事情や心情はどのようなものであれ、異性に「生理的嫌悪感」を内心で抱くぶんには自由である。しかしそこを踏み越えて「キモい」「消えろ」「ゴキブリ」「ウイルス」などと対象に言明することは侮辱・侮蔑であり、まぎれもなく加害性のともなう行為である。
しかしながら、こうした「生理的嫌悪感に基づく言明」の加害性は、長らくにわたって不問に付されてきた。それどころか、これらはむしろ「生理的嫌悪感を抱かせる存在(「キモい」男性)こそが害悪の源であり、女性は被害者なのだ」と擁護されてすらいたのだ。
長きにわたって免罪されてきた女性の「生理的嫌悪感」に基づく言明の加害性に光を当て、またこれを批判する試みとしての機能を持っていた点において、「負の性欲」という概念には画期性があったのだろう。
同時にこれは、これまで男性の言動の加害性だけが抽出されては「有害な男らしさを卒業しろ」「マンスプレイニング」「すべてのセックスはレイプである」などとフレーズ化され批判されてきた私たちの社会において、「男性に対する女性の加害性」を議論の俎上に載せようとする、事実上はじめての試みであるとも評価できるだろう。
「異性に対する加害性をもつのは男性だけではない」──とする、いわゆる「反転可能性テスト」のひとつである。
ゴリラの社会では、もっとも強くたくましいオスが「アルファ」になってメスを独占し生殖を恣(ほしいまま)にするし、鈴虫の場合はもっとも高く太く安定した羽音を出すオスがメスに選ばれる。多くの動物で、オスはメスに「プレゼンテーション」し、自分がすぐれた子孫を残す能力をもった存在であることをアピールする。メスは群がるオスのなかから、もっともすぐれたオスを採用する。
そうした基本的な「性淘汰」の原則が、ホモ・サピエンスだけには例外的に当てはまらない、ということは特にない。それはたとえば、新石器時代の男性の多くが生殖できないまま生涯童貞に終わり、ごく一部の男性に生殖の権利が集中していたという事実からも観測できる。*2