ある獣人傭兵の手記

35話

 …………  ……  当たり前のことかもしれないが、雨が降ろうが大雪の日だろうが、来る日も来る日もバカデカくって思い鉄の棒を振る訓練をしていた。  手のひらにできた血マメが潰れてボロボロになろうが、親方はそんなことお構いなしだった。  それが終わったら実戦だ。親方の剣の振りをどのようにしてさばいて、俺が拳を叩きこむか……もちろん親方は容赦しない。  目の動きから、足さばきから、腕の筋肉の盛り上がりから。全部をきっちり読んで俺を殴れ、と。当然小さかった俺には無茶な要求だった。何度も木刀でブッ叩かれ、日が暮れる頃には声すら出なかった。  一度や二度成功したくらいじゃ喜んでもくれなかった。それが確実となるまで。  毎朝日が昇る前から、とっぷりと暮れるまで。ずっと裏庭の練習場から出ることもなかった。  寝床と食堂と練習場と。そう、ここが俺の世界だった。  けれども俺は泣くことがなかった。  ああ、そっか……あの頃の俺は泣くということを知らなかったのかもしれない。  息が詰まって血が混じった反吐を吐いて、なんでこんな毎日なんだろうという疑問すら持たなくて。  ひたすら死ぬ寸前の毎日を生きて。  それでも俺は、この場所が、そして腹いっぱい食えるメシと親方が大好きだった。  だから、なんで、俺が…… 「結構ショックだったみてえだなラッシュ。けど俺は一切ウソなんかついてねえぞ。それだけは信じろ」  ウソってなんだ? 信じるってなんだ? 「んー。じゃ追い打ちってわけでもねえがもう一つ事実をプレゼントしてやるわ」  俺の後ろからジールのやめてという悲痛な声が聞こえる。  さらに後方からばしゃばしゃと駆けつけてくる足音が……ああ、恐らくアスティだな。やっと戻ってこれたか。  ああ、そうだ、おれ、なにしてたんだっけ。 「正しく言うとな、お前が殺したっていうよりか……お前は忌まわしい種族なんだ。そう、このチビと同様のな」  最後の最後までとっておいた身体の奥底の力が、どっと抜けてくるように感じられる……なんなんだ、一体どういう意味なんだ⁉  おれがいったいなにをしたっていうんだ? 「《黒狼》ですか……ラッシュさんって、もしや」  俺のもとによろよろとアスティがたどり着く。だけど今度はなんだ、黒狼ってまた……次から次へとワケの分からねえこと言うんじゃねえ。 「そう! なかなかに博学だなそこの兄ちゃん。まさにその通りだ。ラッシュはバカ犬なんかじゃねえ。狼なんだなこれが。しかしただの狼族じゃないんだよなぁ~これが」 「だとしても……ラッシュさんは尊敬できる、僕がずっと憧れていた戦士なんだ! 」  腰に下げていた剣を抜いて、アスティがゲイルの前へと躍り出た。 「無理! だめアスティ!」ティディの叫びが耳を打つ。 「ハァ…せっかく褒めてあげたっつーのにバカじゃねえの? ひょろい人間の分際で」  その言葉通り、アスティはゲイルの拳の一撃で簡単に弾き飛ばされた。  声の一つも出せずにその小さな身体は、赤く染まった水たまりの中にうつぶせに浮いていた。 「言えよ……さっさと残りを言えよゲイル……俺はいったいなんなんだよ。俺の存在とか、なぜ親方が死んだのか、全部言ってくれよ、包み隠さずによ」  アスティの最期の姿を横目にしながら、俺はようやく言葉が喉を通ることができた……だがもう、それ以上のことを、何もすることもできねえ。 「いいねえその顔、ラッシュがそんな絶望に満ちた顔するなんて生まれて初めてじゃねえのかな?」  ああ、そうだ、ここですべてを聞いて俺は終わるんだ。  大丈夫だ、もう何を聞いても怒らねえから。

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