古代フェニキアの神の名を冠していることから分かる通り、ティアマト星系はアーレ・ハイネセン直系の「長征グループ」が同盟建国期に開拓した星系の一つだ。最盛期には九〇〇〇万の人口を有していたが、対帝国戦争が始まってから激戦地となり、六五七年にはすべての住民が内地へと疎開した。今では軍人以外の人間がこの星系を訪れることはない。地上に横たわる都市の残骸のみがかつての繁栄を伝える。
宇宙暦七九五年四月一日、ティアマト星系に入った同盟軍四万二六〇〇隻は、第七惑星エアから四光分(七二〇〇万キロメートル)の場所に布陣した。
中央に第二艦隊一万三八〇〇隻が布陣する。司令官のジェフリー・パエッタ中将は、四〇代前半で堂々たる体格と重々しい雰囲気を持つ。隙のない用兵と徹底した完璧主義から、「ミスター・パーフェクト」と呼ばれる宇宙艦隊きっての逸材だ。ワンマンなのが玉に瑕だった。
第二艦隊の右側、同盟軍の右翼に第九艦隊一万四一〇〇隻が布陣する。姓を持たない古代騎馬民族の末裔であるウランフ中将が司令官だ。並外れた勇敢さと柔軟な用兵手腕を兼ね備え、浅黒く精悍な顔が生まれつきの将帥と言った印象を見る者に与える。パエッタ中将より年齢はやや若いが、勇名は等しい。そんな彼を市民は「黒鷲(ブラック・イーグル)」と呼んで敬愛する。
第五艦隊の左側、同盟軍の左翼には第一一艦隊一万二二〇〇隻が布陣する。司令官のクレメンス・ドーソン中将は、ヨブ・トリューニヒト国防委員長の側近として頭角を現した。これといった戦功が無い割に知名度は高い。同盟軍の隅々にまで「じゃがいも提督」の名が轟いていた。
宇宙艦隊司令長官ロボス元帥と直轄部隊四〇〇〇隻がその後方に控える。この戦力は総司令部の護衛と予備戦力を兼ねる。一日後には国境で哨戒活動にあたる第六艦隊C分艦隊二二〇〇隻がこれに加わる予定だ。
そして、シャルル・ルフェーブル中将の第三艦隊、ウラディミール・ボロディン中将の第一二艦隊が、エア宙域から六光時(六四億八〇〇〇万キロメートル)の地点にいる。彼らは二日後に到着する。
迎撃軍を編成するにあたり、ヨブ・トリューニヒト国防委員長は、五個艦隊を動そうとした。ところが、四個艦隊で十分と主張する進歩党と統合作戦本部の反対にあい、動員予算の可決が遅れてしまった。その結果、三個艦隊が先に出発し、二個艦隊が遅れて到着する形となったのだ。
対立は前線でも起きていた。総司令部は第三艦隊と第一二艦隊が到着するまで、守勢に徹するつもりだった。それに第二艦隊副司令官のウィレム・ホーランド少将が異議を唱えた。
「大軍と正面からぶつかるのは不利。先制攻撃で出鼻を挫くべきだ」
勇将らしい積極論といえよう。だが、上官にあたるパエッタ中将が反対した。
「劣勢とはいえ守勢に徹すれば耐え切れる。後続の到着を待った方がいい」
ホーランド少将の積極論、パエッタ中将の消極論のどちらも用兵学的には一理ある。それに別の思惑が絡んでややこしくなった。
年内に第四艦隊司令官と第六艦隊司令官のポストが空く。ロボス元帥とシトレ元帥は、そのどちらかをホーランド少将に与えようと考えた。そのためには何としても戦功を立ててもらいたい。第二艦隊副司令官への登用もそれが目的だった。
ロボス総司令官は攻撃的な用兵を好む。政治的な事情もある。こういったことから積極論へと傾いた。慎重なグリーンヒル総参謀長は消極論を支持した。その他の幕僚も二つに割れた。
こうなると注目されるのが第九艦隊司令官ウランフ中将と第一一艦隊司令官ドーソン中将だ。前者は用兵上の観点、後者はホーランド少将との確執からパエッタ中将支持に回り、消極論が採用されることとなった。
「よかった」
俺は胸を撫で下ろした。前の世界で七九五年に起きた第三次ティアマト会戦において、第一一艦隊司令官ホーランド中将は無理な突撃をして敗れた。その二の舞は避けられそうな気配だ。
だが、安心するのはまだ早い。八〇光秒(二四〇〇万キロメートル)前方の帝国軍は、六万四〇〇〇隻から六万五〇〇〇隻。同盟軍の一・六倍にあたる。同盟軍正規艦隊は一・三倍の帝国軍主力艦隊と互角と言われてきたが、この戦力差はさすがに苦しい。
帝国宰相にして宇宙軍及び地上軍筆頭元帥であるルートヴィヒ皇太子が総指揮を取る。実戦経験は無いが、配下に大勢の勇将・知将を抱えていることから、大きな将器の持ち主と言われる。
二九歳の元帥府参謀長テオドール・ハウサー大将が皇太子の代わりに采配を振るう。彼は皇太子が誇る「ルートヴィヒ・ノイン(ルートヴィヒの九人)」の筆頭で、平民でありながら二〇代で帝国軍大将となった史上初の人物だ。敵の裏をかくのが得意な知将と恐れられる。
中央にはゼークト大将とヴァーゲンザイル中将の艦隊、左翼にはエルクスレーベン中将とカルナップ中将の艦隊、右翼にはケンプ中将とブラウヒッチ中将の艦隊が布陣した。どの艦隊も八〇〇〇隻から一万〇〇〇〇隻の間と推定される。
後方には、ゾンバルト少将、コッホ少将、エルラッハ少将の分艦隊が、皇太子の旗艦「ヴェルト・ヴンダー」を取り巻くように展開する。彼らは皇太子の親衛隊的な役割を果たす。
皇太子本隊よりも後方にミューゼル中将の艦隊が控えていた。こんなに後ろにいる理由は不明だが、予備として温存されているという見方が妥当だろう。
これらの提督のうち、ルートヴィヒ・ノインでないのは、保守派のゼークト大将、皇帝の寵臣であるミューゼル中将の二人だけだった。皇太子への目付役として配属されたと思われる。
ルートヴィヒ・ノインが一つの戦場に勢揃いするのは初めて。その下の部隊指揮官も皇太子派の優秀な人材が揃っているだろう。非皇太子派のゼークト大将とミューゼル中将も勇将だ。同盟軍は未だかつて無いほど強大な敵と直面した。
「距離を取れ! 敵を近づけるな! 二個艦隊が到着するまで守勢に徹する!」
ロボス元帥の方針は、第六次イゼルローン攻防戦の戦訓を参考に作られた奇襲防止対策に沿ったものだった。
同盟の情報機関は、昨年の第六次イゼルローン遠征で猛威を振るった幽霊艦隊の指揮官、同盟軍の三度の攻勢を阻止した小部隊の指揮官の正体を、まだ特定していない。しかし、戦闘データは残っている。統合作戦本部と宇宙艦隊総司令部が徹底的に分析した結果、「先制攻撃が得意。艦隊運用の柔軟さ、突撃指揮の巧妙さ、戦局眼の的確さは最高水準」と分かった。そして、徹底的に戦術パターンを研究し、対策を編み出した。
俺は知っている。その提督は後方に控えるラインハルト・フォン・ミューゼルだ。しかし、あえてそれを口にする必要は無い。ラインハルトが持つ「帝国のエル・ファシルの英雄」の異名が人々を警戒させた。
あの英雄が謎の小部隊指揮官ではないか? 漠然とではあるが、そんな空気が同盟軍将兵の間で流れた。
「奴を接近させるのはまずい」
いつの間にか、そんな暗黙の了解ができあがっていた。前の世界のように油断してラインハルトに負けるなんてことはなさそうだ。不安要因は無い。いや、無いと信じたかった。
一〇時一七分、同盟軍と帝国軍は、一一光秒(三三〇万キロメートル)の距離まで近づいた。戦艦主砲の最大射程は二〇光秒(六〇〇万キロメートル)前後、巡航艦主砲の最大射程は一五光秒(四五〇万キロメートル)前後とされる。砲撃戦には最適の距離だ。
「撃て!」
ドーソン司令官の合図とともに、数万本のビームが放たれた。正面からもほぼ同数のビームが飛来する。一五五年間で二回の大会戦、三四回の小競り合いが行われた星域で三回目の大会戦が始まった。第三次ティアマト会戦である。
戦いはきわめて平凡な形で推移した。両軍の艦隊が密集隊形を組み、エネルギー中和磁場の壁を作り、砲撃を交わし合う。軍事マニアが見たら、「芸の無い戦いだ」と評するかもしれない。
傍目には退屈な戦いも当事者にとっては命がけだった。中和磁場が砲撃を防いでくれるといっても、絶対に安全とは言い切れない。中和磁場の壁の隙間から砲撃が飛び込んでくることもある。制御システムの故障、オペレーターのミスなどで、中和磁場が機能しなくなることもある。そういった理由で砲撃を食らう艦もいた。
俺は端末を見ながら顔を青くした。第一一艦隊のエネルギー充足率が恐ろしい勢いで低下していく。ビーム砲とエネルギー中和磁場を使ってるせいだ。しかも、第一一艦隊の正面にいるケンプ中将とブラウヒッチ中将は、前の世界でも用兵巧者として有名だった。あっという間に第一一艦隊は戦えなくなるんじゃないか。そんな恐怖に囚われた。
ところが周囲で仕事をしている後方参謀は、誰一人として不安の色を見せない。彼らはエネルギー管理に慣れている。こんなに消耗しても大丈夫というのか?
俺は後方副部長ジェレミー・ウノ中佐に話しかけた。
「エネルギー充足率の低下が激しいけど、大丈夫かな?」
「戦闘開始から三時間でしょう? むしろ少ないくらいです」
「普段はもっと使うのか?」
「ええ、普段の八五パーセントから九〇パーセント程度です」
「そうか、わかった」
不安を拭い去れないまま、ウノ副部長のもとを離れた。そして、奥の司令官席を見る。
「C分艦隊は中和磁場の出力を一〇パーセント弱めろ!」
「A分艦隊は八万キロメートル前進!」
ドーソン司令官が活き活きと采配を振るう。膨大な報告を一瞬で聞き分け、素早く的確な指示を下す。まるで精密機械のようだ。仕事大好き人間の彼にとっては、艦隊指揮もデスクワークと同じようにただの仕事でしかなかった。
俺は数字よりも印象を信じる。小心で神経質なドーソン司令官が大丈夫だと思っているのだ。ならば、何も憂いることはない。たちまち元気を取り戻す。
帝国軍がゆっくりと前進してきた。数の力で押し込むつもりなのだろう。しかし、むざむざと押し込まれるわけにはいかない。接近戦は不利だ。
同盟軍は後退して距離を空けた。ティアマト星系はイゼルローン回廊周辺にある星系の中で最も広い。恒星活動は安定している。航行の邪魔になる小惑星帯も無い。後退する余地はいくらでもあった。もっとも、それは敵も動きやすいということだ。第二次ティアマト会戦の終盤、帝国軍の大軍が同盟軍の背後に回り込んだ例もある。
「一一時方向より敵ミサイル群が飛来! およそ数万!」
オペレーターが叫ぶ。司令室のメインスクリーンにミサイルの雨が映し出された。
「駆逐艦、ミサイル迎撃用意! 電子戦部隊はジャミングを開始せよ! 戦艦と巡航艦は方向を変えずに砲撃を続けろ!」
ドーソン司令官は即座に迎撃を命じる。本来ならば分艦隊単位や機動部隊単位で対応する事柄であったが、艦隊行動の統一性を重視する彼は自分で指示を出す。
電子戦部隊の仕掛けるジャミングが対艦ミサイルの誘導装置をかき乱す。そこに駆逐艦の電磁砲と短距離ミサイルが襲い掛かる。ほとんどのミサイルが途中で撃ち落とされた。
「敵ミサイルの九八・八パーセントを阻止しました!」
オペレーターの報告にドーソン司令官が頷く。対艦ミサイルの阻止率を平均すると九八パーセント前後。一万発で攻撃されたら、二〇〇発が命中する計算だ。それを一万発あたり一二〇発まで抑えた。素晴らしい成果と言っていい。
「対艦ミサイル、また来ます! 数は先ほどと同程度!」
再び対艦ミサイルが雨となって第一一艦隊に迫る。この兵器は中和磁場が効かない実弾兵器でありながら、大口径ビーム砲に匹敵する射程を持つ。搭載数の関係から頻繁に使えない。だが、艦列に穴を開けるには最適だ。
「駆逐艦は迎撃! 電子戦部隊はジャミング!」
第一一艦隊は対艦ミサイルの九八・七パーセントを撃ち落とした。二度のミサイル攻撃で七〇〇隻が撃沈され、一三〇〇隻が損傷を被った。損傷艦は素早く後退し、残った部隊がすぐにその穴を埋める。ドーソン司令官の素早く的確な指示、それを実行するチュン・ウー・チェン作戦部長ら作戦参謀のチームワークがうまく噛み合った。
押し寄せてくる敵、それを整然と迎え撃つ第一一艦隊がスクリーンに映る。両軍の間合いは四・五光秒(一三五万キロメートル)まで近付いた。
戦艦と巡航艦の長距離ビーム砲に、駆逐艦の中距離レーザー砲が加わり、砲撃戦がますます激しくなった。砲撃とエネルギー中和磁場が強弱を競い合う。敗北した艦は白熱した火球となって漆黒の闇に溶けていく。爆発に巻き込まれて破壊される艦も少なくない。
ヴァントーズの周囲でも敵味方の砲撃が飛び交う。味方艦の爆発光がスクリーンを照らす。
「旗艦が前に出過ぎだ! 右から四〇度の方向へ後退!」
ドーソン司令官が後退を命ずる。それに対し、ヴァントーズの艦長カラスコ大佐が抗議した。
「司令官閣下、この艦の艦長は小官であります。操艦の詳細に関しては、小官にお任せくださいますよう」
ドーソン司令官は口答えを何よりも嫌う。怒りで顔を真っ赤にして、白髪の老艦長を怒鳴りつけた。
「黙れ! 命令を受けたら、速やかに実行する! それが貴様の仕事だろうが! 無駄口を叩いて時間を浪費する気か!? 旗艦が撃沈されたら責任を取れるのか!?」
ヒステリックな司令官の怒声が鳴り響く。白けきった空気が漂う中、参謀長ダンビエール少将と副参謀長メリダ准将が進み出た。
「艦長の意見は正論であります。お聞き入れいただけますよう」
参謀長と副参謀長の発言は正論だった。それがドーソン司令官の怒りをますますかきたてる。
「うるさい!」
ドーソン司令官は甲高い声をあげた後、メインスクリーンを睨むように見た。本当はダンビエール参謀長、メリダ副参謀長、カラスコ艦長の三人を睨みたいのだろう。立派に戦ってるように見えても、小心者は小心者だった。そして、怖くて口を挟めない俺も小心者だ。
後ろめたさから逃れるように、仕事に没頭した。立案や助言ができない幕僚も結構忙しい。司令官に言われた通りに命令を作る。命令を下級部隊に伝える。命令が徹底されているかどうかを確認する。下級部隊から集めた情報を司令官に伝える。これも幕僚の重要な仕事だ。
前司令官時代からの幕僚には、意見を聞いてくれた前司令官との差に落胆する者もいた。だが、それでもふてくされずに仕事をこなす。さすがはプロだ。俺が司令官になることがあったら、こういう幕僚を集めたいと思う。もっとも、向こうは俺のような司令官なんて願い下げだろうけど。
ドーソン司令官と第一一艦隊の幕僚。どちらも真面目で有能なのに相容れない。物語の世界ならば、真面目で有能な者同士は必ず分かり合えるのに。本当に人間は難しい。
戦闘開始から一二時間が過ぎた。意外にも同盟軍が有利だった。兵力は敵の方が多い。敵の総司令官は将の将たる器。敵の司令官代理は帝国最高の知将。敵の指揮官はみんな優秀。それなのに劣勢の同盟軍を攻めきれずにいる。
一〇〇〇隻から数百隻程度の部隊がバラバラに攻撃してくる。それぞれの部隊は良い動きをするのだが、連携がまったくできていない。血気を抑えきれないと言った感じだ。前線の敵艦隊の中で統一行動がとれているのは、ゼークト艦隊だけだった。
「戦意過剰、協調性過少といったところかな」
チュン・ウー・チェン作戦部長が俺の後ろに立ってサンドイッチを食べていた。彼は休憩中だ。
「どうしたんでしょう?」
椅子を後ろに向けて質問した。俺も一応休憩中なのだが、いろいろ心配なのでデスクに座ったまま休んでいる。
「どの艦隊も統制が取れていないんだよ。部隊ごとに勝手に動いてる。まともなのはゼークト艦隊だけだ」
「不思議ですね。貴族の多いゼークト艦隊以外は、みんな実力本位なのに」
ルートヴィヒ皇太子が掲げる成果本位の人材登用。それは前の世界でラインハルト・フォン・ローエングラムが成功したやり方と全く同じだ。それなのになぜうまくいっていないのだろう?
「だからうまくいってないんだよ」
チュン・ウー・チェン作戦部長はのんびりした口調で辛辣なことを言う。
「どういうことです?」
「皇太子は武勲をあげた者を片っぱしから昇進させているよね」
「ええ。進んだやり方ですよね」
「それがまずいんだ。みんなバラバラに攻めてきている。味方の進路をわざと塞ぐように動く部隊もいるね。全体の勝利より自分の武勲を優先している証拠だよ。勝ち戦で武勲を稼ごうと必死なんだろうね」
「まるで貴族軍人と同じじゃないですか」
ヴァンフリート四=二基地の戦い、昨年のイゼルローン遠征を思い出した。貴族軍人の利己主義が同盟軍を利した戦いだった。
「それよりずっと切実だろうね。皇太子派の場合は武勲と待遇が直接結び付く。だから、さらに貴族軍人よりもチームワーク無視が酷くなるのさ」
「そういうことでしたか。成果主義だから強くなるわけでもないんですね」
「成果主義が行き過ぎたら、目先の功績しか考えない人材が上に行く。年功序列が行き過ぎたら、失敗を恐れる人材が上に行く。努力主義が行き過ぎたら、努力しているように見せかけるのがうまい人材が出世する。何事もバランスだよ」
「勉強になります」
俺は心の底から感心した。そういえば、ラインハルト陣営にも功を焦る風潮はあった。ケンプ、レンネンカンプといった名将がそれで身を滅ぼした。グリルパルツァーやゾンバルトのように汚名を残した者もいる。ヴァーゲンザイルのように大失敗したが身を滅ぼさずに済んだ者もいた。それでも強かったのは、バランスが取れていたおかげだろう。
名前をあげているうちにある事実に気づいた。ルートヴィヒ・ノインに名を連ねる前世界の名将には、功を焦って失敗した者が多い。エルラッハ少将はラインハルトの指示を無視して死んだ。ブラウヒッチ中将やカルナップ中将は功を焦ってないが、ヤン・ウェンリーと戦って艦隊を壊滅させられた経験がある。そして、みんな積極攻勢型の提督だ。
前の世界で名前が残らなかった者の中でも、ハウサー大将は奇略、エルクスレーベン中将やコッホ少将は剛勇で名高い。どうやら、皇太子は派手な活躍をする提督ばかり引き立てたようだ。確かにバランスが悪すぎる。
「スタンド・プレーをする提督なんて、五人に一人もいれば十分だよ。一人一人が優秀でも連携できなきゃ何の意味もない。これは標準的な帝国軍主力艦隊より弱いなあ」
チュン・ウー・チェン作戦部長は、ルートヴィヒ皇太子自慢の精鋭に辛辣な評価を下した。敵の戦闘力評価は作戦参謀の仕事。それなりの根拠があっての評価だ。
「味方はどうでしょうか?」
この際だから味方の評価も聞いておこうと思った。敵が弱くても味方がそれ以上に弱ければ負ける。戦略戦術シミュレーションでそれを学んだ。
「第九艦隊は言うまでもないね。練度と戦意は充実している。部隊同士の連携も円滑だ。我が第一一艦隊はまさに『一糸乱れず』といったところかな」
「安心しました」
少し嬉しくなった。偉大な知将から見ても、ドーソン司令官はいい采配をするらしい。
「問題は第二艦隊だ。部隊の能力は高いし指揮も適切だけど、連携が取れていない。パエッタ提督らしくない采配だね」
チュン・ウー・チェン作戦部長が戦術スクリーンの中央を指差す。第二艦隊の先頭集団と本隊の動きがまるで噛み合っていない。まるで別の部隊のようだ。
「先頭集団の指揮官はホーランド少将でしたね」
「不和が尾を引いてるのかな。先頭集団自体の動きも悪い。配下の部隊がホーランド少将の指揮についてこれないようだ」
「言われてみると、動きがぎこちないように見えます」
第六次イゼルローンのホーランド少将は、一隻一隻を手足のように動かした。それなのに今の動きはぎこちなさすぎる。
「ホーランド提督はパエッタ提督と対立してる。そして、第二艦隊の中級指揮官のほとんどがパエッタ派だ。うまく意思疎通ができてないんだろうなあ」
「あの戦術は職人芸ですからね。これでは厳しいかもしれません」
俺は視線を遠くに向けた。ドーソン司令官も中級指揮官と意思疎通できてるとは言い難い。しかし、オーソドックスな戦術を使っているおかげで、部下もスムーズに動ける。
パエッタ中将とホーランド少将は、指導方針を巡って対立していたという。二人とも自分の用兵が一番正しいと思ってるようなタイプだ。パエッタ流の指導が浸透した部隊を、無理やりホーランド流で動かそうとしたら、間違いなく混乱が起きる。
今の会話によって、この目で見た名将ホーランドと、前の世界の戦記が批判する愚将ホーランドの姿が重なったように思えた。
前の世界では、第六次イゼルローン遠征が七九四年一二月、第二次ティアマト会戦の間が七九五年の一月か二月だったと思う。ハイネセンと戦場を往復する時間を考えると、ホーランドはイゼルローンから戻ってすぐに第一一艦隊司令官に就任し、調整する間もなく出兵した計算になる。指導する時間などあろうはずもない。
戦記はホーランドを「エネルギーが無限だと思い込んだ」と批判する。だが、作戦案を作る段階で、配下の後方参謀が事前にエネルギーの使用量を予測するはずだ。予想と実際の使用量に大きな差があったのかもしれない。配下に入れたばかりの部隊に複雑な戦術を無理やり当てはめた。そのせいで無駄にエネルギーを浪費し、予想よりも早くエネルギー切れを起こしたのではないか。
あくまでこれは推論だ。しかし、単に無能だったというより、必勝パターンにこだわって失敗する方が、プロの軍人らしいように思える。
俺は砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーを飲み干した。糖分の補給を済ませてから口を開く。
「長所と短所は紙一重といいます。必勝パターンへのこだわりが、ホーランド提督の用兵を硬直化させたのかもしれません」
「それは違うんじゃないかなあ」
「何が違うんですか?」
「必勝パターンにこだわること自体は正しいよ。一つの必勝パターンを徹底的に磨き上げるのが名将だ。用兵の柔軟性とは、必勝パターンに持ち込む手段の多様性であって、こだわりの薄さとは違う」
「一つだけならまずくないじゃないですか? 分析されたら勝てなくなるんじゃ?」
「帝国のメルカッツ提督の必勝パターンが、艦載機や宙雷艇を使った強襲なのは有名な話だ。そして、宇宙艦隊総司令部の資料室には、彼の強襲戦術の分析データが山のように保管されてる。それでもなかなか勝てないじゃないか。分析された程度で負けないのが名将なんだ」
「軽率でした」
俺は非を認めた。分析しただけで必勝パターンを破れるなら、この世から名将はいなくなる。前の世界でヤンやラインハルトの用兵について書かれた本をたくさん読んだ。それでも彼らに勝てる気はしなかった。俺が口にしたのは素人考えでしかない。
「ホーランド提督が平凡な提督だったら、こんなことにはならなかったんだけどね。名将ならではの落とし穴さ。ハンニバル・バルカ、ナポレオン・ボナパルト、エルヴィン・ロンメルといった過去の名将も、必勝パターンを使えなくなった途端に敗れた」
「ホーランド提督もどうなるんでしょうか?」
「苦戦はあっても、敗北はないだろうね。パエッタ提督が手を打っている。D分艦隊を側面に回りこませた。先頭集団を援護させるつもりだ」
チュン・ウー・チェン作戦部長が戦術スクリーンを再び指差す。第二艦隊D分艦隊が彼の言う通りの動きをしていた。
「さすがですね」
「これが用兵家の仕事だよ」
チュン・ウー・チェン作戦部長は細い目をさらに細める。戦術スクリーンを見ながら、いろいろと教えてくれた。
「同盟軍の惨敗はなさそうですね」
「私もそう思うよ。不安要因があるとしたら、それはドーソン提督の武運だろうね」
「武運?」
「クラウゼヴィッツの著作は読んだかい?」
「士官学校で使われているダイジェスト版なら読みました」
「それなら、摩擦の概念は知っているかな」
「知っています」
西暦時代の軍事思想家クラウゼヴィッツは、「摩擦」という概念を唱えた。戦場では、間違った情報、意思疎通の失敗、疲労、不安、偶発的な事故、気象の変化、敵の不合理な判断など、計画段階では予想もしなかった障害が起きる。この障害を摩擦と呼ぶ。摩擦が積み重なって、戦況を当初の予想から外れた方向へと動かしていくのだ。
「戦争の才能について、クラウゼヴィッツは『予測不可能な摩擦に対処する能力』だと言う。要するに偶然に対処する能力だよ。しかし、そういった能力がなくても生き残る人がいる。ゼークト提督がその典型だね。勇猛だけど頭が固いせいで、何度も罠に引っかかって死にかけた。それなのに紙一重で生き延びた。一度や二度なら単なる幸運だけど、三十年も続いたら幸運とはいえない。偶然に助けられてるということだよ。私はこれを『武運』と呼んでる」
「運は能力ということですね。他の人から聞いたことがあります」
恩師の一人エーベルト・クリスチアン中佐の言葉を思い出した。彼も戦場での幸運について、「一度や二度なら偶然だが、何度も重なれば立派な能力だ」と言った。
「武運の正体が何なのか、私には分からない。生まれつきの勘かもしれないし、長い戦場経験で身につけた感覚かもしれないな。あるいは神がひいきしていんじゃないかと思うこともある。正体は分からない。だけど、武運というものは確実にある」
「去年のヴァンフリートで痛感しました」
人類史上最大の武運の持ち主と遭遇したことを思い出す。背中にうっすらと汗がにじんだ。
「武運のある提督はしぶとい。流れ弾で死ぬことがないし、不運な敵が誘爆で死んでくれることもある。若いルートヴィヒ・ノインより、歴戦のゼークト提督の方が厄介かもしれないね。そして、ドーソン提督の武運は未知数。それだけが気がかりだよ」
チュン・ウー・チェン作戦部長の言うことは、一見するとオカルトっぽく思える。しかし、実際問題として、高性能でも不幸に見舞われやすい艦は脆く見えるし、低性能でも幸運な艦は堅固に見えるものだ。実際に受けるダメージが違うのだから。
「対処法はありますか?」
俺の念頭にあったのは、ゼークト大将ではなくラインハルトだった。
「偶然に左右されない戦いを心がけることだね。敵から距離を取る。乱戦を避ける。宇宙艦隊総司令部が編み出した奇襲対策と同じさ」
「勉強になりました。ありがとうございます」
俺が頭を下げると、チュン・ウー・チェン作戦部長がニコッと笑った。そしてズボンのポケットから二つ目のサンドイッチを取り出して食べ始める。袋に入っていないむき出しのサンドイッチをそのままポケットに突っ込んでいたようだ。まあ、この程度なら今さら驚くことではない。
「こちらこそいい気分転換になった。これはお礼だよ」
チュン・ウー・チェン作戦部長は俺の手に潰れたサンドイッチを乗せた。そして、自分の席へと戻っていく。
「ベーコンレタストマトサンドイッチか」
俺のために持ってきてくれたのだろう。チュン・ウー・チェン作戦部長はトマトが苦手だからだ。あまり食欲をそそらない形状だが、過去に不幸な事件を経験して以来、人からもらった食べ物は拒まないことに決めている。偉大な知将が味方にいることに感謝しつつ、サンドイッチを口の中に放り込んだ。