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高畑勲の文学的表現

スタジオジブリの高畑勲監督作『火垂るの墓』を視聴した人々の間で、主人公清太と親戚の叔母さんのどちらが悪いのかと議論になることがある。1988年公開から彼是、30年以上に渡って論争が繰り広げられている。公開当時は幼い兄妹が不幸な死を遂げたことが際たち、清太と節子を追い出した親戚の叔母さんがA級戦犯扱いされていた。論争に加わる人間が増えるにつれて、次第に清太の性格の悪さも指摘されるようになったことから、叔母さんはB級戦犯に格下げされた。『火垂るの墓』が投じた波紋が今も尚、広がりを見せていることから高畑勲の狙いは思惑通りの効果をもたらしている。


私のホームページの掲示板でも1度だけ『火垂るの墓』について議論したことがある。そこは東大派閥に名を知られる私なので高畑勲の耳にも入っていて「清太くんは性格が悪いでしょ?」とかなり突っ込んで議論した。映画はJR神戸線三ノ宮駅の構内で清太が死亡するシーンから始まる。直後に画面が赤み掛かって草原から清太が立ち上がって死んだ自分を見つめている。清太は怨霊と化していて成仏できずに自分自身を恨んでいる。そして節子の霊も清太の怨霊に引きずられて浮遊霊と化している。なぜ、清太は自分自身を恨み、怨霊と化しているのか、という説明が映画本編で語られていく。


映画全編に渡って清太の心情は背景でのみ語られている。冒頭の赤み掛かった背景演出は清太が自分の行為を恨んでいることを表している。時折、本編でも背景が赤くなって過去の自分を見つめる清太の怨霊が現れる。清太が死して怨霊になってまでも自分の行為を恨むのは自分の性格(人格)の酷さを悔いているからであり、妹を死なせてしまったことも自分の責任だと悟っている。生前の清太の心情が最もわかりやすいシーンが、節子を背負って叔母さんの家を出ていくシーンにある。蛇の目傘を買って歌を歌いながら防空壕に向かう。このシーンで雨が降っているのは、これから節子の面倒を1人で見なければならないことに対する「気が重い」という清太の心情を表している。節子が死ぬシーンではようやく肩の荷を下ろせることから快晴の空が描かれている。清太の表情もスッキリしている。「やれるだけのことはやったんだから仕方がないだろ」ってことを自己弁護しながら節子を荼毘に付している。田んぼで農作物を盗んで食べているシーンも快晴の空が描かれている。清太は1人で盗み食いしていることを心から楽しんでいる。これを高畑勲に突っ込むと、「こういう見方をしてくれる人がいてくれたのか」という旨の返事をいただいた。


これが高畑勲が用いる文学的表現の1つで登場人物の心情を台詞にはせずに情景で描いてみせる。大正時代の文学を読むとやはり登場人物の心情を情景で表現している事が多い。登場人物の心情をいかにして伝えるかは安土桃山時代の人形浄瑠璃に起源がある。そこは自分で勉強してもらうとして、エンターテイメントの設計技法が解っていると高畑勲作品は読み解きやすい。細かいギミックなども含めて、清太が如何に卑しい人間なのかを88分間見せつける内容になっている。原作者の野坂昭如は似たような体験をしているが、妹とは血の繋がりもなく、戦時中に疎開していた親戚の家では従姉に恋してしまい、妹の面倒は見ていなかった。そのことをあまり後悔してもいない。そんな野坂昭如に突きつける意味でも清太を怨霊として登場させている。映画の清太はいつまでも成仏できない。永遠と自分の過ちを見つめている。映画『火垂るの墓』を見た人々が野坂昭如の実体験と勘違いして野坂昭如にたくさんの手紙を送った。「自分はそんなできた人間ではない」と弁明している。


戦時中や戦後の混乱期に、似たような境遇に置かれていた人は大勢いるだろうから、自分たちの経験に照らし合わせて『火垂るの墓』を見てしまう。現実には妹思いのお兄さんもいらっしゃるので、兄に助けてもらったと感謝している女性もいるだろう。そのような女性がいることも踏まえて、表面上では清太が妹思いであるかのような台詞回しにしている。「節子のことが重石(肩の荷)だったんだ」と言ってしまうと傷つく人がいる。現在進行形でお兄さんに面倒を見てもらっている人は間違いなく傷つく。文学でも同じ事。読む人の中に傷つく人がいるかもしれないと踏まえた上で文言を選ばなければならない。文学は登場人物の仕草や台詞だけを追っていると心情は読み解けない。高畑勲が『火垂るの墓』について深く説明しない理由でもある。高畑勲の文学的表現は正しい使用例。





こういう話を高畑勲とするんだけど、やっぱり高畑勲はまともな東大生で頭がいい。どの作品を見ても台詞で説明していない。宮崎駿作品が絶大な支持を集め、高畑勲作品があまり興行的に成功しないのは、高畑勲が高度な事をやり過ぎていて理解者を得られていないからだ。昔の東大生は本当に頭が良いので、一般大衆の浅はかな生き方に辟易しているところがある。「おまえのレベルに合わせるつもりはない」を地で行くのが高畑勲。テレビアニメだと、スポンサーの顔色を窺って大衆娯楽に合わせていくけれど、映画では全くブレが無い。東大出身者と本気で対談すると必ず言われることがあって、「この小説読んでみてくれ」と頼まれる。「天才の頭脳でこの小説をどう分解するのか聞いてみたい」とか言い出して、文学や経済学の書籍を薦められた。


フィクションでも、ノンフィクションでも、それを見た人間・読む人間が何を感じるかを計算しながら物語を組み立てなければならない。今はカルト宗教信者や共産党員に代表される真正のキチガイがエンタメを作ってしまう時代で、キチガイの頭で組み立てられた物語に登場する人物はキチガイだらけになっている。ゲームのFFシリーズの歴代キャラクターの性格を設計している担当者は真性のキチガイ。人間の感性が培われていない。ハリウッド映画でも共産党員の脚本家が増えているからなのか、それっぽいのが出て来る。カリフォルニアに飛んでいかなくてもヤバい人間が増えていることぐらいは解る。




『火垂るの墓』について保守活動家の人達は、左翼運動に加わっていた高畑勲のことだから、戦争に負けて落ちぶれていく日本人の姿を描いているのだろう、と邪推する。端的に言えば、『火垂るの墓』は清太が自分の行為を悔いているだけの内容の道徳映画だ。






風立ちぬ

宮崎駿の引退するぞ宣言で注目を集めたジブリ映画『風立ちぬ』が金曜ロードショーで初放送された。実はまだ見ていなかったので今回初めて視聴した。私はスタジオジブリの宮崎アニメを手放しで褒めるタイプのファンでもないので毎回の作品を劇場で視聴していない。テレビアニメ『未来少年コナン』や『天空の城ラピュタ』でエンターテイメントを完成させてしまったので、以後の宮崎駿はエンタメを卒業してしまい、テーマ探しの段階から苦悩している。『ハウルの動く城』以降の宮崎駿の作品はそこかしこから苦悩が滲み出ている。作家としての真情を持つ高畑勲の方が迷いが無い分メッセージ性は鋭い。宮崎駿は純粋にエンターテイメントを追求した方が面白い作品を作れる。


哀しいのは作家の性で同じ事をやりたがらない。特に社会的に成功してからは苦悩するようになる。大正時代の名立たる文学作家も苦悩に満ちていて何かを得ようと文体を変えてみたりする。洋書の翻訳をやってみたり、森鴎外の文体を真似してみたり、自分の頭からは浮かんでこないアイデアを得ようと試行錯誤する。高畑勲の作品は表現技法を変えつつも、一貫して人の業を描くテーマだけは見失っていない。宮崎駿は表現技法を変えることはしないがテーマを見つけられないでいる。『ハウルの動く城』が公開された2004年当時には、「この映画は老人を元気づけようと目論んで作っている」と突いてみた。前作の『千と千尋の神隠し』は老若男女問わず幅広い層に受けており、思いの外、高齢者から好評を得たので、天下の宮崎駿も「高齢者が見る」ことを意識しすぎて物語のメッセージ性を欠いてしまった。『崖の上のポニョ』はエンターテイメントに戻した。


『風立ちぬ』は宮崎駿のロマンが詰め込まれた作品だ。テイストとしては『紅の豚』を彷彿させる。記者会見で自分は戦争主義者ではないと弁明しつつ、自分の好きな戦闘機の絵を描くことを選んでいる。1941年生まれで『風立ちぬ』制作時は70歳前後、これで最後かもしれないと真剣に生と向き合ってのことだろう。70代の老人が「好きなことをする」と決断したことを否定も批判もしない。零戦の設計者である堀越二郎を題材にすると発表した時点でストーリーの骨子は予想できた。見終わった時点の率直な感想を述べると「案の定」だった。戦時中の出来事を描いているが全編を通じて爽やかな印象がするのは庵野秀明の声が優しいからだろう。ラジオの朗読でもやらせてみると庵野秀明の声はリスナーにウケると思う。棒読みだと散々言われているが、声が軽いので軍国主義に対する批判も軽くなっている。アシタカの声優である松田洋治あたりがやると力が入り過ぎて重くなる。あくまでも戦争映画ではなく、戦闘機のロマンを描く映画なので、重くなり過ぎてはいけない。




宮崎駿と私の父は同じ1941年生まれ。宮崎駿は早生まれなので学年では1学年上になる。この世代の人間について言えるのは世の中のことや人間を誤解していることである。人間はとても極端で、昔の本当の日本人を見ている場合は穏やかな印象を受けるだろう。日本の中に入り込んできた中国人(華僑)や朝鮮人を見ていると雑多な印象を受けるだろう。これは知性の高い人ほど社会理解度に優れている事と関係する。社会を理解していれば闇雲に人を殺したりはしない。日本の軍部に潜り込んだ共産党員や朝鮮人が中国戦争に躍起になったのも社会を理解していなかったからである。朝鮮人は朝鮮半島を救いたいから大清帝国や中華民国との戦争に意気込んでいた。共産党員は共産主義の妨げになる勢力を片っ端から弱体化させることだけ考えていた。どちらも社会のことなど微塵も頭に無い。当時の戦争についてイギリス人と議論すると必ず共産主義の話も出て来る。理解度の低い人間は共産主義の問題を見てもいないのだ。すべて軍国主義だと言い出す。


日本人に軍国主義が有ったかと言えば無い。科学に邁進していたので他国の事になど干渉していられない。作中の堀越二郎にしてもドイツのユンカース社の技術を目の当たりにして面食らう。世界で何が起きているかを理解できるかで人の生きざまは大きく違ってくる。戦争だの覇権だのと吠えたがるのは社会を知らない人間である。社会とは何なのかを知らないでいるから人を殺せる。無知な人間ほど戦争したがる。確率論で言えば人間は大勢いた方が良い。天才的な人間が存在する確率が上昇するからだ。日本は天才の人数でイギリスに負けてはいたがドイツには勝っていた。アドルフ・ヒトラーと直接交渉して互いに知識や技術を供与することで合意した。ドイツと合意できたのはそれ相応の知識を供与したからである。三菱重工業関係者がドイツのユンカース社と交渉した訳ではない。100年前の時点で日本には21世紀水準の医学知識が存在しており、その前では軍事技術など他愛もない価値でしかない。医療技術の市場規模は軍事技術の10倍規模である。


現代でもイギリス・フランス・アメリカとの同盟強化ができるのも日本に他を圧倒する技術と知識があるからだ。私がいるだけでもG5の他の4カ国を圧倒できる。インターネットとスーパーコンピュータの技術とアイデアは私がG5にもたらしたものである。ロシアや中国は蚊帳の外にいる。21~30世紀までの宇宙開発の方針も私からG5に骨子を授けることになる。世界の頂点では全く違う概念で全てが動いている。しかし、これらは国家機密として遂行されていることであり、大企業でも蚊帳の外に置かれている。三菱重工業の技術者たちとは私の祖父も面談していたが彼等に国家機密を明かしたりはしない。時効が来たので私が教えただけであって、当時の日本にアドルフ・ヒトラーが来ていたことなどはCIAやMI6でも知らない情報である。しかし、日本の中枢部に潜伏している共産党員には情報が洩れていた。当時の一般市民は世の中で何が蠢いているかなど意識してもいない。




宮崎駿の幼少期にはエンターテイメントもまだまだ発展途上だったので現実の戦闘機や自動車などが憧れの対象だった。戦闘機や列車の絵を描くところから入って自分なりにメカを空想する。時代が移り変わってエンターテイメントが成熟すると、空想を見て空想する人間が出て来る。憧れの対象がガンダムのような空想上のロボットならば軍国主義や戦争主義と思われはしないだろう。あこがれの対象が第二次世界大戦時の兵器だったとすると軍国主義と勘違いされかねない。昔は子供が憧れる対象が少なかったのだから戦闘機や戦車に憧れたとしても何も不思議ではない。価値観の違いを認識していない人は神経質に「宮崎駿は軍国主義か?」と勘ぐったりする。特に朝鮮人工作員にその傾向が強くある。工作員が日本に滞在していることで多くの誤解が生まれている。日本政府が何も手を打たないから風評や誤報が絶えない。わざわざ「私は軍国主義ではありません」と公表しなければならないほど、日本社会にはアホが増えている。宮崎駿の世代は戦争のこどなど何も知らない。私の父は3歳の時に大阪大空襲を経験しているが、父が戦時について憶えているのは大池橋に在った防空壕に飛び込んだ際に向かいの建物に焼夷弾が直撃して火柱が上がったことだけだ。誰が戦争していたかなどは一切知らない。私は明治生まれや大正生まれの日本国の重鎮と面会して直に説明を受けたので何が起きていたかを知っている。説明を受けていなければ何も知らない。


宮崎駿も周囲にいた戦友を失い、自分もいつ死ぬか解らない年齢に達していて、好きな事をして悔いを残さずに死のう、と悟っている。しかし、そんな思いを汲み取ってくれるほど世間は甘くない。老いた宮崎駿の前に立ちはだかるのは全盛期の宮崎駿である。今もファンは宮崎駿を求めているのではない。皇帝ミヤザキを求めている。日本映画史上に残る最大級のハードルを飛び越えてくれと言っているのだ。今よりも力が有って、優れた同士にも恵まれていた時期でさえ、全盛期の宮崎駿に勝てなかったというのに、刀折れ矢も尽きて老いた宮崎駿に全盛期の宮崎駿は倒せない。老婆心も邪魔をして切れ味が鈍る。実写・アニメ問わず、全盛期の宮崎駿は多くのクリエイターを絶望させてきた金字塔である。私が全てのしがらみを放棄して、全身全霊で挑んでようやく倒せるほどの化け物である。何の学びも無いアホどもが寄ってたかって飛び掛かってもビクともしない。純粋にエンターテイメントを追求するにはスタッフ全員に邪推を捨て去ってもらわなければならない。LGBTだの、ポリバレントだのと、アホ臭いことをほざいている内は何も成し遂げられない。


今再び老いた宮崎駿が己を奮い立たせて作品に取り掛かっている。若者のアホっぷりを見ていて、居ても立っても居られなくなったようだ。しかし、世間にメッセージを発信するときは圧倒的な実力差で相手に有無を言わせないようにするしかない。刀も折れて矢も尽きたことは宮崎駿が一番よく解っているはず。老婆心で忠告すると、テーマに囚われ過ぎると物議を醸す中途半端なことになるぞ。宮崎駿の社会認識度は私の父と大差が無い。父と一緒に飯を食っている時にニュースを見ると、私がいちいちニュースを解説しなければならない。ニュース番組に出ている司会者やコメンテーターのことまで解説しなければならない。でないと、父は「なんやこいつは!」とテレビに向かって怒り出す。宮崎駿にはそれに近いものを感じている。




ガンダム40周年

1979年4月7日テレビ放送開始した『機動戦士ガンダム』が本日40周年を迎えた。NHKでは40周年記念特番として『ガンダム誕生秘話』を3月30日に放送した。1979年当時にテレビアニメの制作に携わっていたメンバーのインタビューを軸に、ガンダムが社会に受け入れられた背景に迫っていた。放送中は視聴率が低迷して第25話の放送を前に打ち切りが決定。皮肉にも、打ち切り決定後の第29話『ジャブローに散る』から視聴率が上昇する。ところが作画監督の安彦良和が病に倒れて作画のクオリティーが低下する。どうにかこうにか第43話までたどり着いたことをホワイトベースに例えて語っていた。


インタビューに応えるスタッフの中で作画の板野一郎は腹に据えかねるものがあるようで刺々しい口調で当時のことを語っていた。スポンサーからの理不尽なクレームに富野由悠季がペコペコと頭を下げながら「弾除け役」になっていたことを憤りを交えながら語る。当時の世間の風当たりの強さは誰もが経験していることである。私などは6歳にして次々に仕事を頼まれ、理不尽な物言いをする大人たちを相手に戦ってきた。だから、板野一郎が言わんとしていることを汲み取ることができる。


とはいえ、板野一郎にしても、富野由悠季にしても、幸せ者だ。ハッキリ言っておくと『機動戦士ガンダム』は日本のポップカルチャーのヒエラルキーの頂点の1つである。その後の多くのクリエイターは「ガンダムを作れ!」と命じられて、『機動戦士ガンダム』に戦いを挑んでは破れている。富野由悠季自身もガンダムに戦いを挑んで勝てなかった。アムロとシャアを超えるキャラクターを生み出せずにいるので、未だにアムロとシャアは最前線に立たされている。ガンダムが築いた経済効果は3兆円規模と化しており、模型市場の売上の半分を独占するまでに至っている。キャリアに「ガンダム制作」と記載できるだけで一目を置かれる。


いま星の数ほど大量生産されるテレビアニメはどれも売れていない。駄作故に売れない作品は自業自得として、傑作でありながら世に広く知られないのはヒエラルキーが存在するからだ。反体制主義者であった富野由悠季や安彦良和が今は体制側の立場になっている。ファーストガンダム信仰は保守的かつ原理主義の塊と化していて後に続くガンダムシリーズを駆逐し続けている。ガンダムを制作していた当時は、体制側の理不尽な圧力に憤りを感じたかもしれないが、自分たちが圧力を掛ける側になった今では、反体制主義を唱えることができなくなっている。当時の心境と共に今の心境も聞かないと面白くない。そういうところでNHKの反社会主義勢力は融通が利かない。共産主義者が100年間同じことを主張しているように、このままだと50周年を迎えても富野由悠季は「当時のこと」を聞かれて同じ事を話しているだろう。そういうことを何も考えずにやってしまうのが今のNHKのイケてないところ。


富野由悠季と安彦良和の2人はチクっと刺したことが在る。いつまでも反体制主義を唱えていたので、「いや、君たちは体制側の人間だよ」と痛いところを刺しておいた。富野由悠季は『新世紀エヴァンゲリオン』や『進撃の巨人』を「ぶっ潰したい!」と公に批判していた。「いやいや、庵野も、諌山創も、あなたたちが産み落とした時代の落とし子ですよ」とこれもチクっと刺しておいた。今は「エンターテイメントを見てエンターテイメントを作る時代」になっていて、クリエイターの多くがガンダムやウルトラマンを見てエンターテイメントを作り始める。庵野や諌山はその中で育ってきた類まれなる才能の持ち主たちである。学校教育しても簡単には天才を作れない。エンターテイメントからエンターテイメントを作る天才が生まれたことは非常に興味深い。その芽を握り潰そうとする富野由悠季の行為は腐敗した連邦軍の将校(オールドタイプ)そのものである。「ぶっ潰したい!」と宣言せずとも、ヱヴァはガンダムに負けている。市場では明確に勝敗が決している。アムロにもシャアにも勝てないと解っているから、碇シンジくんは悲劇の主人公をやらされている。宮崎駿にしても反体制主義を意識した発言をするのだが、自分がヒエラルキーのトップにいることを自覚してもらいたい。


という話を30周年の時にしたので、40周年では何か違う視点で話をした方が良いだろうな、と考えるのが私(ニュータイプ)なのです。今活動しているクリエイターに目を向けなければならない。いま制作されている最新の作品もできるだけ冷静に評価しなければならない。




ヒエラルキーのトップに君臨している名作の数々が固定観念とかしているので、最新作『機動戦士ガンダムNT』は正当な評価を受けることができなかった。映画『機動戦士ガンダムNT』の劇場上映が始まった当初には「福井晴敏の自慰的ガンダム」とバッシングされていた。批判が8割を占めていたことから、バンダイは急遽、冒頭の30分間をYouTubeで公開した。映画の評価コメントを見る前に、内容を見てくれ、という切実なメッセージだった。冒頭の30分間を見た限りではガンダムファンのリクエストに応える内容になっていることが解る。ファンサイトで語られている要望を凝縮して作られているというのに、「これじゃない」と言い出すのがガンダムファンである。『機動戦士ガンダムUC』の頃から同じ兆候が見られる。槍玉に挙がるのは常に福井晴敏だった。ガンダムまとめサイトでの批判コメントを見ている内に福井晴敏の名前を覚えてしまった。『宇宙戦艦ヤマト2199』と『宇宙戦艦ヤマト2202』も福井晴敏が脚本を手掛けていて、ヤマトファンからも同様のバッシングを受けている。ガンダムファンも、ヤマトファンも、すっかりオールドタイプと化している。どちらのファンも旧作を美化しているところがある。制作した当事者たちは「やりきれなかった」思いでいるというのに、ファンはあれが良かったと言ってしまう。テレビアニメ『機動戦士ガンダム』も『宇宙戦艦ヤマト』も不完全な状態で世に出してしまった。『機動戦士ガンダム』は劇場版3部作で修正を試みた。『宇宙戦艦ヤマト』はリメイクで修正を試みた。


『新世紀エヴァンゲリオン』を庵野秀明自身の手でリメイクした『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』もエヴァファンからの猛烈なバッシングによって制作が頓挫した。エヴァファンの批判コメントを読んでみても旧作を理解できていない。理解できていないというのに旧作を良かったと言ってしまう。あれだけ盛大にやらかしてしまっているというのにテレビ版をファンは支持する。最終話では絵コンテどころか脚本をそのまま映すという前代未聞の未完成作品だというのに。エヴァファンが何を支持しているのか解らない。元から碇シンジくんが英雄になる物語ではない。そこも読み取れていない。ヒエラルキーの上位に位置している作品なのでヱヴァファンの数もそれなりに多い。未だに『残酷な天使のテーゼ』はカラオケの上位にランクインしている。20年以上も『残酷な天使のテーゼ』がカラオケの上位にランクインするとは誰も想像していなかった。それ故にファンのバッシングは凄まじいものがある。新作が見たい、続きが見たい、と要望する癖に「これじゃない」と言い出す。中にはリメイクに失敗している作品もあるが、ヱヴァに関してはリメイクに失敗していない。旧作は『人類補完計画』を正しく理解していない人達の物語で、リメイクは『人類補完計画』を正しく理解している人達の物語として描いている。旧劇場版上映後、エヴァファンが「結局、人類補完計画とは何だったんだ?」と言い出したので、人類補完計画が破滅的な行為であることを新劇場版では説明している。リメイク版ではファンの問いに対するレスポンスが組み込まれたものが多い。


ファンのリクエストを取り入れてもバッシングされる。ファンの疑問に答えてもバッシングされる。そんな理不尽な人間を大量に増やしたことに対する見解をヒエラルキーのトップに君臨しているクリエイター諸君に聞いてみたい。『機動戦士ガンダムNT』に関する評価は私の方でガンオタどもにビームライフルを浴びせて少し流れを変えることに成功した。ニューガンダム一機でアクシズを押し返した。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』に関してはどうにもならない。『宇宙戦艦ヤマト2202』もどうにもならない。次から次に巨大な惑星が落ちて来るので私のニューガンダムのサイコフレームは燃え尽きた。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』を終わらせて、完全な新作を作れば良い。そのためには庵野秀明の手を早めさせないと。映像制作という観点では20年前からは格段に進歩している。完全新作のヱヴァをぶつけた時にファンは衝撃を受ける。いつまでも同じところで議論しているからファンは成長できない。


ヤマトファンが50代、ガンダムファンが40代、ヱヴァファンが30代、進撃ファンが20代、この4世代を相手にして私のニュータイプ能力は通用している。まず言えるのは、ヤマトファンにはオールドタイプが圧倒的に多い。下の世代に行けば行くほど、理解力は低下している。ヤマトファンは理解力はあっても固定観念を捨てきれない。進撃ファンは理解力が無さすぎて驚く。ヤマトも、ガンダムも、ヱヴァも、作りとしては未完成。時間や発想が追い付かなくて作り切れていない。進撃は意図的に余白を開けている。時間を十分に使って完成度を高めつつも、余白を設ける巧みさも見せている。エンタメの完成度としては『進撃の巨人』が群を抜いている。物語を誤読させる仕掛けふんだんに盛り込みつつ、衝撃的な展開が続く。何かと戦う点はどれも共通しているが、戦いに主観を置いている3作品と違い、進撃は世界を理解することに主観を置いている。巨人と戦うこと自体がフェイント。第1話から読者全員が騙されている。父親を食べて"進撃の巨人"の能力を取得したエレンの寿命は短くなっている。ミカサとラブコメさせないところも、ヤマトやガンダムやヱヴァを作ったエロオヤジたちとは一線を画している。ヤマトやガンダムやヱヴァにそこまでエロを求めてない。ヤマトが一番エロいのだが、50代や60代にもなって、森雪のエロエロ・コスチュームはきついだろう。上質なエンタメにはエロは不要。そこだけ見ても『進撃の巨人』は完成度が高い。変なところにエネルギーを費やすから頭の中が呆けてしまう。




『進撃の巨人』の主人公エレン・イェーガーは全く違った主人公のモデルを作っている。世界を理解してしまうことの残酷さを体験する。先に全世界を理解した人間である私が言ってしまうと、これから生まれてくる人類は否が応なしに現実として世界を理解させられてしまう。無知であるが故に宗教に洗脳されてきた人々も、現実の世界を知った人々の手によって、妄想の世界から現実の世界に引きずり出されていく。キリスト教が終焉を迎え、仏教が終焉を迎え、イスラム教も強制的に終焉を迎える。知性が高い者たちから順番に現実の世界を知ることになるのでキリスト教が最初に終焉を迎える。ユダヤ教はもともと宗教思想ではない。ユダヤ人は既に現実の世界で人類が何をしてきたかを調べ始めている。キリスト教徒も次第に現実の世界を調べ始めている。人類の精神性に進展が見られるのでエンタメも現実感の無いものは受け難くなる。『進撃の巨人』はまだまだ人気が持続する。これからが本編と言っても過言ではない。ここで中断するなよ、とNHKには言いたくなった。


世界的に見ると、人間の精神性が変わってきたので、いつまでも妄想やハッタリが通用すると思うなよ。





平成狸合戦ぽんぽこ

平成の終わりに映画『平成狸合戦ぽんぽこ』が放送された。高畑勲の代表作。多摩ニュータウンの開発に触発されて狸の視点から・・・・・・と生前の高畑勲は制作意図を語っていたが、あれはどう見ても狸の視点ではなく人間の視点で描かれている。敢えて「狸」を持ち出したのは政治的イザコザを避けるためで、スポンサーの手前、社会を刺激し過ぎないよう建前の道理を提示したのだろう。社会に対して何かを訴えかけるときには建前も必要になる。後になって、本当に伝えたかったことはこれなんだろうなと作家の本心に気づかされる。高畑勲に関しては特にそういうものを強く感じさせられる。


多摩ニュータウンに限らず、1970年代の開発計画で日本全国の都市部でニュータウンが建設された。地方から出てきた人々が市営住宅に移り住み、一時期は街に人が増えて賑わいだりもしたが、今はその全てが高齢化地区と化していて次第に住人が減っている。乱立された市営住宅も軒並み築40年を過ぎており、建物自体の高齢化を危惧して新たな入居者が増えず、僅かに住む住人は遠出の出来ない年寄りだけに、役所の要請を受けたスーパーが赤字を垂れ流しながらライフラインの維持に努めている。無謀かつ急激な都市開発の挙句に待ち受けるゴーストタウンを目の当たりにしていると色々と反省することがある。


『平成狸合戦ぽんぽこ』の舞台となっている多摩ニュータウンと同じ様な光景はどこにでもある。それ故に多くの共感を得られる内容になっている。都市開発に反対する狸や流れに委ねようとする狸の姿に、かつて周囲にいた人々の姿を思い出して号泣する人もいるだろう。最後の最後に狸たちが腹いせと称して多摩ニュータウンを数十年前の光景に化けさせる。山里の喉かな光景に郷里を思い出さずにはいられない。若い狸たちが「あれは僕たちの子供の頃の姿だ」と走り出した途端、多摩ニュータウンの光景に戻る。あのシーンは一番グッとくる。今から10年後に見るときは号泣している自分を想像できる。




そして都会の喧騒に馴染んでいく狸たち。めげずに楽しもうとする姿は残酷なまでに日本国民そのものだ。『火垂るの墓』よりも『平成狸合戦ぽんぽこ』の方が心に楔を打ち込まれた気分にさせられる。『火垂るの墓』は清太の自己満足で個人が破滅する物語に過ぎないが、『平成狸合戦ぽんぽこ』は町と人々の葛藤の末に起こる悲喜こもごもの物語なので成否の判断がつかない。今だからこそ、急激な都市開発は危険な行為だと言い切れるが、その当時の人々には待ち受ける未来の光景など何も見えていないのだから、余計に反省させられる。かといって、何も手を打たずに経済を鈍化させる訳にもいかず、何かをしては成功と失敗を繰り返しながら、人は少しでも賢くなっていくしかない。そういう意味で『平成狸合戦ぽんぽこ』を見るたびに複雑な心情に駆られる。『火垂るの墓』を見ても、自分はここまで酷くない、と言い切る自信があるので、清太に対して腹立たしく思うことはあっても、物語を残酷だとか思いはしない。宮崎駿の『となりのトトロ』を見ても郷里を思い出すことはない。『平成狸合戦ぽんぽこ』を見た時にこそ強烈なフラッシュバックが起きる。ニュータウン開発を目の当たりにしてきた世代は、やがて『平成狸合戦ぽんぽこ』を見るたびに号泣するだろう。



今は今でインバウンド需要だと騒いでいる。観光客が集中する場所ではホテルや旅館の乱立が見られる。観光立国を政策として打ち出した世界各地の都市で尽く失敗が見られるように、日本もまた数年後には問題を抱えてインバウンドは失敗だったと言い出すかもしれない。根本的な問題が見えていないから何をしても長続きしない。日本政府の打ち出す経済政策からは何も反省の色が見えない。常識を欠いた失言で野党議員に叩かれる与党議員も後を絶たない。次第に人は「賢い者」と「呆け者」とに分かれていく。「賢い者」はどんどん賢くなっていき「呆け者」はどんどん幼稚になっていく。政治家によるセクハラだのパワハラだのそんなことが起こるのも人間的に成長していない証。




『じゃりン子チエ』といい、高畑勲が作る作品には日本の原風景が鮮明に描かれている。自然が美しいという事だけが日本の原風景ではない。ロマンチストの宮崎駿には作れないタイプの作品になっているところも高畑勲のプライドかもしれない。『平成狸合戦ぽんぽこ』には『千と千尋の神隠し』に通じる要素がある。それは社会に適合するという部分。『もののけ姫』のキャッチコピーに「生きろ」とあったが、それは『平成狸合戦ぽんぽこ』と『千と千尋の神隠し』にこそ当てはまるものだ。





麻雀放浪記 2020

2019年4月5日に劇場公開を予定している『麻雀放浪記 2020 (制作:シネバザール) 』について配給会社の東映が公開に踏み切ることを発表した。同作には麻薬取締法違反で逮捕されたピエール瀧が主演していることから公開を危ぶむ声が出ていた。劇中には麻薬のヒロポンを扱うシーンもあることから公開できないのではと目されていた。映画公式サイトのトップページには劇場公開に踏み切る動機が綴られている。


主演俳優が麻薬を使用していたとして「作品には罪は無い」という論調を主に業界関係者が主張している。芸能人に限らず、日本国内で麻薬取締法違反で逮捕された人物には別の容疑も掛けられる。それは暴力団員ではないか?との疑惑である。一般市民には麻薬が何処で取引されているかなどの情報は入手できないことから、麻薬シンジケート(朝鮮総連/暴力団/カルト宗教団体など)の情報筋との接点が疑われる。もしくは組織のメンバーではないかと見なされる。


過去に同違反で逮捕された勝新太郎には暴力団との懇意の付き合いも発覚している。暴力団との懇意の付き合いのある人物を一般人と見なすことができるのかといえばできない。暴力団の指示で何か働けばその時点で暴力団関係者と見なされる。コカインは北朝鮮と韓国の政府資金源と見なされていて、関係組織が中東やアフリカで密造してフィリピン/マレーシア/日本に持ち込んで法外な値段で取引している。バックが北朝鮮と韓国の政府筋であるが故に、暴力団といえども、おいそれとは情報を明かさない。そのため、一般市民に麻薬は広まっていない。


有り得るのは朝鮮カルト宗教に入信している信者だ。朝鮮カルト宗教では信者に破壊工作を指示している。工作活動に成功した信者に対しては報酬が支払われる。社会的地位や美女を貰うなどの報酬の他に麻薬も報酬として手渡される。ピエール瀧は10代の頃から麻薬を始めていて、おそらくは創価学会信者で工作活動の報酬として麻薬を受け取り、麻薬がやめられなくなって自ら購入するようになったと思われる。破壊工作活動するにしても何かしらの目的がなければ工作活動は成立しない。そのため、報酬として麻薬を常に入手できるわけでもない。その場合、麻薬付けの信者は自腹で購入するようになる。山口組を傘下に持つ創価学会は組織で麻薬を扱っている事から取引所を紹介する。あとは売人から直接買ってくれと言われる。


創価学会信者の全てがジャンキーではない。麻薬や女(必要以上に性欲を貪らない)には一切興味の無い信者もいて、より狡猾に社会活動している。そのような信者は麻薬に溺れた信者をアホと見なしている。個人的に麻薬で身を亡ぼすだけならまだしも、ピエール瀧のように麻薬取締官に逮捕された場合は、組織の実態が警察にバレないか戦々恐々とする。警察内部に潜伏している創価学会信者が動いて組織に辿り着けないよう攪乱する。情報隠蔽工作に大勢の創価学会信者が動くことに成り、その信者たちの身も危険に曝すことから、「アホが余計な仕事を増やしやがって」と組織内で不満が溜まる。ピエール瀧は無事に釈放されることはなく、警察内部に潜む創価学会信者の炙り出しに使う。




そんな大事になっているというのに配給会社の東映が「作品に罪は無い」と言い出した。芸能界にも創価学会信者が大勢いるので情報操作や印象操作が行われている。その種の情報をあたかも世論や民意と勘違いしているというのであれば東映には情報リテラシーが無い。情報は発信者が誰であるかを吟味しなければならない。創価学会信者はピエール瀧が口を割ると大変なので組織的に擁護する。そういう動き(発言)が起きるのでAI解析でメディアというメディアを監視している。誰が「作品に罪は無い」と言い出したか監視している。テレビや新聞で流れた情報はSNSなどに転載されて活字として残っている。膨大な量の活字の中から「作品に罪は無い」という文字列だけを抽出して発言者を割り出す。そういう監視社会に切り替わっているので組織から命令されても応じるなと信者に「動くな」という指示をこちらから出しておいた。北朝鮮と韓国が国際的に問題視されていて、麻薬シンジケートの片棒を担いでいるマレーシアにも調査が入っている。朝鮮筋にはまだ情報は行ってないはずだ。創価学会の海外支部にも調査が入っている。


東映は海外事業も展開しているのだから、いま国際社会で何が問題になっているかを把握しておく必要がある。「日本国内でこんな声が出ている」などと寝惚けたことを言っている場合ではない。日本国内のメディアが異常なものだと外国政府にも認識されていて、日本国内のメディアというメディアがAI解析のターゲットになっている。テレビ局の看板アナウンサーも複数が工作員と見なされている。そこまで酷い状況になっている。WHOは再び日本政府に「自殺者が異常なほど多い」と警告した。これで25年前から4度目の警告になる。北朝鮮と韓国に殺されていることも私の方から国連に通達しておいた。日本政府は情報分析機関を設立していないためテロなどの解析が何も進んでいない。国際機関がそこまで問題視していることぐらい、海外で一般人を雇用していれば情報が入ってくるはずだ。北朝鮮が核実験を繰り返すようになってからは国際的に危険視するようになった。北朝鮮や韓国に関する情報が政府関係者の間で広まっている。さらに一般市民への注意喚起も行われている。自国で買収されている奴はいないかと監視の目も強まった。


ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)のCMに創価学会の性奴隷である石原さとみが起用されている。USJは買収されてからはCMに創価学会信者のタレントだけを起用している。そのことからUSJは創価学会の経営と見なされている。その結果、ゴールドマンサックス証券は国際的に信用を失った。映画やテレビ番組でも創価学会信者を出演させているが、映画制作会社や番組スポンサーは創価学会関係企業と見なされて社会的信用を失っている。日本のテレビ番組には創価学会信者が頻繁に出て来ることから海外企業はスポンサーを降りている。国際的に信用を失いかねないからだ。来年開催を予定している東京オリンピックの聖火アンバサダーに石原さとみが起用されたことを受けて、五輪ゴールドスポンサー経営者らが混乱している。東京オリンピックも朝鮮人に汚染されていることを知り、深刻な状況であることが国際的に周知されている。もはや東京オリンピックは印象の悪化に歯止めが利かなくなった。「日本選手団の中にどれだけ朝鮮人がいるんだ?」とそんな視線が向けられる。


韓国と北朝鮮の両国は国際社会に復帰できない。両国と密接なつながりを持つマレーシア/ナイジェリア/イランといった国に対しても制裁を準備している。東京オリンピックに対しても制裁を準備している。お祭り気分どころではない。いま日本社会に東京オリンピックの開催を待ち望む気運が一切漂っていないのも国際社会で波乱が起きているからだ。その爆心地とも言えるのが朝鮮とロシアである。さらに中国の悪影響も深刻化している。即刻にビザの発給を停止して国内経済を立て直さないとギリシャもスイスもイタリアもスペインも消滅してしまう。東欧や北欧よりもヨーロッパの中心部に位置して歴史的にも影響が強い国々が中国のターゲットになっている。世界同時多発テロの前に各国政府関係者も対応し切れていない。ここまで酷い状況に成っていることに気づけないでいたのは、過去の政治家や企業経営者が正確な情報を入手する術を持っていなかったからだ。急ピッチでビッグデータとAI解析の概要を伝えて各国独自に調査を進めさせている。




まさかとは思うが、そんなことも未だに知らないでいる企業経営者はいないだろうな?メディアの嘘の情報は「嘘の情報」という視点でのみ分析する価値があって、基本的には正確な情報を入手する術を備えていなければならない。悪い情報だけはまだまだある。2年前に北朝鮮と韓国の両国政府が仮想通貨を流通させようと軍部主導で国際社会に嘘の情報を流していたことが発覚している。情報が拡散されはじめた当時にも中国系/朝鮮系の情報工作だと指摘しておいたが、「仮想通貨」をキーワードとしてAI解析が進められた結果、韓国人が情報の最大の発信者であることも判明している。AI解析が学習した結果、従来の警察機関よりもテロリストの判定がシビアになっている。韓国はグレーゾーンと言っていたが、そんな時代ではなくなっている。国際的に韓国を監視する風潮が強まっているのもAI解析で次々と悪事が判明しているからである。まさかとは思うが、そんなことも未だに知らないでいる企業経営者はいないだろうな?日本政府の情報はアテにするなよ。私が外れた時点で日本政府に入ってくる情報のレベルは落ちている。


無知な人間が企業広告に創価学会信者のタレントを起用した場合でもAIは容赦せずにテロリストとしてリストアップする。人間はどの国の人種で、どのような組織に所属しているかを国際データとして共有することになる。これまでは誰もデータベースを考えていなかったが、今は人類そのものをデータベースに登録するところまで来ている。人種の判定には遺伝子解析を用いる。これにも別の理由がある。現代社会には遺伝子組み換えした人間は存在しない。しかし、今後は北朝鮮やロシアや中国で遺伝子組み換えによるデザインベビーが密造されると警戒している。デザインベビーが密造されたかどうかを判定するには既存の人類の遺伝子をデータベースに登録しておく必要がある。世界中で遺伝子調査が始まったこともデザインベビーを警戒しているからなのだが、すでにロシアや北朝鮮が実験している可能性がある。






「たかが映画です。娯楽です。お金を払う人の判断に委ねたい。」などと言う前に企業イメージを考えて行動するに。創価学会信者を映画に主演させるとそれだけで企業イメージは悪化する。さらにはその信者が重度の麻薬中毒だったとなると計り知れないダメージになる。日本国内でイチ芸能人が犯した罪ではあるが、情報はインターネットを経由して世界に伝わり、さらにはAIによるキーワード解析に引っ掛かって、朝鮮麻薬シンジケートと繋がりを持つ人物としてリストに記録される。ピエール瀧の個人情報には一生消すことのできない「朝鮮麻薬シンジケート」というキーワードが付随する。従来は日本国内だけに留まっていた情報が国際社会で共有される。米ディズニー本社の経営幹部にも厳しい叱責を浴びせておいた。日本国内で事業をする場合にマフィアのメンバーを極的に起用していたからだ。アメリカ政府にもディズニーがマフィアに資金援助していることが通達されている。



「たかが映画」では許されない社会になってきたことを企業経営者には自覚するよう促しておく。メディアを通じて麻薬中毒を肯定する発言をした者達も記録が取られていることを意識して発言するよう促しておく。その記録は個人情報として国際社会で保管される。日本社会では別に何も変わっていないと思っていたら大間違いだ。私が共産主義を全面的に否定するのも、日本社会が共産主義の影響下にあって、大勢の人間が無知でいることにアメリカやイギリスが気付いていたからだ。しかも、私まで共産主義の影響を受けているのではないかとチェックしてきた。心外にもほどがある。共産主義や朝鮮系テロリストが跋扈する日本社会でテロの実態を解明するべく昭和天皇から勅命を受けたというのに。他の皇族と一緒にしないでもらいたい。逆に、私の指摘を否定している輩がいればテロリストだと外国政府には通達しておいた。AI解析が本格的に始まると自分の発言が命取りに成りかねない。明言すべきことは明言しなければならない。企業経営者にも赤なのか青なのか踏み絵をどんどん踏ませるので期待して欲しい。




ロシアに対しては「創価学会信者を始末しろ」と命じておいた。
アメリカに対しては「北朝鮮筋との関係を全て終了しろ」と命じておいた。
日本に対しては「韓国に対して制裁を実行しろ」と命じておいた。


それぞれが与えられた宿題を済ませるまで国際社会での影響力を断ち切っておく。
企業に対しても明確な指示を出さなければならないなら出すことにする。できるだけ、自主的に勉強してもらいたい。経団連も何から何まで手取り足取り教わっていては面白くないだろう。





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