大方の予想に反し、帝国は攻めてこないし、講和の気配もなかった。彼らがやったのは権力抗争だった。
一〇月下旬、帝国副宰相カストロプ公爵が宇宙船事故で死亡した。貴族に対する課税を主張したために保守派貴族に暗殺されたとも、同盟との和平を唱えたために軍部強硬派に暗殺されたとも、同盟との直接交易を志向したためにフェザーンに暗殺されたとも言われる。真相は永久にわからないだろう。いずれにせよ、「ザンクトゥアーリウム(聖域)」と呼ばれた帝国政界の怪物は、あっけなく消えた。
カストロプ公爵にはマクシミリアンという後継者がいたが、帝国宰相リヒテンラーデ公爵は不正蓄財疑惑を理由に相続手続きを延期した。財務省はカストロプ家の財産調査、司法省はカストロプ派の汚職捜査を開始。カストロプ派に対する粛清が始まった。
カストロプ派の憲兵総監クラーマー大将は病気を理由に辞職し、その翌日に急病で死んだ。辞職翌日の急病死は、帝国語で「自殺」を意味する。クラーマー大将の前任者であるラインバッハ大将も辞職翌日に急病死した。憲兵総監は二代続けて自殺したことになる。
イゼルローン駐留艦隊司令官フォルゲン大将は上級大将への昇進が内定していたが、帝都オーディンに到着する直前に病死した。フォルゲン伯爵位が「極めて不名誉な犯罪」を理由に廃絶されたとの説、五年前に戦死したフォルゲン家の末弟カール・マチアスの二階級特進が取り消されたとの説があり、カストロプ派の粛清に関係した動きと見られる。
「悪いことはできないもんだな」
カストロプ派が粛清されたと聞いてすっとした。かつてループレヒト・レーヴェがもたらした情報によると、カストロプ公爵は帝国サイオキシンマフィアのボスで、クラーマー大将はサイオキシンマフィアの犯罪をもみ消した人物だった。ヴァンフリートで亡くなった部下、自殺に追い込まれたラインバッハ大将、捜査資料を守りぬいた無名の老雄らも少しは浮かばれるかもしれない。
「えっ?」
目を疑う報道があった。レグニツァの英雄ラインハルト・フォン・ローエングラム元帥が、上級大将に降格され、アルメントフーベル星系からフェザーン回廊に至る辺境六七星系の総督に左遷されたという。カストロプ一門の名家マリーンドルフ伯爵家の娘との結婚が仇となったらしい。
ただし、左遷は誤報とする報道もあった。ローエングラム元帥の妻についても、リヒテンラーデ公爵の姻戚であるコールラウシュ伯爵家の長女と婚約したとの説、ブラウンシュヴァイク公爵の妹婿フレーゲル侯爵の娘と結婚したとの説、リッテンハイム派の重鎮レムシャイド伯爵の次女と結婚して子供がいるとの説、未だに独身であるとの説があり、真相はわからない。
当分は旧カストロプ派に対する粛清が続くものと見られる。主要三派の勢力は拮抗しており、権力抗争が決着するまで最低でも数か月はかかるだろう。
戦いが遠のいたおかげでのんびり過ごせるようになった。休暇中であることに変わりはないのだが、気分が全然違う。
「ねえねえ見てよ。今日は退役中将閣下が亡命してきたんだって」
イレーシュ・マーリア中佐がテレビを指さす。フリードリヒ四世が死んでから七人目の大物亡命者だ。
「カストロプ公爵が死んでから荒れてますね」
「イゼルローン回廊を経由しての亡命だよ。珍しいよね」
「フェザーンに入れない事情でもあったんですかね」
俺はテレビをまじまじと眺めた。テロップには、オスターヴィーク・ラインズ社長兼最高執行責任者(COO)・宇宙軍退役中将クリストフ・フォン・バーゼル男爵と記されている。
「オスターヴィーク・ラインズ……? 聞いたことあるようなないような……」
俺は早速携帯端末を開き、オスターヴィーク・ラインズの社名で検索した。
「超大物じゃないか」
オスターヴィーク・ラインズは、帝国では第三位、銀河では第九位のシェアを誇る星間運輸業界の超大手だった。会長兼最高経営責任者(CEO)はカストロプ家の当主が代々務め、カストロプ一門の八家が株式の七割を所有する。カストロプ家は一門全体で二〇〇〇近い企業を保有しているが、その中でも三本の指に入るらしい。そんな企業のナンバーツーがバーゼル退役中将だった。
それから、アナウンサーはバーゼル退役中将の簡単な経歴を紹介した。物流管理の専門家で、帝国軍の兵站部門で活躍した後、オスターヴィーク・ラインズに迎え入れられたのだそうだ。四年前のエル・ファシル攻防戦で戦死したカイザーリング元帥の親友でもあったという。
バーゼル退役中将がカストロプ派なのは間違いない。カストロプ一門の中核企業のナンバーツーである。また、彼の親友カイザーリング元帥の家を継いだのは、カストロプ公爵の次男だった。
「なんか胡散臭いな」
カストロプ派は帝国のサイオキシンマフィアである。軍兵站部門の幹部、大手星間運輸企業の社長というバーゼル退役中将の立場は、サイオキシンを流通させるのに都合がいい。同盟軍では兵站部門がマフィア化していた。フェザーンを経由せずに亡命したのも怪しく思える。自治領主府はサイオキシンマフィアの敵だからだ。証拠もないのに人を疑うのは良くないとは思う。だが、怪しいところが多すぎた。
「胡散臭いって?」
「あ、いや、何でもありません」
「それにしても、ダーシャちゃんは遅いねえ。一般教養の教官なんて閑職じゃん」
「就職活動だと思います」
俺はテレビの上を見た。そこに飾られていたのは、第六次イゼルローン遠征軍参謀の集合写真。この時以来、ダーシャは参謀職に就いていない。エル・ファシル危機で一時的に作戦部長を代行しただけだ。
「ああ、まだ決まらないのね」
「旧セレブレッゼ派への風当たりが未だに強いんですよ」
「のっぽとふさふさ白髪の差し金?」
イレーシュ中佐の言う「のっぽ」は統合作戦本部長シトレ元帥、「ふさふさ白髪」は後方勤務本部長ヴァシリーシン大将のことである。
「ええ。三代先の本部長まで決めちゃったんで、セレブレッゼ派に復活されたら困るみたいです」
「次がランナーベック中将、次の次がツァイ中将、次の次の次がキャゼルヌ少将だっけ。良くやるよね」
「兵站部門はずっとキャゼルヌシステムで行く。そう決めたんでしょう」
「セレブレッゼシステムを知ってる人材は邪魔なだけと」
「アッテンボロー准将、ヤン少将、ラップ少将の台頭もダーシャの評価を悪くしてますよ。あの三人と仲が悪いから無能に違いないと思い込む人が多くて」
「名将と仲の良い奴は有能、仲の悪い奴は無能。大した理由もなしにそう決めつける人が多いからね。現実では名将同士だって仲悪いのに。君とヤン提督みたいにさ」
「俺が名将かどうかはともかく、世の中はそんなもんです」
「私もダーシャちゃんの勤め先を探しとくよ。三位卒業のエリートが閑職じゃ寂しすぎるから」
「助かります。トリューニヒト派は嫌だって言うから、俺にはどうもできないんですよ」
恩師の厚意がとても嬉しかった。嬉しくなったのでアップルパイを作り、イレーシュ中佐に食べてもらった。
イレーシュ中佐が帰った後、携帯端末を開く。最初にチェックするのは妹からのメールだ。
「また食べ物の写真か。相変わらず大食いだな」
今日のアルマの夕食は、山のように盛られた鳥の唐揚げだった。朝食の写真は山盛りというより山脈盛りのカルボナーラパスタ。昼食の写真だけはいつも送られてこない。
エルビエアベニューで旧友ハシェクと遭遇し、妹とすれ違った。その後、ダーシャが「ハシェク君から渡された」と言って、妹のメアドが書かれたメモを俺に手渡した。おかげで六八年ぶりに交流が復活したのである。
メールを書くたびに頭を使った。妹は俺よりも気が小さい。そんな妹を傷つけないように言葉を選んだ。妹は俺よりも頭が悪い。なにせ高校にも入れなかったし、時給七ディナールのバイトすらまともに勤まらなかった。そんな妹でも理解できるように言葉を選んだ。
顔は合わせていないが、それでも昔の仲良し兄妹に戻れたみたいで嬉しかった。前の世界でのわだかまりは完全に消え失せた。
一一月上旬、俺はクリスチアン中佐の査問会に出席した。今回は証人でなく傍聴者としての出席である。
新しい査問委員長はティエン少将という六〇過ぎの老人だった。査問会を手順通り進めること以外には関心がないらしく、前任者と比較すると意欲に欠けるようだ。あいまいに済ませたい国防委員会の意思を反映しているのだろう。
ヤン少将は所用を理由に出席しなかった。そのため、この日の査問会はクリスチアン中佐側を軸として進められた。
クリスチアン中佐側は、独断で出動したことについては「自治体からの要請に応じる形で出動しており、合法的な手続きに則っている」、命令違反については「ヤン司令官代行の命令は明らかに軍規から逸脱したものだ。軍規を尊重するのは軍人の義務である」と主張した。
これに対し、ヤン少将側は「ヤン司令官代行の判断は、同盟憲章の根本理念に沿ったものだ。同盟憲章はあらゆる法の基本である。法的根拠は十分と言えるのではないか」と反論する。
憲章理念と法律はしばしば対立する。法律のプロでも簡単に白黒を付けられない問題だ。こういう場合、有利になるのは口の達者な側である。
この日の査問会は、クリスチアン中佐側が有利だった。匿名の証人「第八強襲空挺連隊」の活躍が著しい。シトレ門下の俊英と名高いマリネスク少将と対等以上の論戦を展開した。スパイが民間人を殺すことをヤン少将が危惧した件については、「事前に説明がなかった。司令官代行がスパイの存在に触れた文書もない。命令の違法性を糊塗するために後付けしたのではないか。姑息にもほどがある」と批判した。弁が立つのは認めるが、えぐいやり口にいささか辟易させられる。
「いやあ、すっきりしたわ。ヤンがいなかったのが残念だな!」
一緒に傍聴したマルコム・ワイドボーン准将が、大きく口を開けて笑う。
「一方的な審判にはならないと思いますよ」
控えめに論評したのは、俺の左隣にいるダーシャ・ブレツェリ大佐である。
「クリスチアン中佐の処分がどれだけ軽くなるか。それだけが問題です。どう転んでも、ヤン少将が処分されるなんてことはありませんから」
俺は釘を刺した。これはヤン少将ではなくクリスチアン中佐の査問会なのだ。ヤン少将嫌いなのは結構だが、変な期待はしないでほしい。
それにしても、この二人がどうして傍聴に来たのだろう? どちらもクリスチアン中佐とは面識がないはずだ。それでもダーシャなら分かる。彼女はエル・ファシルで戦ったからだ。しかし、ワイドボーン准将は何をしに来たのか。本当に理解できない。
三人で廊下を歩いていると、向こう側に背の高い人物が見えた。童顔で亜麻色の髪の女性。ワイドボーン准将の妹である。
「妹さんが査問会にいらしたんですか?」
俺はワイドボーン准将に小声で問う。
「妹さん? 俺の?」
「ええ」
「何言ってんだ? 冗談はよせよ」
「すいません」
どうやら勘違いしていたらしい。もう一度見直そうと思って前を向く。亜麻色の髪の女性と目が合った。その顔に狼狽の色が浮かび、こちらに背中を向けた。
「なんなんだ……」
前に一度ぶつかったきりなのに、どうしてそんな顔をされなければいけないのか。まったくもって不本意だ。
「えっ?」
信じられない光景を目にした。左隣のダーシャが急に駆け出し、亜麻色の髪の女性を追いかけたのだ。
「逃げちゃ駄目!」
ダーシャは亜麻色の髪の女性の手を掴み、無理やりこちらに引っ張ってくる。何が何だかわからない。
艷やかで長い黒髪、ほんわかした丸顔、大きな胸、身長一七〇センチ手前のダーシャ。亜麻色のショートカット、少女にも少年にも見える童顔、薄い胸、一八〇を越える身長の女性。何から何まで対照的な二人が俺の前に並ぶ。
「ダーシャ、この子は誰なんだ?」
「まさか、妹の顔を忘れたの?」
「君には妹はいないだろ」
「とぼけないでよ。本当にアルマちゃんの顔を忘れたの?」
「これがアルマ?」
何が何だかさっぱり分からなかった。俺の知るアルマはこんなに可愛くないし、痩せてもいないし、髪の毛は亜麻色ではないし、もう少し背が低かったはずだし、さらにいうと軍人でもない。ダーシャと知り合いだなんてのも聞いてない。
「悪い、状況がさっぱり飲み込めない」
「説明すると長くなるから、場所変えるよ」
外のカフェに移動してから一時間、俺はダーシャとワイドボーン准将とアルマの三人から事情を聞かせてもらった。
「――信じられないな」
俺はガチガチに緊張している妹を見た。ゆるくウェーブした亜麻色のショートカット。顔はきれいな卵型、肌は乳白色でつやつやしていて、ぱっちりとした目が可愛らしく、鼻筋がすっとしている。軍の宣伝ポスターに出てくる模範的女性兵といった感じだ。ドーソン中将の副官だったハラボフ大尉に似てる気もする。もちろん、風船デブの面影はどこにもない。
軍服の首筋にある階級章は地上軍大尉。二三歳で大尉なら、士官学校卒業者の上位五パーセントに入る。アルマは士官学校を出ていないから異常な昇進速度だ。
部隊章は第八八五五歩兵連隊。特殊部隊隊員の書類上の所属先として設けられたダミー部隊の一つである。
従軍章の中で一番古いのは惑星エル・ファシル攻防戦で、一番新しいのはエル・ファシル七月危機。胸元には、地上軍殊勲星章、銀色五稜星勲章、名誉戦傷章などの略綬が並ぶ。どこに出しても恥ずかしくない軍歴だ。
技能章を見ると、体力、射撃、徒手格闘、ナイフ、戦斧のすべてが特級で、エアバイクから宇宙軍艦まであらゆる乗り物の操縦資格を持ち、レンジャー、爆発物処理、潜水士、狙撃手、情報処理特級なども持つ。薔薇の騎士連隊だったら、ブルームハルト大尉と同レベルといったところだろうか。その気になれば一人で一個小隊と戦えるかもしれない。
そして、頭も回るようだ。査問会で大活躍した匿名の証人「第八強襲空挺連隊」の中身は妹だった。この顔であんなえぐい弁論をするなんて、ギャップが大きすぎる。
「頑張ったよ」
アルマは控えめに言う。
「頑張ったんだな」
オウム返しに答えた。ここまで変わっていたら反応に困る。困ったことにこの変貌のきっかけは俺であるらしい。
八年前、俺に冷たくされたアルマは「甘えん坊だから嫌われた」と思い込み、軍隊に入って自分を鍛え直そうと考えた。ちょうど、タッシリ地上軍歩兵専科学校で死亡事故が発生し、志望者が激減したため、推薦入学で入れた。そこで広報担当をやめたばかりのクリスチアン中佐と出会い、俺の話を聞いてやる気を出したそうだ。その縁でクリスチアン中佐の弁護人として査問会に出た。
在校中にトレーニングに励んだ結果、身長が一七九センチから一八四センチに伸びたという。本当にむかつく……、いや羨ましい話である。ちなみにいつ痩せたのかは言わなかった。というか、ダーシャやワイドボーン准将にはデブだったことを隠してるらしい。
専科学校を次席で卒業した後に地上軍伍長となり、第二九空挺連隊に配属された。最初に参加した戦いは四年前のエル・ファシル地上戦。最大の激戦地だったニヤラにおいて、彼女の連隊は八割が戦死し、生存者は一人残らず重傷を負うという壮絶な結末を迎えた。俺なんかよりずっと英雄と呼ばれるにふさわしい出だしだった。
「入院中は心細かった」
「本当にすまない」
俺はテーブルに額を擦りつけた。俺が無慈悲に削除した妹のメールは、入院中に励まして欲しくて送られたものだったのだ。
しかし、アルマは愛の鞭だと思い込んだらしい。その後もメールして着信拒否を食らうたびに、「独り立ちしろという兄からのメッセージ」だと解釈し、必死の努力を重ねた。そして、地上軍最強の第八強襲空挺連隊に入り、英雄アマラ・ムルティのパートナーとして活躍した。ダーシャとはカプチェランカ基地に配属された時に、ワイドボーン准将とはダーシャの紹介で親しくなったそうだ。
「お兄ちゃんから指示を受けたこともあるよ」
「いつだ?」
「七月」
アルマはメニューを開き、フルーツケーキを指す。エル・ファシル危機で星系政庁を常勝中隊の副隊長は、「フルーツケーキ」というコードネームだった。
「ああ、あれはアルマだったのか」
「気づいてくれるんじゃないかと少しだけ期待してたけどね」
「わからなかった」
高校に入れなかった馬鹿と、特殊部隊のエリート将校が同一人物だと気づいたら、それは神か何かだろう。
「それにしても不思議だな。その年で大尉だったら、士官学校出てなくても将官候補だろうに。広報誌に取り上げられたっておかしくない。どうして俺の耳に入らなかった?」
「知られないようにしたから。英雄の妹として贔屓されるのも嫌だし」
アルマは俺の妹と周囲に知られないように細心の努力を払った。人事部に頼んで個人情報に高レベルのプロテクトを掛け、赤毛を亜麻色に染めた。広報誌の依頼は全部断った。
「でも、ダーシャたちとはずっと知り合いだったんだろう?」
アルマが俺のメアドを突き止めた手段は実に単純だった。専科学校時代の恩師だったクリスチアン中佐、カプチェランカ基地以来の友人であるダーシャから聞いただけ。ならば、彼らから俺の耳に入ってもおかしくないではないか。
「口止めしてた。お兄ちゃんには自分で連絡したかったから」
「なるほどな」
「結局、ダーシャちゃんとワイドボーンさんに頼っちゃったけど」
アルマがちらりとダーシャとワイドボーン准将を見る。
「アルマちゃんはお兄ちゃんの事になると急に弱気になるからね。いつもは強気なのに」
「そうそう。ブレツェリよりおっかねえんだぜ」
ダーシャとワイドボーン准将にここまで言われるとは、普段のアルマはよほど怖いらしい。査問会での弁論は結構えぐかった。前の世界では俺より小心者だったのに。変われば変わるものだ。
「そりゃそうだよ。お兄ちゃんは憧れだから」
「嬉しいな」
「昔、クリスチアン教官に言われたよ。『お前は頭が回りすぎる。先が見えるせいで一生懸命になれんのだ。兄の実直さに学べ』ってね。それからずっとお兄ちゃんが目標だった」
「あの人がそんなことを言ってたのか」
知らないところで恩師が俺と妹をつないでいてくれた。胸がじわじわと熱くなる。
「昔は学校のテストなんて頑張ってもしょうがないと思ってた。でも、先を見るより今を見る方がずっと大事だね」
「今日を生き抜かないと明日は来ない。単純だけど忘れがちだ」
前の世界で八〇年を無駄に生きたからこそ分かる。頑張るべき時は明日でなく今日だ。
「私は一生懸命やれたのかな」
「お前ほど一生懸命な奴はいない」
俺は笑顔で妹を褒めた。前の世界での恨みから無視しただなんて言えるはずもない。他に適当な理由も思いつかなかった。妹が脳内で作り上げたシナリオに乗っかるのが最善だと判断した。
再会から一〇日後、俺とアルマは惑星パラスのパラディオン宇宙港に降り立った。大きな歓声と拍手で出迎えてくれる市民に対し、笑顔で手を振って応える。
それから、ターミナルビルの四階の多目的ホールで記者会見に臨んだ。地元マスコミの記者からさまざまな質問が飛んでくる。
「フィリップス提督の帰郷は実に八年ぶりだそうですね」
「軍務に精励していたら、いつの間にか八年も経っていました」
「久しぶりのパラディオンの印象はいかがですか?」
「昔と全然変わってなくて安心しました」
「パラディオンでは、いかがお過ごしの予定でしょうか?」
「まずは実家に帰って、自分の部屋でゆっくり寝たいと思っています」
「フィリップス提督は甘党でいらっしゃいますね。パラディオン名物のピーチパイは今が旬の季節ですよ」
「もちろん楽しみにしています」
「結婚のご予定は」
「秘密です」
「二八歳の若さで准将に昇進なさったフィリップス提督には、キャメロン・ルーク元帥、ウォリス・ウォーリック元帥に続く三人目のパラス出身元帥の期待がかかっています」
「郷里の英雄に比べられるなんて恐縮の至りです。皆さんの期待を裏切らないよう頑張ります」
ハイネセンの記者に比べると、はるかに素朴な質問ばかり。それほど受け答えに気を使う必要は無い。それなのになぜか妹は驚きの目で俺を見ていた。
記者会見を終えると、宇宙港からパラディオン市内に入った。市内では大勢の市民が街頭に集まって、同盟国旗やタッシリ星系共和国旗を振りながら歓迎してくれる。
パラディオン市政庁、在郷軍人会パラディオン支部、母校のスターリング高校やシルバーフィールド中学なども表敬訪問した。市長は相変わらず八年前と同じ赤毛のフィリップス市長だった。
エル・ファシル解放運動に暗殺されたロイヤル・サンフォード議員の墓参りに行き、花束を捧げた。その際に孫娘からサンフォード議員の伝記『大幹事長ロイヤル・サンフォード』『ロイヤル・サンフォード――保守の良心』をプレゼントされた。前の世界では史上最悪の議長と呼ばれた人物だが、この世界では暗殺されたおかげで評価が上がったようだ。
それからいくつかの番組に出演した後、テレビ局が用意してくれた車で実家へと向かう。パラディオン市の中心部からやや外れた住宅地区の中の古びた集合住宅。パラディオン市警察のエクサルヒア官舎に俺の実家はある。
戸数三〇〇の大規模官舎だけあって敷地面積は相当なものだ。ジュニアスクールの五年度から徴兵されるまでの八年間を俺はこの官舎で過ごした。
だが、懐かしいという気持ちにはならない。八年前に来た時は周囲を見る余裕がなかった。ゆっくりこの敷地内を見て回るのは、前の人生から数えると六〇年ぐらいぶりだろうか。懐かしさを覚えるほどの記憶もなかった。
「どうしたの? あまり懐かしくない?」
アルマが不思議そうに俺を見る。
「寂れててびっくりした」
パッと思いついた印象を述べた。
「そっか。無理ないよね。八年前はほぼ満杯だったこの官舎も、今じゃ二〇〇世帯住んでるか住んでないかぐらいまで減ったから」
「一〇〇世帯も減ったのか。古いのが嫌なのか?」
「違うよ。人員整理。財政難でパラディオン市警察の定員が三割近く削減されたの」
「三割も!?」
俺は目を丸くした。警察官の定員削減自体はさほど珍しくもない。三割どころか六割削減した自治体、警察を解散して警備会社に警察業務を委託した自治体すら存在するが、家族が関わってくると現実味が違う。
「お父さんもだいぶ前から危なくてね。毎年、年度末が近づくたびに怯えてるよ」
「そうか……」
人員整理が行われる際に真っ先に目を付けられるのは、勤続年数の長いベテランである。父のロニーは今年で勤続三〇年のはずだ。能力的にも微妙。不安のほどは想像に難くない。
「でも、お兄ちゃんが活躍したおかげで、『今年も首が繋がった』って喜んでた」
「そんなの関係あんのか?」
「あるよ。英雄の親を辞めさせちゃったら、世間体が悪いでしょ?」
「まあ、確かにそうか」
民主主義国家でも家族の七光というものは存在する。俺の七光が父の首を繋いだのなら、少しは親孝行ができたといえよう。
「能力や人柄に大差なかったら、そういう微妙なところが分かれ目になるのよ」
「家族の評判も関係してくるのか。なんか嫌な話だな」
「リオ・コロラド事件の関係者なんて大変よ」
「どういうことだ?」
「お父さんの同期の友達にオラジュワンさんって人がいてね。弟が第五六一三任務隊の隊員だったせいで嫌がらせされるようになってね。最近、退職勧告受けたの」
「嫌な話だな」
俺はうんざりしたように言った。
「奥さんとも離婚。子供もみんな奥さんの姓を名乗るんだって」
「逃亡者と同じ姓を名乗りたくないんだな。エル・ファシル事件の時もそんな話があった」
「どんな話?」
「リンチ提督の奥さんが別の人と再婚した。兄弟や親族もリンチから姓を変えたって噂だ」
「酷い話だね。家族は家族なのに」
他人事のようにアルマが言う。
「お前が言うことか?」
少しむっとした。前の世界では俺を裏切ったではないか。
「ご、ごめん」
「俺が犯罪者になったらどうする? 見捨てないって自信があるか?」
「お兄ちゃんは絶対にならないでしょ」
「絶対なんてことはないぞ。八年前のエル・ファシルは紙一重だった。出発一時間前に気が変わったおかげでこうしていられる。そのままシャトルに乗り込んでたら、今頃は市民を見捨てた逃亡者として叩かれてただろうな」
「そんなことは……」
「ある」
俺は強く言い切った。
「一時間の差で俺は英雄になった。アルマだって紙一重で助かった経験はあるだろう?」
「うん」
「俺が逃亡者になってたら、アルマは専科学校に入れなかったかもしれない。そんな人生を想像したことがあるか?」
「あるよ。今の人生は怖いくらいうまく行き過ぎてるから。こちらがアナザーストーリーで、メインストーリーは違うんじゃないかって思ったこともある」
アルマの例えは的確だった。俺にとってこの人生は、エル・ファシルで逃げなかった場合のアナザーストーリーなのだから。
「メインストーリーのアルマはどんな人生を歩んでると思う?」
「高校にも進学できなくてバイトかなあ。意地悪な先輩にしょっちゅう鈍臭いって叱られて、友達もいなくて、つまんないつまんないって言いながら毎日を過ごしてる。ごろごろしてお菓子ばかり食べててさ」
「そんな時に俺が逃亡者になったらどうする?」
「冷たくしちゃうかも。近所の目もあるし、お父さんが首になるのも怖いから」
アナザーストーリーの妹は、想像力だけでメインストーリーの内容をほぼ正確に言い当てた。
「オラジュワンさんやリンチ提督の家族に起きたことは、俺たち家族にあり得たかもしれないストーリーの一つかもしれない。他人事とは思えないんだ」
話しているうちに、前の人生で自分が憎まれた理由が分かってきた。俺が逃げたせいで父が失職しかけていたのではないか。五〇過ぎの元警官が簡単に再就職できるようなご時世ではない。官舎にも住めなくなるだろう。家族が俺を憎むのも無理はない。
当時は怯えるばかりで、周りがまったく見えてなかったし、家計のこともまったくわからなかった。六〇年近く経ってようやく理解できるとは皮肉なものだ。
「そっか。家族は家族って言えるのも幸せなことなんだね」
アルマは深く頷く。
「俺もアルマも運がいい」
ようやく妹と分かり合えたような気持ちになったその時、聞き覚えのある声がした。
「エリヤ! アルマ! こんな所にいたのか!」
叫んでいるのは父のロニー。母のサビナ、姉のニコールの三人が駆け足で近づいてきた。
「いつまで経っても帰ってこないから、心配してたんだぞ」
喜び九割、困惑一割といった表情の父。身長は俺より七センチ高い。髪は白髪混じりの赤毛。顔つきは良く言えば人が良さそう、悪く言えば押しに弱そう。服装はセーターにスラックス。典型的な中年男性の普段着である。
「相変わらずエリヤもアルマも寄り道好きだねえ。今日も買い食いしてたの?」
母はやれやれといった感じで俺とアルマを見る。身長は俺より五センチほど高く、女性にしてはがっしりしている。顔は優しそうだが、目に宿る光は強い。動きやすい服装を好む母らしく、長袖のパーカーを着ていた。
「英雄になっても、あんたらは変わんないね。ま、英雄になったぐらいで変わられたら困っちゃうけどさ」
姉は笑顔で軽口を叩きながら、俺とアルマの肩をぽんぽんと叩く。小さい頃から俺と良く似ていると言われたやや男っぽい顔。職場からそのまま直行してきたのか、ブラウスにズボンを履いている。シンプルではあるが、細身の姉には良く似合う。身長は父とほぼ同じ。忌々しいことに母も姉も妹も俺より背が高い。
家族と話しながら敷地の中を歩き、実家のあるD棟に入る。作りが全体的に古臭い。壁はひび割れていて、照明は薄暗い。エル・ファシルの兵舎よりややマシといった程度。地方財政の困窮ぶりを実感させられる。
八年ぶりに足を踏み入れた実家も貧相な感じがした。自分や知り合いの軍人が住む高級士官用官舎と比べてしまうのである。
警察の階級を軍隊に例えると、警視監は中将、警視長は少将・准将、警視正は代将・大佐、警視は中佐・少佐、警部は大尉、警部補は中尉・少尉、巡査部長は下士官、巡査は兵卒に相当する。准将の俺は警視長と同格で、惑星パラスなら州警察本部長といったところだ。そして父は市警察の警部補。なんとアルマより格下なのだ。この八年間で自分がどれほど偉くなったのかを官舎の差が物語る。
テーブルの上に山盛りの食べ物が積み上げられていた。見るからにこってりしたマカロニ・アンド・チーズ、ほくほくのフライドポテト、こんがり焼けたローストチキン、大皿いっぱいのジャンバラヤ、さっぱりしてそうなシーザーサラダ、ぶつ切りの白身魚が浮かぶフィッシュチャウダー、厚切りのパンにハムとチーズを挟んだサンドイッチ。どれも俺とアルマの好物ばかり。当然、デザートは別に用意しているはずだ。しんみりした気持ちがあっという間に吹き飛ぶ。
「これ本当か!?」
父が差し出したタブロイド紙の見出しには、「第四艦隊と第六艦隊が合併か!? 新艦隊の名称は『第一三艦隊』! ヤン少将やフィリップス准将らエル・ファシル組も参加決定!」と書かれている。
「初めて聞いた」
「じゃあ、嘘なのか!?」
「まだ次のポストが決まってないんだよ」
「本当は聞いてるんだろう? 軍事機密だから黙ってるとか、そういうんじゃないのか?」
「聞いてないんだ、本当に」
「頼むよ。父さんにだけこっそり教えてくれ」
「まいったなあ」
どうやってかわせばいいかわからない。なにせ父とまともに話すのは六九年ぶりなのだ。
「エリヤ、教えなくていいわよ」
横から母が口を挟んでくる。
「母さんは知りたくないのか? 息子がヤン提督とまた一緒に戦うかもしれないってのに」
「その時になったら分かるでしょ」
「ニコールは知りたいよな!」
父は姉に助けを求めた。
「別に」
「お前はヤン提督のファンじゃないか」
「そうだけど」
「気になるだろ!?」
「いずれ分かるからいいじゃん」
姉も父に味方しなかった。
「待つのもそれはそれで楽しいんじゃない?」
アルマが絶対零度の声を投げつける。
「そ、そうか! 言われてみればそうだな!」
「そうよ」
「そうよ」
「そうよ」
母、姉、妹が口を揃えて言い、父は完全に敗北した。今のフィリップス家では女性軍の力が圧倒的に強いらしい。
それからも父はビールをがぶがぶ飲みながら、トリューニヒト委員長のようにぽんぽんと適当なことを言う。母は父の適当な発言にガンガン突っ込む。姉は俺と妹の皿にどんどん食べ物を放り込み、飲み食いする様子を楽しむ。妹は脇目もふらず飲み食いに勤しむ。
「ビール飲まないの?」
姉のニコールがビール瓶を差し出す。
「酒はやめたから」
「あんなに好きだったのに。変われば変わるもんだね」
「八年もたてば別人だよ」
「何年たったって、あんたは私の弟さ」
楽しげに笑ってからビールを飲み干す姉。男前という言葉が頭の中に浮かぶ。前の人生では、彼女は俺を擁護したために何者かに腕を折られ、俺を徹底的に無視するようになった。しかし、今の人生では昔と変わらぬ面倒見の良い姉である。
トリューニヒト委員長とドーソン中将とヤン少将のサインを貰ってくると、父に約束した。母と姉が作った大味な料理を楽しんだ。妹と食べ物を奪い合った。この日、俺は六八年ぶりに家に帰った。