スタジオジブリの高畑勲監督作『火垂るの墓』を視聴した人々の間で、主人公清太と親戚の叔母さんのどちらが悪いのかと議論になることがある。1988年公開から彼是、30年以上に渡って論争が繰り広げられている。公開当時は幼い兄妹が不幸な死を遂げたことが際たち、清太と節子を追い出した親戚の叔母さんがA級戦犯扱いされていた。論争に加わる人間が増えるにつれて、次第に清太の性格の悪さも指摘されるようになったことから、叔母さんはB級戦犯に格下げされた。『火垂るの墓』が投じた波紋が今も尚、広がりを見せていることから高畑勲の狙いは思惑通りの効果をもたらしている。
私のホームページの掲示板でも1度だけ『火垂るの墓』について議論したことがある。そこは東大派閥に名を知られる私なので高畑勲の耳にも入っていて「清太くんは性格が悪いでしょ?」とかなり突っ込んで議論した。映画はJR神戸線三ノ宮駅の構内で清太が死亡するシーンから始まる。直後に画面が赤み掛かって草原から清太が立ち上がって死んだ自分を見つめている。清太は怨霊と化していて成仏できずに自分自身を恨んでいる。そして節子の霊も清太の怨霊に引きずられて浮遊霊と化している。なぜ、清太は自分自身を恨み、怨霊と化しているのか、という説明が映画本編で語られていく。
映画全編に渡って清太の心情は背景でのみ語られている。冒頭の赤み掛かった背景演出は清太が自分の行為を恨んでいることを表している。時折、本編でも背景が赤くなって過去の自分を見つめる清太の怨霊が現れる。清太が死して怨霊になってまでも自分の行為を恨むのは自分の性格(人格)の酷さを悔いているからであり、妹を死なせてしまったことも自分の責任だと悟っている。生前の清太の心情が最もわかりやすいシーンが、節子を背負って叔母さんの家を出ていくシーンにある。蛇の目傘を買って歌を歌いながら防空壕に向かう。このシーンで雨が降っているのは、これから節子の面倒を1人で見なければならないことに対する「気が重い」という清太の心情を表している。節子が死ぬシーンではようやく肩の荷を下ろせることから快晴の空が描かれている。清太の表情もスッキリしている。「やれるだけのことはやったんだから仕方がないだろ」ってことを自己弁護しながら節子を荼毘に付している。田んぼで農作物を盗んで食べているシーンも快晴の空が描かれている。清太は1人で盗み食いしていることを心から楽しんでいる。これを高畑勲に突っ込むと、「こういう見方をしてくれる人がいてくれたのか」という旨の返事をいただいた。
これが高畑勲が用いる文学的表現の1つで登場人物の心情を台詞にはせずに情景で描いてみせる。大正時代の文学を読むとやはり登場人物の心情を情景で表現している事が多い。登場人物の心情をいかにして伝えるかは安土桃山時代の人形浄瑠璃に起源がある。そこは自分で勉強してもらうとして、エンターテイメントの設計技法が解っていると高畑勲作品は読み解きやすい。細かいギミックなども含めて、清太が如何に卑しい人間なのかを88分間見せつける内容になっている。原作者の野坂昭如は似たような体験をしているが、妹とは血の繋がりもなく、戦時中に疎開していた親戚の家では従姉に恋してしまい、妹の面倒は見ていなかった。そのことをあまり後悔してもいない。そんな野坂昭如に突きつける意味でも清太を怨霊として登場させている。映画の清太はいつまでも成仏できない。永遠と自分の過ちを見つめている。映画『火垂るの墓』を見た人々が野坂昭如の実体験と勘違いして野坂昭如にたくさんの手紙を送った。「自分はそんなできた人間ではない」と弁明している。
戦時中や戦後の混乱期に、似たような境遇に置かれていた人は大勢いるだろうから、自分たちの経験に照らし合わせて『火垂るの墓』を見てしまう。現実には妹思いのお兄さんもいらっしゃるので、兄に助けてもらったと感謝している女性もいるだろう。そのような女性がいることも踏まえて、表面上では清太が妹思いであるかのような台詞回しにしている。「節子のことが重石(肩の荷)だったんだ」と言ってしまうと傷つく人がいる。現在進行形でお兄さんに面倒を見てもらっている人は間違いなく傷つく。文学でも同じ事。読む人の中に傷つく人がいるかもしれないと踏まえた上で文言を選ばなければならない。文学は登場人物の仕草や台詞だけを追っていると心情は読み解けない。高畑勲が『火垂るの墓』について深く説明しない理由でもある。高畑勲の文学的表現は正しい使用例。
こういう話を高畑勲とするんだけど、やっぱり高畑勲はまともな東大生で頭がいい。どの作品を見ても台詞で説明していない。宮崎駿作品が絶大な支持を集め、高畑勲作品があまり興行的に成功しないのは、高畑勲が高度な事をやり過ぎていて理解者を得られていないからだ。昔の東大生は本当に頭が良いので、一般大衆の浅はかな生き方に辟易しているところがある。「おまえのレベルに合わせるつもりはない」を地で行くのが高畑勲。テレビアニメだと、スポンサーの顔色を窺って大衆娯楽に合わせていくけれど、映画では全くブレが無い。東大出身者と本気で対談すると必ず言われることがあって、「この小説読んでみてくれ」と頼まれる。「天才の頭脳でこの小説をどう分解するのか聞いてみたい」とか言い出して、文学や経済学の書籍を薦められた。
フィクションでも、ノンフィクションでも、それを見た人間・読む人間が何を感じるかを計算しながら物語を組み立てなければならない。今はカルト宗教信者や共産党員に代表される真正のキチガイがエンタメを作ってしまう時代で、キチガイの頭で組み立てられた物語に登場する人物はキチガイだらけになっている。ゲームのFFシリーズの歴代キャラクターの性格を設計している担当者は真性のキチガイ。人間の感性が培われていない。ハリウッド映画でも共産党員の脚本家が増えているからなのか、それっぽいのが出て来る。カリフォルニアに飛んでいかなくてもヤバい人間が増えていることぐらいは解る。
『火垂るの墓』について保守活動家の人達は、左翼運動に加わっていた高畑勲のことだから、戦争に負けて落ちぶれていく日本人の姿を描いているのだろう、と邪推する。端的に言えば、『火垂るの墓』は清太が自分の行為を悔いているだけの内容の道徳映画だ。
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