愛するお父さんと私
裁判所の中は、テレビで見たようなものとほとんど変わらなかった。違うのは、裁判官が座る場所と、証言台しかないこと。弁護人が座る場所も、検察が座る場所もない、奇妙な裁判所だった。
今はそこにスーツを着た男性が立っており、口うるさく何かを言っている。その言葉を黙って聞いているのは、小さな、私くらいの女の子だった。頭に偉そうな冠をかぶって、手には錫を持っていた。
「アリスお姉ちゃん、今審理中だよ、いいの?」
「……難しい言葉知ってるわね。いいのよ。黙って聞く分にはあいつ何にも言わないから」
おもちゃを見つけたような顔をしたアリスは、裁判所の周りを囲うようにして設置されている傍聴席の、裁判官と証言台に立っている人とがはっきり見える席に座った。私達以外に、傍聴している人はいなかった。
「ほら、澪。ここ座って。どんなヤツがどんな言い訳してるか聞きましょ。面白いわよ」
私は黙ってアリスの隣に座ったけど、内心穏やかではなかった。いくらなんでも、趣味が悪いと思ったからだ。人間、必死になれば何でもするし何でも言う。嘘もつくなんて当たり前。それを面白がるなんてことは、私にはできなかった。
「へぇ、あいつ面白いわよ、ほら、みてご覧なさい」
そもそも、なぜここはなんのチェックもしないのだろう。ザル警備にもほどがある。
「澪、ほら」
「え?」
アリスに言われて、私は証言台に立つ男性を見た。全然面白くなかった。アリス、どうして、どうして。
「お父さん」
「え?」
ねぇ、アリス。どうしてお父さんがここにいるの?
「お父さん!」
私は思わず、叫んでしまっていた。いけないことだと知ってはいたけど、けど。
私が叫ぶと、女の子は私の方を見た。それからお父さんを見て、一言。
「……と、彼女は言っていますが。何か弁明はありますか、星空
私と同じくらいの年の女の子は、私と同じくらい冷たい声色でそんなことを言った。
「お、俺は知らない! あんな子供も、あんな女も、知らない!」
知らない? ……知らないって、どうして? 忘れてしまったのかな。私は、忘れられたから、ここに来たの……だろう、お父さんの口ぶりからすると。
「知らない? 忘れていた? ……それは通りません。ならばなぜあなたは……毎月大量の金銭を彼女に送っていたのです?」
「そんなの、愛してるからに決まってる!」
まるで咎め立てるような女の子の言い方に、私はつい、口を出していた。女の子は私の方を見ると首をかしげ、次にアリスの方を見た。
「アリス。説明を求めます」
「私もよくわからないわ。連れ出しましょうか?」
アリスの提案に、女の子は首を振った。
「……その方が、より早く彼に罪の重さを理解してもらえるでしょう。その年頃の娘には辛いでしょうが、いつか知ることです。むしろ、今知らねば永遠に知る機会は訪れないでしょう。
星空澪。発言を許可します」
私は一度深呼吸をした。大丈夫。お父さんは悪くない。だから、だから大丈夫。
「な、何から説明したらいい?」
「……そうですね。あなたとこの男性の関係について、ですかね」
「わかった、裁判長さん」
「映姫です」
私はきょとんとした。
「裁判長と呼ばれるのは相応しくないのでやめてください。映姫、もしくは閻魔とお呼び下さい」
「う、うん、わかった、映姫」
よく考えて。お父さんが悪く思われないように、言葉を紡いで……。
「嘘は、厳罰ですよ」
「……舌、抜かれちゃうの?」
「厳罰です」
エイキは否定も肯定もしなかった。怖くて、全部本当のこと話してしまおうかと思ったけれど、ダメだ、と首を振る。私の舌と、お父さん。どっちが大事なんて、比べるまでもない。
「私も、お父さんも、愛しあってます。家族として」
嘘は言っていない。そうだ、悪いことなんて、何もないんだから、包み隠さず言えばいいのだ。
「……あなたは、父を愛している。それは誰が見ても明らかです。では、彼はどうか?」
エイキは、お父さんの方を向いた。見ているこっちが凍りそうな、冷たい瞳だった。
「お、おれ、俺は!」
「嘘は、厳罰ですよ」
再び、エイキはそんなことを言った。けど、私に対して言った時よりも数倍、本気に感じた。
「……俺は、そんなガキを愛していない」
私は、何も考えられなくなった。
何も、考えたくなかった。
「お、お父さん? なんで、なんでそんなこというの?」
「なんでもクソもあるか。あの女が浮気して作ったお前なぞっ!」
浮気。ウワキ。お父さんの言葉を信じるなら、私は、お父さんの子供じゃなくて。私は、要らない子で。
違う。私は頭を振る。
「じゃあ、なんでお父さんは私に『愛』をくれたの?」
「愛ぃ? んなもん、俺は……」
「毎月、送ってくれた。たくさんの『愛』を、毎月、たくさん! それが、お父さんが私を愛してるっていう、何よりの証拠じゃないのっ!?」
「そんなもん送ってない!」
「いいえ」
エイキが、鋭く口を挟んだ。
「あなたの送ったお金」
「それがどうした?」
「彼女は、それをあなたからの愛だと、思っているようですね」
エイキの言葉のせいで、お父さんは私を露骨に嫌そうな目で見た。存在すら許さない、そんな、この場にいる誰よりも冷たい目をしていた。
「は、はは。……気持ち悪い」
必死で積み上げていたのに、完成する寸前で崩された積み木を思い出した。いや、あるいは、賽の河原で、ただひたすらに石を積み上げ、あと少しのところで鬼に崩されたような……そんな感覚が、私の中でした。
「ど、どうして。私、お父さんのこと、愛してるんだよ? 家族として、お父さんとして。どうして気持ち悪いなんて」
「それが、気持ち悪い。お前は、俺の子供じゃねぇ。だから、早く、消えろ」
私は、黙ることができなかった。
「なんで!? 私は、お父さんが帰って来た時のために、必死で、お父さんからのお金貯めてたんだよ!? お父さん、お願い、気持ち悪いなんて言わないで! 一緒にいて! そばにいて!」
言葉を尽くせば尽くすほど、お父さんと私との距離は離れて行く。
「なんでもする。どんなお願いでも聞く。だから、お願いだから」
これが、本当の気持ち。私の、包み隠さない真実。
「お父さん、私を……愛して……!」
「……断る」
返ってきたのは、拒絶だった。違う。もっと、近くで。もっと、そばに! そうすれば、わかってくれる。わかってくれる……。
私は傍聴席から飛び出し、お父さんのそばまで走る。誰にも、止められなかった。お父さんのそばまて、すぐに辿り着いた。お父さんを見上げる。久しぶりに見たお父さんは随分と痩せこけていて、疲れている様子だった。大丈夫、私が癒してあげれば、何も問題はない。
「お、お父さん。わ、私は、星空澪、だよ。私、私なりにお父さんのこと愛してる。大好き。一緒に暮そう? ね、きっと、疲れもとれる、かもしれないし。
……だから、愛して、お父さん。娘としてじゃなくてもいいから」
「黙ってくれ、もう。帰れ。消えろ。……死ね」
視界が、歪んだ。目の前の光景が潤んで、何も見えなくなる。
「……判決、黒。これ以上審理の必要性は認められません。地獄で娘の心を歪めた罪、とくと反省なさい」
「はっ。お前のせいで地獄行きだ。どうしてくれる。ほら、お前も死ね!」
怨嗟の声が、私の心を埋め尽くす。うん。お願いだ。やっと、かけてもらえた言葉だ。叶えてあげたい、かなえなきゃ。
「わかった! 待っててね、お父さん!」
私はとびきりの笑顔をお父さんに向けて言った。
「連れて行きなさい。それから、その娘の保護を頼みましたよ、アリス。それが善行になります」
誰かが扉を開けて、お父さんのことを連れて行こうとする。足音が私のそばまでくるけど、気にせず、私は声をお父さんにかけた。
「待って」
私は、黒装束に身を包んだ人達を止めた。お父さんが、振り返ってくれた。
「お父さん、最期に、抱きしめ……おてて、つないでいい?」
「……好きにしろ」
私はいそいそと、お父さんと手を繋ごうとして、その手が、すり抜けた。
「……え?」
「気付かなかったか? 俺は、お前のせいで、死んだんだ! お前も、早く俺を追って死ね。地獄で虐め抜いてやる」
「うん、わかった。すぐに逝くね」
死んでいた。お父さんは、すでに死んでいた。だったら、娘の私も、後を追わなきゃ。それが、私の義務なんだ。お父さんも、そう言ってるし。
「何をしているのです。早く、連れて行きなさい」
黒装束の人達は、一礼するとお父さんをどこかへ連れて行ってしまった。
「……死ななきゃ」
振り向いたところで、女の人……アリスが、私の前に立ちはだかっていた。
「どいて、アリス」
「アリス『お姉ちゃん』でしょうが。どこへ行くの?」
さっきまで、私達の会話を知っているはずのアリスは、なぜかそんなことを聞いてきた。
「死にに行くの」
「地獄行きよ?」
「地獄に、行きたいの」
お父さんが、待ってくれてるから。
「あなた、あいつの」
「お父さん!」
私は、思わず怒鳴っていた。
「……あなたのお父さん、なんて言ってたかホントにわかってる? 虐め抜いてやるって言ったのよ!?」
「わかってるよ。でも、それがお父さんなりの愛なんでしょ。どんな形であったとしても、私はお父さんに愛してくれるなら、それでいいよ」
私がそう断言したとき、エイキが私のそばまで歩いてきた。背の高さは私と同じか、私よりも低いくらい。でも、この人は多分私じゃ比べ物にならないくらい、違う。何もかもが。
「自己紹介がまだでしたね。私は四季映姫。あなたは?」
「星空澪」
私はそう名乗った。すると、エイキが手に持った錫を、私に突きつけた。
「それは、悪行ですよ」
「……?」
「あなたは、この幻想郷では『マーガトロイド』を名乗るとアリスに言ったのではないのですか?」
「でも、お父さんに認めてもらわないと」
私は相手が誰かなど考えもせず、反論していた。
「血の繋がりはないかもしれない。心の繋がりさえもないかもしれない。ならば、名前だけでも……。その気持ちは、十二分に理解できます。故に悪行ではあれ罪ではありません」
まるで、学校の先生みたいな口ぶりだった。でも、学校の先生でさえ比べられないくらい、偉いのだろうということは、簡単に理解できた。確かに、一度交わした約束を破るのは、いくら繋がりを確かにするためとはいえ、褒められたことではない。名前などの繋がりなんてなくとも、死んで地獄に行けば、お父さんから愛してもらえるんだから、何も心配はいらないのだから。
「ごめん、アリスお姉ちゃん」
「え、まぁ、いいわよ」
アリスは少し照れた様子だった。
「アリス、よく許しました。善行ですね。澪、よく頭を下げました。これで、先ほどの悪行は帳消し、です」
「ありがと、エイキ。じゃあね」
「行かせるわけにはいきません」
踵を返して一人になろうとしたところで、エイキに服を掴まれた。
「どうして?」
「自殺は罪です」
「そんなの知ってるよ」
「賢いですね。最近は自らの命は自らの物だという理論から、命を投げ捨てる人間が増えてきています。その中でも、自殺は罪だと理解しているあなたは、十分に素晴らしいです」
話が長い。でも、すごくわかりやすい。エイキの表情からは読めないけど、言葉尻から、私のことを褒めてくれているのだということがわかった。
「ありがと、エイキ」
「いえ。では」
「それでも、私は死ぬよ」
錫で額を打たれた。軽くではあるけど、痛いものは痛い。
「父に歪められたあなたに、罪はありません。けれど、私は一人の年長者として、あなたを打ちました。思い直してください」
「嫌」
私はキッパリと、言い切った。なぜ悪行ですらないのかは知らないけど、それでも私は死ぬのを諦めたくなかった。お父さんが愛してくれる、最後のチャンスかもしれないのに。
「……アリス。もし、この娘が壊れたとして」
エイキは私の目の前で、そんな風に話を切り替えた。
「な、何を縁起でもないことを……」
「あなたは、この娘が治るまで支えることを約束できますか?」
私、何かされるのかな。少し、不安になった。どう壊されるのだろうか。恐い。
「……当たり前、よ」
「閻魔との約束は、重いですよ。では、澪」
ようやく、エイキは私の方に目線を合わせた。
「あなたの父親は、あなたを愛していません。今までも、これからも」
「嘘だ」
ピシリと、私の中にヒビが入ったような感覚がした。
「閻魔が嘘を吐くとでも? ……彼は、いや、あなたは本来ならば祝福されて産まれる子供だった」
「そうだよ、母は優しかったし、愛してくれた!」
「幻想です」
私は、何も言えなくなった。私の頭の中が、真っ白になる。
「あなたは、世間一般、特に外界の日本における愛情を体験したことがありません。だから、両親からのの虐待を、愛情だと思い込むことができたのです。いくら本や、物語で真実の愛を知っていても、体験したことがなかったから、そんな離れ業ができたのです」
「お母さんからもお父さんからも虐待なんてされてない! 私は、何もされなかった! 殴られもしなかった、蹴られたりもしなかった、タバコを押し付けられたことも、罵倒を浴びせられたこともなかった、犯されたり、殺されかけたりなんてこともなかった! 私、虐待されてなんか」
「そうですね。あなたは何もされなかった。料理を作ってくれることも、褒めてくれることも、微笑みかけてくれることも、服を買ってくれることもなければ抱き締められたこともない。与えられたのはただ一つ、なんの暖かみもない、お金のみ」
「それが、お母さんとお父さんの愛情表現だったんだ!」
「ネグレクト、という言葉に聞き覚えは?」
「……」
「賢いですね。よく、勉強しましたね。でも、気付きたくなかった。違いますか?」
「ダメ、なの?」
「ええ。愛情を勘違いしてもらっては、困ります。お金は、愛情を表現するのに足る媒体であることは否定しませんが愛情そのものであることはけしてありません。あなたは生い立ちからして不幸であり、幻想に浸りたくなる気持ちもわかりますが、今は前を向いて、アリスとの家族関係を」
「エイキ」
「なんですか」
「私、ダメなのかな」
「……」
エイキは何も言ってくれない。アリスでさえ、何も。
「『愛して』って、そんなに思っちゃダメな事なのかな」
もう、何も見えなかった。生暖かい液体が、視界全体を覆って、潤んで、歪んで。頬に流れる生暖かさが、気持ち悪くて。
「……まさか」
「私、頑張ったんだよ。エイキ。愛してもらおう、って必死だったんだ。お父さんが難しい話をしても合わせられるように勉強したよ? お父さんがお金に困っておうちを訪ねて来たときにお金を好きなだけ渡せるよう、お金も貯めた。それでも足りなかったとき、身体を売る覚悟だってした。気持ち悪かったし、怖かったんだよ? 私があげれる全部をあげるって伝えたんだよ? でも、ダメだった。ねえ、エイキ。なにが間違ってたのかな? 私のどこが、ダメなんだと思う? 私がどうすれば、お父さんは私を愛してくれたと思う?」
エイキは、しばらく目を閉じ、そして、こう言った。
「本当に、頼みますよ、アリス」
目を開けると、鋭い眼光が、私を射抜いた。
「あなたがどう努力しても、あなたは愛されることはなかったでしょう。あなたの存在そのものを、彼は認めていなかったのですから」
私は、かくりと膝から力を抜いた。そんなわけがない。お父さんが、私のことを愛してないなんて。そんなわけ。
「……あなたは、外界では……いわゆる、要らない子供、ということになります」
私は、今日なんど心を砕かれただろう。なんで、私、は……。
「もう、やめて」
「だから、例え死んだとしても、悪霊になりかけている父親に愛されることは、けしてありません。むしろ、いたずらに傷を広げるだけです。だから」
「やめてッ!」
もう、嫌だ。こんな、こんな辛い思い、したくない。嫌だ。苦しい。
……こんな人たちに構っている暇なんてない。早く、お父さんの元へ。
私は二人に見えないようにうつむき、舌を伸ばす。気付かれないうちに、一気にそれを噛んだ。
血の味が口全体にに広がって、い、いき、が。
「澪!? え、映姫何したのよ!」
「舌を噛んだのです、急いで医師を……小町を呼んで、永遠亭まで早く! いないなら、永琳を呼んで来てください! 応急処置はこちらでやっておきますから!」
「ええ、わかったわ!」
アリスが走ってどこかへ行った。
「……大丈夫です。あなたは、死なせません」
口の中に、エイキの小さな手が入ってきた。
……死なせてよ、辛いから。
私は酸素がなくなったせいか、だんだんと意識が薄れていって、いつしか、私の意識は途切れた。
もう二度と、目覚めたくなかった。