七九四年九月二一日、三万八五〇〇隻のイゼルローン遠征軍が首星ハイネセンとその衛星に設けられた基地から出発した。ワープを繰り返しながら、最終集結地のティアマト星系を目指す。
大勢の人間を移動させるだけでも大仕事だ。三〇〇人の中学生を郊外まで遠足させるだけでも、事前調査、行程の検討、引率者の選任、生徒の班分け、経費の算出、交通手段の確保、安全対策など多岐にわたる作業が必要になる。行軍を遠足に例えると、将兵が生徒、艦艇が交通手段、部隊が班、部隊指揮官が引率の教職員といったところだ。
遠足なら引率の教職員が計画・管理などの作業も引き受ける。だが、軍隊ではそうもいかない。巡航艦一〇隻もしくは二〇隻の駆逐艦からなる「隊」ですら、一〇〇〇人前後の人員を抱える大組織なのだ。マネジメントを専門とする部署が必要になってくる。それが幕僚組織だった。
宇宙軍では隊、地上軍では大隊からが「本部」と呼ばれる幕僚組織を持つ。そして、宇宙軍では戦隊、地上軍では師団になると、幕僚組織が「司令部」と呼ばれるようになり、「参謀」もしくは「一般幕僚」と呼ばれる大軍運用のプロフェッショナルが加わる。宇宙艦隊やイゼルローン遠征軍のように複数の艦隊を統率する部隊の幕僚組織は、司令部を総べる「総司令部」だ。名称や規模の違いはあるものの、指揮官のマネジメントを補佐することに変わりはない。
なお、幕僚と参謀は混同されやすい言葉だが、実は微妙に違う。幕僚とは「帷幄の属僚」、すなわち司令部のスタッフ全般を指す。幕僚は総合的な立案・運用を担当する「一般幕僚」もしくは「参謀」と専門的業務に従事する「特別幕僚」の二種類に大きく分けられる。これまで俺が経験した憲兵隊副官、憲兵隊長代理などは、すべて特別幕僚に分類される。幕僚だが参謀ではないという位置づけだ。
幕僚の仕事を「幕僚活動」と呼ぶ。イゼルローン遠征軍の行軍を例にあげると、総司令部に設けられた三つの参謀部門のうち、情報部門が事前調査、作戦部門が行軍計画、後方部門が補給計画を担当する。八つの専門幕僚部門はそれぞれの専門的な仕事に専念する。
幕僚活動を統括するのが総参謀長と副参謀長だ。指揮官が状況を把握するために必要な情報を提供すること、指揮官の方針に基づいて幕僚に必要な作業を命じること、各幕僚の作業を監督して方針に沿うように調整すること、幕僚の作業結果をまとめて指揮官に提示することの四つが、彼らの主な仕事になる。
イゼルローン遠征軍副参謀長クレメンス・ドーソン中将付きの秘書事務取扱というのが俺の仕事だった。激務の総参謀長と副参謀長には専任の秘書が付く。俺の階級は中将付き秘書になるには高すぎるため、遠征軍総司令部付士官として秘書事務取扱を兼ねている。
憲兵司令部副官も遠征軍副参謀長付き秘書も仕事内容はほぼ同じだ。スケジュール管理、取り次ぎ、文書業務、情報管理といった秘書的な仕事を行う。
憲兵司令部で苦労したおかげで仕事では苦労しなかった。激務であることには変わりないが、憲兵司令部副官の頃と比較すると、だいぶ余裕を持って仕事に取り組める。問題はどちらかというと別の部分にあった。
ドーソン副参謀長は戦功らしい戦功がなく、二年前までは准将で予備役に編入されるのが確実視されていた人物だ。じゃがいもレポートや憲兵隊改革の功績は、軍政からは高く評価されているものの、軍令からは「小役人の仕事」と言われてまったく評価されていない。総司令部にいる軍令のエリートから見れば、ドーソン副参謀長は「政治家や軍官僚の覚えがめでたいだけの小役人」「戦功がないくせに成り上がった男」だった。
反発されたところで自重しようと考えないのがドーソン副参謀長という人だ。幕僚達を厳しく監督し、あらゆる領域に口を挟み、どんな些細な事柄についても報告を求めた。そして、小さな間違いを見つけては嫌味たっぷりに指摘し、徹底的に修正させた。彼にとっては、間違いの指摘と修正は何よりも神聖な義務であり、善意の発露であったが、幕僚からは単なる嫌がらせと映った。
そうなると苦労するのが取り次ぎ役の秘書である。ビロライネン情報主任のように目端の利く幕僚は、俺から副参謀長の意向を聞き出して、嫌味を言われる前に修正しようとするから問題はなかった。そこまで気が回らない幕僚には、こちらからそれとなく意向を伝え、事前に修正するように促す。しかし、キャゼルヌ後方主任のように反骨精神の強い幕僚は、俺の言うことなんか聞かずに副参謀長と真っ向からやり合おうとする。
俺は対人関係の調整に走り回った。ある時は副参謀長の考えを幕僚に伝え、ある時は幕僚の意見を副参謀長に伝え、ある時は副参謀長と幕僚の話し合いの場を設けた。ひたすら気を使ってばかりだ。おかげでマフィンを食べる量が倍増した。
勉強でも苦労していた。副参謀長付き秘書への登用には、ドーソン副参謀長のサポートの他、大軍の運用を勉強させるという目的もある。
本来、階級とは戦功に対して与えるものではなく、能力に対して与えられるるものだ。前の世界で読んだ『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『獅子戦争記』などの戦記では、戦功と能力をイコールで扱っているが、厳密には違う。
優秀な艦長が優秀な部隊司令になれるとは限らないし、優秀な部隊司令が優秀な艦隊司令官になれるとも限らない。より大きな部隊を運用できる能力があると証明された者が昇進するのが建前だった。士官学校を上位で卒業した者の昇進が早いのは、参謀として運用能力を証明する機会に恵まれているからであって、学力だけで優遇されるわけではない。戦功は能力を証明する基準の一つに過ぎないのだ。
幸運に恵まれて中佐まで昇進した俺だったが、部隊運用能力を証明する機会はなかった。エル・ファシルではただ戦場を走り回っていただけ。ヴァンフリート四=二では二個中隊の運用すら部下に委せきりだった。中佐どころか大尉としても通用するかどうか怪しい。今のままでは大佐に昇進できる見込みも果てしなく薄かった。
本来、大軍運用は士官学校の参謀教育で学ぶものだ。しかし、俺は幹部候補生養成所しか出ていない。そこでドーソン副参謀長は実習方式で俺に大軍運用を教えることにした。秘書の仕事を通じて大軍運用の実務的な知識を習得させ、その他の部分は彼自らが指導するのだ。
「あのドーソン教官の個人授業か。贅沢だな」
作戦部門のオフィスにこもりきりのアンドリュー・フォーク中佐が痩せきった顔に冗談ぽい笑いを浮かべた。
「まったく贅沢だよ。あれほどの人がただで指導してくれるんだから」
俺は満面に笑みを浮かべた。上官へのリップサービスでも何でも無く、本気でそう思う。これまでの短い軍歴を思い返してみると、仕事面ではドーソン副参謀長から最も多く学んだような気がする。フィン・マックールにいた頃はレポートの書き方、憲兵隊では憲兵の仕事、そして今は参謀の仕事を学んでいる。
前の世界の名将ダスティ・アッテンボローの回顧録『革命戦争の回想―伊達と酔狂』によると、彼が士官候補生だった当時のドーソン教官は最低の教師だったそうだ。しかし、俺にとってのドーソン副参謀長は良い教師だった。重箱をつつくような教え方は、一を聞いても一しか理解できない俺に合っていた。メモの整理の仕方、人の顔の覚え方、細かい情報の集め方といった仕事術は、細かい性格の俺にこそ必要なものだった。アッテンボローのような大器と俺のような小器では、必要な指導が異なるのだ。
俺は仕事をしていない時間をすべて勉強に費やした。脳みそが疲れたらマフィンとコーヒーで糖分を補給する。集中力が途切れたらトレーニングルームに赴いて汗を流す。こうして常にベストコンディションを保ちながら勉強する。これもドーソン副参謀長直伝の勉強術だ。
昼食時間も勉強に使う。昼食時の士官サロンはまったく混まない。今はどの部署も忙しくて、時間を合わせて昼食を取る余裕が無く、ほとんどの部署は交代交代で昼食を取っている。アンドリューのいる作戦部門などはオフィスにずっとこもりきりで、厨房から直接食事を運んでもらっているそうだ。おかげで静かに勉強できる。
俺は一人で隅っこの席に座り、マカロニアンドチーズ二皿、シーザーサラダを二皿、ソーセージのパエリア大盛り一皿、コーンスープを小鍋で注文した。そして、士官学校で使われているテキスト『ミリタリー・ロジスティクスの理論と実務』を開こうとした時、トントンと肩を叩かれた。
振り向くと、そこには丸顔で胸の大きな女性がいた。後方参謀ダーシャ・ブレツェリ少佐だ。一気に気分が落ち込む。
「ブレツェリ少佐、どうした?」
俺が声をかけてもブレツェリ少佐は返事をしない。こうなるのはわかりきっていても、ずっと続くと嫌になる。
「そろそろ勘弁してくれないか」
口をきいてくれるよう懇願したが、ブレツェリ少佐は首を軽く横に振り、ポケットから取り出したメモをテーブルの上に置いた。ドーソン副参謀長の意向を知りたいのだろう。彼女は目端が利く幕僚だ。
「わかった、後で調べておく」
二つ返事で引き受けた。俺は器が小さいが、それでも個人的感情と仕事を分けて考える程度の分別はある。
暗い気持ちで食事を終え、副参謀長室へ向かった。作戦部門のオフィスの近くでブレツェリ少佐よりずっと関係の悪い相手とすれ違う。
「お疲れ様であります!」
立ち止まって直立不動で敬礼をする。今日こそ声を掛けて欲しいと心の中で祈る。しかし、相手はおざなりな返礼をして歩き去った。
それでも俺は相手の後ろ姿に向かって敬礼を捧げる。振り向いて声を掛けてくれることに期待したのだが、徐々に後ろ姿が小さくなり、そのまま俺の視界から消えていく。目の前が真っ暗になったような絶望感に襲われた。
相手の名前は作戦副主任参謀ヤン・ウェンリー代将という。前の世界で「不敗の魔術師」と呼ばれた偉大な英雄はまったく俺を相手にしてくれなくなった。
遠征が始まる前、崇拝するヤン・ウェンリーの存在を知った俺は、ドーソン副参謀長、アンドリューとの共闘を実現させるなどと舞い上がってしまった。ところが初対面の際に、贈り物の高級茶葉、高級ブランデー、図書券を突き返されてしまった。その後も色々とヤン作戦副主任にいろいろと便宜を図ろうとしたが、すべて拒絶された。
かつての恩人でヤン作戦副主任と親しい第一〇艦隊参謀レスリー・ブラッドジョー少佐から聞いたところによると、俺の態度に不審を覚えたらしい。
付き合いがないのにどうして物を贈ってくるのか? どうやって自分の好物を調べたのか? どうして自分に便宜を図ろうとするのか? いろいろと考えた挙句、「下心があるに違いない」という結論に辿り着いたそうだ。
「まあ、あいつは人見知りだからな。愛想良く近付いてくる奴は信用しないのさ」
ブラッドジョー少佐はそう締めくくった。結局、俺は本でヤン作戦副主任を知っていたつもりだったが、あちらにとっての俺が赤の他人だということを失念していたのだった。
「六年前からずっとヤン代将に憧れていました。遠征軍で一緒になると知って舞い上がってしまったんです。こんなことになるなら、最初からブラッドジョー少佐に取り次いでいただけば良かったです」
俺が肩を落とすと、ブラッドジョー少佐は浅黒い顔に苦笑を浮かべた。
「そりゃあ無理だ。ヤンは人見知りだって言ったろ? 士官学校でのあいつは意外とモテたんだ。女子から『紹介してほしい』と頼まれて、何度も取り次いでやったもんさ。それでも、あいつは会おうとしないんだよ。他人に取り次いでもらってでも近づきたいってのに引いちまうんだとさ」
「ああ、なるほど。その気持ちは良く分かります」
心の底から共感した。むろん、圧倒的なカリスマのあるヤン作戦副主任と凡庸な俺では、近づいてくる人の絶対数は違う。しかし、相手が積極的すぎると引いてしまう気持ちは理解できる。
「それにフィリップス中佐は典型的な優等生だ。エル・ファシル脱出でも義勇旅団でも、いかにも忠君愛国精神の塊みたいなことを言っていただろ? ヤンはそういうの苦手だからな。そして、あのドーソン教官の腹心ときてる。ヤンはともかく、キャゼルヌ先輩、ヤンが可愛がってるアッテンボローって後輩が、ドーソン教官を嫌ってる。難しいと思うぞ」
「おっしゃる通りです」
「まあ、悪気はなかったんだろ? 俺の方からヤンによろしく言っといてやるよ」
「ありがとうございます」
俺は何度も何度も頭を下げた。これで怒りが解けるかどうかは分からないが、取りなしてくれる人がいるだけでも良しとすべきだろう。このまま永久に嫌われっぱなしになる可能性だってあったのだ。
結局のところ、俺ごときがヤン・ウェンリーを自分の都合で動かそうとすること自体が間違いだった。そもそも人間としての格が違いすぎる。あちらは人類史上屈指の軍事的カリスマ、俺はただの小物だ。本来ならば同じ空気を吸っているだけでも不敬の極みである。ひたすら敬意を捧げるのが正しい態度なのだ。ナポレオン・ボナパルトやアレクサンドロス大王の崇拝者が、彼らと同じ時代に生まれ変わったとしてもそうしたであろう。
親しくなろうとか、自分の都合で動かそうとか、そんな大それたことは考えずに裏からサポートすれば良い。俺の人脈に連なる人々がヤン作戦副主任を認めるだけでもかなり改善されるはずだ。彼のすることに間違いはないのだから。
「隊長代理は果敢ですが慎重さに欠けておりますな。今後はお気をつけください」
ふと、ヴァンフリートで亡くなったトラビ副隊長の言葉を思い出した。彼の戒めをまったく守れていない自分が少し情けなくなる。二度目の人生だというのに、軽率なところが改まる気配がなかった。前の人生と比較すると、なまじ行動力が付いたおかげで酷くなってるような気もする。
六年前の俺は正しい選択をしたはずだった。しかし、それだけでハッピーエンドになるわけではない。前の世界で『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』を読んだ時に、「あそこで誰々を殺していれば」「あそこで誰々が生き残っていれば」などと何度も思ったものだ。しかし、正しい選択をしたらしたで別の面倒事が持ち上がってくるのではないか。そんな気がした。
宇宙暦七九四年一〇月一五日、自由惑星同盟のイゼルローン遠征軍は、出発から二四日でイゼルローン回廊同盟側出口に到達した。
宇宙艦部隊がハイネセンからイゼルローン回廊まで行軍するのにかかる時間は、四週間前後とされる。帝国軍は想定より四日も早い同盟軍の出現に混乱した。そこにウィレム・ホーランド少将率いる同盟軍先鋒部隊が襲いかかった。同盟軍の一方的な奇襲で始まった戦いは、同盟軍の一方的な勝利で終わり、第六次イゼルローン遠征の緒戦を圧勝で飾ったのである。
一個艦隊単位の戦略的奇襲なら前例はあった。その中でも特に有名なのが、同盟宇宙軍史上最高の天才ブルース・アッシュビーが指揮した第二次ドラゴニア星域会戦だ。しかし、三個艦隊もの戦略的奇襲は前代未聞だった。戦史に残る偉業に遠征軍、そして同盟全土が大いに湧いた。六度目の正直に対する期待は高まる一方だ。
最大の功労者は、何と言っても行軍計画を担当した作戦部門であろう。いくら脱落者が出ても構わないのならば、四日どころか一週間だって短縮できる。しかし、脱落者を出さず、戦闘能力を保ったままで四日も早く到着させるのは至難の業だった。作戦主任参謀コーネフ少将、作戦参謀サプチャーク大佐、作戦参謀フォーク中佐らロボス・サークルの秀才参謀のチームワークがこの驚異的な行軍を成し遂げた。
その次に活躍したのが補給計画を担当した後方部門だった。遠征軍の将兵五〇〇万人は食料だけでも一日で一五〇〇万食を消費する。大軍になるほど、補給作業の手間も大きくなっていく。それをどれだけ減らせるかが行軍速度に関わる。後方部門の取り組みの結果、補給作業に費やされる時間は短縮というより圧縮された。リベラルな合理主義者の後方主任参謀キャゼルヌ准将は、部下に残業や休日出勤をさせることなく、絶妙な仕事配分によって補給計画を作り上げたのである。
情報部門の役割も決して小さくは無い。彼らが事前にワープポイント周辺宙域を調査し、航路障害の有無を正確に把握したおかげで、安全な航路を設定できた。情報主任参謀ビロライネン准将らロボス・サークルのチームワークが情報部門でも力を発揮した。
特別幕僚部門の中では、通信部の活躍が特に目立った。軍隊を人体に例えると通信は神経だ。部隊運用には強い通信力が不可欠なのである。ヴァンフリート戦役で指揮通信システムの故障に苦しんだ経験から、イゼルローン遠征軍の通信部は飛躍的に増強された。
温和な紳士として知られる遠征軍総参謀長ドワイト・グリーンヒル大将は、総司令官と幕僚のパイプ役、幕僚同士の意見対立の調停役などを務め、意思疎通の円滑化に力を尽くした。嫌われ者の遠征軍副参謀長クレメンス・ドーソン宇宙軍中将は、崇高な使命感と重箱の隅をつつく目をもって正確性の向上に貢献した。
緒戦の勝利はまさに参謀の勝利だった。俺の手元にある『同盟宇宙軍参謀業務教本』によると、参謀の主な役割は、情報分析、他部門との意見調整、指揮官へのアドバイス、実施部隊に対する指導、命令の伝達の五つで、チームを組んでこれらの仕事を分担する。参謀といえば策略を練るのが仕事というイメージがあるが、実際は指揮官をサポートする頭脳集団の一員に過ぎない。
コミュニケーション能力、協調性、柔軟性、熱意、忍耐力の五つが参謀に最も必要な資質とされる。要するにひらめきより努力、尖った天才より協調性のある優等生の方が参謀に向いている。アンドリュー・フォークみたいな人間が理想の参謀ということだ。
「仕事熱心にもほどがあるぞ」
俺は理想の参謀に苦言を呈した。
「普通だよ、普通」
アンドリューはノート型端末で作業をしながら答える。ロボス・サークルの幕僚達の過労ぶりを問題視したグリーンヒル総参謀長が、「幕僚は四時間働いたら、必ず一時間は自主休憩すべし」と厳命したため、長いことオフィスにこもりきりだった彼も士官サロンに顔を出すようになった。しかし、休憩時間中も端末をサロンに持ち込んで作業を続ける始末だ。
「知ってるか? ロボス・サークルの『普通』は、同盟公用語では『ワーカ・ホリック』と呼ぶんだってさ」
苦々しさを顔に出さないよう、あえて冗談めかして言った。ヴァンフリートから戻った頃からアンドリューはやつれ気味だったが、最近はさらに酷い。イゼルローン遠征が決まってからというもの、早朝から深夜まで休まず働いてきた。休憩義務を課したグリーンヒル総参謀長の気持ちがとても良く分かる。
「エリヤがそれ言うか? 士官サロンで休憩してる間も勉強してるじゃないか」
アンドリューは俺の手元にあるテキスト『宇宙作戦における巡航艦運用の新展開』を指さす。
「君達と一緒にしないでくれ。軽食のついでに読んでるだけだ。俺には小説や漫画は分からないからね」
俺は軽食の一ポンドハンバーガーを両手で持ち、がぶりとかじる。
「いや、一ポンドハンバーガーは軽食じゃないと思うけどな……」
「君が少食すぎるんだ。俺より一五センチも背が高いんだから、もっと食べないと」
本当の身長差は一六八・三センチだから、彼の少食はより深刻だ。
「そうよ、アンドリュー君。もっと食べなきゃ」
横から後方参謀イレーシュ・マーリア中佐が口を挟み、右手に掴んだ軽食のダチョウのもも焼きを豪快に食いちぎった。常人ならば野蛮な振る舞いも彼女がやると実にエレガントに見える。細い顎を動かして肉の塊を咀嚼し、口元は脂で濡れ、青い瞳は喜びに輝く。そのすべてが美しい。栗毛を頭の後ろで一つに結んだ髪型は剣士のようだ。
「いや、さすがにダチョウのもも焼きを丸かじりは……」
アンドリューは少し引き気味だ。イレーシュ中佐の鋭い目つきにたじろいでいるのであろう。そんなに気にすることもないのだが。
「アンドリュー君はロボス提督を尊敬してるんでしょ?」
「もちろんです。ロボス閣下から『後で私の部屋に来なさい。秘蔵のウイスキーを一緒に飲もう』とお誘いを頂いた時は、天にも登るような気持ちでした。同盟軍で最も偉大な提督が俺のグラスに自ら酒を注いでくださって、『良くやってくれた。君は私が見込んだ通りの男だった』とおっしゃったんです。感動で胸が震えました。『生きてて良かった。この方にお仕えして良かった』と心の底から思って……」
「あの人、背が低いのに太ってるよね」
「ええ、素晴らしい貫禄ですよね。ゆったりとしているのに、決して動じることはない。見るからに……」
「たくさん食べてるから太るんだよね」
「ロボス閣下ほど仕事をなさる方はいらっしゃいませんからね。誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く退勤なさいます。前線に出たら執務時間は二四時間、睡眠はすべて仮眠です。人並みの食事量では体がもたないですよ」
「そう、たくさん仕事をしたら食べなきゃいけない。君はロボス提督を尊敬してるのにそこは見習わないの?」
さすがはイレーシュ少佐だ。アンドリューが尊敬するロボス元帥を引き合いに出して、たくさん食べるように促している。
「しかし、食べる時間も惜しいですから」
「食べる時間を惜しんでたら、ロボス提督はとっくに倒れてるよ?」
「しかし、ロボス閣下と俺なんかでは価値が違います。俺はただの参謀、あの方は同盟軍の至宝です」
「君が倒れたら、ロボス提督も困るじゃないの。君の仕事は誰でも出来る仕事?」
「違います」
「参謀は食べるのも仕事のうちよ。ロボス提督が君の力を必要としている時に体が弱ってたらどうるんの?」
イレーシュ少佐は見せつけるかのように、パルメレンドエビのバター焼きを二本まとめて口に放り込み、バリバリとかじる。
「おっしゃる通りです」
観念したようにアンドリューが言うと、イレーシュ中佐は俺が食後のデザートに取っておいたホイップクリームたっぷりパンケーキの皿を「食べなよ」と言って差し出した。
「ありがとうございます」
「ちょ、ちょっと待って……」
デザートを取られた俺は抗議しかけたが、イレーシュ中佐に「文句あるの?」と言わんばかりの視線を向けられて沈黙した。アンドリューに食われるならいいかと思って、無理やり自分を納得させる。
「あげる」
俺の左隣で熱いココアに息を吹きかけていたダーシャ・ブレツェリ少佐が、チーズケーキの乗った皿を俺の元にすーっと寄せた。
「あ、ありがとう」
「それだけ?」
「どうしても言わなきゃいけないのか?」
「当然でしょ」
ブレツェリ少佐の表情は穏やかだが、有無を言わせぬ迫力がある。俺は観念した。
「ありがとう、ダ、ダーシャ」
「うん!」
名前を呼ばれたブレツェリ少佐、いやダーシャは満面の笑顔を浮かべると、ココアを冷ます作業に戻った。アンドリューとイレーシュ少佐がニヤニヤしながら俺の方を見る。
悪の元凶ダーシャは小さな両手でカップを持ち、ボールのような胸を机の上に乗せ、ふっくらしたほっぺたを膨らませ、ぷるぷるした唇をすぼめ、熱いココアにふうふうと息を吹きかける。そのすべてが馬鹿っぽい。黒い髪をうなじのあたりで丸くまとめた髪型が子供のようだ。今の俺はこんな奴に頭が上がらないのである。
「しかし、その手があったなんて思わなかったよ。私もやってみようかな」
とても面白そうにイレーシュ中佐が言う。
「やめてください」
首を全力で横に振った。俺とダーシャ・ブレツェリは、今ではファーストネームで呼び合う仲だった。関係が急接近したわけではない。強制されたのだ。
イゼルローン遠征軍総司令部が発足する少し前、彼女は「ファーストネームのダーシャで呼ばなかったら、返事しないから」と通告してきた。そんな恥ずかしい真似ができるはずもない。徹底的に抵抗したが、気まずい雰囲気に耐え切れなくなってついに屈服したのだった。
「でもさ、ファーストネームで呼んで欲しくてだんまりを決め込むなんて、かわいいじゃん」
「勘弁してください」
「顔もかわいいし」
「女性の顔は気にしないたちなんです」
思い切り大嘘をついた。女性の顔はとても気になる。だが、ダーシャのことは女性と思っていないから、顔なんてどうでもいい。
「しかし、君にこんなかわいい彼女ができるなんて夢のようだよ」
俺の気持ちも知らずに笑うイレーシュ中佐が少し恨めしい。逃げ場のない軍艦の中で、年の近い女性とファーストネームで呼び合う。それがどれほど恥ずかしいことなのか、わかっているのだろうか?
「ブレツェリ先輩は優等生の中の優等生だからな。学業ではアッテンボロー先輩と戦略研究科の首席をずっと争ってた。そして、入学から卒業までずっと風紀委員会にいた筋金入りの風紀委員。堅物のエリヤとは相性がいいんだろうな」
俺のパンケーキをあっという間に平らげたアンドリューが朗らかに笑う。
「彼女じゃない。友達だ」
俺は必死に否定する。結婚できれば相手は誰でもいいと思っている俺でも、ダーシャだけは絶対に嫌だ。こんな変な奴を女性として意識できるはずがない。
「エリヤの言う通り、今はまだ友達です」
ダーシャが助け舟を出してくれた。
「そうだよな、俺達は友達だ」
「今はね」
ダーシャは意味ありげに笑う。彼女らしくもない大人びた笑顔が少し怖い。
「なるほど、『今は』友達なのね」
ニヤニヤして念を押すイレーシュ中佐。アンドリューもうんうんと頷く。
「ええ、『今は』友達です」
「今だけ友達だなんて寂しいこと言うなよ。俺達はずっと友達だろ?」
はっきりと「今は」に力を込めるダーシャに対し、俺は作り笑いをしながら釘を差した。何としても最後の一線を死守するのだ。
「へえ、私のこと、友達と思ってくれてるんだ。嬉しいな」
「まあな」
「エリヤは照れ屋さんだからね。そこも可愛いんだけど」
「照れてねえよ」
逃げるようにサロンの隅に視線を向ける。そこには、猫のように背中を丸めながら紅茶をすする青年がいた。
黒い髪はぼさぼさ。童顔にぼんやりとした表情を浮かべている。不真面目な大学院生が何かの間違いで軍服を着ているといった感じだ。この人物は人間界に降り立った軍神、前の世界では「不敗の魔術師」と呼ばれた同盟宇宙軍最後の元帥で、現在は作戦副主任参謀をしているヤン・ウェンリー代将という。彼が俺の強引さに引いた理由が今は実感を持って感じられる。
「エリヤ君、非常勤参謀殿が気になるの?」
イレーシュ中佐の口調にかすかな悪意がこもった。勤務態度の悪いヤン作戦副主任は、「非常勤参謀」と呼ばれる。
「ああ、ヤン代将はまたサボってるのか。しょうがない人だな」
アンドリューが軽くため息をつく。努力と勤勉がモットーのロボス・サークルが主流を占める作戦部門では、残業や休日出勤は半ば義務化している。そんな中、一度も残業や休日出勤をせず、勤務時間中も自主休憩ばかりしてるヤン作戦副主任は異端だった。
「同じエル・ファシルの英雄でも、エリヤと“あの人”ではえらい違いよね」
ダーシャははっきりと敵意を込めていた。士官学校時代に彼女がいた風紀委員会は、ヤン作戦副主任が結成した「有害図書愛好会」と敵対関係だった。それが今でも尾を引いている。
俺が前の世界で読んだ『ヤン提督の生涯』や『革命戦争の回想―伊達と酔狂』によると、七八〇年代半ば、士官学校に在籍していたヤン・ウェンリー、ジャン=ロベール・ラップ、ダスティ・アッテンボローら一部生徒が有害図書愛好会という地下組織を結成して、有害図書を校内に持ち込んで回覧する活動を始めた。
同盟軍の教育機関では、反戦思想を持つ教官の影響で任官拒否者が続出したり、校内に浸透した極右組織が生徒を反乱計画に誘うなど、思想絡みのトラブルが数年に一度は起きる。そのため、生徒指導教官や風紀委員会が反体制的な本を「有害図書」として取り締まってきた。『ヤン提督の生涯』では、反戦思想や政府批判の本が取り締まられたと記されているが、実際は極右思想の本も取り締まり対象だ。
本を読んだ限りでは、読書の自由のために戦う有害図書愛好会が善、規則を振りかざす風紀委員会が悪と言った印象を受けた。ところがダーシャが言うには、事の重大さを弁えずに騒ぎを起こした有害図書愛好会が悪で、思想問題を水際で食い止めようとした風紀委員会が善なのだという。
どちらが正しいかはともかく、有害図書愛好会と風紀委員会は不倶戴天の間柄となった。風紀委員長を務めたワイドボーン代将という人物は、ヤン代将、ラップ代将と並び称される七八七年度卒業者の出世頭だが、今では口も聞かない間柄だという。ダーシャとアッテンボロー少佐も同期だったが、やはりお互いに激しく嫌い合っているそうだ。しかし、そんな因縁など俺には関係ない。
「あの仕事ぶりで代将になれるなんて、実力がある証拠だろうが。俺みたいに真面目なだけの凡人と同じ基準で評価するなよ」
俺はダーシャをたしなめた。現人神と俺なんかを比較するなど不敬にも程がある。彼ほどの才能があれば、あくせく仕事せずとも結果を出せるのだから。
「そう、まあいいけど」
ダーシャはあっさり引き下がった。彼女は押しが強いが引くのも早い。悪い奴ではないのだ。
「ところでリンダ・アップルトンに似てると言われませんか?」
気まずい空気を変えようと、アンドリューがイレーシュ少佐に話を振る。
「言われる言われる。この髪型もリンダを意識してるのよ」
それから、俺以外の三人は人気ドラマ『特別捜査官 リンダ・アップルトン』の話を始めた。アップルトンと言われても、アルレスハイムの敗将しか思い浮かばない俺には退屈な話題だ。
再びヤン作戦副主任に視線を向けた。視界の中にいるはずなのにとてつもなく遠い存在のように思える。前の世界で最も偉大な英雄もこの世界では未だ白眼視される存在だった。