こうした自然な営みを言語化した「負の性欲」について、「『性欲』などという(汚らわしい)ことばを使うな」という女性からの怒りの申し立ては、逆にいえば「私は性欲や本能などではなく、あくまで社会的正当性や理性に基づいて男性を評価している(望まない男から向けられる性欲は「加害」であり、これを退けるのは当然の権利だ。けっして性欲ではないし、負[BAD]ではない)」と主張するものだ。
こうした反応には「理性は善であり、欲望や感情(この場合は性欲)は悪である」という前提が強く内面化されていることがうかがえる。だが残念ながら、理性は感情と切り離せるものではなく、むしろしばしば瞬時に沸き起こった感情をあとから説明したり、その感情に正当性(「これは私憤ではなく公憤である」などと主張すること)を付与するために援用される。
女性が劣った男性たちを遠ざけようとする「負の性欲」と、それによる一部のアルファ男性の独占状況に対して、人類はひたすら無為無策だったというわけではない。寡占的にアルファが生殖権を有する社会(強固な一夫多妻制のコミュニティ)は淘汰されてきた。そうしたコミュニティは中長期的には存続しえなかったのである。
というのも、強固な一夫多妻制を指向する集団においては、全てを勝ち取る「男の中の男」の座をめぐって争いが絶えず、また「男の中の男競争」に敗れた男たちにとっては、コミュニティの存続や安定化に協力するようなインセンティブに欠けるからだ。所属する男たちに、それなりに「うまみ」がある方(一夫一婦制に近い方)が社会は強固になり、一夫多妻的グループより優位に立ったのだった。
なるべく多くの人に平等に生殖の機会を与える別のコミュニティとの衝突において、「男の中の男」が支配するコミュニティは敗れ去ってきた。(いまもアフリカ諸国やイスラム教国の一部に一夫多妻を認める国はあるものの)人間社会は概ね、「ゆるやかな一夫一婦制」へと収斂していくこととなった。
お見合い結婚が一般的で、子どもの結婚相手が親たちによって選ばれ制限されていた時代──それは自由のない社会であるともいえるが、同時に「負の性欲」の発露の上限がある程度抑制され(結果的に社会の秩序を保つことに寄与し)ていた時代であったのかもしれない。