第一一艦隊司令部後方部長代理。最初にその辞令を受け取った時、何かの冗談じゃないかと思った。艦隊後方部長といえば、一個艦隊百数十万人の補給計画を立てる要職だ。参謀の勉強を始めてからほんの九か月しか経っていない俺に務まる仕事じゃない。
しかし、新任の第一一艦隊司令官は冗談を言わない人だ。後方部長代理に任命されてしまった俺は、心の中で絶え間なく泣き言を吐きながら、慣れない仕事に取り組んだ。
三月上旬、惑星ハイネセン西大陸のニューシカゴ市。第一一艦隊司令部ビルの一室。テレビ画面に軍服姿の男性が映っていた。その男性は分厚い胸を張り、大きな拳を振り上げ、朗々とした美声で訴える。
「敵を撃破しても要塞に逃げ込まれる。やがて敵は要塞から出てきてまた国境で暴れまわる。どれだけ同じことを繰り返せば気が済むのか? 防ぐだけでは埒があかん。そのことに諸君はそろそろ気づくべきではないか?」
彼の言葉と態度には人を惹きつける力があった。生まれながらにして世界の主役たるべき資格を持つ存在。スポットライトを浴びるために生まれてきた男。そんな印象を受ける。
「根本的な解決はただ一つ。イゼルローン要塞を攻略し、帝国領に攻め込み、オーディンを攻略する! 専制政治を打倒し、銀河を自由の名のもとに統一するのだ!」
男性の鋭気が炎となってスクリーンを満たす。部屋の気温が急に上昇したかのような錯覚を覚えた。主張の内容は凡庸であったが、主張する者が非凡だった。
「このウィレム・ホーランドの頭脳の中には、帝国を打倒する戦略がある。奇しくも次の戦場はかのブルース・アッシュビー提督が大勝利を収めたティアマト星域だ。私が専制者の軍勢を完膚なきまでに叩きのめす! 余勢を駆ってイゼルローン回廊に雪崩れ込むのだ!」
新任の第二艦隊副司令官ウィレム・ホーランド少将が右の拳を真っ直ぐに突き上げると、スタジオの聴衆は総立ちになって拍手した。その美々しい姿に見とれていると、スクリーンが急に真っ暗になった。
「ふん、できもせんことを言いおって」
そう吐き捨てたのは、第一一艦隊司令官クレメンス・ドーソン中将だった。その右手にはスクリーンのリモコンが握られている。
どうやら、ドーソン司令官はホーランド少将の大言壮語が気に入らないようだった。上官がイライラしていると仕事がやりにくい。
俺はどうにか空気を和らげなければと思い、フォローを入れることにした。幸いにもホーランド少将は勤勉な人物だ。ヤン准将と違って擁護する余地もあるのではないか。
「ホーランド提督は誰よりも仕事熱心な方です。結果も出しておられます。多少のことは大目に……」
「実績を鼻にかけて和を乱す奴など、百害あって一利無しだ! 組織に天才など必要ない!」
ドーソン司令官はばっさり切り捨てた。彼は「真面目か否か」「自分を尊重するか否か」という基準だけで他人を評価する。どうやら、ホーランド少将は俺の知らないところでドーソン司令官に無礼をはたらいていたらしい。
「申し訳ありません」
慌てて頭を下げた。背中には冷や汗がだらだらと流れる。
「ふん、まあ良い。貴官の一万分の一でもホーランドが謙虚だったら、こんなことにはならんのだがな。司令官になれなかった理由をまだ理解できないらしい」
「どうなさったのですか?」
「あることないことを言いふらしおったのだ! 私が司令官に選ばれたことを逆恨みしてな!」
怒りで逆立つ上官の口ひげを見た瞬間、すべてを理解した。おそらく、ホーランド少将は「武勲もないくせに、国防委員長に取り入って司令官になった」とでも言ったのだろう。
ドーソン司令官の就任には異論も多かった。イゼルローン遠征で副参謀長として功績をたてたとはいえ、ホーランド少将の武勲とは比較にならない。そもそも、副参謀長就任でさえ、トリューニヒト国防委員長のひいきと言われていた。
正規艦隊は所属しているだけでも一目置かれるようなエリート部隊。ドーソン中将にその司令官職にふさわしい実績があるとは言い難い。正規艦隊司令官の中で武勲が少ないと言われる第六艦隊司令官シャフラン中将や第一〇艦隊司令官アル=サレム中将ですら、ドーソン司令官よりずっと実績のある。
もともと第一一艦隊司令官の最有力候補だったのは、前の世界でも司令官を務めたホーランド少将だった。彼は若手提督の中では随一の実績を持つ。イゼルローン遠征では全軍第一の武勲を立てた。宇宙艦隊司令長官ロボス元帥の推薦もある。誰もが納得できる候補と思われたが、ヨブ・トリューニヒト国防委員長が異を唱えた。
国防委員会規則では、「各軍の准将以上の補職は、国防委員長が幕僚総監の意見を参考に行う」ということになっている。幕僚総監は最近の軍人には馴染みが薄いが、宇宙軍、地上軍にそれぞれ置かれる軍令機関「総監部」の長で、各軍の軍令のトップだ。
宇宙艦隊総司令部が宇宙軍幕僚総監部を吸収した現在は、宇宙艦隊司令長官が幕僚総監代理、宇宙艦隊総参謀長が幕僚副総監代理を兼任する。補職についての意見を述べるのも宇宙艦隊司令長官だ。最終決定権は国防委員長にあるが、実際は司令長官の意見がそのまま通る。
ホーランド少将が適任というロボス元帥の意見は、当然のことながら個人の意見ではなく、宇宙軍首脳陣の総意だった。トリューニヒト委員長の慣例破りは宇宙軍を驚愕させた。
「ホーランド提督の実力は誰もが認めるところ。どこに問題があるのでしょうか?」
ロボス元帥がトリューニヒト委員長に理由を問うた。
「ホーランド君が戦闘指揮官として最良の人材なのは認める。だが、艦隊司令官として最良かどうかは別の話だ。艦隊司令官はまず戦略家であるべきだ。自分で戦うのではなく、部下を戦わせる。目前の戦いに専念するのではなく、大局的な見地から戦場を捉える。そういった要素がホーランド君には欠けているように思うのだがね」
トリューニヒト委員長は戦略家としての適性を問題にした。ホーランド少将は士官学校戦略研究科を首席で卒業した英才だが、中尉の時に一年ほど統合作戦本部作戦部で勤務した以外は、幕僚勤務をしていない。すなわち、戦略家に必要な能力を磨く機会が無かったということだ。
ホーランド少将の戦いぶりは大胆にして奔放。用兵家というより勝負師だと評される。前の世界で読んだ『不屈の元帥アレクサンドル・ビュコック』によると、第一一艦隊司令官となったウィレム・ホーランドは、第三次ティアマト会戦で帝国軍を散々に蹴散らしたが、攻勢の限界点を無視したために敗死した。これらのことから考えると、この指摘は正しい。
代わりにトリューニヒト委員長が推薦したのが、子飼いのドーソン中将だった。軍令の主流から外れているものの幕僚経験は豊富。戦略家としての識見は、昨年のイゼルローン遠征において幽霊艦隊対策を成功させ、第三次攻勢直前に撤退を進言したことで証明済みだ。
もっとも、能力というのは口実に過ぎない。本当の狙いは軍政部門の復権だと言われる。トリューニヒト委員長の国防政策ブレーンを務めるスタンリー・ロックウェル中将らは、国防委員会の軍官僚だ。彼らは軍令優位の現状に不満を持っていた。
宇宙艦隊、地上総軍、方面軍は、軍政機関の国防委員会の管轄下にいる。宇宙艦隊司令長官、地上総軍司令官、方面軍司令官は、同盟軍最高司令官たる最高評議会議長から国防委員長を通して命令を受ける決まりだ。
軍令機関の統合作戦本部、宇宙軍幕僚総監部、地上軍幕僚総監部は、最高評議会議長と国防委員長の作戦指揮を補佐する。
本来は軍政優位なのである。しかし、戦争が長引くに連れて状況が変わった。軍事の素人である最高評議会議長と国防委員長が戦争を指揮するには、軍令部門の補佐が不可欠だ。また、作戦指導を効率化するために、宇宙艦隊司令長官が宇宙軍幕僚総監代理、地上軍幕僚総監が地上総軍司令官代理を兼ね、軍令部門が主力部隊を掌握した。軍令部門の発言力はどんどん拡大していった。
七六五年、「同盟軍最高司令官代理」の肩書きが国防委員長から統合作戦本部長に移り、軍令優位が確定した。今では軍政の専管事項である予算や人事についても、軍令が介入する。
三年前の国防予算削減にしても、国防委員会と統合作戦本部長フラナリー大将が強硬に反対していた。ところが、フラナリー大将に代わって統合作戦本部長となったシドニー・シトレ元帥が受け入れを支持したことで形勢が逆転してしまった。こうした経緯から、国防委員会は軍令優位を覆す機会を伺っていたのだ。
ロボス元帥は宇宙軍軍令部門のトップ、そして軍令部門全体ではナンバーツーにいる。派閥の長としての立場もある。ホーランド少将は子飼いと言えないまでも派閥の一員だからだ。この人事を通せなければ、二重の意味で威信に傷が付く。
日頃はロボス元帥と対立する統合作戦本部長シトレ元帥も今回ばかりは手を組んだ。軍令部門トップとしての立場、国防政策をめぐるトリューニヒト委員長との対立、軍拡志向の国防委員会官僚に対する警戒心、政治家の人事介入に対する不快感などが、二〇年以上も争ってきた二大巨頭の一時的な同盟を促した。
シロン・グループを始めとする中間派も軍部秩序維持の観点からロボス元帥に味方した。ロボス派ともトリューニヒト派とも対立する過激派は中立を保った。
一方、トリューニヒト委員長には、本来の支持層である国防委員会官僚と憲兵の他、新国防方針を支持する地方司令官や技術将校、軍令の非主流派などが味方した。
当初は二大派閥と中間派を味方につけたロボス元帥が優位に立った。だが、自派の第七方面軍司令官ムーア中将、第一四方面軍司令官パストーレ中将らがトリューニヒト委員長を支持したことで劣勢に追い込まれた。結局、ドーソン中将が第一一艦隊司令官の座を手に入れた。
こういった成り行きから、ドーソン中将はシトレ派とロボス派の反感を買っていた。批判の声もあちこちから聞こえる。ただでさえ神経質な人なのに、ますます過敏になっているのだった。
同盟軍の司令官は幕僚を自分で選ぶ権利を持つ。司令官がこれはと思った人物を選び、国防委員会人事部に申請すると補任手続きが取られる。不適任だと感じた幕僚の名前を国防委員会に伝えたら、解任手続きが取られる。幕僚は司令官の頭脳であり、手足であり、耳目である。何よりも信頼が第一なのだ。
もっとも、これは理想論だった。優秀な人材は他の部隊との取り合いになることが多い。せっかく引っ張ってきた人材が見込み違いだったなんてこともある。様々な事情で微妙な人材を使わざるを得ない場合も少なくない。幕僚チームの半分が希望通りの人材なら上出来というのが実情だ。
第一一艦隊は上出来とはいえなかった。ドーソン司令官が頼れる人脈といえば、憲兵司令官時代の部下、士官学校教官時代の教え子ぐらいのものだった。しかし、前者には幕僚向きの人材が少なく、後者のうちで優秀な人材のほとんどに嫌われている。発足したばかりのトリューニヒト派は人材の層が薄い。優秀な幕僚が多いロボス派とシトレ派からは反感を買っている。そういうわけで人材集めに苦労した。
幕僚のうちで最も重要なのは、幕僚チームを統括する参謀長と副参謀長、一般幕僚(参謀)部門の作戦部・情報部・後方部・人事部の部長だ。そのうち、後方部長代理の俺、情報部長代理のミューエ中佐の二名が憲兵隊時代の部下。参謀長ダンビエール少将、副参謀長メリダ准将、作戦部長チュン・ウー・チェン大佐、人事部長シン大佐の四名が前司令官の幕僚チームから横滑りした。
ファルツォーネ前司令官がシトレ派に属していたせいか、横滑りした幕僚の多くがドーソン司令官と不仲だ。新司令官の歓迎会はまったく盛り上がらなかった。ご機嫌伺いに司令官室を訪れる者もいない。有能で責任感の強い彼らはしばしば直言したが、自分への批判と受け取ったドーソン司令官は聞き入れようとしなかった。あまりに厳しく意見する者は解任された。
憲兵隊時代の部下、士官学校時代の教え子から登用された幕僚は、みんなドーソン司令官好みの性格だった。俺自身もそうだが、真面目な劣等生というのがしっくり来る。素直で真面目だが、頭が良くない。仕事のできるドーソン司令官に言えるような意見など持ち合わせていない。
配下の指揮官を見渡しても、やはりドーソン司令官に意見を言える人物は見当たらなかった。艦隊副司令官のルグランジュ少将は、有能だが意見を言うタイプではない。その他の主要指揮官といえば、四人の分艦隊司令官の他、艦隊陸戦隊司令官、作戦支援部隊司令官、後方支援部隊司令官、三人の独立機動部隊司令官がいる。しかし、ドーソン司令官に嫌われているか、そうでなければ意見を言わない人物ばかりだ。
要するにドーソン司令官は憲兵隊と同じスタイルを貫いた。部下の意見を聞かず、すべて自分で取り仕切った。
「参謀の勉強を始めて一年も過ぎていないのに、これだけの分析書を書き上げるとはな。やはり、私の目は正しい」
ドーソン司令官は俺が提出した分析書に目を通した後、満足そうに頷いた。
「恐れいります」
「もっと階級が高ければ、参謀長か副参謀長を任せるところなのだがな。世の中は思い通りにいかないものだ」
「後方部長代理でも過分だと思っております。参謀長や副参謀長など及びもつきません」
「貴官なら十分に務まると思うぞ。ダンビエールもメリダも能なしのくせに反抗的で困る。奴らが貴官の一万分の一でも謙虚だったら、私もこんなに苦労せんのだが」
ドーソン司令官が忌々しげに参謀長と副参謀長の名前を口にする。二人とも諌言を義務と思っているようなタイプだ。ファルツォーネ前司令官は、諫言を好んで聞く人だったらしい。俺の上官であり恩師でもある人は、前司令官よりはるかに器量が小さい。
「そうですね」
曖昧に笑ってごまかした。一緒に悪口を言うのはみっともないが、擁護すれば怒りを買う。笑ってごまかすのがベターだ。
「貴官は頑張っているが、まだまだ未熟だ。これからも指導が必要だな」
分析書に赤ペンで書き込みを加えるドーソン司令官。嬉しくてたまらないと言った感じだ。教え好きの彼にとって、頭の足りない俺は自尊心を大いにくすぐる存在だった。
司令官室を退出した俺は、後方部のオフィスに戻り、後方副部長ジェレミー・ウノ中佐らを呼び集めた。そして、書き込み付きで戻ってきた分析書を見せる。
「私達が総掛かりで取り組んでも、こんなに穴があるんですね」
ウノ後方副部長はため息をついた。書き込みの多さと正しさに驚嘆しているのだ。この分析書を書いたのは俺だが、自分の意見は一割程度に過ぎず、残りの九割は後方参謀の意見をドーソン司令官が喜びそうな言い回しに書き換えただけだった。
「ドーソン司令官は口うるさい人だけど、言ってることは正しいから」
ここぞとばかりに俺はフォローを入れる。ドーソン司令官は器が小さい。他人に意見を押し付けたがるくせに、自分は他人の意見を聞こうとしない。しかし、仕事は文句なしにできる。
長所と短所は表裏一体のものだ。たとえば、ヤン・ウェンリー准将は細かいことにこだわらないがゆえに大局を見通せるが、細かい人には疎まれる。ドーソン司令官の場合は、他人の意見を聞きたくないがゆえに努力を重ねたんじゃないかと思う。
物語の世界では、部下の意見を聞かない上官は無能な敵役と決まっている。そんな上官に「口答えしない」という理由で登用された俺は、無名の取り巻きといったところだろう。いや、上官がじゃがいも提督だから、子芋参謀といったところか。
何とも雑魚っぽい。しかし、俺の人生では俺が主役だ。ドーソン司令官には恩がある。力を尽くして補佐するのみだ。
頭の足りない自分に何ができるかを考えた結果、ドーソン司令官と後方参謀のパイプ役に徹することに決めた。後方参謀は俺を通してドーソンに意見を伝える。ドーソン司令官は俺を通して後方部を指導する。直接向き合ったら衝突しかねない両者も、俺が間に入ればうまくいく。
後方部の運営はウノ副部長に任せている。俺より一年上の彼女は士官学校七八七年度の上位卒業者で、ヤン・ウェンリー准将ら有害図書愛好会人脈、マルコム・ワイドボーン准将ら風紀委員会人脈の双方と等距離を保っている稀有な人物だ。後方部向きの調整型である。身長が一五八センチと低いのも評価できる。
今のところ、ドーソン司令官の部隊運営はうまくいっていた。もともと能力はある。幕僚の言うことを聞かなくても仕事の上では困らなかった。
前司令官時代から副司令官を務めるルグランジュ少将の存在も大きい。ドーソン司令官は切れ者だが小心で器量が狭い。それに対し、ルグランジュ副司令官は勇敢で度量が大きいが、頭の回転は遅い。ぶつかり合わない組み合わせである。
意外なことに兵士からの支持も厚い。お節介で指導好きのドーソン司令官は、抜き打ちで部隊を視察し、ゴミ箱を覗いて食生活を調べ、寝具が洗濯されているかどうかを確認するなど、生活状況の把握に務めた。病気休職中の兵士に見舞い品を送ったり、除隊する兵士の再就職に力を入れたりもした。前司令官派の幕僚は「司令官のすることではない」と眉をひそめたが、兵士からは口やかましいけど面倒見のいい司令官だと好評だ。
もうすぐ二月が終わる。前の世界では一月か二月のあたりに第三次ティアマト会戦があったはずだが、この世界では戦いが起きる気配もない。昨年のイゼルローン遠征で帝国が受けた損害が予想以上に大きかったのかもしれない。
あるいはそれどころでないという可能性もある。ルートヴィヒ皇太子が父帝フリードリヒ四世に好かれていないのは周知の事実だ。
皇太子の生母にあたる故マルガレーテ皇后とフリードリヒ四世の夫婦仲は、あまり良くなかったらしい。宇宙暦七八六年に亡くなるまで、マルガレーテは皇后の座を保ち続けた。だが、寵妃が男子を産んでいたら、間違いなく廃后されたと言われる。その場合はルートヴィヒも皇太子の座から追われただろう。かつての寵妃ベーネミュンデ侯爵夫人が「幻の皇后」と呼ばれるのも、彼女が男子を産んだら、ルートヴィヒに代わる皇太子になると言われたからだ。
ルートヴィヒ皇太子自身もフリードリヒ四世と合わなかった。しなやかな長身、端正な顔立ち、快活で行動力に富んだ性格が、叔父にあたる故クレメンツ皇太子と良く似ているらしい。開明的な政治観を持ち、身分の低い人々と親しく交わり、父帝の保守性を厳しく批判する態度もクレメンツ皇太子と似ていた。
生前のクレメンツ皇太子は、取り巻きのクロプシュトック侯爵らと一緒になって、兄のフリードリヒ四世を蔑ろにした。現在の宮廷の主流派は、フリードリヒ四世が即位する以前からの側近とその子弟で、政治的には保守派に属する。風貌も政治観も故クレメンツ皇太子とそっくりのルートヴィヒ皇太子には、良い感情を持ち得ない。
皇太子の側も保守派の敵意を助長するような行動をとった。宮廷の反対を押し切って爵位を持たない帝国騎士の娘と結婚した。平民や無爵位貴族出身の若手に高い官位をどんどん与えた。開明派の門閥貴族を重用した故クレメンツ皇太子と比較すると、ずっとラディカルだ。長子に平民将官登用を進めた三二代皇帝に由来する「エルウィン=ヨーゼフ」、次子に歴代皇帝随一の開明派だった二三代皇帝に由来する「マクシミリアン=ヨーゼフ」と名づけたことも、保守派を刺激した。
こうしたことから、枢密院議長ブラウンシュヴァイク公爵、大審院長リッテンハイム侯爵などの保守派貴族は、「君主たる資質に欠ける」として、ルートヴィヒ皇太子の廃太子を求めてきた。
エル・ファシルが同盟に奪還された七九二年に、ルートヴィヒ皇太子は「国防体制を立て直す」と称して宰相となったものの、軍事的にも政治的にも見るべき成果はない。
前例主義の国務尚書リヒテンラーデ侯爵は、「正統な後継者だから」と皇太子を消極的に支持してきたが、最近はあまりのラディカルぶりに頭を痛めているという。改革派の財務尚書カストロプ公爵、開明派の元内務次官ブラッケ侯爵や元財務次官リヒター伯爵などは、軍に基盤を置く皇太子とは疎遠だ。
孤立しているが巨大な軍事力を持つ皇太子。こんな巨大な火種を抱えたままでは、おっかなくて同盟に出兵するどころではないのかもしれない。事情はどうあれ、部隊運営に専念していられるのは有り難いことだった。
第一一艦隊作戦部長チュン・ウー・チェン宇宙軍大佐は、イースタン拳法の達人と同姓同名なことで知られる。いや、他に知られる理由がないというべきであろうか。
チュン・ウー・チェン大佐は士官学校を四七位で卒業した上位卒業者で、主に正規艦隊の作戦参謀として働いてきた。三三歳の若さで宇宙軍大佐・正規艦隊作戦部長といえば、トップエリートとは言わないまでもそれに次ぐ。幹部候補生あがりの俺から見れば、華麗すぎて目がくらみそうな経歴だが、スーパーエリートが集う正規艦隊ではそれほど目立たない。
一般的には平凡なエリートとみなされるチュン・ウー・チェン作戦部長も、前の世界では偉大な英雄だった。同盟宇宙軍最後の宇宙艦隊総参謀長となった彼は、老将アレクサンドル・ビュコック元帥とともに、覇王ラインハルト・フォン・ローエングラムの大軍に立ち向かった。そして、最後はマル・アデッタ星域で壮烈な戦死を遂げた。
圧倒的な帝国軍を苦しめた知謀。負けを承知の上で民主主義に殉じた信念。ヤン・ウェンリーに民主主義の未来を託した見識。まさに偉人の中の偉人というべきであろう。
あの偉大なチュン・ウー・チェンが同じ司令部にいる。そう知った時、細胞の一つ一つに至るまでが感動で震えた。
いざ実物を目にすると、崇敬の念がどんどんますます高まった。目は細く、鼻は低く、口元には締まりがない。ヤン准将は表情がぼんやりしているだけだが、チュン・ウー・チェン作戦部長は顔の作りがぼんやりしていた。
一見するとただの冴えないおじさんだ。三三歳でギリギリ青年と言っていい年齢なのだが、あまりに雰囲気がくたびれていて、おじさんっぽく見える。軍服の胸元にはパンくずが付いている。家では奥さんに頭が上がらないらしい。そんな人が史上最大の覇王ラインハルトと戦った。それだけで物凄い偉業のように思えてくる。
「ああ、私としたことが」
俺の視線に気づいたのか、チュン・ウー・チェン作戦部長は胸元のパンくずを手で払った。そう、この偉大な英雄と俺は、士官食堂で食事を共にしているのだった。
パン粉を払い終えると、チュン・ウー・チェン作戦部長がウェイターを呼ぶ。そして、ハムレタスサンドとカフェオーレを注文した。まだパンを食べるつもりのようだ。作戦を練るより小麦粉を練る方が似合いそうな風貌を持ち、前の世界では「パン屋の二代目」と呼ばれた彼も、実際はパンを食べる側の人だった。
「パン以外は注文なさらなくてもよろしいのですか?」
「カフェオーレを注文したじゃないか」
「いえ、惣菜とかスープとか」
「だから、ハムレタスサンドイッチを注文したんだよ。パンと一緒にハムとレタスも食べられる。効率的じゃないか。飲み物ならカフェオーレがある」
「おっしゃる通りです」
どこかおかしい気もする。だが、妙な説得力を感じた。
「それにしても、フィリップス中佐はあまり軍人らしく見えないなあ。若いというより幼いという感じだよ。髪型もあまり軍人らしくない」
普段ならダメージを受ける言葉も、チュン・ウー・チェン作戦部長に言われると気にならない。冴えない風貌、のんびりした話し方のおかげだろう。
「よく言われます」
「マスコミでは、フィリップス中佐は筋金入りの軍人と言われてるから意外でね。こんなに読書の幅が広いとは思わなかった」
チュン・ウー・チェン作戦部長が俺の手元にある三冊の文庫本を指さす。いずれもただの友達であるダーシャ・ブレツェリ少佐から勧められた本だった。
一番上の『実録・銀河海賊戦争四 ウッド提督VS海賊の神様』は、頑固者の名将ウッド提督と才子肌の海賊神ヘンリク三五世の戦いを描いた歴史小説。
真ん中の『嫌いになれない彼女』は、丸顔で黒髪の少女が盛大に空回りしまくる恋愛小説。
一番下の『サードランナー』は、小柄で赤毛で大食いのベースボールピッチャーが主人公の青春小説。
「友達から勧められました。『軍事のことだけ考えてたら、頭が固くなる。色んな本を読め』と言われて」
閑職に回されたダーシャは、俺の教育にやり甲斐を見出したらしい。最近は軍事や政治以外についてもいろいろ教えようとする。おかげで最近はエンターテイメント作品三昧だった。
「なるほど。その友人は女性かな?」
「どうしてわかったんですか!?」
「そりゃわかるさ。『嫌いになれない彼女』や『サードランナー』は、若い女性に人気のある作品だから」
「知りませんでした」
「ブレツェリ少佐は真面目だと聞いていたけど、こんな柔らかい本も読むんだねえ」
いきなりチュン・ウー・チェン作戦部長がダーシャの名前を口にした。一言も名前を出してないのにどうしてわかったのか。心臓が早鐘のように鳴り出す。
「――なぜその友人がブレツェリ少佐だとわかったのですか?」
「彼女との関係は誰だって知ってるさ」
「勘違いしないでください。ブレツェリ少佐はただの友達なんです。性格が変だし、丸顔だし、猫舌だし、異性って感じがしませんよ。男友達みたいな感覚です」
俺はしどろもどろになりながら説明した。
「君はそんなブレツェリ少佐が好きで好きでたまらないわけだ」
すべてを見通しているかのように、チュン・ウー・チェン作戦部長が断言する。
「いや、そんなことは……。嫌いという意味じゃなくてですね……。好意はありますが、それは……」
自分でも何を言いたいのか、さっぱりわからなかった。
今日もチュン・ウー・チェン作戦部長のペースで会話が進んでいく。気が付いた時には会話の主導権を握られてしまう。前の世界で帝国軍を惑わした智謀は、この世界では俺を惑わしているのであった。
「それにしても困ったことになった」
チュン・ウー・チェン作戦部長は眉を寄せて困ったような顔をした。一体、何が困ったというのか。
「どうなさったんですか?」
「明後日から航宙訓練だろう? 三日は『チャーリーおじさんの店』のパンも食べられない」
椅子からずり落ちそうになった。チャーリーおじさんの店とは、第一一艦隊司令部の近所にあるパン屋である。
「……買いだめして、艦に持ち込んだらいいんじゃないでしょうか」
アドバイスをすると、寂しげだったチュン・ウー・チェン作戦部長の表情が急に明るくなった。
「ああ、なるほど。君は賢いなあ」
「いえ、それほどでも……」
「謙遜することはないさ。あの店の商品の中で君のお気に入りなのは、ブルーベリージャムのマフィンだったね。あれは実にうまい。娘も気に入っている。私はレーズンブレッドの方が好きだが。サンドイッチは何と言ってもきゅうりと卵のサンドだ。君はベーコンレタストマトサンドが好きだったか。好き嫌いの少ない私もトマトだけは小さい頃からどうも苦手でね。あれほどパンと合わない野菜は無いと思うんだ。それなのにみんなはトマトをパンに挟みたがる。最近は娘もトマトをパンに挟みだした。教育を間違えたんだろうなあ」
何の脈絡もなく、チュン・ウー・チェン作戦部長はパンについて語り出す。マイペースな彼は、いつどこで話題を変えるか予想がつかない。しかも、三回に一度はパンの話題になる。
「出兵ありますかね?」
俺は強引に話題を変えた。せっかく偉大な知将と食事を共にしているのだ。雑談に終始するなどもったいない。
「君は話題に困るといつも軍務の話を振る。ブレツェリ少佐といる時もそうなのかい?」
「いつも彼女の方が一方的に喋るんですが……。それはともかく、いかがお考えでしょうか?」
「上院選挙前だろうね」
「でも、今から出兵しても選挙に間に合わないんじゃ」
「出兵するだけで政権支持率は上がるよ。負けたところで選挙が終わった後だ。大した痛手にはなりゃしない」
とても辛辣なことをチュン・ウー・チェン作戦部長はとてものんびりとした口調で語る。
「なるほど。目先の支持率を確実に拾いに行くわけですか」
「ただでさえ与党不利の選挙だからね。出兵に勝てば支持率が二〇パーセント上がるが、負ければ二〇パーセント下がる。そんな賭けなんて怖くてできないさ」
「ヴァンフリートでもイゼルローンでも失敗しましたからね」
「帝国の側から攻めてくるかもしれない。皇太子派と保守派、どちらも武勲が欲しいだろうから」
「決着が着くまでは攻めてこないと思いますが」
「着けるために攻めることも有り得るさ。政治的な行き詰まりを出兵で解決する。回廊のこちら側も向こう側も同じだよ」
「ああ、なるほど。どうせ戦うなら保守派に攻めてきて欲しいです。二〇代前半の少将、二〇代後半の中将がわらわらいる皇太子派とは戦いたくありません」
「そういえば、帝国のエル・ファシルの英雄も主力艦隊司令官になったらしいしねえ。ルートヴィヒ・ノインのヴァーゲンザイルに匹敵する勇将だそうだよ。あちらの国では若者の時代が始まったのかもしれないねえ」
チュン・ウー・チェン作戦部長が嫌なことを思い出させてくれた。国防委員会情報部によると、帝国のエル・ファシルの英雄ことラインハルト・フォン・ミューゼルが昨年末に中将に昇進し、主力艦隊司令官となったという。ついにあの天才が表舞台に出てきた。皇太子派でないのが唯一の救いだろうか。
「こちらの若者も負けてはいませんよ。ヤン提督やあなたがいらっしゃる」
「若者っぽくない名前ばかりあげてどうするんだ。ヤンはともかく、私には名前をあげられるような実績もないよ」
「実績はこれから付いてきますよ。あなたならハウサーの計略も見破れると信じています」
俺はルートヴィヒ・ノインきっての知将の名前をあげた。この人物は前の世界には存在しなかった人物だが、敵の裏をかくのが得意なアイディアマンで、帝国史上初めて二〇代で大将になった平民だ。超一流の策士なのは間違いない。それでもさすがにチュン・ウー・チェン作戦部長には及ばないと思う。
「君はお世辞がうまいな。何はともあれ、第一一艦隊は三月いっぱいまで即応段階だ。選挙前に出兵があるとしたら、間違いなく動員される。今から備えておくといいよ」
「わかりました。司令官にもそのように申し上げておきます」
今の俺はドーソン司令官と作戦部のパイプ役も務める。なんとチュン・ウー・チェン作戦部長から直々に頼まれたのだ。
意外なことにチュン・ウー・チェン作戦部長はドーソン司令官から嫌われていなかった。同系列のキャラクターに見えるヤン准将と違い、小さな仕事にも手を抜かない。のんびりした風貌と話し方で優越感をくすぐる。正面から事を構えようともしない。中間派系列の有力地方閥に属するが、軍内政治からは距離をとっている。好かれる要素はないが嫌われる要素もない。
前の世界のチュン・ウー・チェン作戦部長は、猜疑心の塊となったレベロ最高評議会議長からも信頼された。媚びないが衝突もしない。そういうスタンスの人だった。だから、俺をパイプ役にしようと考えたのだろう。これほど光栄なこともない。
「君がいてくれて助かるよ」
「とんでもありません。こちらこそ大いに助かっています」
俺はしきりに頭を下げた。偉大な知将が知恵を貸してくれる。どれほど感謝してもし足りない。
「ありがとう。それにしても君と司令官は絶妙なコンビだよ。司令官がビシビシやって、君が頭を下げる。本当にいいコンビだね」
「こ、光栄であります!」
全身を歓喜が突き抜ける。戦記で慣れ親しんだ英雄から褒め言葉をもらった。喜ばすにいられようか。
「君は本当に面白いなあ」
チュン・ウー・チェン作戦部長がおいしいパンに向けるのと同じような目を俺に向ける。
「面白いですか?」
「司令官を好きで好きでたまらないというのが伝わってくる。羨ましいね。これぐらい忠義を尽くしてくれる部下が欲しいもんだ」
「どうでしょうねえ」
曖昧に笑ってごまかした。ドーソン司令官を好きか嫌いかと聞かれたら、好きと言っていい。しかし、口に出して言うのは照れくさいというか、何というか、微妙な気分だ。
いずれにせよ、偉大な知将が間接的ながらドーソン司令官に力を貸してくれる。そして、前の世界で天才ヤン・ウェンリー相手に奮戦した闘将が副司令官として脇を支える。ドーソン司令官、いや第一一艦隊の未来は明るい。
チュン・ウー・チェン作戦部長と別れた後、次の戦いへと思いを馳せた。即応段階にある艦隊、すなわち動員対象になる艦隊は、第一一艦隊、第二艦隊、第九艦隊、第一二艦隊だ。
ウランフ中将率いる第九艦隊、ボロディン中将率いる第一二艦隊には不安がない。司令官は優秀で実績豊か。幕僚チームの結束は固く、中級指揮官は忠実。一糸乱れぬ戦いぶりが期待できる。
問題は第二艦隊だ。司令官のパエッタ中将は超一流の用兵家だが、やり手にありがちなワンマンで、人の意見を聞かないところがあった。そんな人の副司令官を自己主張の強いホーランド少将が務める。そして、困ったことに二人とも強いカリスマ性を持つリーダーだ。対立してくださいと言わんばかりの人事としか思えない。案の定、第二艦隊は分裂状態だと聞く。
財政上の理由から一度に動員できる艦隊は三つまでと決まっている。できることなら第九艦隊や第一二艦隊と一緒に戦いたいものだと思う。
後方部のオフィスに戻った。恐ろしいほどに空気が張り詰めている。
「一体どうしたんだ?」
俺の問いに対し、ウノ副部長が無言でテレビを指さす。テレビの字幕が答えを答えてくれた。
「帝国宰相ルートヴィヒ皇太子率いる六万隻の大艦隊が帝都オーディンを出発。四週間後にイゼルローン要塞に到着する見込み」
最悪の予想が的中してしまった。血の気がさらさらと引いていく。次なる敵は、英明な皇太子と九人の勇将が率いる六万隻の大軍。
「すまん! ちょっとトイレに行ってくる!」
俺は急いでトイレの個室に駆け込んだ。携帯端末を開き、友人で元帝国軍人のハンス・ベッカー少佐に通信を入れる。彼は俺が知ってる中で唯一ルートヴィヒ皇太子を低く評価していた。
「ああ、フィリップス中佐ですか。どうしたんです?」
「テレビ見ましたか!?」
「見ましたよ」
「この戦い、どうなると思われますか!?」
「こちらの動員兵力次第です。敵と同じくらいなら同盟軍の負けはないと思います。いつも言ってるでしょう? 『皇帝がやる気のない無能なら、皇太子はやる気のある無能。その程度の違いだ』と」
「ありがとうございます!」
俺は友人に礼を言って通信を終えた。言葉だけでも「大したことない」と誰かに言って欲しかった。情けない話だが、今はこんな気休めでも必要だった。
「9年前に死んだ皇后」は原作一巻に準拠。796年時点で10年前、つまり786年に死んだ皇后がいるそうです。マルガレーテという名前は勝手につけました。
外伝一巻ではルートヴィヒ皇太子はアンネローゼやベーネミュンデが寵妃になるより前になくなっているそうですが、それでは791年生まれのエルウィン=ヨーゼフの父親になれません。そういうわけで外伝の時系列より一巻の時系列を優先して採用します。