防災指揮システムは首都圏の防災ライブカメラをコントロールできる。俺たちはボーナム総合防災センターにこもっていても、外の光景を眺めることができた。
人々はクーデターを受け入れたように思われた。今のところ、民主主義再建会議に抵抗する動きは見られない。市民はいつもと同じように過ごし、官僚機構は再建会議布告を粛々と実行し、軍隊は持ち場を守ることに努める。
もっとも、再建会議の命令を聞く者が支持者とは限らない。積極的に支持する者はごく一部で、その他はとりあえず従っているだけだろう。正当な政府が消えて市民は戸惑っている。だから、唯一の秩序にすがろうとするのだ。
俺は画像を消すと、マフィン三個とシュークリーム二個を食べた。今から一世一代の演説を始めるのだ。糖分はいくらあっても足りない。
「開始一分前です」
防災司令室に副官代理ハラボフ少佐の声が響く。クーデター対策チームの一一名全員が、息を殺して時計を見つめる。
「五、四、三、二、一……」
カウントがゼロになった瞬間、俺は青いボタンを押す。
「緊急事態速報! 緊急事態速報! 惑星ハイネセン全域に緊急事態が発生しました!」
一一月一日一二時〇〇分、ハイネセン全域に緊急事態速報が発信された。通信端末、テレビ、ラジオ、館内放送のすべてからサイレン音が鳴り響く。そして、すべての通信端末とテレビに、俺の顔が現れる。
「市民の皆様、私は首都防衛軍司令官エリヤ・フィリップス宇宙軍中将です。昨日より首都圏で進行中の事態に対して説明いたします。
一〇月三一日午前九時、ウラディミール・ボロディン宇宙軍大将率いる反乱部隊が、ハイネセンポリス特別市及びオリンピア市を占拠しました。そして、市民の代表から権力を奪い取り、『民主政治再建会議』と称する軍事独裁政権を樹立したのです。
首都防衛軍は防戦に務めましたが、戦闘継続が困難になったために退却いたしました。司令部を一時的に放棄し、予備司令部で反撃の機会を伺ってきました。
反乱部隊は最高評議会と同盟議会の権限を停止し、『民意を代行する』と言って命令を出しています。しかし、民主的選挙によって選ばれた代表以外には、民意を代行する資格はありません。要するに資格のない者が勝手なことをしているのです。
この戦いは権力争いではありません。むろん、政策をめぐる争いでもありません。トリューニヒトとボロディン、戦争継続と講和、積極財政と緊縮財政、軍拡と軍縮という対立軸は、この戦いには存在しません。
重要なことは二つだけです。民主主義を守りたいのか? 軍事独裁を容認するのか? この戦いは民主主義と独裁政治の戦いなのです。
三年前、私は民主主義が失われた世界を知りました。帝国領はかつて民主国家だったとは思えないほどに荒廃していました。インフラや福祉なんてものはありません。民衆は貧困に苦しみ、反乱を鎮圧するための軍隊と警察だけが肥え太っていました。
非民主的な体制においては、政治家は民意に従う義務を持っていません。市民の要望からかけ離れた政策を推進できます。そのことを知った時、私の頭から民主主義に対する懐疑は消えました。何があろうとも、民主主義を守るために戦おうと誓いました。私は衆愚政治より哲人政治を恐れます。
今のところは反乱部隊が優勢です。主要な官庁や司令部は占拠されました。閣僚や軍首脳は捕虜となり、トリューニヒト議長は行方不明です。ジェファーソン川流域は制圧されました。ハイネセン周辺宙域の制宙権を奪われました。イゼルローン要塞も敵の手中にあります。
しかし、対抗できないと結論付けるのは早まった考えです。ジェファーソン川流域の市民二億人と兵士一〇〇万人が結束すれば、反乱部隊の足元は崩れるでしょう。ジェファーソン川流域の外にいる市民八億人と兵士七〇〇万人が結束すれば、反乱部隊を地上から包囲できるでしょう。ハイネセンの外にいる市民一二二億人と兵士三六〇〇万人が結束すれば、反乱部隊を宇宙から包囲できるでしょう。
結束こそが何よりも大事です。一人では対抗できない相手でも、一〇〇人が集まれば対抗できます。もっと多くの人が結束すれば、数百万の反乱部隊にも対抗できるのです。
ようやく反撃の準備が整いました。これより首都防衛軍は、対クーデター作戦『ミルフィーユ』を開始いたします。
すべての首都防衛軍隊員に命じます。首都防衛軍は国防基本法第六八条第二項の規定に従い、自主派遣を開始します。司令官エリヤ・フィリップスの指揮下に戻ってください。
すべての同盟軍人にお願い申し上げます。反乱部隊の命令は違法ですので、実行しないでください。クーデター鎮圧作戦に対する支援を待っています。
すべての同盟市民にお願い申し上げます。積極的でも消極的でも良いので、反乱部隊に対しては不服従を貫いてください。そして、首都防衛軍にご協力ください。
自由惑星同盟は銀河にまたたく民主主義の灯火です。何があろうとも、この灯火を消してはなりません。重ねてご協力をお願い申し上げます」
俺は最敬礼の姿勢をとる。民間人は部下ではない。また、首都防衛軍以外の部隊には指揮権を行使できない。お願いするという形式が必要なのだ。
画面から俺の姿が消え、テロップが表示された。ハイネセン緊急事態対策本部の設置、首都防衛軍司令部のメールアドレス、義勇兵志願者の集合場所などを知らせる。
「終了です」
ハラボフ少佐が放送終了を告げると、部下たちが次々と近寄ってきた。
「お召し上がりください」
チュン・ウー・チェン参謀長代理は潰れたブリオッシュ・ブレッサンを差し出す。
「ありがとう」
俺は迷うことなくブリオッシュを受け取る。この演説で三時間のランニングに匹敵するエネルギーを使った。腹の中にはパンくずすら残っていない。
他の部下たちも次々と食べ物を持ってきた。ラオ作戦部長はカシューナッツ入りの乳粥、イレーシュ後方部長はケチャップをたっぷり付けた極太ソーセージ、マー通信部長はマンゴープリン、メッサースミス作戦副部長は潰れていないサンドイッチと言った具合だ。
「お見事でした。トリューニヒト議長を見ているようでしたよ」
ベッカー情報部長は帝国風蜂蜜ケーキを俺の手に乗せる。
「最高の褒め言葉だ」
俺は満面の笑みを浮かべた。
「恥ずかしがらないんですな」
「謙遜するなと言ったのは君じゃないか」
「そんなこともありました」
「あの時はダーシャとスコット提督もいた」
それは遠い過去だった。俺はハイネセンポリス第二国防病院の入院患者で、ダーシャもベッカー大佐もスコット准将も同じ病棟にいた。
「懐かしいですな」
「もう七年前だ。俺とダーシャは知り合ったばかりだった」
デスクの上に視線を移す。そこには三つの写真立てが飾ってあった。一つは敬礼をする軍服姿のダーシャ、一つは優しく微笑むダーシャ、一つは子供のように口を開けて笑うダーシャだ。
「今はダーシャはいない。俺たちが頑張らないと」
そう言って俺は蜂蜜ケーキを食べた。ダーシャと一緒に歩くことはできなくなった。だが、彼女が歩きたかった道を代わりに歩くことはできる。彼女が守りたかったものを代わりに守ることはできる。
防災指揮システムは緊急事態計画の手続きを始めた。文書を自動的に処理していく。惑星ハイネセンの軍隊・自治体・警察・消防・公益事業者・民間防衛組織に対し、協力要請書を送付する。首都防衛軍所属部隊に対しては命令書を送った。
機械が自動操作で動いている間、人間は人間にしかできない仕事をやる。クーデター対策チームの一一名は調整や応対に奔走した。
「ボーナム市が味方に付きました」
オペレーター役のハラボフ少佐が淡々と報告する。
「市長と話をしたい。回線を繋いでくれ」
「かしこまりました」
すぐに市長室と回線が繋がり、スクリーンに厳格そうな老婦人が現れた。室内には同盟国旗、愛国的な標語が書かれたポスター、トリューニヒト議長の写真などが飾られている。
「わ、私はボーナム市長ジュリア・サンティーニであります! 愛国の名将フィリップス閣下にお目にかかれて光栄であります!」
サンティーニ市長の敬礼はぎこちなかった。手も声も震えている。皇帝から直接言葉をかけられた平民のような緊張ぶりだ。
「首都防衛軍司令官エリヤ・フィリップス中将です。ご協力感謝いたします」
俺は姿勢を正して敬礼を返す。
「市民の義務を果たしただけのことです!」
「あなたの愛国心を見込んでお願いしたいことがあります。私どもへの支援をお願いできませんでしょうか」
「何なりとお申し付けくださいませ!」
「ありがとうございます。それでは――」
俺は人員と物資を送ってくれるよう依頼した。オリンピアの司令部を失ったため、司令部運営に必要な基盤が不足していた。特に人員不足は深刻だ。防災司令室を運用するには、最低でも一五〇人の人員が必要になる。
「かしこまりました!」
期待通りの答えが返ってきた。サンティーニ市長は愛国者を自認する人物だ。「愛国心を見込んでお願いする」と言われると、イエス以外の答えは返せない。
「あなたの愛国心に心より敬意を表します」
「もったいないお言葉ですわ……」
八〇歳を過ぎた老婦人が感涙にむせんだ。英雄崇拝の傾向を持つ人々にとって、「勇者の中の勇者」の名前は美しい響きを持つ。それを見越した上で直接通信を入れたのだが、ここまで感激されると少し引いてしまう。
ハイネセンポリス西部の八区、フラテルニテ州東部の五市が味方に付いた。これらの自治体とボーナム市は、首都圏最大の右翼地域「褐色のハイネセン」に属する。
「予定通りだ」
俺は胸を撫で下ろした。首都圏で最も親トリューニヒト的な地域を味方にできなかったら、クーデター軍と戦うなどおぼつかない。
新たに味方となった自治体のうち、ボーナムと隣接する四つの自治体に通信を入れた。俺自らが交渉にあたり、サンティーニ市長の時と同じ要領で支援を引き出す。これで人員と物資のめどがついた。
ボーナム総合防災センター前の広場には、大勢の人が集まっていた。私服を着た者は義勇兵志願者だ。軍服を着用しているのは予備役軍人だろう。クーデター糾弾とトリューニヒト支持の叫びが飛び交う。広い駐車場には次々と車が入ってくる。
「広場に何人集まった?」
「二〇〇〇人は越えています」
「そんなにいるのか!?」
俺は絶句してしまった。放送終了から二〇分も経っていない。今は平日の昼間だし、ボーナムは人口密集地域から外れている。それなのに二〇〇〇人も集まったのだ。
「参謀長代理、指揮を頼む!」
俺はチュン・ウー・チェン参謀長代理に指揮を任せると、広場へと急いだ。リーダーが姿を見せなければ、人々は失望するだろう。この熱気を冷ますわけにはいかない。
階段を下りたところで携帯端末が鳴った。発信者はマー通信部長だ。
「通信部長か。どうした?」
「ボーナム市の支援部隊一〇〇名が到着しました。指示を求めております」
「参謀長代理に一任する」
「そうもいかないのです。向こうの責任者が『フィリップス提督から直接指示をいただきたい』と申しておりまして」
「わかった。これから行くと伝えておいてくれ」
俺は先に支援部隊と会うことに決めた。ところが、一分も経たないうちにまた端末が鳴った。
「今度は何があった」
「ピナマコールの大衆党市議団が面会を求めています。フィリップス提督を激励したいとのことです」
「まいったな」
激励に来てくれるのはありがたい。今後のことを考えると、ピナマコール市議会との関係強化は不可欠だ。しかし、もう少し後に来てほしかった。
「申し訳ありません。たった今、緊急連絡が入りました」
「悪い知らせかな」
「はい。ボーナム警察より連絡が入りました。装甲車両が星道六五号線を埋め尽くしているので、フィリップス提督と協議したいとのことです」
「…………」
面倒なことになった。俺はセンジュカンノンではない。複数の問題を同時に片づけることなどできないのだ。
自分が出なければ収まらないのはわかっている。今のところ、緊急事態対策本部は俺の個人的な信用だけで成り立っている組織だ。知名度の低いチュン・ウー・チェン参謀長代理が出てきても、人々は納得しないだろう。
俺は休む暇もなく走り回った。敵の動きに対応し、味方と連絡を取り、重要人物と交渉し、警官隊や消防隊を運用し、支援部隊に仕事を割り振り、広場に集まった人々を盛り上げる。糖分を補給する余裕すらない。ミッターマイヤー提督と戦った時ですら、これほど忙しくはなかった。
落ち着いたのは一六時頃のことだ。指揮系統を構築し、補給や通信を整え、各組織の役割を明確にし、緊急事態対策本部を頂点とする体制が完成した。
緊急事態対策本部には、指揮部・計画部・物流管理部・総務部・運用部という五つのセクションがある。文民を充てるポストは空席にし、有資格者が加入した時に埋めることとした。マニュアル通りの組織を作ったのは、合法性を強調するためだ。
本部はボーナム総合防災センターの防災司令室に置かれた。あらゆる情報がこの部屋に集まり、あらゆる活動がこの部屋で統制される。
この体制を俺たちは「市民軍」と名付けた。ハイネセン緊急事態対策本部は司令塔であって、組織全体の呼称としてはふさわしくない。
市民軍の勢力圏は二つに分けられる。一つはハイネセンポリス西部からフラテルニテ州東部にまたがる褐色のハイネセン、もう一つは各地に点在する市民軍支持の自治体だ。この二つの間には再建会議や中立派の勢力圏が広がる。
褐色のハイネセンが市民軍の本拠地だ。その四方を再建会議側の四個師団が取り囲み、上空を航空機やヘリコプターが飛び回り、陸路も空路も封鎖された。
一見すると孤立したように見える。しかし、それほど追い詰められた状況ではない。陸路を封鎖する部隊のうち、第一首都歩兵師団と第三七歩兵師団は士気が低く、第四四空挺師団と第一二〇歩兵師団は大都市で行動することに慣れていなかった。おかげで人も物も自由に出入りできた。
封鎖線の外では、大勢の軍人・警察官・役人が密かに味方してくれた。ある者は情報を流し、ある者は物資を供給し、ある者は意図的な手抜きによって敵の行動を遅らせる。俺や国家非常事態委員会(SEC)メンバーが組織した人々である。
旧セレブレッゼ派の活躍は特に素晴らしかった。輸送総軍司令部は制圧されたが、支援部隊が頑張ってくれた。整備系の者は敵の装備をわざと故障させた。通信系の者は敵の通信系統を故障させたり、市民軍の通信手段を確保してくれたりした。輸送系の者は故意に輸送を遅らせた。物資を送ってくれる者、褐色のハイネセンに入って幕僚となった者もいる。彼らの働きは数十個師団に匹敵すると言っても過言ではない。
様々な人物が褐色のハイネセンに入った。義勇兵志願の市民もいれば、正当な政府のために働こうとする軍人・公務員もいる。首都防衛軍司令部から脱出した者も集まってきた。
アルマ・フィリップス地上軍大佐は俺の妹だ。連隊長を解任されて地上軍総監部付になっていたが、単身で馳せ参じてくれた。
「何だ、その格好は」
俺はあきれ顔になった。腰まで届くほどに長い金髪、ダーシャ並みに大きな胸、セクシーなニットのワンピース、派手なメイク。それに加えて一八四センチの長身だ。目立つための変装としか思えない。
普段の妹はショートカットの赤毛、平たい胸、男女兼用のジャージ、薄めのメイクだ。少年っぽい雰囲気があるし、身長は並みの男性よりも高い。男装した方が目立たないのではないか。
「変装は意外性が大事なのです」
妹は大真面目に答える。敬語なのは、妹でなく軍人としての発言だからだろう。
「プロが言うなら正しいんだろうな」
納得するしかなかった。特殊部隊隊員は敵地で活動する訓練を受けている。しかも、妹は帝国領で一〇か月にわたって偵察活動を続けた。俺なんかよりずっと変装に詳しい。
「私は空腹です。厚かましいお願いではありますが、食事の提供をお願いします」
「わかった」
妹は変装を解いて野戦服に着替えてから食事を始める。トレイの上に盛られたチーズリゾット、ローストチキン、ポテトサラダ、ソーセージと豆のスープ、プロテイン入り牛乳、ジャムクラッカーはあっという間に胃袋へと移動した。
「おかわりをお願いします」
同じメニューのトレイがすぐに運ばれてきたが、それも空になった。妹が満足するまでに五人分の食料が消費された。
俺の右隣ではハラボフ少佐が端末を操作していた。見れば見るほど妹と似ていると思う。妹を冷たい感じにすればハラボフ少佐になり、ハラボフ少佐を幼くすれば妹になる。
食料を消費しすぎるのは問題だが、それでも妹は大きな戦力だ。武器を持てば一人で兵士三〇人と戦えるし、指揮を取れば一個小隊で一個大隊を足止めできる。一〇〇人分働いてくれるなら、一〇人分の飯を食っても構わない。
過激派の大物サンドル・アラルコン宇宙軍中将がやってきた。指名手配を受けたにも関わらず、正面から堂々と通ったそうだ。
「どんな方法を使ったのですか?」
俺が質問すると、アラルコン中将は笑って答えた。
「このアラルコンは策など弄しません。ただ通せと言いました」
「なるほど」
実にわかりやすい答えだった。封鎖部隊の中に仲間がいるということだ。
「頭を使うのは苦手でしてな。正面からぶつかる以外のことができんのです」
アラルコン中将の言葉は謙遜ではない。指揮官としては猪突猛進、教育者としては熱血指導で知られる人だ。前の世界では前進しすぎて討ち死にした。
「俺もそうです」
「ご謙遜を。あなたの戦上手を知らぬ者はおりません。ゴッサウで五倍の敵を降伏せしめたこと、ヴァナヘイム撤退戦で追撃を食い止めたこと、第二次ヴァルハラ会戦でミッターマイヤーの猛攻を防いだことは、戦史に残る武勲でありましょう」
「部下に恵まれただけのことです」
「軍人は上官次第で有能にも無能にもなります。部下が有能ならば、それはあなたが有能だということでしょうな」
「そうだと良いのですが」
俺は曖昧な笑いを浮かべる。
「あなたは数時間で首都圏のど真ん中に解放区を作った。それが有能でなかったら、この世に有能な者はおりませんぞ」
アラルコン中将は口を大きく開けて笑う。きつそうな釣り目、一九〇センチを超える身長は見るからに強面と言った感じだが、話してみると気さくなおじさんといった印象を受ける。
慌てて気持ちを引き締め直した。相手は過激派将校のまとめ役だ。反共和制の陰謀や非戦闘員殺害に関与したとの噂もある。俺のような小物を手玉に取るのはたやすいだろう。隙を見せてはならない。
アラルコン中将は雑談に終始し、俺は言葉を選びつつ応対する。気の抜けない状況が数分ほど続いた。
「お嬢さん、コーヒーのおかわりをいただけるかな」
アラルコン中将はハラボフ少佐に声をかける。
「どうぞ」
ハラボフ少佐は新しいコーヒーを差し出す。五杯目のコーヒーだ。
「これはうまそうだ! ご馳走になりますぞ!」
アラルコン中将は熱いブラックコーヒーに口をつける。
「熱いですなあ!」
「そうですね」
俺は心の中で「当たり前だろう」とつぶやいた。猫舌なのになぜ熱いコーヒーを頼むのか? なぜ毎回口をつけて熱がるのか? この人は馬鹿なんじゃないか? 疑問が脳内を駆け巡る。
そういえば、ダーシャも猫舌なのに熱いココアを欲しがった。冷ましてから飲むのである。ぬるいココアを最初から頼めばいいと言っても聞かない。変な奴だと呆れたが、目の前の中年男性よりはましだ。
「フィリップス提督」
「はい」
「国防について、いかが思われますかな?」
急にアラルコン中将は話題を変えた。
「由々しい状況です。一刻も早く事態を収拾しなければなりません」
「質問の仕方が悪かったですな。トリューニヒト政権の国防政策についてお伺いしたい」
おそろしく不穏な話題である。俺は慎重に答えた。
「良い方向に向かっていると思います」
「なぜそう思われるのです?」
「トリューニヒト政権になって国防予算が増えました。人と金をたくさん使える。指揮官としてこれ以上に嬉しいことはありません」
半分は建前で、残り半分は本音だ。
「小官も同意しますぞ」
「同意していただけるのですか?」
「もちろんですとも。小官が政治にうるさくなったのも軍縮がきっかけです。幕僚連中は予算がいくら減っても、痛くもかゆくもない。しかし、部隊は違います。兵士が一人減れば、残った者がその分の仕事を背負う。予算が一万ディナール減れば、古くなった物を交換できなくなる。実に惨めです。兵にそんな思いをさせたくないので、小官は全体主義者になりました」
アラルコン中将の言ってることは途中までまっとうだ。しかし、結論がおかしい。
「民主主義でも軍拡はできます」
「物足りませんな」
「来年になれば予算が増えます。再来年になればもっと増えるでしょう」
「そういう問題ではありません。兵のためになる軍拡をやってほしいのです」
「トリューニヒト議長ほど、兵のことを考える政治家はいませんよ」
「果たしてそうですかな?」
アラルコン中将の釣り目が鋭く光る。
「誰のためでも、兵が利益を受けるなら良いじゃないですか」
俺は割り切ったように見せた。政治家は善意だけでは動かない。軍需産業は注文をもらう見返りとして、政治資金を提供する。低所得層は軍隊で職を得る見返りに票を投じる。トリューニヒト議長の軍拡は、支持者の期待に応えるための軍拡だ。それでも軍縮よりはましではないか。
「あなたは正直だ。目が『割り切れない』と申しております」
「割り切っていますよ」
「小官の見たところ、あなたは理屈で割り切る人ではない。情で動く人だ」
「意外と理屈っぽいつもりですが」
「あなたは理念や政策に賛同しているわけではない。議長を好きだから賛同している。そうでしょう?」
アラルコン中将は初対面なのに本心を言い当てた。さすがは大物だ。小物の心中などあっさり見通してしまう。
「トリューニヒト議長は良い人です」
思っていることを素直に話すしかなかった。ごまかしが通じる相手ではない。
「ははは、そうですか。あなたは良い人ですな」
「ありがとうございます」
「ヨブ・トリューニヒトは信用できません。しかし、エリヤ・フィリップスは信用できそうだ。我ら一党はあなたの指揮に従いましょう」
こうしてアラルコン中将が味方になった。彼を支持する過激派将校たちも、次々と市民軍の味方に付いたのである。
褐色のハイネセンの外でも、多くの人が市民軍に加わった。有名人は市民軍支持のコメントを発表する。一般人は義勇兵やボランティアになったり、再建会議派の自治体で抗議デモを行う。
東大陸西部のラガにおいて、宇宙艦隊副司令長官フィリップ・ルグランジュ宇宙軍大将が記者会見を開いた。
「いかなる理屈をもってしても、ボロディン大将のクーデターは正当化できない。宇宙軍は断固として戦う」
前の世界でクーデターに加担した提督が、この世界ではクーデターに反対した。俺の心配は取り越し苦労に終わった。事前に説得したことが功を奏したのかもしれない。状況が変われば人間も変わるのだ。
記者会見を終えると、ルグランジュ大将は宇宙軍の全部隊に指示を与えた。
「宇宙艦隊司令長官代行より宇宙軍の全部隊に命じる。クーデター派の指示に従ってはならない。市民軍のクーデター鎮圧作戦に協力せよ」
かつての上官が素晴らしいプレゼントを贈ってくれた。市民軍にとって、ラガの宇宙艦隊臨時司令部は心強い同盟者となった。
予備役総隊司令官ドワイト・グリーンヒル宇宙軍大将は、北大陸南部のペセタから直接通信を送ってきた。端整な顔には吹っ切れたような色がある。
「私は市民軍を支持する。君が脅威だと言った力を、君のために使わせてほしい」
信じられないことに、前の世界のクーデター首謀者までが味方になった。
「感謝いたします」
俺は頭を低くして礼を述べた。半分は礼儀、残り半分は疑ったことへの罪悪感だ。
「頭を下げる必要はない。私なりの償いなのだから」
「俺に対する償いですか?」
「ラグナロックで戦った者すべてだよ。それが私の最後の仕事になるだろう」
グリーンヒル大将は淡々と語る。
「知っての通り、私が動かせる兵士は一人もいない。予備役総隊は予備役艦艇を管理するための部隊だ。しかし、私の友人には兵士を動かせる者がいる。彼らを説得してみよう」
グリーンヒル大将は説得工作を行うこととなった。ただし、表には出ない。ラグナロック帰還兵やトリューニヒト派の反発を懸念した。
市民軍はトリューニヒト派、軍国主義過激派、前世界のクーデター勢力を基盤として出発した。戦記だったら再建会議が善玉、市民軍が悪玉になるだろう。俺は主人公に向かない体質だ。
一八時の時点で、一九四四自治体が市民軍に味方した。これは惑星ハイネセンにある自治体の二割に相当する数だ。その他に警察や消防だけが味方した地域もある。
「首都圏で伸び悩んでいますね」
メッサースミス作戦副部長が難しそうな顔をする。
「そうだな。もう少し支持が広がってくれたら完璧なんだけど」
俺はメインスクリーンを睨む。ハイネセンは中央宙域の中でも改革志向が強い。そして、首都圏はハイネセンで最も改革志向が強い地域なのだ。再建会議の改革路線とは相性が良い。
首都圏の軍隊はすべて再建会議の指揮下に入った。曖昧な態度だった第一機動集団と第一陸戦遠征軍も、今日になって再建会議支持を明言したのだ。自治体の態度が決め手になったのだろう。
フェーブロム少将の第九機動軍とは連絡がついた。首都圏に進軍する意思はあるが、最前衛部隊の第七七機甲軍団が寝返ったために前進できないそうだ。
ラガのルグランジュ大将は、三個機動集団と二個陸戦遠征軍を指揮下に収めた。衛星軌道を再建会議が押さえているので、二個陸戦遠征軍以外は戦力にならない。そして、シューマッハ少将の第七陸戦遠征軍は東大陸西部、アムリトラジ少将の第九陸戦遠征軍は北大陸の東端にいる。首都圏からあまりに遠すぎた。
過激派の力で相当数の地上部隊が市民軍に加わった。ファルスキー中将の第七機動軍は一兵残らず市民軍に付いた。第一五機動軍の陸上部隊が市民軍に味方し、再建会議派の司令官フィーゴ中将及び航空部隊と対立している。首都圏では師団長三名、旅団長一〇名が内通を約束した。
首都防衛軍の主要部隊のうち、太洋艦隊・東部軍・南部軍だけが俺の指揮下に戻った。北部軍・宇宙軍・首都管区隊は再建会議に従っている。ただし、再建会議派の三部隊は士気が低い。
惑星ハイネセン全体を統括する首都政庁は敵になった。エルズバーグ都知事は進歩党の元上院議員で、予算削減と不正追及を生きがいにする人物だ。首都議会では進歩党が第一党、国民平和会議(NPC)が第二党である。知事も議会も強烈な改革志向を持っていた。
「市民軍はテロ組織だ!」
サブスクリーンの一つから、エルズバーグ都知事の大声が飛んできた。一三時頃から公共放送を使って、休むことなく俺を批判し続ける。
「勘弁してくれ」
耳を塞ぎたくなった。しかし、映像を消すことはできない。都知事が出演する番組は貴重な情報源なのだ。
エルズバーグ都知事は市民軍にテロ対策条例を適用し、経済制裁を仕掛けた。市民軍に味方した自治体は、電気・水道・ガス・通信を止められた。市民軍に協力した首都政庁職員は、懲戒解雇を受けた。市民軍側の組織・個人の口座は凍結された。
「水やガスは備蓄で賄える。通信は外部の同志のおかげで確保できる。電気も発電所を動かす燃料がある間はどうにかなる。しかし、長期戦はきついな」
当初は二三〇〇を超える自治体が市民軍支持を表明したが、首都政庁の圧力によって四〇〇自治体が脱落した。ライフラインを自前で賄えるのは、州レベル以上の自治体に限られる。はっきり言うと、今の段階ではボロディン大将よりも、エルズバーグ都知事の方が厄介だ。
クーデターの最中にも関わらず、ハイネセン株式市場は値上がりしている。ハイネセン主義経済政策に対する期待と、トリューニヒト政権の経済政策に対する反発が、投資家を動かした。
投資家と正反対の態度を取ったのが製造業界である。軍需に大きく依存しているので、ハイネセン主義政策は容認できない。再建会議に対し、「軍事予算を削減すれば、労働者三〇億人が失業する」「同盟経済の主役は金融街ではない。工場だ。そのことを忘れるな」と警告した。
ハイネセンに本社を置くマスコミはもともと改革派寄りだ。当然、再建会議に好意的な報道を行った。あまりにも好意的過ぎるので、再建会議側が自重を求めたほどだ。親トリューニヒト・反改革のマスコミは、「暴力的な煽動」「過剰な個人攻撃」を理由に活動停止処分を受けた。
ハイネセンの外の様子は未だに分からない。再建会議が恒星間通信を管理しているので、星外情報は完全に統制されている。船乗りが情報を持ってくるのは、もう少し先になるだろう。
一九時〇〇分、最高評議会庁舎において民主政治再建会議の記者会見が行われた。昨日の記者会見には軍服姿の人物しかいなかったが、今日は軍服と背広が半分ずつといったところだ。
「暴動を起こそうと計画する者がいます。我々に反対するのは自由ですが、市民を危険に晒すことだけは認められません」
ボロディン大将は市民軍を厳しく批判した。そして、褐色のハイネセンの封鎖については、市民の安全を守るためだと述べた。
この席で新しい再建会議布告が発表された。昨日は治安に関わるものが多かったが、今日は政治に関わるものが大半を占める。
新議会の選出方法については、全議員を辞職させてその補選を同時に行うことになった。同盟憲章は議会の解散を禁止している。銀河連邦末期、内閣不信任と解散総選挙の繰り返しが混乱を招いた。その教訓から解散禁止規定が設けられたのだ。再建会議は補選という形式で憲章違反を回避した。
再建会議は六つの委員会を設けた。平和推進委員会、行政改革委員会、経済改革委員会、自立共生委員会、不正防止委員会、自由と権利委員会である。平和推進委員は軍人と文民から半分ずつ選ばれる。その他の委員は全員が文民だ。ボロディン大将が平和推進委員長を兼任し、その他の委員長・委員は一週間以内に選ぶ。
「レベロ下院議員、ホワン下院議員、エルズバーグ都知事、アブジュ下院議員、エルファシル民主派のロムスキー氏、ハイネセン記念大学のシンクレア教授、文学者平和クラブのジェメンコフ氏らに委員会入りを要請します」
ボロディン大将は良心的なことで知られる人物の名前をあげた。反トリューニヒトのクーデターを起こした以上、右翼の支持は見込めない。リベラル路線を徹底するしかないのだろう。
公的年金・公的医療補助・地方補助金・農業補助金は、トリューニヒト政権が復活させた制度だが再び廃止された。理由としては、しばしば「憲章違反」だと指摘されたこと、戦時体制下の不満解消策として始まったこと、政治家や官僚の財布として悪用されたことなどがあげられる。
再建会議は軍縮路線に回帰すると述べた。徴兵制の廃止、完全志願制への移行、地方警備部隊の廃止、予備役兵からなる治安維持部隊「星系軍」の設立、後方支援任務の民間委託などを進め、常備兵力を二五〇〇万人まで減らす。ヤン大将らのグループが二年前に作った提言書、『この先数十年の平和を目指して』に沿ったものだ。
また、ボロディン大将が復員支援軍司令官ヤン大将に対し、一通の命令文を送ったことが明らかになった。
「帝国との講和交渉を開始せよ。貴官にはあらゆる権限が与えられる。貴官が求めた支援はすべて与えられる。貴官の裁量は最大限に尊重される。最善と信じる方策を取るように。責任はすべて私が負う」
束縛を嫌うヤン大将が喜びそうな文言である。それと同時に、再建会議は「宇宙軍元帥」「同盟軍最高司令官首席代理」「国外総軍司令官」「帝国領駐在高等弁務官」の肩書きをヤン大将に与えた。
「ほとんど全権委任ではありませんか」
記者の一人が疑問を口にすると、ボロディン大将は穏やかに微笑んだ。
「ヤン君は大きな翼を持っています。縛ったら翼を傷つけてしまう。自由にやらせるのが一番ですよ」
これ以上に完璧な答えはない。名将は天才の本質を見抜いていた。ここまで見込まれたら、大抵の人間は断れないはずだ。
テレビを見た者は、ヤン大将が再建会議に味方するだろうと考えた。ハイネセンのヤン派もそう考えたらしい。放送中に「第六陸戦遠征軍司令官ビョルクセン少将が、再建会議支持を表明」との速報が流れた。
なお、ヤン大将のコメントは発表されていない。ボロディン大将によると、調整を続けているとのことだ。
この放送の直後、俺はボーナム総合防災センター前の広場に姿を見せた。五万人の群衆が「民主主義万歳!」「フィリップス提督万歳!」と叫ぶ中、スピーチを始める。
「市民の皆さん! 民主政治再建会議を称する反乱部隊は、皆さんが選んだ代表を追放しようとしています! このような暴挙を許してはなりません!
敵は我々を挑発しています! 我々に暴力をふるわせて、民主主義の信用を貶めようと企んでいます! しかし、そのような企ては決して成功しません! 我々は民主主義を信頼している! 我々は祖国を愛している! 大義は我々にある! 策略で大義を打ち破ることなどできはしない!
徹底的に戦い抜きましょう! デモ、ストライキ、抗議集会、市民的不服従を始めましょう! 独裁者にノーを突きつけましょう!
自由万歳! 民主主義万歳! 祖国万歳! 民主主義を取り戻せ!」
俺が拳を前方に振り下ろすと、歓声は何倍にも膨れ上がった。音波だけで再建会議を押し潰せそうな錯覚すら覚える。
広場の様子は市民軍側の自治体に放送された。また、映像を収録した超小型光ディスク数百万個が、協力者の手で外部にばらまかれた。
各地で労働組合が反クーデターのストライキに打って出た。公務員労働組合、水道労働組合、電気労働組合、運輸労働組合が加わったため、経済活動に支障が生じている。これらの組合は進歩党の支持団体だったが、緊縮財政への反発から大衆党支持に転じた経緯がある。
市民軍は正規軍三九〇万人、義勇兵六二〇万人、ボランティア一〇〇〇万人に膨れ上がった。なお、この数字に非公式の協力者は含まれていない。
褐色のハイネセンではバリケードの建設が進んだ。工兵将校が指揮を取り、自治体や建設業者が機材を提供し、義勇兵やボランティアが作業を行う。工事責任者のハイネセン第二工兵学校校長シュラール技術少将は、旧セレブレッゼ派の工兵将官である。
二一時二〇分、第四四空挺師団の第六連隊が封鎖部隊から離脱し、市民軍に加わった。人々は一九〇〇人の空挺隊員を熱狂的に歓迎した。
「お祭りみたいですね」
そう言ったのは、一個連隊を引き抜くという大仕事を終えた妹だ。今も敬語を崩そうとしない。
「本当に楽しそうだ。俺もあっち側にいたかった」
「あなたはプロデュースする側ですから」
「わかっている。偉くなったら楽しむことすらできないね」
俺は苦い笑いを浮かべた。この祭りは一週間以内に終わる。人々は無責任に楽しみ、無責任に帰っていくだろう。それまでに決着を着けなければならない。