青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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旧日本居留民団跡

「旧日本居留民団跡」

※この記事は、ライブドアブログ「青島満帆2」に載せたものを再構成し、
 こちらに転載したものです。ご了承ください。


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中山路と湖北路の角に、

「旧日本居留民団」の建物が残っている。


1902年に、旧ドイツが「水兵クラブ」として建築したものである。

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青島は、日独戦争を経て、

1914年から22年まで、日本軍の統治下に置かれた。


1923年、青島の行政権は中国に返還され、

1月、日本駐屯軍は撤退した。


それに伴い、同年、邦人自治組織として、

「青島日本居留民団」が設立され、

ドイツの水兵クラブ跡が居留民団になった。

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居留民団は、一応、自治組織とはなっているが、

学校経営を任され、

邦人に対する賦課税の査定から徴収まで行い、

さらに邦人への貸し付けもやっていたというから、

絶大な権限と財力をもった組織だったと言える。



青島第一、第二小学校も、

この年から居留民団立となり、

青島第一日本尋常高等小学校、

青島第二日本尋常小学校とそれぞれ改められた。




Mさんからいただいたコメントによると、

「小学生のときの図画のコンクールに入選し、

居留民団のホールに展示された」そうだ。


居留民団は、

もとはドイツの水兵が憩う場所だったから当然ダンスホールもある。


そのダンスホールが、

展示会などの多目的ホールとして使われたと思われる。

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Mさんからのメールによると、

太平洋戦争の末期、

第一小学校の中村校長が退任後、

居留民団の仕事をしていて、


「防空訓練に中国人を巻き込むこと」に疑問を述べたところ、


「即刻帰国を命じられた」


ということが書かれている。



戦局が厳しくなると、

居留民団による邦人の監視と統制が、

一段と強まっていったようだ。

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閉じる コメント(5)

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思い出しました。画は豚の画でした。豚の印象が強かったのでしょう。青島の肉屋では豚の枝肉が何本も下げられており、どの部位でも
値段は同じでした。

2007/12/12(水) 午前 8:22 [ aik*qi*a*2 ]

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イメージ6に豆タクとありますが、タクシー乗り場でしょうか。

2007/12/12(水) 午前 11:19 [ aik*qi*a*2 ]

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aikoqipaoさんへ、よく覚えていますね。お使いの好きないいお子さんだったのですね。「豆タク」とありますから、タクシー乗り場だったのでしょうね。車はほとんど見たことがなかったような気がしますが。

2007/12/12(水) 午後 5:58 bad**uan1*3

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羊会会員の村中敦子(旧姓森沢)さんのお父さんが民団の幹部として
勤められておられたと思います。また、賀来龍三郎さんのお父さんは
多分興亜院に勤められていた?と思いますが・・・・・
懐かしい写真でした。 西村

2007/12/13(木) 午前 8:03 [ ターチャン ]

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tadaoさん、いろいろ情報をありがとうございます。村中さんにも何か情報がありましたらお寄せくださいますよう、よろしくお伝えください。

2007/12/13(木) 午後 10:00 bad**uan1*3


開​設日​: ​20​05​/9​/2​3(​金)​

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