血と私
夢だ。
これは夢。
私の理想の夢。
だから、私の好きにしてもいい。だから、私は好きにしていい。
「……」
殺戮。
暴食。
嗜虐。
吸血鬼になる前は大嫌いだったもの。それを私は、夢で見るほどに渇望している。
殺したい。
食べたい。
誰彼構わず、支配したい。
私の能力が、私の感情を操作している。そんな錯覚に陥った。
閉ざされた部屋、たくさんの人間がひしめきあっている。好き勝手に、私はその人たちを食べる。殺す。虐める。
最後の一人は、美沙お姉ちゃんと同じ顔をしていた。
「……いや、やめて」
恐怖で顔を青ざめさせ、カタカタと震える彼女はひどく扇情的で、食べる前に色々と楽しみたくなるような気持ちさえ湧いてくる。
「だから、言ったのに」
「な、何が?」
私は手を振りかぶる。
「表情なんて変えても、愉しませるだけだ、って」
私は答えを聞かず、彼女の首を刎ね飛ばしていた。
お姉ちゃんの体は、非の打ち所がないような味だった。
私は飛び起きた。外を見るともう日が高く、周りを見ると布団は私のものしかなかった。
「澪、そろそろ起きて……って、あら」
レイセンが、部屋を覗き込んでそんなことを言った。
「いまおきた。すぐいく」
私は立ち上がると、レイセンのそばまでいく。
「……どうしたの? ちょつと雰囲気暗いけど」
私は首を振った。
「なんでもない」
なんでもない、ただ、レイセンをご飯だと思った自分が、心底嫌になっただけ。
私はどうしてこんなことを考えてしまうのだろう。大切な人なのに。ダメなことだってわかってるのに、それなのに、私はこの気持ちを、渇くような欲望が止められない。
「……ねえ、レイセン」
私はレイセンの目を見据える。赤い瞳。食べてしまいたい。
「なにかしら」
「吸血鬼って、吸血衝動を我慢できるものなの?」
レイセンはしばらく黙った。私の手を引くと、どこかに連れて行こうとする。
私は思わず手を振り払った。
「ど、どこへ連れて行く気?」
「あ……ご、ごめん。お師匠様……永琳先生のところよ。だから、安心して」
レイセンはそういうと、再び私の手を掴んで、廊下を歩き出した。
「……澪、吸血鬼にとって、血を吸いたいっていうのはご飯を食べたいという気持ちとほとんど同じよ」
「知ってる。だから、我慢できる?」
「できるわけがないわ」
私はそんな事を言われて、衝撃を受けた。
「で、でも私は……」
「まだ渇ききってないから我慢できるのよ。本当に渇いたら、我慢なんてできないわ」
「じゃ、じゃあどうすれば?」
レイセンは一つの部屋の前に立つと、ノックもせずに扉を開けた。
中には、普段の奇妙な服を着たエイリンがいた。
「……どうしたの、騒々しい」
「お師匠様、澪を診てあげてください」
エイリンは私を見た。
「どうしたのかしら」
「吸血衝動があるそうなんです」
レイセンが、そんなことを言った。
「私は、我慢できる」
「辛いわよ」
私は頷いた。
「いくら辛くてもいい。皆に喰らいつくくらいなら……」
エイリンは肩を竦めた。
「無理に人であろうとしない方がいいわ。割り切って、適当な人間を見つけて血を吸ってきなさいな」
「な、な……」
私は驚きすぎて、声もあげられなかった。
「……体は血が欲しい。けど、あなたの心は、まだ人でいたい。これが、あなたの問題よ」
静かな口調で、エイリンが私に言った。
「体の方は、もう変えられないわ。蓬莱の薬は、服用者を、服用時の姿形にとどめ続ける薬だから。吸血鬼の状態で永遠になったあなたはもう、人には戻れない。だから」
エイリンは、私の心臓がある部分を指でさした。
「だから、心を変えていかなきゃ。まず、輸血パックの血から試していきましょう」
ま、待って。理解できない。なんで。
「なんでエイリンは、私を吸血鬼として完成させようとするの?」
「だって、吸血鬼でしょ? それとも、薬を飲まされ続けて、縛りつけられて、最後にはただ血を求めることしかできなく方がお好み?」
その言い方に、私は背筋が凍るような思いをした。
「……脅かしちゃったかしら。ホントはこんなことしちゃだめなんだけどね。ダブルバインド……とかいっても、わかんないか。ごめんなさいね」
悲しく、エイリンは私に謝った。
「……麗仙、トマトジュースに輸血用パックの血をちょっと混ぜて持ってきて」
そんな雑用を命じられても、レイセンは文句ひとつ言わずに頷いた。
レイセンが行ってから、エイリンは顔を引き締めた。
「……あなたには、感謝してる」
「なら」
「だからこそ、苦しんでほしくない。たとえそれが、人間と敵対する結果になったとしても、あなたはノーマの恩人で、姫様の親友なんだから。お願いだから、自分を許してあげて」
「……自分を、許す?」
エイリンは頷いた。
「そう。血を吸うあなた自身を、許してあげて」
「でも、そんなことしたら、私は、私は……」
私は、本当に化け物になってしまう。体は、もう仕方ないのかもしれない。けど、心は。心だけは、人のままでいたい。
「人でいたい、というのはわかるわ。でも、あなたはもう……」
「私は、吸血鬼。それはわかってる。だけど、私は……」
私は、心まで吸血鬼になって、夜な夜な人を襲って食べるようにはなりたくない。なにより、そんなことをしてしまえば、優しいと言ってくれたアリスへの裏切りにもなってしまう。もう、これ以上アリスを裏切るわけには、いかないんだから。
「ためらうのは、構わないのだけど、そんな風に人の心を保ち続けていたら、いつか本当に干からびてしまうわ」
「……」
そうなってもいい、だなんてことは言えなかった。きっと、その瞬間が訪れても私の意識はあるのだろう。渇きと飢えを感じながら、ひたすら自分の中の欲望と戦っているのだろう。
そして、時の終わりまでそんな風にしているのだ。
「……そんなの、やだ」
いくらなんでも、自分勝手だ。自分で自分を笑いたくなった。
干からびるべきなのに。それなのに私は、生きていたい。お父さんを蘇らせて、もう一度会いたい。母のようになりたくない。
「……それなら、ね?」
「で、でも、私は人でいたい。体がダメなら、せめて心だけでも」
私は自分の胸に手を乗せて宣言するように言った。
「……頑固ね。まるでアリスみたい」
そう言われて、物凄く嬉しかった。今まで、家族に似てるなんて言われたことがなかったから。
「うん。私、アリスの妹だから」
「それは、いいのだけど。冗談とかじゃなくて、本当に、吸血しないのね?」
私は頷いた。
「そう」
エイリンはそう言うと、しばらく目を閉じた。
「じゃあ、輸血パックは飲んで」
「で、でも」
「大丈夫、輸血パックなら、誰にも迷惑かけないから」
私はそう言われて、僅かだが食欲が湧いた。頭を振って、それを追い出す。
「い、いらない」
「変に気を使わなくていいのよ」
気を使っているのでは、ない。歯止めがきかなくなりそうで、怖いのだ。
「……澪、よく、聞いて」
「なに?」
「血というものはね……」
エイリンが何かを言おうとしたとき、後ろの扉が開いて、赤い液体が入ったガラスコップを持ったレイセンがやってきた。
「……澪ちゃん、これ、トマトジュース」
中に、血が入ってる。そんなことはわかってる。中に入ってる血は、誰のものともわからぬ、輸血パックの血。
私は震える手でレイセンが持っているそれを掴むと、一気に飲んだ。血の味を覚えたくなかったからだ。
何度か、血だけでなく肉も味わったけど……。あまりにも美味で、癖になってしまいそうだった。だから、もうこれ以上血液を渇望しないためにも、血を味わうわけにはいかなかった。あの、甘美でどんな淫靡な行為にも及ばないような快楽を、癖にするわけにはいかない。
「……ありがとう」
それでも、私の体は少しの血で歓喜した。
湧き上がるように有り余るほどの力が私の中で生まれた。
「……エイリン、私やっぱり変だよ」
そして、収まるかに思えた食欲と渇きは、一層強まった。
「そうかしら」
「みんなを食べたいだなんて思う私は、異常だよ」
……美沙お姉ちゃんの顔を思い浮かべる。微笑みはすぐに恐怖の表情に塗り替えられ、その嫋やかな腕は中身を晒していた。それはまるで、魚を見て、調理後の姿を思い浮かべるような感覚に近かった。
だからこそ、自分が恐ろしい。
「変に我慢してたからよ。適当な人間を喰らえば、次第になくなるわ」
「どうしてそんな怖いこと言うの?」
私は何度聞いてもその理屈が理解できなかった。私は化け物。それは仕方ない。でも。
「じゃあ、どう言えばいいっていうのかしら」
「血を吸わずにいれる方法は、ある?」
エイリンは首を振った。
「あなたは、そうね、砂漠の真ん中、喉が渇いてしょうがないときに見つけたオアシスの水を飲まずにいれるかしら」
私は頷くことができなかった。
「そ、そんなに辛いの?」
「あなたにとって血は、水であり、食糧であり、力なのよ。水を飲むよりも食事を摂るよりも訓練を積むよりも、効率がいいの。だから、余計に体は血を求める。飲まずにいたら、最後はさながら、麻薬中毒者のように……って、わかんないか」
私は戦慄した。
「……」
辛い、というのはわかっていた。今だって辛い。けど、この辛さの比ではないのか。そんなに辛いのか。どんな感じなのだろう。御陵臣にされたことのように苦しいのだろうか。
わからない。わからないのが、怖い。怖い!
「……落ち着いて。大丈夫よ。すぐにそんな風になるというわけではないから」
まだ来ぬ苦しみに怯える私の手を、エイリンがとった。私ははっと彼女を見上げる。
「……。ね、輸血パックだけでいいから、ちゃんと血を吸って。あなたが干からびるのを見るなんて、嫌よ」
真摯なその瞳。私への思いから紡がれる言葉。それらを私は、無にするのか。
「わかった。輸血パックだけなら、飲む」
私は頷くと、診察室の外へ出た。扉を閉めると、扉によりかかる。
私は、辛いのが嫌だから、エイリンの言葉にかこつけて、逃げただけ、なのかな。
本当はエイリンに対してなんとも思っていなくて、血を飲む自分を許すために都合の良い言い訳をしているだけじゃないのか。
「……私は最低だ」
そんなことを悩んでいると、扉の奥から話し声が聞こえた。
「お師匠様……」
「タブルバインドなど、詐欺師のやることよ。医者を名乗る者がするべきことではないわ。特に、幼子になんて……っ」
「し、しかし、お師匠様、そうでもしなければ、澪ちゃんは……」
「急激な変化に人間がそう順応できるわけがないのは知ってるでしょ? 大人しく待ってやることだってできた。だけど、私が焦ってしまったのっ。狂うか汚れるかなど、あんな子どもに選ばせるべきではないのに! そんなことは明白だったのに、何を私は……」
泣くようなエイリンの後悔が、胸に響いた。私がちゃんと選ばなかったせいで、苦しめてしまった。
「……」
これからは、誰にも心配をかけないようにしよう。誰も苦しませないように生きよう。私はそう決心した。