夜がきた。 俺は珍しく久しぶりに食堂のテーブルでチビと一緒に横になった。仕事から帰ってきてすぐに泥のように寝たことを思い出しながら。 しかしそばにいるのは親方……でなくジャエスの親方。それにトガリが俺の左右で見守っている。俺がさっさと寝るのを。 当たり前だが、こんな状況で眠れるワケがない。 「……どうしても、ここで寝なきゃいけねえのか?」隣にいるチビもこんな状況でうつらうつらしている。ちょっとかわいそうだ。 「まあな、おめえの寝室は臭いわゴミ置き場みてえだわでちょっと……ありゃ無理だ」と言って親方は手にした小さい革袋の中から、茶色い固まりを取り出した。 「あ、そそそれもしかして!」その固まりを見てトガリは歓喜した「ご名答だメガネ、こいつはお前の故郷、アラハス産のお香だ」。 お香って確か金持ち連中が部屋の中とかで点けてる、俺たちの鼻にはちょっときつい匂いを放つやつか。 「これを焚くとな、催眠効果のほかに、夢の中でも意識と記憶を保てられるようになるらしいんだ。分かるなバカ犬。俺の言ってることが」 半分眠りながら俺は聞いていた。わかる。要は何としてでも謎の女の正体を確かめてこいってことだろ? そんなことを考えてるうちに、親方の香に火がともされ、それほどキツくない穏やかな香りが俺の周りを漂い始めた。 「なな懐かしいな、このお香……たしかこここれ一個で金貨20枚くらいの値段がしししたはず」 げっ、マジか。と思った瞬間、俺の意識は深く落ちた。 …………………………………………………………………………………………………………………………………………… 夢の中で相変わらず、俺は血の匂いのする泥水の中で倒れていた。背中には無数の矢が刺さり、痛みでもう意識すら朦朧としかけている。 そして、目の前にはあの白い爪先が。 ーさあ、立ち上がるのです。私にあなたの命の輝きを見せて! 耳……いや、頭の中に響く女性の強くて優しい声。 なぜだろう、この声を聞くと、ここであきらめちゃダメだ、って奮い立たされていくようだ。 「うっせえな……おきるよ、おきてたちあがりゃいいんだろ」まだ年端も行かない俺は、激しい痛みをこらえ、ゆっくりと立ち上がった。 沈むぬかるみの中をしっかりと両足で踏ん張り、泥だらけの俺はようやく立ち上がれた……が。 張り詰めた意識がそこで尽きかけようとしたとき、ふわりと、目の前にいた女が俺の身体を支えてくれたんだ。 それは、生まれてから今まで感じたことのない、どんなものにも例えることのできない、優しい風のような両腕。 そのままぐいっと、彼女に強く抱きしめられた。 こう言ってしまうとアレだが、ジールの身体よりも柔らかく、そして今まで嗅いだこともないような甘い花の香りがした。 ああ、意識がそのまま眠りについてしまいそうだ、なんて思ったが、あいにくここは夢の中だった。夢の中でさらに眠ってどうする。 でも、ほんと気持ちがよかった……これが女性っていうのか、なんて俺は思ったさ。 ーよく立ち上がってくれました。それでこそ……。 「それでこそ……?」俺は彼女に問いかけた、そう、彼女の……もしも狼聖母であれば、顔も見てみたいし。 ゆっくりと首を上げて、俺は彼女の顔を見た。 白く輝くような薄いベールの向こう側に見えた、その顔。 長い鼻面に黒くとがった鼻。頭の上には三角の耳。ああ、俺と同じ獣人だ。 そして……眉間から両目の間にかけて、深く刻まれた十字傷。 これか! これがルースの言ってた彼女の傷跡……狼聖母の証か! ーよく立ち上がってくれました。それでこそ私の子です。 え、俺が……あんたの子供⁉ 「なんなんだよ、こどもって。わけのわからないこというんじゃねえよ、いいからはなせってば!」 いつの間にか背中に受けていた矢の痛みは消えていた。 ーあなたの命の輝き、そして力と優しさ。ずっと私は求め、探し続けていました…… ディナレは俺の身体を地面におろした。 なんなんだこいつ、いきなり俺を抱きしめるわ、意味不明なことを言ってくるわで。 けど、周りにいたやつらと違って、この顔に傷のある女には、不思議と警戒心は沸いてこなかった。 それどころか、なにか……自分の心の奥底に、懐かしさと、それでいて感じたこともないような暖かさがにじみ出てくるようにも思えた。 親方という存在しか知らなかった自分にとって、初めて感じた柔らかく優しい声、そして抱きしめられたぬくもり。 「かあ……さん?」ふと、自分の口からそんな言葉が漏れ出た。 彼女は静かな笑みを浮かべ、こくりとうなづいた。 ーええ、何百年と続く私たちの意志を受け継ぐ子。それがあなたです。 そういえばそうだった。ディナレはこの時生きてりゃ、もう百歳は優に超えているはず。俺らは百歳以上生きてゆけるからとはいえ、いま目の前にいる彼女のような若い姿を保っていられるはずがねえし。 「おれをどうしたいんだ?」 俺は問いかけた。なぜ死にかけの俺を救ったのか、なぜ年齢すら全然違うのに、俺のことを子だなんていうのか。それに…… 意志って、いったい何なんだと。 そんなことを思っていると、彼女はひざまずき、泥まみれの俺の頬に両手をあてがった。 細く長い、ジールのようなすらりとした手の指。ああ、女性の指だ。 ーあと何年かしたら、あなたの元に様々な出会いと別れがあるでしょう。みんな、あなたを慕ってくる仲間たちです。その中であなたは…… 彼女は俺の鼻面に、軽く口づけをした。 突然の出来事に、一気に俺の胸はドキドキと早鐘を打ち始めた。爆発する寸前だ! 「な……⁉ ちょ!」暖かな吐息が俺の鼻や耳元へとかかる。全身が心臓にでもなったみたいだ。なんなんだよ一体! ー自分の使命に、少しづつ目覚めていくはずです。私が叶えられなかった思いに。 「おい、いってることがよくわからねえよ! つーかはなせよ!」抵抗したいが、ドキドキが治まらなくて力が出ない。 ーさあ、いまから私の思いを、あなたに捧げます。 その時だった。 鋭い刃で斬られるような、真っ赤に焼けた鉄を押し当てられたような。今まで体験したこともない激しい痛みが俺の全身を襲った。 全身を切り刻まれるかのような耐えきれない痛みが身体じゅうを駆け巡り、そしてそれは俺の鼻面へと一気に集中していった。 「ぎゃあああああああ!!! いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい!!!!」 俺は痛みに耐えきれず地面を転がりまわった。だけどその程度じゃこの激しい痛みは一向に消えなかった。 ーそれは私のしるし。私があの時負った痛みです。辛くても今は耐えるのです。 「いてえ! いてえ! いてえ! いてえええええ!!! ぢぐしょおおおおおおお!!!」 ーこの痛みが消えたとき、あなたはここで遭ったことをすべて忘れているでしょう。別の思い出に変わって。そう…… 彼女は白く輝く光になって、痛みに叫び、のたうち回る俺の前から姿を消した。 ーいつか、その日が来るまで。 …………………………………………………………………………………………………………………………………………… 「フィゼットの月の4日。あいつはいつにもなくフラフラになりながら帰ってきた。俺がどうしたのか尋ねると、『鼻を斬られちまった』と弱々しい声で一言。見てみると、やつの鼻面の上には十字の傷がついていた。おれが名誉の傷だなと笑って答えてると、こんな傷つけられて最悪だ。と、そのままふて寝してしまった。結局のところ、誰にこんなご丁寧な十字傷をつけられたのかは、全く記憶に残っていないとか言いやがる。確かにそうかも知れないな。戦っているときにそこまで気を回せられるもんじゃない。俺だって昔はそうだった。家に帰ってようやく腹に槍が刺さってることに気付いたことだってあったし。戦場で張り詰めた気が、記憶も痛みも全て忘れさせてしまうんだ。まあいい、明日にでも傷を癒しに温泉にでも連れて行ってやるか。確か近くの火山の……」 「と、こういうことだ。お前はあの時つけられた傷を全く思い出せずに記憶の奥底へ封印していたんだ」 静まり返った書斎で、ジャエス親方が一冊の日記を手にぽつりとつぶやいた。 「フィゼットの月の3日……その時にリオネングの騎士団を含む多くの残存兵が、白く光る服に身を包んだ女性を見たと記録に残ってる」 「それが、狼聖母ディナレの降臨……っすか」俺の傍らでは、トガリが驚きの顔で俺を見つめていた。 「ああ、そしてその翌日にお前はここに帰ってきて、ガンデ兄ィにそれを報告したんだ。けどディナレのことなんてもはや思い出せずに、誰かに鼻を斬られたってことでな。運よく兄ィがその日のことを記していた。これですべて納得がいく。つまり……」 親方は俺の鼻面の傷跡に手を置き、こう言った。 「おめえのそれは刀傷とかじゃねえ、いわゆる『聖痕』ってやつだ」 聖痕……初めて聞く名前だった。 「お前は狼聖母ディナレの加護を受けたんだ」 いつものことだが、カゴって何なんだかさっぱりだった。 「ンなことも知らねえのかバカ犬。つまり、えっと、神様の……」ほら見ろ、ジャエス親方も答えに困ってる。 「えっと、まま護られてるってことだよ。いいいいつでもディナレ様が側にいて、厄災から守ってくれるんだ」 トガリの野郎がそう言ってくれたのはいいが、あいにくと俺はこういう生き方してたから、身体だけは頑丈だし、ケガというケガなんて全くしたことなかった。矢が刺さってもメシをたくさん食って寝てれば半日で治っちまうし。 「ん。まあとにかくその夢見からして、おめえがディナレ様に選ばれたってことだけは確実ってことか。しかし……」 親方は天井をじっと見つめ、何か考えながらパイプの紫煙を吐き出した。 「ディナレの言ってた、その日っていうのは一体何なんだか……な」 親方は知らないけど、俺にはそれなりに心当たりがある。そう、マシャンバルのことだ。 しかしもっとも、この件は俺だけで済む話じゃない。国同士のことだ。俺は仕事が来たら敵対するやつを叩ッ斬るだけ。 あまり俺には関係のないことかもしれないな。そういうのはお城にいるお偉いさんだけでちゃちゃっと済ませてもらいたい。 「ところで……」そうだ、ちょっと気になってたことがあったんだ。 「俺がこの鼻に傷をつけられてからってものの、イマイチ嗅覚……っていうのかな、鼻の感覚が悪くなってきたんだが、それにも意味ってあるのか?」 「おめえが風呂嫌いで臭えからじゃねえのか? 元が臭けりゃ鼻だって参っちまうわ」 マジか……原因は俺そのものだったのか。 「でででもこれで、ラララッシュを悩ませている原因が分かったのはいいいいことじゃない? きっとこれでゆゆゆっくり眠れるって」 窓を見ると、朝日が昇りかけのところだった。そうだな。みんなには夜通し俺に付き合ってもらったんだよな…… そんなこんなで加護の意味もイマイチ分からぬまま、俺を毎夜悩ませてた悪夢は、これを機にぴたりと見なくなった。 ジャエス親方はというと「お前に興味がある」ってことで、親方の遺した日記やらメモを読みつぶしたい。だからここにしばらくの間居させてもらうぞとのこと。 最初ははた迷惑だったが、こうして見てみると、まるで親方の生きていた昔に戻った感じがして。俺はちょっとうれしかった。 チビの方もやっぱり同じ人間だからか、ジャエス親方に結構懐いてるみたいだし。なんかちょっぴりさみしい感じもするが、これでいいのかな……なんて。 町外れにある誰もいない公園で、俺はチビの遊びに付き合いながら、ジャエス親方の言ってたことをずっと考えていた。 「俺、もうこの町に居続ける意味がないのか……」なんて独り言を漏らしながら。 そうだよな、この前の戦いで感じた胸の高鳴りと高揚感、そして熱くなった身体。それが今の生活には一切存在しない。 このままここで年寄りになるまで生き続けるのは、結局俺自身の心を殺してしまうのかもしれない。 そうやって考えてみると、案外あの時ゲイルが言ってた生き方……別の国に行って新たな人生を選ぶってやり方も、一つの正解なのかもしれない。 だけど、こいつを……チビをこのまま置き去りにしちまってもいいのか? と俺のもう一つの心が問いかけてくる。 『お前はチビの親なんだろ? 以前孤児院へ連れて行ったときに泣き叫ばれたことをもう忘れたのか? 保護者ならばあの子が大きくなるまでここにいるべきじゃないのか?』と。 チビは芝生の上で飛んで逃げてゆくバッタを追いかけたり、時には俺の頭を踏み台代わりにして、高い木によじ登ったりと、ずっと楽しそうに遊んでいる。 そう、今は楽しい盛りだ。だけどこいつがあと何年かして、いろいろ自身で物事を考えられる年頃になってきたらと思うと……血の繋がりも一切ない、そして人間とも違う獣人の俺。チビはこんな存在をきちんと認めてくれるのだろうか? やはり、同じ人間であるジャエス親方夫婦のところへ預けたほうが…… ずっと座りっぱなしだった腰を伸ばして立ち上がると、公園の先の方に教会が見えた。そっか、ここの教会ってたしかディナレを奉っているんだったっけか。 なんて思い出しながら、俺はこの前の夢での一件を思い出しながら、フラリと惹かれるように協会の方へと足を向けた。チビの手を取りながら。 俺の背丈より大きな教会の扉の上には、手を合わせて祈りを捧げている狼聖母ディナレの石像があった。 だけどやっぱり彼女の顔そのものが見えない作りになっている。 肝心の顔……それはフードで隠されていて、彼女が獣人であることが分かる程度に細い鼻面がちょこんと見えるだけだ。 しかし俺は見たんだ。こいつの素顔を。 俺と同じ。いや、彼女が自分自身で刻んだ傷。それと同じ痕が俺の鼻面の上にも存在する。 「かあさん……か」ふとあの時に出た言葉。 不思議だよな。俺は生んだ親の顔も、ましてや親方に買われた時のこともほとんど覚えちゃいない。つまりは親そのものが記憶には存在しちゃいないんだ。だけどあのとき、ディナレの顔を見たときに口から出た母さんという言葉……分かってるさ。彼女が俺の本当の親じゃないっていうことは。 でも、ちょっとだけでも知ってみたい。俺の親ってどんな人だったのか。 「チビはかあさんに会ってみたいか?」そういえば、チビも俺と同じだったな。俺と初めて出会った時、もうお前の傍らには冷たくなった存在しかなかったし。つまりはあの死体も親かどうかだなんて全然わからないワケだ。 チビは小首をかしげたあと「おとうたんだけでいい!」だと。やっぱりこいつには俺が必要なのかな。いや俺だけがすべてなのかな。 チビも俺と一緒。親を知らずに育った仲なんだよな。つまりは…… 「探しに行くとしたら、チビ、お前も一緒に行くか」チビを抱き上げ、帰路へとつこうとした時だった。 「ミツケタ」 「⁉」どこからともなく、奇妙な、人とは思えない声が風に流れて聞こえてきた。 抑揚のない、無機質で低く消え入りそうな小さな声が。 周りを見渡しても、人気のない街並みと木々しか生えていない。俺とチビだけしかいない空間。 「ミツケタ……」「ミツケタ」「ミツケタ!」その声はだんだん数を増してくる。 「おいコラ姿をあらわせ! 俺の前に出てこい!」 俺の耳を働かせても、声の主たちはどこにいるのか全く見当がつかない。家の陰か、路地裏か、はたまた屋根や木の上か……俺はたまらず、見えない存在に向かって大きく声を張り上げけん制した。 「こわい……やだ」チビは小さく震え、俺の胸にしがみついていた。 小さな身体をぎゅっと抱きしめると、チビの恐怖感が俺の身体にも伝わってくるのが感じられる。わかる。チビにも聞こえるんだ。 そして、声はそれっきり途絶えてしまった。なんだったんだあれは…… 急いで俺とチビはこの場を後にした。足早に、振り向かずに。 俺は一生懸命考えた。ミツケタ……って声、あれはいったいなにを見つけたんだ。俺のことか? ジャエス親方の言ってた加護とかなにかに秘密でもあるっていうのか。 まさかそれとも……チビのことか? いずれにせよ、俺たちは誰かに見られている、ワケの分からない奴らにあとをつけられているってことだ。 今まで感じたことのない、言い知れぬ恐怖を感じながら、俺とチビは帰路へとついた。 終わり
コメント投稿
スタンプ投稿
八百十三
いけお
理緒
ライトン
神谷将人
すべてのコメントを見る(5件)