迷い込みと私
自己紹介から始めるべきだろうか。私の名前は
生まれてから十年、楽しい事よりも辛い事の方が多かった。母とお父さんが六歳の時に離婚して、それからすぐに母が自殺したせいで、私は一人きりになってしまった。いや、ふたりがいたころも、一人きりだったようなものか。
今はお父さんが養ってはくれているんだけど、お金を送ってくるだけで、他に父親らしいことはしてくれない。
お父さんは私のことを愛してくれているはずなんだけど、罪にならないギリギリまで私を放っておくみたい。怒ってくれるのを期待して学校を一ヶ月行かなかったこともあったけど、先生に怒られただけだった。
私は運も悪いのか、はたまた巡り合わせが悪いのか、学校の帰り道に攫われて死にかけるような目にも何度も遭った。何をしようとも父親が何も言ってこない、というのがどこからか伝わって、私は犯罪者の格好の的になった。それでも五体満足で生きている私は、ある意味で運がいいんだろうけど。
こんな人生を歩んできた私は、いつしかどんなことにも動じない心を手に入れていた。もし今心臓の上にナイフが突き刺さっても、普段と変わらず状況を分析できる自信がある。大人はそれを心が死んだと表現したがるけど、私はそう思わない。冷静であるということは、生き残ることに繋がる。私は短い人生の中、得られた経験からそう悟っていた。
自分の自己分析が普通の子供達よりも明晰なのには理由がある。自分のことを冷静に、客観的に見つめられるようになったとき、自身の中の語彙の少なさに非常に困った。そのことに対して対策を講じたからに他ならない。
一人きりの私は、他の子供と違い、家族ではなく他人に頼ってしか生きていけない。
冷静になったせいで感情を表情や行動で表すことに関して極端なまでに不得手になってしまった私が、自分のことを理解してもらうためにどうすればよいのか。私が出した結論は、話すことだった。
痛い、苦しい、楽しい、嬉しい、気持ち悪い、気持ちいい、と言ったものを言葉で表現しなければならないと、私は考えた。
そのために必要な言葉を、私は家にいる間必死で覚えた。辞書に書いてある言葉の八割を覚えても、大人向けに書かれた本を読むのには苦労した。だが、苦労してでも知識を頭に詰め込んだおかげで、少しは理知的に物事をかんがえれるようになったと思っている。ただ、その弊害もあった。知りたくもないような醜悪な知識も、同時に頭に入ってきたのだ。
私の目の前に広がっている深い深い森。これも、私に恐怖をもたらした知識だった。本曰く、一度迷うと二度と元の場所に帰れない。私はそこのど真ん中……どこが真ん中なのかはわからないが、とにかく三百六十度、木と草の緑と幹と地面の茶色で埋まっている。
地面に目をむけると、土と草に混じり、色とりどりのキノコがいくつか生えていて、一層不気味に私は感じた。
今度は自分の姿を見る。私は白い素足を晒し、水玉模様の長そで長ズボンのパジャマに身を包んでいた。つまり私は、眠る前の格好のまま、ここにいるというわけだ。私は立ち上がると、何も考えずに前に進んだ。
どうせ方角を知る方法など知らないのだ。ならば、ひたすらに真っ直ぐに進めばいつかはどこかに出るだろう。出なければ、野垂れ死に。いつものことだ。何かに成功しなければ、死ぬ。
死ぬのか、死なないのか。わからないことが少しだけ、怖い。枝をくぐり、草をかきわけ進みながら、そんなことを考える。そして同時に、恐怖を感じながらも冷静に考える自分を奇妙に思う。
「……」
足の裏に痛みを感じ、足をあげてそこを見る。鋭い石を踏んだようで、踵の部分の一部が裂け、血が流れていた。
このまま歩き続けたら化膿するだろうか。もしそうなったら、足が使い物にならなくなるのだろうか。……どちらにせよ、この痛みではもう歩けない。そう判断した私は、その場に座り込んだ。じめりとした感覚がお尻に伝わる。今もう一度立ち上がれば、お尻回りが土色に汚れていることだろう。
注意深く周りを見回しながら、重要なことを考える。
私はなぜここにいるのか。家のベッドで横になり、目を閉じたのは覚えている。しかし、私はここで目覚めた。
考えられるエピソードは、犯罪者に攫われたが必死な思いで逃げ出し、その途中で力尽き眠りについた、というもの。もしそうなら、私の眠る前の記憶があやふやなのが気になる。
……汚されたのだろうか。
少し不安になって、服やその他色々なことを調べた。服には脱がされた跡はなく、肌にも汚れはなかった。汚されたわけではないのがわかって、息をついた。
ならばなぜ私はここにいるのだろう。問いが巡りだす。わからないことばかりで、少しだけ不安になる。一度は否定したはずの可能性が、再び頭をもたげてくる。
「あなた、こんなところで何してるの? 死にたいのかしら」
そんな時、女の人が茂みの奥から出てきた。白を基調とした服装に身を包んだ、宙に浮かぶ人形を従えた摩訶不思議な人だった。
「助けてください。迷い込んでしまいました。踵を切ってしまい、動けません。肩を貸して頂けますか?」
私の丁寧語が間違っていたのだろう、目の前の女性は驚いたような顔をした。
「……あなた、人間?」
「はい。私は星空澪と申します。助けていただけますか?」
女性は気を取り直すように咳払いをすると、手を翻した。すると彼女の周りで浮いている人形達が私の脇のしたと膝の裏に周り、私の体を持ち上げた。急に体が浮く感覚に全身が逆毛立ったが、何も言わない。
「……私はアリスよ。変な子、あなた」
「そうですか。お世話になります」
私は頭だけ下げてお礼を言った。アリスは私を一瞥すると、踵を返して森の中を歩き始めた。彼女の足取りは淀みなく、まるでこの森が自分の庭であるかのような自然な歩みであった。
「あなた、ここがどこかわかってる?」
「わかりません。ここがどこか教えて頂けますか?」
「敬語やめて」
思ったりよりも鋭く、そんなことを言われた。多少面食らったが、初めて言われたことでもないので言う通りにする。
「わかった。ここはどこ?」
「ここは幻想郷。知ってた?」
「……知らない」
幻想郷。知りたいような知りたくないような、そんな名前だった。