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前回の記事では、自分の中学時代を振り返ってみたのですが、どうせなら~…と思いまして、調子に乗って、自己満で、高校生時代も振り返ってみたいと思います。

中学3年生の受験時、念願の第一志望校「中央大学杉並高等学校」に合格した私。当時偏差値70~71でした。とはいえ、本当にギリギリで受かったのかも。何にせよ、ついに入学のときを迎えたのです。

高校生時代のキーワードは…

★学校の勉強(成績)
★部活
★恋愛
★アルバイト
★ピアノ
★ヒロスエ

ですかねえ…。

以下、本当に自分の為の独白で、長いので注意です。まじで注意!
しかも、その1。ですからね。その2では、恋愛、ピアノ、ヒロスエになります。。

---★学校の勉強(成績)

中央大学の附属高校で、8割が大学に進学できるシステムになっていました。けれど、希望する学部・学科に入れるかどうかは、1年生から3年生2学期までの中間&期末テストの総合成績が、学年単位で順位が最後に出て、順位の高い人から希望する学部・学科に入れるという仕組みなんです。
でも、学部・学科によって定員が決まっているので、自分の学年順位が低ければ、希望の学部・学科の定員は埋まってしまっているため、他の学部・学科を選ばなければならないわけです。
また、油断して8割以内の順位にならないと、夜間(二部とも呼びます。現在の中央大学では無くなってしまいました)入学になってしまいます。

中央大学は法学部が看板で、その他は商学部会計学科、商業貿易学科、総合政策学部が附属生の中では人気でした。なので、特に法学部に入りたければ、頑張る必要があります。学年でたしか320人くらいいましたが、少なくとも100位以内じゃないと入れないので。
しかも先ほども書いたように、一発試験ではなく、1年生のときからの積み重ねの成績で順位が出るので、毎回中間も期末も手が抜けません。

で、迎えた第1回目の中間テスト。私は、運悪く試験前に友人からドラクエ6を借りてしまい、勉強をサボってドラクエを夢中でやってしまいました。そしたら、クラスで43人中42位(人数は不確か)。きゃ~~!!!ヤバイっ!!!

のっけから、レベルの高さに驚きました(笑)出だしをしくじった私は、それを挽回すべく次の期末は頑張るも、30位代。う~ん。困ったなあ。。そんなかんじでしたが、3年生の2学期を終えて最後の学年順位は確か210位くらいだったと思います。。あとでアルバイト関連で触れますが、成績にも波はあったんですけれど。まあ、最終的には希望していた商学部経営学科に入れましたし、別に優秀な順位ではないけれど、目出度し目出度しでしたね。

---★部活

部活ははじめ、また例によって漫画部とか小説部とか(?)そういうのに入りたかったのですが、見学に行くとあまりにもオタクっぽかったので(失礼!)、それはやめて。1年生で同じクラスで仲良くなった女の子がバスケ部に入るというので、見学について行きました。中学の陸上で運動にはもう疲れを感じていた私は、女子バスケ部のマネージャーとして入ることにしました。

でも…。1ヶ月ほどすると、私が実は運動ができることがバレて(笑)、仲間や先輩たちからしきりにプレイのほうを一緒にやろうよ!!と誘って頂いてしまいました。
状況としては、3年生の先輩たちが引退していなくなると、部員(プレイヤー)はいっきに6人になってしまうし、多いに越した事はない。というのもあったと思います。
それでその誘いを考えた結果、せっかく誘ってくれてるし、正直バスケそのものには興味はなかったけれど、やってみようかな、と思ってバスケ初心者ですがやることにしました。

それでバスケを始めるわけですが、言うなれば「伴野恵みの正直しんどい」がまさにピッタリ。
小学校の時にサッカーをやってボールを扱っていたとは言え、使うのは足。バスケは手。ドリブルもシュートも難しい!ディフェンスもオフェンスも相手にぶつかっちゃいけない。走り回る。疲れる!
とりあえず必死でしたね~…。思い出深いのが、夏休みでもほぼ毎日体育館で練習があるのですが、自転車をこいでいる時の憂鬱さといったらこの上ない。この暑さの中やるなんて…ひょえ~。
そいで、1on1でシュートを取った方が勝ちで、負けた方は残って勝てるまで1on1の練習があったんですよね。でも私以外全員バスケ経験者だから、勝てるわけが無い。ず~っと1on1しっぱなし。。死ぬ~~。

まあでも、そんな私でも秋を過ぎる頃にはそれなりに様になってきて、試合に出ても戦力の足しにはなる程度にはなりました。10月には半年ほど付き合った彼と別れるわけですが(あ、ちなみにその男の子は中央大学附属高等学校に入学しました。当時は男子校。現在は共学になっています)、11月の下旬には男子バスケ部の2学年上の先輩とご縁があって、付き合い始めるわけです。

そんな矢先、1月に入ってからかな?パパが癌になったのです。場所は腸のどこだったけか。結果としては早期発見&手術できまして、抗がん治療もしてませんし、再発もしてませんし、現在も元気です。
でも当時は1ヶ月くらい(?あんまりよく覚えてないや…)、三鷹市にある杏林大学病院に入院していました。その時はさすがに伴野家には不穏な空気が流れていました。それで確か“何かあったとき”のために、学校が終わったら家にいて欲しいとママに言われたような気がします。私は1学年上の部長にだけ事情を説明し、他の仲間には言わずに休部しました。今思うとみんなにも言えば良かったと思いますが、多分自分でも不安だったんだと思います。その時は、手術が上手くいくかどうかとか、術後経過がどうなるか分かりませんでしたから…。

結果的には1ヶ月ほど部活を休んでから復帰。ランニングをしていたおかげで、体力面での差は感じませんでした。この調子でやっていけそう…そんなかんじでした。

転機は学年が2年生になり、クラス替えが行われた頃。同じ学年の仲間の中で、私だけ教室が2階で、みんなは3階になりました。そうしたら、いつもみんなで更衣室に行ったりしていたのに、そういうタイミングもどんどんズレていく…。なんか避けられているというか、ハブられている感じがする…。
そんな矢先に、5月にある球技大会でハンドボールをやったのですが、その時に左足の甲の外側を骨折(ひび)してしまいました。1ヶ月松葉杖、その後も1ヶ月は運動はなるべく控えなければならなくなりました。でも、ちょうどその頃は試合期。初心者で始めて1年して、やっとバスケの楽しさを体感できると思ったのに…結局出来ないまま、基礎練習のシーズンに突入したのです。「がっくり」以外のなにものでもありませんでした。

この頃と同時に、病気をしたことを理由にパパが会社から自主退職を迫られて仕事を探さなければいけなくなりました。私は相変わらずピアノを習っていましたが、ママから家計のためにピアノを辞めて欲しいと打診されました。ピアノのお月謝は1万6千円。アルバイトをすればなんて事はありません。でも、バスケ部も毎日あるので、部活をやってたらバイトは出来ない。部活かバイト(ピアノ)、どちらを選択するか迷いました。

バスケが好きでやっていたわけではない。仲間がいたからやっていた。でもその仲間ともちょっとすれ違うくらいならバスケをやる意味ないなあ…。ピアノは辞めたくないなあ。部活動を途中で辞めるのはいやだけど…すごく迷いに迷った末、部活を辞めてバイトをすることにしました。

女子バスケ部を辞める時は、顧問の先生、仲間とお話ししました。ひきとめてくれて嬉しかったです。
私も水臭かったなあと今ならば思います。ただ兎にも角にもバスケ部での出会いは、私にとって現在においてもかけがえのないものとなりました。

---★アルバイト

高校2年生の7月から西荻窪にある(今駅前にあるところではありません)モスバーガーでアルバイト開始。アルバイトは1年生の冬休みに郵便局のをやった以来で、本格的なのは初めて。
私は、部活を途中で辞めたことが悔しかったので、みんながバスケで頑張っている分、自分はこのアルバイトを部活だと思って頑張ることを決意していた。そしてピアノの月謝も自分で払い始める。

はじめはまだ出来る仕事が少なくてあまり(シフトの)戦力にならなかったから、週2~3日だったが、秋頃にはかなり出来るようになっていたので、週4日くらいに。クリスマスは、モスチキンがご盛況で24日も25日もバイト。年末もバイト。お正月も元旦からバイト。

気が付くと、社員が嫌いとかなんとかで以前からいたアルバイトの子たちがたくさん辞めてしまったので、店長がシフトを組むのに苦労していた。そこで私は「伴野さん、ちょっと本気でやってみない?」と上手いこと言われた。でも私自身も、もともと部活のつもりでやろうと思っていたので、もちろん「いいですよ。」その結果、1月~3月はほぼ毎日バイトだった。どれくらい働いていたかというと、1月と2月は各月、時給730円で10万円以上稼いだ。単純に計算すると約140時間。もちろん学校はサボってなんかいません。月曜~金曜は6限までで土曜日も私立なので休みではなくお昼までしっかり授業はありました。試験もあります。ピアノもやっています。

でもさすがに疲れていて、午前中の1時限目の授業、特に世界史とか日本史は寝ちゃってました…。

稼いだお金は、月謝の他に、それまで買うことができなかった服や化粧品類を買ったり、美容院に行ったり。あとは、1年生のときはポケベルが主流だったけれど、私は親に買ってもらえなかったので、やっとポケベルを飛ばしてPHSを手に入れました。で、その電話代。あとは、家にオーブントースターしかなかったので、オーブンレンジを買ったり、家電がFAXが付いてなかったので、FAX付き電話機を買ったり。あと大きかったのは、3年生の4月にピアノのコンサートがある予定だったのですが、それに払わなければいけない金額が10万円(それでも安くしてあげた的なこと、言われたかなあ)でしたので、それに使いました。

でもバイトのしすぎで2年生の後半は成績が落ち、「あ、またヤバイ」となる。
と同時に、もともとアトピー性皮膚炎だった私は、3年生になった頃には主婦湿疹の域を大きく超える「手荒れ」に悩まされました。手のひらも甲も指も水かきの部分もどこもかしこも水を含んだ湿疹になって手がパンパンに腫れてしまって、手を握っても指が手のひらにつかないのです。
あまりの痒さと痛さとイライラさで、それが理由で1日学校を休んだこともあるくらいです。

それから、当時私が信頼していた20歳の男の子社員がいたのですが、その人が別の店舗に異動になったので、少しモチベーションが下がったのもあり。成績、手荒れのことと相まって、3年生の5月に辞めました。そして次は、家の近所にあっった「おすしやさん」という名前のちゃんとした寿司屋に先輩の紹介でバイトを始めました。こちらは時給900円なうえに、モスバーガーほど食材や水を扱うことが少なかったので手荒れは多少あるものの、大丈夫でした。

でも、モスバーガーにしろ、寿司屋にしろ、販促の仕方やお店の運営時間とか、つまりは「経営」に関する疑問が私の中でたくさん湧き起こっていたのは確かに覚えています。当時は「経営」という概念が無かったので、一つ一つのことに対して“もっとこうすればいいのに”とか、“なんでこうしないんだろう?”とかのレベルでしか考えられませんでしたが、多分経営にはもともと興味があったんだと思います。

私の女子高校生時代♪その1。以上。つづきは、また今度~(^_^)/~


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