二日目の朝と私
眠い。仕方あるまい、と自分を諌める。
「入るわよ、澪」
「どうぞ」
アリスは入ってくるなり驚いた。
「……目充血してるわよ?」
「眠れなかった。おはよう、アリスお姉ちゃん」
私はベッドから降りて、昨日エイリンにもらった靴を履いてそういった。誰かに朝起きておはようと言えたのは、随分久しぶりだった。
「あ、おはよう。眠れなかったって、どうして?」
「夢を見た」
「どんな夢?」
私はアリスのそばまで行くと、アリスを見上げた。昨日と似たような模様の服の上から、エプロンをつけている。料理していたのだろう。
「隣で眠っていた母に殺されかける夢」
「……そう。それは怖い夢ね」
「夢だとよかったのだけれど」
「え?」
なんでもない、と私は首を振った。
「ふうん……。今ご飯できたんだけど、眠いんなら寝とく?」
「いい。朝寝坊の癖がついたら困る」
たとえサボり気味とはいえ、学校に通っているのだ、早起きの習慣はなくしたくない。
「そ、そう。ほんと、しっかりしてるわね。こっちに朝ごはん用意してるから」
「ありがとう、アリスお姉ちゃん」
隣の部屋に移動したアリスについて歩く。
本当にご飯までくれるのだろうか。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。私に何かできることはないだろうか。小間使いの代わりくらいなら、できるだろうか。
「アリスお姉ちゃん、私に何かできることはない?」
「ん? ……そうね、じゃお皿洗い頼んでもいいかしら」
「もちろん」
私は頷いた。家事くらいなら、私でもできる。掃除、洗濯、買い物に料理に。ここに来るまでは全部一人でやっていたのだ。
「じゃ、ご飯食べてお皿洗いしてもらったら、今日も行きましょうか」
「うん」
アリスは、すでに料理が乗っているテーブルについた。私もアリスの向かい側に座る。木製の皿に、スープのような白い液体が入っている。これが朝食だろうか。アリスが食べ始めるのを見てから、私も食べ始める。
「いただきます」
「……ねぇ」
私がスプーンを持ってスープを飲もうとしたところで、アリスが声をかけてきた。何かしてはいけないことでもしたのだろうか。
「ちょっと気になったんだけど、その『いただきます』って何?」
言われて、初めて気づく。そういえば、アリスは食事の前に何も挨拶をしていなかった。この世界では食前に挨拶をする習慣がないのだろうか。もしくは、アリスにその習慣がないか。
「挨拶。意味は知らないけど」
「ふうん」
アリスはそう言うと、小さくいただきますと言った。
「これでいいのかしら」
頷く。
私は食事を始める。何の料理か聞きたいのだけれど、食材を知ったせいで食欲が失せるということが往々にしてあるので、知らないまま口に運ぶ。毒ではないはずなので、知らなくても大丈夫……な、はず。
口に含んでしばらく味わう。人肌程度の温度なので、舌が火傷するなんてことはなかった。甘い香りととろとろとした食感で、味も良好。とてもおいしい。シチューではないだろうか、と予想する。
「すごくおいしい」
「お口にあってなによりだわ」
何の料理だろうか。キノコが多めに入っているから、キノコシチュー……なのだろうか。
「何の料理? 帰ってから作ってみたい」
「あなた料理できるの?」
「一通りは」
「すごいわね」
アリスは感心してくれた。必要に迫られて覚えた事だったが、こうして褒めてくれるのなら、覚えてよかったと思える。
「これはキノコシチューよ。いっぱい作ったから、少なくとも今日はずっとこれだからね」
「わかった」
これが三食か。目の前に出されている分だけだと、昨日一切の物を口にしていない身としては物足りない気もするが、食べられるだけで幸せなことなのだ。我慢しよう。
「おかわり、してもいいのよ?」
「……いい」
「迷うくらいだったらすればいいのに。変に遠慮しすぎよ」
私は首を振った。
「これ以上食べたら、お腹を攻撃された時に吐いてしまうかもしれない」
「攻撃されること前提で物を考えないでよ。……ここ、そんなに危険じゃないから」
そうは言われても、昨日は二人もの人間に襲われた。チルノという氷精を名乗る子供と、東野の二人だ。元の世界でも、一日に二回も襲われることはなかった。
「……ごめん、アリスお姉ちゃん。それでも、私は警戒してしまう」
私がそう言うと、アリスは残念そうに肩を落とした。
「まあ、信じろっていう方が無茶よね。でも、お腹空くわよ?」
「満腹で動けなくなるよりかはマシ」
「ホント、普通の子供とは真逆に考えるのね」
そう言ってアリスは笑った。嘲笑でないことは、アリスの顔を見ればわかった。
「……話を変えるけど、今日はどこへ行くの?」
少し気になって、聞いてみた。
「ん、昨日も通った魔法の森を抜けて、再思の道を越えて、三途の川を渡って、それから裁判所の閻魔に会いに行くわよ」
私は空いた口が塞がらなかった。その行程にはかなりの無理があるようにしか思えなかったからだ。
「え、し、死ぬの?」
「は? ……あっ、そういえば、そうだったわね。ごめんごめん、勘違いさせたわね」
少し逃げるかどうかを考え始めていた私に、アリスは手を振って否定した。
「え?」
「幻想郷じゃあね、閻魔大王は別に死ななくても会えるのよ」
「……」
会いたくない。閻魔様に会ったら、私はきっと舌を抜かれてしまう。ただでさえ他人よりコミュニケーション手段が少ないのに、言葉まで奪われたら、私は……。
「何心配してるの?」
「え? 舌を抜かれないか……」
私がそう言うと、アリスは大笑いした。
「あはははは! 大丈夫よ、澪。その閻魔ルールには厳しいけど、生きてる人に何かする、なんてことないから! にしても、あなたもそんな面があったのね〜」
なんだかバカにされてるみたいで、むっとする。
「変?」
「いいや、とっても可愛いわ」
「……」
なんだか、もうどうでもよくなった。可愛い、か。初めて言ってもらえたな。嬉しい。
「ご馳走様でした」
キノコシチューを食べ終わると、私は両手を合わせて礼をした。
「それも挨拶?」
頷く。私よりも先に食べ終わったアリスは、遅めではあるが手をあわせ、ぎこちなくご馳走様をした。
「……毎日こんなのやってるの?」
「うん。毎日、毎食」
アリスは煩わしそうな顔をした。
「へぇ。面倒なのね、外の世界って。前に来た外来人もやってけど、あいつが特殊なんじゃなくて、外で習慣付いてんのね」
アリスの言葉に、少し気になるところはあった。私の前にアリスのところに来た、外来人。……昨日、レイムはアリスが連れて来た外来人が何かを企てているということを言っていた。もしかして……。
想像だけで物を考えていた私は、かぶりを振って思考をやめた。決めつけで考えてはダメ。
「どうしたの?」
「え、えっと、シャワー浴びていい? 浴びたくなっちゃって」
多少無理のある言い訳とは思ったが、アリスは不審に思うことはなかった。
「そう? そこの扉を出て右がバスルームよ」
「わかった。浴びて来る」
私は椅子から降りると、言われた通りにバスルームに向かう。
脱衣所も湯船も木製で、そうでないのはシャワーヘッドくらいだった。
脱衣所でパジャマと下着を脱いで裸になると、私はバスルームに入った。バスルームと脱衣所を仕切る扉を占めると、私は驚いた。
ここは森のど真ん中、電気も水も来ているはずがないのに、最新式の電子パネルが備え付けられてあった。
どういう原理なんだろうと思いながら、ありがたいので使わせてもらう。熱いシャワーを浴びて、体を洗う。昨日東野に触られたところは、念入りに洗った。
「澪。サイズが合うかどうかわからないけど、私が子供の時の服貸してあげる。ここにタオルと一緒においておくから」
最後に髪を洗い終わったところで、見計らったようにアリスがそう言って来た。
「え? あ、ありがとうアリスお姉ちゃん」
またパジャマを着るつもりだった私にしたら、それは嬉しい驚きだった。
……でも、いいんだろうか、こんなに色々としてもらって。
バスルームを出ると、アリスの言っていたとおりに、タオルの下に着古したような服が置いてあった。下着も一緒だったのは、素直に嬉しかった。お古だとかそういうことは、気にならなかった。
最初私は幻想郷にいる間パジャマと同じく下着をずっと着るしかないと思っていたのだ。まさか、こうして服を着替えることができるなんて。
アリスに渡された服を着て、洗面所にあった鏡を見た。黒い長い髪と、黒い瞳、全く動かない表情をして立っている私は、アリスが今着ている服をそのまま小さくしたような服を着ていた。
なんだか本当にアリスの妹になったようで、とても嬉しかった。
「アリスお姉ちゃん、お待たせ。アリスお姉ちゃんは浴びなくていいの?」
大きめのバスケットのような鞄を下げ、出かける準備を終えたアリスに私は聞いた。
「まあね。夜浴びるわ。何か持ち物……なんて、なかったわね。じゃ、準備はいい?」
うん。私は頷いた。
「じゃ、行きましょうか」
自然な動作で手を握ってくれて、さらに私はアリスと家族なったかのような錯覚した。
家を出て、森を歩く。靴があるのとないのとでは、大きな違いなのだということを肌で実感した。
幻想郷に来て二日目の生活が始まった。