暮らす」と言っていた。
ドラマの中では、西郷は島の住民になったつもりだった。
でも島民は西郷を
「島の男と同じ・島の男の一人・ただ男という個人」
と認識し、そう扱ったか?
否。
島民にとって西郷は最初から最後まで「薩摩の偉い人」だった。
島民が西郷を「島の男の一人」と認識し、そう扱わなかったことは、差別か?
島民が西郷を「支配層の人間」として丁重に扱っただろうこと、
それは薩摩の支配の歴史が島民にそうさせていて、
島民が「分け隔てなく」西郷を島民として扱うことは、発生しない。
島民と西郷には「もてなす/もてなされる」関係がどうしてもある。
そうさせる力が働いている。
● 事実への認識
女性にとって自分たち女性は
女性の体を持ち、それゆえに身体弱者性と社会的弱者性を持たされている
集団であり個人だ。
戸籍女性のセックス男性を
戸籍女性のセックス男性と認識するのは、事実への認識だ。
戸籍女性のセックス男性を
女性(セックス女性だから戸籍女性、のセックス女性)が
「自分/自分たちとは違う」と感じるのも、事実への認識だ。
セックスが違うのは事実、
女性史としても女性の個人史としても
セックス男性はそれを持たない、これも事実だ。
● MTFが「強者出身」の自覚をしばしば欠く理由
男性で「性別強者」「加害する側」の自覚があるのは稀。
また、性差別が本格化するのは学生時代を終えた後。
成人前から性別違和を覚え始めた男性は、
男性の旨味をそれほど感じないまま、
男性の主流にいられないことでの不利益を感じてきたから、
「上記自覚なし+被害意識のみ」が一般男性以上に顕著となるのだと思う。
性別移行とは、
サムライの子(男児)が百姓の男になろうとするようなものでは。
Boys to Men を
City boy to Farmer でやろうとするような。
● 脱サラ・農家転業
都会で会社員→田舎で農業
これが(多少の困難があっても)成立するのは
都会と田舎が支配関係にないからですよ。
都会が田舎を搾取している部分はあるけども。
● 「士農」と「性別」
「士農」の絶対的な差別構造
「性別」の絶対的な差別構造
これが続いている中で
「元強者の現弱者?」と「一生弱者」を「同じ」とは。
※次記事に続く。