決着と私
「あ、あはあは、はは、あはははは……」
私は力なく笑う。ああ、思い出した。全てを。あの醜悪な記憶を、全部、全部思い出してしまった。身が引き裂かれるような感じがする。自分の中にあるものなのに、この世のどんなものよりも醜悪で穢れていて汚いモノ。それが、この忌まわしき記憶。忘れてやる……。こんな記憶、全部全部私の中から追い出してやる。
「ああ……思い出した」
私は目の前の空間を睨みつける。コピーしたみたいに同じような男がいる以外に何も見えないけど、そこに誰かがいるということが感覚で分かった。
私の周りにいる人の姿が、一瞬ぶれた。思ったとおり、幻覚か。
「よくも。よくも私を壊したな」
私は立ち上がる。
「拘束していないことが、失敗だった」
両手に一本ずつ、血で作った大きなハンマーを持つ。適当に振り回す。周りにいる人に当たると、その人はブレて、霧のようになった。
「こんな幻覚でも、私に『動けない』と思い込ませればそれで勝ちだったのに、惜しいことした。私はもう……」
一歩、前に踏みだす。視線に力を込める。
ブゥン、と周りにいる人たちの姿が薄れていく。
もう一歩、踏み出す。
シュウゥ、と音を立てて人が消え、残ったのは憎き仇と弱々しい女だけだった。
「……さっきまでとは、全然違うね。なにかあった?」
「貴様は黙っていろ」
へらへらと笑う御陵臣に一瞥をくれると、私は怯える女のそばまで歩く。彼女は私が近づくとカタカタと青い顔をして、しりもちをついた。首を振って、あわあわと声にもならないあえぎを漏らす。
「あなたが、私に忌まわしい記憶を植え付けた張本人ね?」
私が幻想郷の人々を恐れるようになったのは、この女の幻覚があったからだ。
「あ、わ、私は……」
「あなたのせいで私の心はメチャクチャ。どう料理してやろう」
私は隣の御陵臣に視線を移す。
彼は肩をすくめるだけで、何も言わなかったし、何もしようとしなかった。視線を女に戻す。
「あなたの心も壊してやる。ボロボロになるまでいたぶってやる」
私は視線に力を込める。さっきは失敗した。けど、もう失敗しない。
私の視線に釘付けにされた女は、どんどん瞳の色が変わっていく。
変わりゆく自分が怖いのだろう、女はかたかたと震えている。
「お、臣、助けて」
女は絞るような声でそう言った。
「うう……ん。助けてあげたいのは山々なんだけどね、戦闘は宗に任せっきりだったからね。ごめんねキア」
そんな、とキアは涙ながらに言った。
切り捨てられたのか、このひとも。
……だからと言って、同情する気はかけらもないが。
「さあ、私のカワイイペット。あとで遊んであげる。しばらく寝ていろ」
私の言葉に、キアはウトウトとだんだん瞼を重くしていく。
「わ、私、なにが……」
「殺しはしない」
私がそう言うと同時、キアは眠りに就いた。
これで、白い空間に私と御陵臣は二人きりだ。本当は遥か遠くにレイムとチルノがいるのだけど、米粒みたいな二人はまるで背景のようで……。いや、違うな。私の中で御陵臣という存在は大きいものなのだ。だから、彼から目が離せないのだ。
御陵臣をにらむ。
彼は、何もしようとしなかった。
「どうした」
彼は肩を竦めた。
「実はね、本当に何もないんだ」
嘘つきめ。
「どんな力を隠し持ってる」
何も、と彼は答えた。
「当初の予定では、計画の最後の最後、この場面、一番油断するであろうこの瞬間に能力を使って、君を洗脳、ここでレイムを討って幻想郷を支配下にするつもりだったんだ」
今更ながらだが、やはりこの人間は幻想郷から出ることを目的としていなかった。
全部、他者を虐めるために作り上げた、でっちあげ。
「でも、異常事態が起こったんだ。君には、力が効かない。そう、効いたのは初めて君と我々……いや、僕が出会った時だけだった」
あのとき、私が神社の柱によりかかったのは、こいつの能力が原因だったのか。なんだか急にもたれかかりたいな、とは思ったけど、それがこいつの力なら、どれほど弱々しいのだろう。
「……白状するとね、僕の力はとても弱々しい。僕の力だけで人を殺させるなんて絶対にできやしないさ」
「それでもあなたはたくさんの人を狂気に走らせた」
彼は首を振った。
「それは、僕が頑張って少しずつ少しずつ洗脳していったからさ。そして、洗脳の起点は絶対に僕の能力でなければならなかったんだ」
「なぜそう言い切れる」
御陵臣は私を指で指した。
「君がここで僕と対峙しているのが、その答えだと思わないかい?
君だけだった。君だけが、何度攫っても、何度虐めても折れなかった。だから、知らず知らずのうちに僕は躍起になっていたのさ。
そう、君を僕色に染めることにね」
彼の独白を聞いて、私は静かに首を振った。
「虫唾が走る。あなたの目的は、何?」
「幻想郷を出ることさ」
この期に及んで、何を。
「……なんて、信じてくれるわけないよね。僕の目的は簡単。人を虐めたかった。この幻想郷を、狂気に陥れて、弱肉強食の世界にするつもりだったんだ」
「クズが」
私は右手のハンマーを振り上げた。
「殺すのかい、僕を?」
「命乞いくらい、聞いてやる」
はっ、と、彼は鼻で笑った。
「しないさ。ま、一言だけ許してもらえるのなら……。もう一度だけ、君で遊びたかったな」
許さない。こいつだけは、許さない。
私の心が、怒りの炎で真っ赤に染まった。
「……死ね、御陵臣。今度は死んでから
私はハンマーを御陵臣の脳天めがけて振り下ろそうとした。
そこで、彼はにやりと笑った。私は嫌な予感がして、飛び退いた。
「おや、どうしたの? 殺さないの? 人を殺して、僕と同じにならないの?」
「お前と同じ?」
思わず、聞き返していた。
「そうさ。無抵抗の僕を殺すということは、君がさんざ嫌ってきた虐殺に他ならないよ? いいの?」
私が、こいつと同じ、殺人者? そんな、バカな。
「否定しようとしてるでしょ? わかってる。でも、仮にも僕は人間だよ? 人の命を奪うことがどれほど重いか、知らないわけではないよね?」
知ってる。知っている。
だけど、私は……みんなを助けたい。みんなを守りたいんだ。
そうだ、私は守るためにここにいるんだ。
「それでも、私はあなたを殺す。みんなの幸せを、守るんだ」
どれほどの業を背負っても、どれほどの罪を被っても、私は、大切なみんなのために。
「僕を殺して、幸せに? 人殺しの君を君の大切な人は受け入れることができるかな?」
「アリスお姉ちゃんは、きっと」
私は確信をもって返した。きっと、血に染まった私でも、お姉ちゃんなら、赦してくれる。
「じゃあ、あのひ弱な君のお姉ちゃんは?」
美沙お姉ちゃんのことを言っているのか。あの人は、きっと……嫌うだろう。私のことを、怖がるだろう。それでなくとも、夜に一度脅かしたのだ。御陵臣を殺せば、お姉ちゃんが私に対して抱く恐怖は増すだろう。
……。
少し、決意が鈍った。私はお姉ちゃんのために戦っているのに。それなのに、その本人からは疎まれ、蔑まれるのだ。それを思うと少しだけ悲しくなった。
「……」
「それに、君は? 君は幸せになれるの? 人を殺して、優しい優しい君は幸せになることができるの?」
これも、私は否定できなかった。いくら、いじめられたからと言って。今の御陵臣はただの人間。今のこいつを殺せば、間違いなくみんなの幸せは守れる。けど、きっとその『みんな』に私は含まれない。私はきっとずっと、こいつを殺したことを、後悔するんだ。
「わ、私、は……」
「澪!」
私は後ろを振り向く。レイムが、すごい速度でこちらへやってきていた。私が何もしなくても、きっとレイムが殺すだろう……。
レイムは、人を殺したことがあるのだろうか。ないに違いない。なぜか私は確信した。彼女が最終決戦を前に不安がっていたことが、確信に至る理由なのだろうか。
私は御陵臣を見た。軽薄そうな笑み。その笑顔が、私と幻想郷のすべてを狂わせた。許せない。
……けど、殺すほどではないのかもしれない。
「見逃してよ」
「それは――できない」
「そう。説得は失敗、か。僕は無抵抗、本当に何もしないよ。ああ、一応言っておくと、死にたくない」
御陵臣も、死にたくないのか。
私は思わず、彼が今まで歩んできた人生を想像してしまった。今の彼の気持ちを、想像してしまった。私に命を握られている感覚……どんなものだろうか。
とたんに、振り上げたハンマーを振り下ろすことができなくなってしまった。躊躇っているのか、私は。……いや、違う!
私は、守るんだ。みんなの幸せを、守るんだ。その『みんな』に私は入っていなくても、レイムは入っているんだ。レイムに人殺しはさせられない! させたくない! 私は、私は――!
「どれだけの業を背負っても、どれほどの罪を被っても、私はっ!」
私は、ハンマーを……。