ある獣人傭兵の手記

ジールの涙

7話

 家へと近づくにつれ、トマトの香りが俺の鼻をくすぐってきた。  しかも嗅覚が鈍い俺でも分かるくらい、大量のトマトを煮詰めている匂いだ。でもなんでこんなにたくさん…? 「おおお帰りラララッシュ」ドアを開けるやいなや、奥の台所からトガリが小走りでやってきた。  愛用のオーバーオール兼エプロンが、まるで返り血を浴びたかのように真っ赤に染まっている。いや、血じゃない。これはトマトの汁だって事はな。  俺はトガリにこの大量のトマトの使い道を尋ねようとしたんだが、先に話しかけてきたのはあいつの方だった。 「やややっぱりね、ぼぼ僕、こここうなるんじゃないかって思ってたんだ」  オイ待て、それって一体どういうことだ?俺は聞き返した。 「ラララッシュがね、チチチビちゃんと一緒に帰ってきちゃったってこと」  そんなことはねえ。俺はこいつさえ泣きわめかなけりゃ孤児院に預けてったぞ。そういい返した。でもトガリは笑みを浮かべながら、首を左右に振った。 「ううん、わわわかるんだ僕には。チチチビちゃんはラッシュを必要としているし、ラララッシュはチビちゃんを手放したくなかったんだ、ってね」  ンなことはねえ! といつも通り俺はトガリの頭をゴン! と一発殴った…  その時だった、足元にいたチビが、ゴン!と思いっきり俺の足先を踏んづけてきやがったんだ! 「いでえ!」と思わず俺は反射的に飛び上がっちまった。トガリも同様に驚いてる、メガネの奥の目をまん丸くしているし。 「とがりぶっちゃだめ!」  俺に向かって怒っているような…いや、今にも泣き出しそうな顔で、チビは俺の顔をキッと睨みつけていた。  ってオイ、なんでチビが口出すんだよ、トガリを殴るのはいつものことだ。別にお前を殴ったわけじゃないのに、なんでそこまでして怒るんだ? 「チチチチビちゃんにはわわわかるんだよ、やややっちゃいけないってことがね」トガリが自分の頭をさすりながら、もう片方の手でチビの肩に優しく手を置いた。  トガリは驚くくらい誰よりも長く鋭い手足の爪を持っているが、それ以上に驚くくらい誰よりも手先が器用だ。  この手で肉や野菜を包丁で切ったり、盛り付けたり、普通の指を持つ人と変わりがないんじゃって思えるくらい、この長く太く鋭い爪を駆使している。 「とがりー!」そんな長い爪に、チビは笑顔で頬をすり寄せてきた。一転して、笑顔で。 「ほほほらね、チチチビちゃんはいいことと悪いことがすすすぐに分かるんだよ」  そっかあ? 俺はトガリの頭を殴ることなんざ日常茶飯事だと常々思っている。別にトガリのやつも抵抗しないしな。  そうそう、こいつの頭はめちゃくちゃ硬い、岩石以上に硬い。正直殴っている俺の手のほうが痛いくらいだし。 「ララララッシュにはまだわからないと思うけどさ、おおお親の悪いことは絶対見逃すことがでででできないんだよ、チチチビちゃんはとってもいいいいい子なんだ」 「とがりだいすきー」チビのやつ、今度はトガリの方に懐きやがった。ふたりとも同じくらいの身長なんで、まるで兄弟のように見える。 「ぼぼぼくはきききっとチチチチビちゃんには友達のようにみみみ見えるんじゃないかな」と、トガリは言った。  どうなんだろうな、ルースに会わせてみたら、今度はどういう反応するんだか…  なんて考えているうちに、俺の腹がぐぐうと轟音を立ててきた。そうだ、チビと一緒に食ったリンゴだけじゃねえか、昼に食ったの…めちゃくちゃ腹減った。 「ところでトガリ、このすっげえトマトの匂いはなんだ?」とりあえず俺は例のトマトのことを尋ねてみた。 「そそそうそう、ララララッシュと入れ替わりでジールが来てね、おおおお仕事紹介してくれたんだ!」 「仕事?」 「ううううん、だだだだってさ、よよよ傭兵の仕事なんてもうここのところさっぱりじゃない? たたたしかに蓄えはあるけどさ、いいい一応これからのためにもててて手に職は持っていたほうがいいもん」  手に職…か、そっか、以前親方に話してたな。トガリは食堂開きたいって…だからなのか。 「こここここからちょっと離れたところにある酒場がね、今度からお昼に食堂をやることにななななったんだって。だだだからご飯作るの上手な人を募集してて、そそそれをジールが見つけてぼぼ僕に教えてくれたんだ、そそそそしたら仮採用ってことでさ、明日団体さんがくくく来ることになったから、まずはテストとして肉団子のトマトシチューを20人前作ってくれっていいい言ってきたんだ」  トガリはそう言って、俺専用の大きなスープ皿に、その肉団子シチューをこんもりと盛ってきた。 「さささあ、たた食べてみてよ」めったに見せない自信に満ちた顔で、トガリは俺に皿を差し出してきた。  チビは…というと、俺の半分にも見たない大きさの小皿に、ちょこんと同じシチューが盛ってある。 「だだ大丈夫だよ、チチチチビちゃん専用に肉団子は小さくしてあるから」  準備周到だなトガリは。  俺が一口目を口にする前に、チビのやつは昨日と同じように、皿を抱え込むようにがっつき始めていた。  相変わらず汚い食いっぷりだけど…まあ、いいか。 「いいいつかチビちゃんにもテーブルマナーを教えないとね、こここれじゃラッシュが人いるのと変わらないもん」  トガリのその一言に、俺はもう一発殴ろうかと思ったが、さっきのチビの逆襲のことを思い出してやめた。  今はまず、トガリの特製シチューを腹におさめるのが先だ 。  チビと二人でトガリの特製シチューを食っていると、ふと俺の背後から「よっ、どーだい調子は!」と、酒臭い息が抱き着いてきた。  一瞬俺は焦ったが、ああ、ジールだなこの声と感触はってすぐに察した。  いつもそう。どんな場所であろうとこいつは足音、爪の音ひとつ立てない。この仕事を続けていて、どんな気配や殺気だろうと逃さない俺ですら無理だ。  しかし今のジールはとんでもなく酒臭え。以前親方が言ってたっけ、こいつは底なしの酒飲みだって。いくら飲もうが顔色一つ変えやしねえし、ブッ倒れることもない。とどめに翌日も二日酔いにならずにピンピンしてやがる。筋金入りの酒豪だ…ってな。  親方も結構な酒飲みだったって話だが、こいつはさらに上をいく。まったく酒がダメな俺にいわせりゃ、ある意味誰よりも恐ろしい存在かも知れねえ。 「どうだったぁン? トガリぃ。今日の結果は?」今度は向かいの席に座っているトガリにベタベタと抱きつき始めた。 「ままままだかかか仮採用だけどね、でででもって明日テストするんだ、あああありがとうジール」 「やぁっぱりぃ~! らってトガリ最高のコックさんらもん、不採用にされたら、あたし怒鳴り込んでやるもんね~」  ろれつの回らない言葉と酒臭さに、当のトガリもうんざりとした顔になり始めている。  だけど、酒豪のこいつがなぜここまで飲んでいるんだか…相当な量じゃないのか? 俺はダメもとで思い切って訪ねてみた。 「ん~とね、いいこと半分、わるいコト半分。あ、でもね、ラッシュにはどーでもいいことよ、まああたいたちにしてみたら、にゃ」  相変わらず謎かけみたいな答えで返してきやがった。酔っぱらってんだからしょうがねえかな。  そしてジールの視線は、俺の隣にいるチビへと向けられた。  目を合わせ、寂しげにふう、とため息ひとつ。 「そっかぁ…やっぱダメだったか…まあでも大丈夫か、なんてったって…」ジールはチビを抱き上げ、その小さな身体をギュッと、自分の胸にうずめた。 「ラッシュがこれから一人前のおとーちゃんになるんだからねー! だからチビもこのバカ犬を見習って立派な大人になるんだぞ!」ジールの柔らかな抱擁に、チビは心なしか喜んでいるように見える。うん、やっぱりそうだ、よく見ると口元がにやけているし。 「ん~、じゃあ新しい仲間が加わったことだしさ、入団式、しよっか?」チビを抱きしめたまま、ジールはけたけた笑いながら言った。 「ににに入団式!?」 「そう、トガリもここ来た時やったでしょ、おやっさんと」ジールは手のひらをトガリに向け、ハイタッチを仕掛けてきた。  …って違うだろ。親方はそんなことしなかったぞ、トガリも戸惑ってる。 「ジジジジール、こここれ違うんじゃなかったっけ。こここれはたたただのハイタッ…」 「そうらったっけ~? 昔のことだからすっかり忘れちゃった~にゃははは」  と言うや否や、今度はテーブルにドン! と突っ伏していきなり爆睡を始めた。なんなんだこいつは。  ジールの胸に潰される寸前だったチビを救出し、とりあえず俺はこの泥酔ネコを寝室へと連れていくことにした。  やれやれ。もっとシチュー食いたかったのにな…こいつのおかげですべてぶち壊しだ。  変な表現かも知れないが、ジールの身体は「軽いけど重い」。身軽なんだけど、重いんだ。  なぜかというと、こいつが着ている服の中には何十本もの投げナイフや、小さなボウガンが隠されている。それを着たまま、普段の生活はもちろん、隠密行動の仕事もできるんだから大したもんだ。  そんな重くて軽いジールを両手で抱き、俺は二階にある個室へと足を運んだ。  さっきのはしゃぎようと打って変わって、小さな寝息をすうすうと立てている。  …こっちも悪酔いしちまうんじゃないかって思えるくらいの酒臭さだけどな。  まっすぐな廊下を突き進んだところに、来客用の個室がある。ジールは俺らのギルドに属してはいるが、基本的にここでは寝泊まりしない。 「嫌だって、こんな男臭い部屋に居つくなんて」と言うのがあいつの言い分だ。  だからいつも別の場所に宿泊しているらしい。それがどこなのかは誰も聞いたことがねえけど。  ただ、この部屋なら来客用だし、毎朝トガリがきちんと掃除とベッドメイキングをしてくれている。ジールも文句は言わないだろう。  大きな木製のドアをそっと開けようとした、その時だった。 「ウェンダ…」  ジールの薄い唇が、かすかに動いた。俺の知っている名前じゃない、誰か別の仲間のことか? 「ウェンダ…あたし、間違ってないよね…」ジールの瞳は閉じたまま。そう、こいつは寝言言ってるんだ。 「こんなあたしでも、嫌いになったりしない…よね?」ふと、ジールの目から一筋の小さな涙がこぼれ落ちた。  ジールの涙……無論、俺は初めて見た。  昨晩親方のことを思い出して涙を見せちまった俺だけど、こいつにも泣いてしまうくらいの思いを馳せている相手がいるのか。そいつの名前がウェンダっていうのかな。心の奥で俺は考えながら、ジールの涙を、俺はそっと指で拾い上げた。  そしてあの夜、俺の流した涙をジールが舐めてくれたみたいに、自分もその涙を…あいつの涙を、ぺろっと口に含んでみた。  つい、好奇心に駆られちまって。  …甘い。そんな気がした。  涙の粒は口の中ですっと消えた。  そのほんのちょっとの瞬間、蜂蜜の甘さのような、砂糖の甘さのような…なんとも言えない甘さの感覚が、舌ではなく、俺の胸、いや心の中にほんのり残って、だけどそれもまたすぐに消えてしまった。  奇妙な気持ちを抱えつつ、俺は静かにジールをベッドへと寝かせた。  彼女の寝姿を今一度確認してみる。うん、やっぱ起きてるはずねえよな、って。そうして俺は静かにドアを閉めた。 「女の涙…か」ふと、俺の口から意識もしなかった言葉が漏れ出て、そして暗がりの中へと消えていった。

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