衝動と私
私が連れてこられたのは、生活スペース兼寝室の、六畳くらいの小さな部屋だった。レイムはさっきまで私達がいた部屋からちゃぶ台をもってくると、私の前に置いた。私の反対側に座ろうとして、止まる。
「何か飲む?」
私は首を振った。レイムは腰を下ろすと、私に向き直って口を開いた。
「ごはん、いるかしら」
「いらない」
私は首を振った。
レイムは手を私の方に差し出した。白い、美しい肌が見える。レイムの表情は、何かを試しているかのようだった。
「血は、いるかしら」
「……。あ……。い、いらない」
私は必死になって首を振った。レイムが手を引っ込める。
「ほんとあなたすごいわね。普通、なりたては吸血衝動我慢できないわよ?」
「その、もう食べた、から」
何を? と言った顔をレイムはした。
「昨日、私は襲ってきた鬼を、食べた」
意外な顔を、レイムはした。
「へぇ、あなた、戦えるんだ」
「で、でも! それは人間じゃなくて、しかもわかりやすいくらい弱かったから……」
そう、昨日私が食べた鬼は、レミリアや東野に感じたような恐怖は全く感じなかった。だから、戦えた。弱者にしか力を震えない、弱くて愚かな私。
「……ま、別に敵と戦え、なんて言わないから。ちゃんと、守ってあげる」
どうして、この人は、ここの人達は、守ってくれるんだろう。
「どうしたの? ……何か、聞きたいことでもあるの?」
「あ、あの、怒らないで聞いて。どうして、守ってくれるの?」
レイムは、私の質問に、苦い顔をした。不意を突かれた様子はなく、予想はしていたけどされたくない質問、だったようだ。
「……まぁ、その。これ以上は、聞かない方がいいわよ?」
「それでもいい」
もうこれ以上悪いことなんて、そうそう……。
「あなたはね……その、壊滅的に運が悪くて……。その、正直言って底が見えないくらい」
……まさか、私の運の悪さにお墨付きがつく日が来るとは思わなかった。
「……そう」
「そ、そんなに落ち込まないで! だ、大丈夫よ、私が、いえ、私達が守ってあげるから」
あわあわと可愛らしく慌てるレイム。この人はきっと、私に同情したんだ。あまりにも酷い運勢と運命を持つ私があまりにも哀れで、つい、肩入れしてしまっている。……は。
笑い話だ。
「私、これからどうなるの?」
でも、好意を向けてくれる理由がわかって、すごくほっとした。わからないことは、怖いから。たとえそれがどれほど凄惨なものだったとしても、知らない、わからないよりもいい。
「……その、どういう意味で?」
「いっぱいあるけど……とりあえず、レイム達の間で、私をどうするつもりなのか知りたい」
これは、答えてくれるだろうか。
「……は?」
「監禁とか幽閉とか」
疑問の声を発したレイムに、私はそう答えた。するとレイムは呆れたようにためいきをついた。
「あんたねぇ。警戒しすぎ」
「……でも」
でも、ここに来る前は、警戒心を強くして、警戒しても、その隙を縫うようにして、私は攫われたりしたのだ。
「まぁ、あなたの運ならこれまでの人生も、辛かったでしょうね」
「警戒を緩めた私が悪い」
「子供は、警戒しなくても大人が守ってくれるものなの。本来はね」
つまり、私は本来とは違う子供だということだ。なぜか、ショックだ。
「レイムは、優しい人」
「照れるわね」
「マリサも、アリスも、エイキもエイリンもモコウもカグヤもコマチもレイセンもみんなみんな、優しい人達。……私、こんなに優しくしてもらっていいのかな」
不安はいつまで経っても消えない。幸せを感じて、喜びを感じて。でもこうして何気ない時間を過ごしていると、ふと思うのだ。私は、これほどの優しさや幸福に見合うだけの人間だろうか。母からの心中を拒否し、お父さんの後も追えず、情報を話すことすら躊躇し、鬼を喰らった人ならざる私が、幸せなんて手にしていいのだろうか。
「生物はすべからく、幸せを求めるべきだし幸せになる権利があるのよ」
「私を除いて」
「違うわ」
レイムは私の目をしっかりと見つめた。
「卑屈になりすぎよ。大丈夫。あなたは幸せになってもいいのよ」
その言葉は、私の心に少しづつ、浸透していった。
「……ありがと」
私は立ち上がって、レイムの隣に座った。恐る、恐る。レイムに腕を絡める。
「……い、今まで避けてごめんなさい。で、でも、大好き、だよ」
私はつっかえながらも自分の気持ちを伝えた。
「……ふふふ、私、子供には絶対好かれないものだと思ってたわ」
そう言って、レイムは私の頭に手を乗せて、撫でてくれた。
うん、幸せ。この幸せは、感じていてもいいことなんだ。私はそう思った。もう何も怖いことなんてない。このあとにはずっと幸せが続く。私は、そう思った。
さっき私がレイムに何を言われたか、なんてことは綺麗さっぱり忘れて。
夜、私はレイムと布団を並べて眠っていた。あれからレイムは食事をとって、それから夜になるまで些細なことを話して、そして、布団を敷いて床に就いたのだった。すぐに眠れたのだが、妙な胸騒ぎがして目覚めた。
だが、よく考えれば私は吸血鬼。夜に起きるのは普通のことなのだ。
血が滾る感じがする。視覚も、聴覚も嗅覚も、昼間より鋭い。それに、今なら真後ろから攻撃されても反応して、こちらに攻撃が届く前に反撃できる気さえする。
なんだ、夜ってこんなに安心するものだったのか。知らなかった。
外に出ようとして……やめた。今の私は抑えが効かない。今の私はおそらく、敵が来たら殺し、人が来たら襲う、想像のままの吸血鬼なのだから。
隣で眠っているレイムに視線を移す。昼間着ていた巫女服を少し変えた、特殊な服を着て寝ている。
首が露わになっていて、その白い珠のようなきらめく肌は、まるで魔力が込められているかのように、私の視線を釘付けにした。
ごくり。
「……」
私はあわてて首を振った。違う。違う。私に優しくしてくれたレイムを食べるなんてしちゃだめ。絶対に。
おいしそう。
ダメ、違う。
私は自分が二人になったかのような錯覚を覚えた。
食べよう。押さえつけて、首に牙を埋めて、血を啜ろう。痛くなんてしない。だから。
違う。そんな、恩を仇で返すような真似はダメ。
きっとおいしい。鬼の時の数倍、それこそ今まで食べたどの料理よりもおいしい。だから食べよう。
違う、レイムはごはんじゃない。
ちょっと血をもらうだけ。
ちょっとでもダメ。
渇いた。
それでもだめ。渇こうと飢えようと干からびようと、この人を食べるのだけは嫌だ。
「……どうしたの?」
「レイム」
起きてくれて嬉しい私がいて、ほっとする。
起きて残念がる私がいる。いて、自分に失望する。
「……眠れない」
「ん。吸血鬼だもんね。私の寝床のそばにいた、ってことは血を吸いたかった?」
私は首を……。
頷け。そうすればもしかしたら吸わせてくれるかも。
否定しなければ。レイムに心配や心労をかけるべきではない。
「かなり辛い?」
「うん」
こうして悩むんなら、私の意識なんてないほうがいい。
「……狩りに出かける?」
私は首を振った。
「行かない。私はそこまで落ちぶれない」
そうは言ってみたが、私の全身がレイムの血液を求めていた。違う。人間の血が欲しいだけ。レイムの血を欲しているわけではないはずだ。
「ほんと、我慢強いのね」
「レイム、あり、が、と」
プツリと、一瞬だけ意識が飛んだ。気がついたら、レイムの首筋に噛み付きかけていた。レイムにのしかかり、口を大きく開いてレイムの首筋に、噛むその寸前まで迫っていた。
「……澪」
「ち、違うの」
私はレイムから飛び退き、全身を使って否定する。
「私、気がついたら……」
「……。わかった。自分を見失うのね?」
頷いた。
「でも、私を吸いたくはないのね?」
これにも、頷いた。
「どうする?」
「……私を、縛って。お願いしていい?」
私はそうきいた。
「本当にいいの?」
「あなたを噛むよりは遥かにいい」
レイムはため息をつくと頷いて、ふすまを開けてどこかへ行ってしまった。しばらくすると、大きな縄を持ってきた。私が全力で暴れても切れそうにない太い縄だった。
「これくらいでいい?」
「うん、ありがと」
じゃ、と言ってレイムは私のそばまで来て、私を縛っていく。私を寝かせ、作業に入った。まず、両手。その次、両足。御陵臣にされたことと同じ。御陵臣とレイムを重ねそうになって、頭の中で否定する。
「レイム、もっと厳重に」
「ん? 変な注文するのね。わかったわ」
そう言って、レイムは私の両膝と両肘を縛った。もうろくに身じろぎさえできない。
「ありがと、レイム。これで私、何があってもレイムを襲わずに済む」
はあ、とレイムはため息をついた。
「あんたは嬉しいかもしれないけど、こっちは子供縛った上にその子にお礼言われて戸惑ってんの。だから、何も気にせずもう寝なさい」
そのキツ目の言い方が、まるで家族に向かっていうような言い方だったのが、妙に嬉しい。
「うん。お休みなさい」
私はそう言うと、目を閉じた。
四日目の生活がおわろうとしていた。