佐官といえば、将官がわんさか出てくる戦記では一山いくらの存在である。大佐や少佐なんてのが出てくると、下っ端のように思える。しかし、それは現実的ではない。
軍人の階級を民間企業に例えると、兵卒はアルバイト、下士官は一般職正社員、尉官は総合職正社員、佐官は部課長、将官は役員といったところだろうか。戦記の主要人物はほとんどが役員ということになる。
佐官をさらに細かく分類すると、少佐は小規模支店長もしくは本社係長、中佐は中規模支店長もしくは本社課長補佐、大佐は大規模支店長もしくは本社課長、代将たる大佐は民間企業の本社部長もしくは支社長にあたる。戦記の登場人物と比較すると下っ端であろうが、組織全体ではそうではないことが理解できるだろう。
最下級の佐官たる少佐は、宇宙軍では艦長、地上軍では大隊長や飛行隊長である。基本給は三二七〇ディナール。各種手当を加えると、その一・三倍から一・八倍はもらえる。下士官・兵卒からの叩き上げた士官のほとんどが少佐止まりだが、それでも十分過ぎる待遇だろう。かくいう俺も士官となった当初は、少佐で定年を迎えられたらいいなと思ったものだ。
最上級の佐官たる大佐は、宇宙軍では群司令、地上軍では旅団長もしくは航空群司令だ。代将の称号を与えられ、将官職の戦隊司令や師団長を務める場合もある。士官学校卒業者の場合は、三〇代後半から四〇代前半で大佐に昇進し、八年の同一階級在籍期限が切れると予備役に編入されるのが普通だ。下士官から大佐まで昇進した人は一般職正社員から本社課長、兵卒から大佐まで昇進した人はアルバイトから本社課長に昇進したと思ってほしい。
大佐や代将でも一般人から見れば、目もくらむような大幹部であろうが、上には上がいる。准将以上の将官だ。
最下級の将官たる准将ですら五万人以上の将兵を統率し、自ら選任した幕僚や副官を従え、高級車を公用車として使う。将官は宇宙軍と地上軍を合わせた全軍将兵五五〇〇万人の中で一万人に一人、全士官三七〇万人の中で六七二人に一人、士官学校卒業者でも二〇人に一人しかいない。実績、運、人脈のすべてを兼ね備えた者のみが到達できる聖域。それが将官である。
二〇代で将官になれるのは、アンドリュー・フォークやマルコム・ワイドボーンのような大秀才か、そうでなければヤン・ウェンリーのような奇才中の奇才に限られる。そんな逸材が滅多にいるはずもなく、二〇代の将官は全軍で一六人しかいない。新たに一七人目となった人物が兵卒出身というのは、驚天動地の事態だろう。当の本人である俺も驚いているのだから。
一か月前に内示はもらっていた。しかし、いざそれが現実のものになってみると、冷静ではいられない。
「辞令
宇宙艦隊総司令部付 代将たる宇宙軍大佐エリヤ・フィリップス
宇宙軍准将に昇任させる
宇宙暦七九六年九月五日
国防委員長 ヨブ・トリューニヒト」
国防委員会人事部長パヴェレツ中将から辞令書を渡された瞬間、手が震えて落としてしまった。慌てて拾おうと屈んだらバランスを崩して転んだ。
準備はしたつもりだった。腹痛に備えてあらかじめ胃薬を飲み、冷汗をかいても大丈夫なように吸汗性のアンダーシャツを着込んだ。それなのに醜態を晒してしまった。自分の小心ぶりが情けない。
「将官昇進は一大事だ。落ち着いている方が珍しい。辞令を受け取った瞬間に失神した者、この部屋を出た後にはしゃぎすぎて階段から転げ落ちた者なんかもいた。それよりはずっとましさ」
パヴェレツ人事部長はこう言ってくれたが、そんなのと比べられても救いにはならない。これからやっていけるのだろうかと不安になってくる。
自分の昇進よりも部下の昇進の方がずっと嬉しい。ビューフォート中佐は大佐、コクラン大佐は准将、フェーガン少佐は中佐、コレット中尉は大尉となり、その他の主だった者もすべて一階級昇進した。防衛部隊副司令アブダラ代将だけはヤン告発の件が祟ったのか、昇進を見送られた。
エル・ファシルで活躍した人たちも昇進した。ヤン准将は少将、メイスフィールド代将やジャスパー代将やパトリチェフ大佐らは准将、ダーシャは大佐となり、その他の主だった者も昇進を果たした。
辞令をもらった翌日、将官昇進の祝賀会が開かれた。主催者はパラス星人会。会場は「ホテル・ユーフォニア・ハイネセンポリス」という政財界御用達の高級ホテル。前の世界ではローエングラム朝銀河帝国の新領土総督府が置かれた建物だ。
広い会場には、ヨブ・トリューニヒト国防委員長を筆頭に、政治家、財界人、官僚、軍人、文化人、芸能人など各界の著名人が集まっていた。テレビで馴染みの顔も少なくない。
政界からの出席者は、トリューニヒト国防委員長、ネグロポンティ国民平和会議(NPC)幹事長筆頭補佐、カプラン第一国防副委員長、アイランズ天然資源副委員長、ボネ下院司法委員長、ブーブリルNPC女性局長代理らトリューニヒト派の政治家が大半を占める。
財界からは、テイラー・ハミルトン社のジフコフ名誉会長、オーロラ・グループのキューパー会長、ヘンスロー社のヘンスロー会長、テレホート・エレクトロニクスのマッケナ社長、ウェスタスのガルダ社長など、軍需産業の大物が勢揃いだ。ジフコフ名誉会長はトリューニヒト委員長の義父であり、最大の支援者でもある。
官界からは、法秩序委員会のサンテール事務総長、法秩序委員会人権部のステパーシン部長、同盟警察本部副長官バスクアル警視監、同盟警察本部公安部長チャン警視監、首都警察本部長官クリフォード警視監、国立水素エネルギー公社のギュネイ副総裁らが出席した。警察官僚と司法官僚が目立つ。
軍部からは、第一一艦隊司令官ドーソン宇宙軍中将、国防委員会事務局次長ロックウェル宇宙軍中将、陸上部隊副総監ギオー地上軍中将、士官学校校長アジュバリス地上軍中将、航路管制総軍副司令官シャイデマン宇宙軍中将、国防委員会通信部長ルスティコ技術中将など、将官だけでも三三名。イゼルローン遠征軍に大勢の将官が参加していてもなお、これだけの人数を集められる。海賊討伐と対テロ作戦がトリューニヒト派を大きく飛躍させた。
その他には、政治評論家・愛国作家連盟理事ドゥメック、退役軍人協会会長トルエバ退役地上軍大将、十字教贖罪派幹部・愛国宗教者協会会長フォックス大司教、元テルヌーゼン検察庁検事長・憂国騎士団顧問弁護士ベタンクール、モントクレア大学文学部のヴァーノン教授といったトリューニヒト派の有名人が顔を連ねる。
トリューニヒト委員長の権勢が絶大なことをこの顔触れが教えてくれる。いや、そう思わせるためにこれだけのメンツを集めたといった方が適切だろうか。
ロボス派からは、派閥トップの宇宙艦隊司令長官ロボス宇宙軍元帥、ナンバーツーの地上軍総監ペイン地上軍大将が型通りの祝賀メッセージを出し、部下を代理として出席させた。これは宇宙軍及び地上軍の代表としての儀礼的な範囲に留まる。
シトレ派からは、ナンバーツーの宇宙艦隊総参謀長グリーンヒル宇宙軍大将が出席した。同盟軍きっての社交家である彼は、どこにでも顔を出すことで知られる。
「個人としてお祝いさせていただきたい」
私服姿のグリーンヒル大将は「個人」を強調した。派閥トップの統合作戦本部長シトレ宇宙軍元帥は、メッセージも代理も出していない。公式に俺の提督就任を認めたくはないが、グリーンヒル大将を通じて非公式のパイプを繋ぐつもりなのだろう。
中間派からはメッセージも代理出席も無かった。一切関係を結ぶつもりがないようだ。中間派最長老のアルバネーゼ退役大将は、表世界では穏健保守の重鎮、裏世界ではサイオキシンマフィア創設者Aであり、二重の意味でトリューニヒト委員長と敵対している。マフィアと関係ないベルージ大将やシャフラン大将らは、イデオロギー上の理由でトリューニヒト委員長を嫌っていた。
過激派からは一人も出席しなかったが、二大巨頭のフェルミ地上軍大将とヤコブレフ宇宙軍大将がメッセージを送り、部下が代理出席した。その他、将官一五名がメッセージを送ってきた。かつて彼らの企みを潰したことがあるのに、なぜか好かれている。俺がルドルフのようなタフガイに見えるのだろうか?
無派閥のルグランジュ宇宙軍少将は、「友人として祝いたい」と言って、内輪で開く祝賀会への出席を希望したため、この場には姿を見せていない。
トリューニヒト委員長とドーソン中将は、俺を要人たちに紹介して回る。この祝賀会はトリューニヒト派の権勢を示す場であると同時に、俺と政界・官界・財界との顔つなぎをする場でもあるのだ。
「彼はとても素直で小官の言うことを良く聞いてくれます。だから、この若さで提督になれたのです。小官が指導した者の中で随一でしょうな」
ドーソン中将は俺のことを紹介しているんだか、自分が凄いと言いたいんだかわからないようなことを言い、要人たちを戸惑わせた。
いつもと変わらぬ恩師の様子に「しょうがない人だなあ」と思いつつも顔が綻ぶ。純粋な感謝の気持ちもあった。彼がいなければ、トリューニヒト委員長と会うこともなく、この年で提督になることもなかった。そう、すべて彼のおかげなのだ。
「すべて閣下にご指導いただいたおかげです」
俺は笑って相槌を打った。
「ははは、ドーソン提督は良い教え子をお持ちになりましたな」
要人たちはつられたように笑う。こうして、トリューニヒト派の要人たちと面識を得た。
「主教でいらっしゃるんですか……?」
自分と同年配の男性から渡された名刺にびっくりした。名刺に記された肩書きは「地球教主教 宗教法人地球教団総本部 財務担当書記」、名前を「エマニュエル・ド=ヴィリエ」という。前の人生で世話になった教団の幹部、しかも戦記に登場する超大物ではないか。
「聖職者に見えないとは良く言われます」
ド=ヴィリエ主教が如才ない笑いを浮かべる。シャープな痩身に上等なスーツを隙無く着こなしており、本人が言うように聖職者らしく見えない。大手金融会社のエリート社員のようだ。
「そ、そんなことはありません。主教閣下の威厳に恐縮するばかりです」
俺は額の汗を拭いた。地球教団の主教がここにいること自体はおかしくない。トリューニヒト委員長の有力支援団体に、「愛国宗教者協会」という宗教右派の超宗派政治組織がある。地球教団はその加盟団体の一つだ。
ド=ヴィリエ主教が超大物なのが問題だった。前の世界の彼は地球教のテロ部隊を統率し、ラインハルト帝暗殺未遂、ヤン・ウェンリー暗殺など数々の大事件を起こした張本人である。
「ははは、そうでしたか。お世辞とはいえ嬉しいものですな」
ド=ヴィリエ主教は社交的な笑いを浮かべていたが、その眼の奥には値踏みするような色があった。前の世界で世話になった優しい主祭さん、シャンプールで会った純朴な少女信徒とは明らかに毛色が違う。油断ならない感じだ。あまり近づきたくないタイプだと思った。
その後、ド=ヴィリエ主教は地球教団の資産管理団体「信徒基金」の責任者でもあると、ヘンスロー会長が教えてくれた。資金運用に天才的な手腕を持っており、莫大な運用利益をあげた功績を認められて、二〇代で執行部入りしたのだそうだ。金融会社のエリート社員という印象は、当たらずとも遠からずといったところだった。
「あれは法衣を着たビジネスマンだな。神じゃなくて金に仕えてるんだ」
ヘンスロー会長は見下すように言った。この人は父から受け継いだ会社の収益を、政治家、芸能人、スポーツ選手などに気前良くばらまくことで有名な人だ。
こうして祝賀会という名の政治的セレモニーが終わった。将官が極めて政治的な存在だと肌で感じた四時間だった。
准将昇進を祝うメッセージが広報経由で押し寄せてきた。この八年間で知り合った人々の名前がメールボックスにずらりと並ぶ。
「へえ、来年結婚するのか」
オーヤン・メイシゥ一等兵は空母フィン・マックールでの部下だった。当時はまだ一〇代の少女だったのに、間もなく結婚するのだ。年月の移り変わりを感じさせられる。
「頑張ってるなあ」
憲兵司令部副官だった当時、副官付の一人だったタチアナ・オルロワ。三年前は伍長だったが現在は曹長まで昇進しており、来年から幹部候補生養成所に入所するという。メッセージの中には、「提督の指導のおかげです」と記されていて嬉しくなった。
「えっ!?」
ヴァンフリートで知り合ったヴァレリー・リン・フィッツシモンズ大尉のメールは、「あの日の約束、覚えてる?」という心臓に悪いタイトルだった。恐る恐る中身を開く。
「ああ、そういうことか」
そういえば、ヴァンフリートの戦いが始まる直前に、「戦いが終わったら彼女のためにコーヒーをいれる」と約束していたのだった。さすがは薔薇の騎士連隊長シェーンコップ大佐と付き合っていた女性。人の悪さは彼氏譲りである。
「立派な人だなあ」
元第一一艦隊参謀長アンリ・ダンビエール少将は、第三次ティアマト会戦の終盤に俺と激しく対立した。結果として俺が正しかったため、彼の評価はがた落ちし、今は辺境に追いやられた。そんな因縁のあった人が、「今になって思うと君が正解だった。参謀としては〇点だが、ドーソン提督の部下としては満点だろう」と言ってくれる。なんと度量が大きいのだろう。彼の復権に尽くそうと決意した。
面識はあるけれどもさほど親しくない人、面識がまったくない人からもメッセージが送られてきた。
「まだ懲りないのか」
差出人欄に記された妹の名前を見た途端、嫌な気分になった。いい加減、俺に嫌われてることに気づいてほしい。有無を言わさず削除する。
「勘弁してくれ」
サマンサ・ワカツキという人から来たメールには、「閣下に憧れて赤毛にしました!」と書かれており、髪を赤く染めた画像が添付されていた。見たところ二〇代前半の女性のようだ。好かれるのは嬉しいが、こういう真似をされると引いてしまう。
「はやくおおきくなって、ふぃりっぷすていとくみたいなつよくてかっこいいぐんじんになって、わるいわるいてろりすとをやっつけたいです」
綴り間違いだらけのメールを寄越してきたのは、ラリー・クルーニーという少年だった。来年小学校に入るのだと言う。テロリストを純粋に悪と信じているのはともかく、子供に「強くてかっこいい」と言われたら嬉しくなってくる。
俺はさっそくペンと紙を取り出し、ラリー少年への返事を書いた。
「ラリー君は軍人になりたいのですね。とてもいいことだと思います。立派な軍人になるために大事なことが八つあります。
一つ、ご飯をたくさん食べましょう。立派な軍人は丈夫な体を持っています。
二つ、体をたくさん動かしましょう。立派な軍人は元気いっぱいです。
三つ、いっぱい勉強しましょう。立派な軍人は物知りです。
四つ、パパとママと先生の言うことをよく聞きましょう。立派な軍人は他人を尊敬します。
五つ、友達を大事にしましょう。立派な軍人は戦友を大事にします。
六つ、年下の子をかわいがりましょう。立派な軍人は部下をかわいがります。
七つ、喧嘩はいいですが弱い者いじめはいけません。立派な軍人は親切です。
八つ、威張ってはいけません。立派な軍人は控えめです。
いつかラリー君と一緒に戦える日を楽しみにしています。それではお元気で。
未来の戦友ラリー・クルーニー君へ。
同盟宇宙軍准将 エリヤ・フィリップス」
このメッセージに加え、俺の軍帽、裏側にサインを書き込んだ第八一一独立任務戦隊の集合写真を広報に託し、ラリー少年に送るよう依頼した。
「愛国の名将エリヤ・フィリップス閣下の昇進を祝す
閣下が国家に捧げてこられた献身と忠誠に敬意を表するとともに、
さらなるご活躍を心より祈念するものである
憂国騎士団総本部」
なんと、悪名高い極右民兵組織「憂国騎士団」からメッセージをもらった。
「准将昇進、御目出度う御座います
エリヤ・フィリップス閣下の輝ける前途を祝し、
一層の御武運と御活躍を御祈り申し上げます
正義の盾中央委員会」
統一正義党系列の極右民兵組織「正義の盾」からもメッセージが届いた。この組織は憂国騎士団と対立関係にある。
その他の右翼団体からもメッセージが次々とやってくる。現在の右翼はヨブ・トリューニヒト国防委員長などの右派ポピュリスト、統一正義党などのルドルフ的権威主義者に二分されているのだが、その双方から満遍なく送られてきた。
リベラル系や反戦派の団体からのメッセージは九通に過ぎない。そのうち六通は出身惑星パラスの団体、二通はエル・ファシルの団体、一通は退役した部下が事務局長を務める団体だった。自分がどのように見られているのかが一目瞭然だ。
個人でメッセージを送ってきた人にしても、熱烈な愛国者、極端なリベラル嫌い、英雄崇拝主義者、宗教右派など右翼がかった人が勢揃いしている。
「まいったなあ」
マフィンを食べながら頭をかく。右翼はタフガイが大好きだ。猛将で礼儀正しくて筋肉質な俺は好みのど真ん中なのだろう。別に右翼を嫌いなわけではないが、支持層が偏りすぎるのはよろしくない。
「世渡りする上では便利なんじゃないすか? 最近は右傾化してるんでしょう?」
友人のハンス・ベッカー少佐が身も蓋もないことを言う。彼は帝国からの亡命者なので、民主主義に対する思い入れが薄い。世論がどう動いても迎合すればいいとしか思っていない。
同盟は急速に右傾化していた。公式の場で政府批判めいたことを言えば、マスコミからは非難され、ネットでは罵倒される。極右から暴力を振るわれることだってある。
「対テロを名目とする民衆弾圧に抗議する!」
ウィルモット賞作家アキム・ジェメンコフら六四名の反戦派文化人が共同声明を発表し、対テロ作戦の最中に行われた暴行・虐殺・拷問に抗議した。しかし、執拗な嫌がらせに遭い、半数が署名取り消しに追い込まれた。
「出自のみを根拠とする捜査は、同盟憲章第三条に反する。私は愛国者だ。憲章に背くことはできない」
ノルトホランド星系警察のエジナウド・フランカ長官は、「亡命者及び分離主義運動が盛んな星系出身者全員の個人情報を収集せよ」という同盟警察本部の要請を拒んだ。その三六時間後、星系政府はフランカ長官を解任し、同盟警察本部に全面協力すると約束した。
「軍事力は凶器だ。それを行使する軍人が安易に流されてはならない。冷静さを保て」
統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥は、強硬論を煽ったウィジャヤ中佐ら本部職員三名を厳重注意処分とした後に、全職員を集めてこのような訓話を行った。市民からは激しい反発を買い、処分撤回とシトレ元帥の辞任を求めるメールが統合作戦本部に押し寄せた。
「やれやれ、何がそんなに怖いのかねえ。みんなが同じことを叫んでる方がずっと怖いと、私は思うけどな」
同盟軍広報誌『月刊自由と団結』の電話インタビューに対し、ヤン・ウェンリー少将はそう答えたそうだ。このコメントは担当者の判断で没になり、エル・ファシル七月危機の英雄が攻撃される事態は避けられた。
反戦市民連合などの左派政党が、政府批判の集会を開いた。しかし、政府を支持する集会と比較すると、参加者がはるかに少ない上に、憂国騎士団や正義の盾がしばしば殴りこみをかけてくる。
こんな時は糖分を補給するに限る。俺はフルーツケーキを箱から取り出した。高級菓子店フィラデルフィア・ベーグルのフルーツケーキ。ダーシャの友達からプレゼントされたものだ。同盟国内を吹き荒れる愛国心の暴風、パトリオット・シンドロームはまだまだ収まる気配を見せない。
九月一〇日、電子新聞に「フィリップス提督、軍人志望の少年に熱い激励」という見出しが踊った。ラリー少年が俺の手紙を見せびらかしたことで、マスコミの目にとまったらしい。
「顔も心も男前」
「同盟軍人の鑑」
「理想のお兄ちゃん」
こういった賛辞が飛び交い、ただでさえ多い出演依頼がさらに増えた。最近は朝から晩まで仕事漬けだ。単独出演はもちろん、他の英雄との共演も多い。広報担当のヴィオラ中佐がやたらと仕事を入れてくるせいで、食事の時間すら確保できなかった。
「クリスチアン中佐が懐かしくなりますよ」
カメラマンのルシエンデス准尉に、俺は愚痴を漏らした。
「ああいう人はなかなかいないからな」
「広報の仕事がそういうものなのは分かるのですが」
「出される方としてはたまったもんじゃないだろうな」
「ええ、まったくです」
「早くシャバに戻ってきてほしいもんだが」
「頑張りますよ」
俺はきっぱりと言った。かつての広報担当で恩師であるクリスチアン中佐。その査問会が明日から始まる。
エル・ファシル七月危機において、ヤン少将は自治体の出動要請に応じないよう厳命した。クリスチアン中佐はこの命令に背き、独断で要請に応じたために査問を受ける身となった。
戦記で慣れ親しんだ英雄。自分を軍人の道に進ませてくれた恩師。この両者が対立するのは心苦しい。ヤン少将を非難するのでなく、クリスチアン中佐を弁護する。だから問題はないのだと自分に言い聞かせる。
「勝算は?」
「厳しいですね。証人があれじゃあ」
ヤン少将側の証人は、パトリチェフ准将、ジャスパー准将、デッシュ准将、ビョルクセン准将の四名。エル・ファシル七月危機で戦った将兵の一部が、熱烈なヤン信奉者となった。この四名はその中心的存在である。
クリスチアン中佐側の証人は、俺の他に三名いる。彼らはエル・ファシル防衛戦に参加したわけではなく、治安戦の専門家でもなければ、クリスチアン中佐と親しいわけでもない。何で選ばれたのかさっぱり理解できない面子だ。コクラン准将やアブダラ代将ら防衛部隊幹部が証人に立とうとしたが、許可されなかった。
「君は議論が下手くそだから許可されたんだろうな」
「せめてアブダラ代将がいたら良かったのですが。あの人は軍団法務部長の経験者なので」
「だから許可されなかったのさ」
「でしょうね」
クリスチアン中佐の独断専行の是非を問うのが、査問会の本来の目的だった。もともとトリューニヒト国防委員長は、適当にごまかすつもりだったらしい。市民はこの査問会にさほど関心を抱いていないし、ヤン少将の行動は法的に灰色であるため、うやむやにするのが政治的に望ましいのだそうだ。査問委員長に大将・中将でなく少将を選んだのも、やる気の無さの表れだろう。
しかし、査問委員長のウィズダム少将が悪い意味でやる気を出した。この査問会の過程と結果はすべて公開される。「軍人は犠牲を恐れてはならない」という信念を持つ彼には、絶好の宣伝場所に見えたらしい。
査問会当日、俺は「不公平」という言葉を視覚で理解することとなった。ウィズダム少将は「ヤン少将は完全に正しい」という大原則を打ち出し、それに沿わない証拠を排除する形で査問を進めた。俺やクリスチアン中佐の発言は何度も遮られた。他の証人はウィズダム少将のシナリオに奉仕する存在でしか無かった。
「ヤン少将」
ウィズダム少将に促され、ヤン少将が立ち上がった。
「まず、最初に確認したいことがあります。それは軍隊が守るべきは、何よりも市民であるという原則です。軍隊が守るべき市民とはなにか? それは自由と権利を持つ個人です。軍隊が守るべき権利とはなにか? それは尊厳を侵されない権利、人格を尊重される権利、生命及び身体を害されない権利、財産を保障される権利、人間らしい生活を送る権利です。エル・ファシルで私が守れたのは生命だけでした。市民の財産を守ることはできなかった。私は職務を全うできなかった。心より恥ずかしく思っています」
なんとヤン少将は自己批判を始めた。ウィズダム少将が慌ててフォローに入る。
「しかし、それは市民を守るための緊急避難だった。スパイがどさくさに紛れて市民を殺すかもしれないと判断したからこそ、暴動鎮圧を後回しにした。大を生かすために小を殺すのは当然。ヤン少将の判断は正当だ」
「確かに私はそう判断しました。しかし、間違いだったと考えています」
「そんなことはない。ヤン少将の判断が市民を救った」
「本来ならば財産なども守るべきでした。他に選択肢がなかったのは事実です。すべてを守る力が私にはなかった。しかし、そうだとしても正しかったとは言えません。軍隊が守るべきものを守れなかった。それは敗北です。敗北を勝利と言い換えるなど、精神的退廃に他なりません」
「ヤン少将は何一つ敗北していない。あのシュライネンを破り、エル・ファシルを守りぬいた。大勝利ではないか」
もはやウィズダム少将は査問委員長でなく弁護人と化していた。
「軍隊が守るべきものは、市民の自由と権利です。それを守れなかった以上は敗北です」
「国家あっての市民、国家あっての自由と権利ではないか。ヤン少将は国家分裂を防いだ。勝利したのだ」
「違います。市民あっての国家です。自由と権利を守るための国家です。敵を破るのはその一つの手段に過ぎません。敵に勝ったとしても市民を守ることができなければ、それは敗北でしょう。砦の守備隊長が砦を失ったようなものです」
ヤン少将はエル・ファシル革命政府軍との決戦前に述べた持論を繰り返す。委員長席のウィズダム少将が不快そうに顔をしかめた。
「勝てば市民も守られるのだ」
「市民の生活を破壊したのに『守った』と言い張れるほど、太い神経は持っておりません。さらに言うと、私に対する擁護はすべて的外れです。私は批判されるべきであり、よって批判のみが的を得ていると考えます」
一瞬、ヤン少将に見とれてしまった。彼と俺の考えは違う。前の世界で混乱期を生きた経験、この世界で辺境を回った経験から、国家なくして自由も権利もないと思う。それでもなお美しいと感じた。信念の中身でなく、信念を通そうとする態度を美しいと感じた。四年前に玉砕した帝国軍の闘将カイザーリング提督を思い出した。
「では、出動要請に応じたクリスチアン中佐の判断が正当だったというのか?」
「思いません」
「ならば、何が正解だったと思うのだね?」
「わかりません。私が教えてほしいぐらいです」
「それは少々無責任ではないかな」
「戦争はペーパーテストとは違います。必ず正解が用意されているとは限らない。どの答えを選んでも間違いということもあるでしょう。そんな場合に指揮官が果たすべき責任とは、よりましな間違いを犯すことであり、ましであっても間違いは間違いに過ぎないと認めること。私はそう考えています。無責任とは分からないことを分からないと告白することではありません。間違いを正解だと言い換えて正当化することです」
必ず正解が用意されているとは限らない。まったくもってその通りだった。ヤン少将はぶれることがない。
「よろしい、席に付きたまえ」
これ以上喋られたらまずいと思ったのか、ウィズダム少将はヤン少将を着席させた。そして、代わりにパトリチェフ准将に発言を促す。
「ヤン少将の判断は必要悪でした。しかし、必要であっても悪は悪。決して肯定されるべきではありません。なぜなら――」
パトリチェフ准将は朗々たる美声でヤン批判を始めた。
「貴官の言いたいことはよくわかった! 席に付きたまえ!」
慌てたウィズダム少将はパトリチェフ准将を座らせ、ジャスパー准将を指名した。
「政治は常に軍事に優先するというのが文民統制の原則です。このケースで言うと、ヤン少将は軍事的動機、自治体は政治的動機で――」
ジャスパー准将はヤン少将の判断が軍事優先だったと指摘する。
「着席! 着席だ!」
ウィズダム少将はジャスパー准将に着席を命じる。しかし、代わりに証言したデッシュ准将やビョルクセン准将もヤン少将を批判し、完全にウィズダム少将のシナリオはぶち壊された。
査問会が終わった後、ヤン少将に礼を言おうかどうか迷った。弁護人としての立場を考えると、言うのが筋だろう。しかし、被告席のクリスチアン中佐は殺気のこもった目でヤン少将を睨みつけていた。剛直な彼にとって、自分が嫌悪する論理で擁護される以上の屈辱はない。これで有利になっても惨めに感じるだけではないか。
一〇分ほど悩んだ挙句、礼を言うことに決めた。ヤン少将らがウィズダム少将のシナリオを壊してくれたのは事実だ。それにクリスチアン中佐は礼儀にうるさい。ヤン少将に頭を下げることも礼儀として認めるだろうと見当をつけた。
俺は食堂に入り、ヤン少将らの席に歩み寄った。最初にこちらを向いたのはジャスパー准将。それからパトリチェフ准将、デッシュ准将、ビョルクセン准将も俺に気づく。ヤン少将は俺がテーブルの真ん前に来てからこちらを向いた。
「ありがとうございました!」
俺は直立不動の姿勢でぴったり四五度のお辞儀をした。
「彼のためにやったわけではないんだけどね」
ヤン少将の困ったような声。
「それでもありがとうございました!」
顔を上げずに二度目の礼を述べる。
「わかったよ」
冷めた風に返すヤン少将。俺が歓迎されざる客だということを声色で教えてくれる。さっさとこの場を離れた方がいいと判断した。
「失礼いたしました!」
さっと締めてから、俺はすたすたと歩き去った。食堂のカウンターに差し掛かったところでちらりと隅っこを見る。
ヤン少将はいつもと同じぼんやりとした顔でカップに口を付けていた。他の四人のうち、パトリチェフ准将とデッシュ准将がこちらを見ており、ジャスパー准将とビョルクセン准将は興味なさげだ。
いい主従だと思った。並の部下なら、ヤン少将の表面的な評価を守ろうとしただろう。そうした方が自分にとって都合がいいからだ。しかし、この四人はヤン少将の真意を汲んで動く。以心伝心とはまさに彼らのことだろう。
食堂にいるヤン少将の部下の中で、前の世界でも腹心だったのはパトリチェフ准将のみ。デッシュ准将も幹部ではあったが腹心とは言えなかった。ジャスパー准将、ビョルクセン准将は名前すら残っていない。歴史が変われば部下の構成も変わるのである。この世界でヤン・ファミリーという物が生まれるとしたら、おそらくはこの四人が中核になる。そんな予感がする。
査問会以降、ヤン少将は七月危機における判断が失敗だったと公言するようになった。政府批判ならともかく、自分で自分を批判しているのだから止めようもなかった。
ヤン人気の根本は、民間人が一人も死ななかったことに対する評価でなく、東大陸西部を焦土にした「覚悟」に対する評価である。しかし、本人にそれを否定されたらどうしようもない。
右派のヤン離れが急速に進んだ。統一正義党、正義の盾、憂国騎士団などの極右勢力は、相次いで糾弾声明を発表。右翼少年によるヤン襲撃未遂事件も起きた。出演依頼も半数以下まで減っており、九月いっぱいでヤン担当広報チームが解散するとの噂もある。
一方、リベラル派や反戦派は、「軍人のすることは何でもかんでも気に入らない」というタイプを除けば、概ね肯定的だった。
エル・ファシルの勝者は英雄の座から自ら降りた。だが、パトリオット・シンドロームが収まる気配はない。
英雄はいくらでもいる。エル・ファシル七月危機で活躍した軍人、シャンプール・ショックにおいて救助活動にあたった警察官や消防士、対テロ作戦を指導する政治家、テロリスト批判の論客などが代わる代わるテレビに登場し、同盟市民の英雄主義を満足させた。
九月二〇日、イゼルローン要塞から八・六光年の距離にあるシロンスク星系の第一二惑星レグニツァにおいて、同盟軍六万六七〇〇隻が帝国軍二万八〇〇〇隻と遭遇したとの報が入った。人々は新たな英雄譚の誕生を期待した。
交戦開始の翌日、人々の期待はきわめて皮肉な形で叶えられた。同盟軍が大敗し、敗軍の中で奮戦した一握りの生者と死者が新たな英雄となった。
ド・ヴィリエの容貌描写は原作小説8巻に基づきました。