俺はフェザーン最大のオフィス街ジファーラ地区の外れにある超高層ビル「マラヤネフカトゥルム」の前に立っていた。このビルの中にあるコーヒー店「コーフェ・ヴァストーク」が帝国の使者ループレヒト・レーヴェとの待ち合わせ場所だった。
「こんな立派なビルにふわふわした格好で行ったら浮くんじゃないか」
そんな不安を覚えつつ、ビルに足を踏み入れた。
「みんな、随分ラフな格好だな」
意外と俺の格好は浮いていなかった。有名企業がたくさん入居しているはずなのに、スーツ姿の人は少なく、明らかに私服としか思えないような格好の人も多い。Tシャツにハーフパンツ、素足にサンダル履きなんて人までいる。フェザーン人の服装に対する自由な考え方にあらためて驚かされる。
コーフェ・ヴァストークに入ると、白いワイシャツに水色のエプロンを着用した男性店員が近寄ってきた。年齢は二〇歳前後、身長はそこそこ高く、おしゃれっぽい感じの青年だ。その胸元の名札には「ブレツェリ」という姓が記されている。入院中に知り合ったダーシャ・ブレツェリ少佐を思い出して少したじろいだが、ブレツェリという姓はフェザーン由来の姓なのを思い出して気を取り直す。そもそも、ブレツェリ少佐もフェザーン移民三世なのだった。
「いらっしゃいませ。お一人様でしょうか?」
「いえ、待ち合わせです。イアン・ホールデンと申しますが、ループレヒト・レーヴェさんはお越しになっていらっしゃるでしょうか?」
「イアン・ホールデン様でございますね。ただ今ご案内いたします」
ブレツェリは貴族に接するかのような丁寧さで俺を案内した。ちらっと店内を見ると、席と席の間の通路は広めで、いざという時も動きやすい。どうやら、ループレヒト・レーヴェは用意周到な人らしかった。
「こちらでございます」
ブレツェリが角の席を指し示すと、そこに座っていた三〇歳前後の男性が立ち上がった。
「イアン・ホールデンさんですね。はじめまして、ループレヒト・レーヴェです」
ループレヒト・レーヴェは笑顔を浮かべて手を差し出してきた。黒々とした髪は一分の隙も無く整えられている。見るからにやり手といった感じの面構え。身長は高く肩幅は広い。白いワイシャツの上にダークグレーのジャケットを着ているが、ネクタイは付けていない。軍人というよりは役人っぽく見える。警察官か検察官だろうと見当をつけた。
「はじめまして」
帝国語で挨拶を返し、握手を交わす。レーヴェの手は大きいけれど、そんなに厚みはなくて柔らかい。役人っぽいという第一印象を裏切らない手だ。
「この店はクリーニング済みです。符丁とかそういったものを使う必要はありません。お互い気がねなく話しましょう」
「お気遣いいただき、恐縮です」
「それにしても、意外とかわ……、いやお若いですな」
意外そうな表情をレーヴェは浮かべた。覚悟はしていたが、実際に言われると少し傷つく。動揺を見せないよう笑顔を作った。
「良く言われます」
「我々はあなたに対する一切の情報を持っていません。貴国の交渉担当者には、ヴァンフリート四=二基地のマフィア取締り責任者と会いたいとの要望を伝えました。憲兵隊でも五本の指に入る有力者と聞いておりましたので、年配者と思っていたのです。先入観は軍人にとって忌避すべきものですが、なかなか逃れることができません。恥ずかしい限りです」
レーヴェは驚くほどに率直だった。初対面の異国人、それも学生以外の何者にも見えない相手にこのような態度を取れるなんて、並みの人ではない。
「いえ、こちらもあなたを軍人ではなくて役人ではないかと思っておりました。先入観というのは怖いですね。四=二基地でも先入観に惑わされました。真実を見抜く目がないことをこれほど悔やんだことはありません」
「あなたは正直な方だ。若いながらも大任を任されるだけのことはある。それにしても、役人に見えると言われたのは初めてです。弁護士に見えるとは良く言われますが」
爽やかにレーヴェは笑ってみせる。確かに弁護士と言われても違和感がない。何と言うか、この人は秩序の番人みたいな感じがするのだ。
「僕は若く見えると言うより、幼く見えると言われます。内面の未熟さが外見に反映されているのかもしれません。だから、マフィアを取り逃がしてしまったのでしょう」
「あれはあなたの責任ではありません。本日はそのことを伝えに参りました」
レーヴェの表情から笑みが消える。いきなり本題に入った。
「僕の責任ではないと言うのは、どういうことでしょう?」
「捜査情報がグロース・ママに漏れていたのです。我が国の憲兵隊に内通者がいました」
帝国の憲兵隊から捜査情報が漏れていた。それほど衝撃的な事実でもない。あれだけの大悪党ならば、そこまで手を伸ばしていない方がおかしいように思える。
「なるほど、ドワイヤンは捜査の手が伸びているのが分かっていたのですか。そして、遭遇戦に乗じて逃げ伸びた。本当にとんでもない奴です」
「あの場所で戦闘が起きるなんて、誰も思っていなかったでしょう。起きるように仕組んだ者以外は」
聞き捨てならないことをレーヴェは言った。ヴァンフリート四=二基地の戦いが遭遇戦ではないなんて、前の世界の戦記にも書かれていないことだ。
「仕組まれたとは、どういう意味でしょうか?」
「敵の勢力圏のど真ん中に一個艦隊を配置するなど、非常識の極みです。そして、一個艦隊もの大軍が自軍の勢力圏を通過するのを見過ごすのも非常識。常識的に有り得ないことを起こしたのが、グロース・ママとその一味です」
「しかし、ドワイヤン一派だけで一個艦隊を動かせるのですか? 総司令官のミュッケンベルガー元帥が取り込まれるとも思えません」
「ミュッケンベルガー閣下の幕僚に、ヴァンフリート四=二に艦隊を配置するよう誘導した者がおりました。宙域データが改竄された痕跡もあります。ミュッケンベルガー元帥閣下は幕僚の誘導に乗ったのです」
前の世界の戦記作家を散々悩ませた謎が解明された。必然性があったから、前の世界でも今の世界でも、ミュッケンベルガー元帥はグリンメルスハウゼン艦隊を四=二に配置した。しかし、それでは説明のつかないこともある。
「同盟軍が帝国軍の移動を察知した時点で四=二基地に連絡を入れていたら、中央兵站総軍は戦闘が起きる前に撤収したはずです。同盟軍の誰かが自軍の勢力圏内を横断する帝国軍を見つけたら、喜んで攻撃を仕掛けていたでしょう。ほんの少しの偶然で四=二基地攻撃は空振りに終わります。あまりに偶然に頼りすぎた策ではないでしょうか?」
「これは私の憶測ですが、そちらの総司令部にもマフィアの手先がいたのではないでしょうか? 四=二基地への連絡を遅らせた者、移動中の我が軍の艦隊が攻撃を受けないよう工作した者がいたということです。あの時は宇宙嵐の影響で通信が混乱していました。それほど難しい工作は必要ありません」
「あなたが推測された通り、我が軍の総司令部にもマフィアの構成員がいました。その者があの戦いの前後に何をしたのかは検証されていませんが……」
四=二基地の戦いとマフィアに関係があるとは誰も思っていなかった。検証すればレーヴェの推測を裏付ける事実が出てくる可能性が高いだろう。しかし、捜査は打ち切られた。資料は八〇年間の公開停止となった。あの戦いを仕組んだ者達は、軍事機密の厚いベールの奥へと逃げ込んだ。
「あの戦いで大勢の部下を失いました。僕を逃がすために死んだ者もいます。遭遇戦での死ならまだ諦めもつきます。ですが、あの戦いが茶番だったとしたら……」
怒りと悲しみで胸がいっぱいになった。俺の判断ミスに巻き込まれたデュポン中佐、俺を逃がすために自爆したトラビ大佐、二人の天才に敗れたロイシュナー准尉やハルバッハ曹長らの姿が脳裏を過ぎる。みんな立派な軍人だった。彼らの戦いもマフィアの手のひらの上だったとしたら、冒涜されたような気分だ。
「あなたの無念はお察しします。私の主君があなたを指名なさったのもそういう理由です」
「レーヴェさんのご主君とは、どのような方なのでしょうか?」
「宮廷の重臣の一人です。結着を付けさせるためと申しておりました。私とあなたの両方に」
「レーヴェさんにも?」
「私もヴァンフリート四=二にいました。艦隊憲兵隊長としてマフィアを監視するよう命令を受けていたのです。今の主君の知遇を頂いたのもその時でした」
レーヴェは事件との関わりを明かした。俺と同じ役割だったのだ。使者に選ばれた理由がようやくわかった。宮廷の重臣とやらは、ヴァンフリート四=二の憲兵の責任者同士を引き合わせたかったらしい。しかし、わからないことが一つある。
「僕は非公式とはいえ同盟憲兵隊の使者です。しかし、あなたはそうではない。ヴァンフリート四=二で知遇を得たということは、ご主君は憲兵隊の幹部ではないんですよね? つまり、あなたは帝国憲兵隊の使者ではなく、ご主君の個人的な使者ということになる」
「その通りです」
「我が国では捜査は打ち切られました。貴国の憲兵隊との協力関係も今はありません。それなのにあなたは部外者の指示で、私、ひいては我が国の憲兵隊に情報を漏らしていらっしゃる。そちらではまだ捜査も続いているでしょう? こんなことをしても良いのですか?」
「我が国の憲兵隊は捜査を打ち切りました。ヴァンフリート戦役が終わった直後のことです。拘束された容疑者は全員釈放。捜査資料はすべて破棄。捜査に関わった者は全員『名誉ある帝国軍に麻薬組織が存在するなど、根も葉もないデマである。デマを口にした場合は、軍の名誉を害うものとしていかなる制裁も甘受する』という内容の誓約書を書かされた上で、憲兵隊から転出させられました」
「えっ!?」
呆然とした。帝国でも捜査が打ち切られた。しかも、捜査関係者全員が脅迫されるというおまけ付きだ。同盟も酷いと思っていたが、帝国はもっと酷い。
「憲兵総監閣下は急病を理由に辞職し、その翌日にお亡くなりになりました。我々は虎の尾を踏んでしまったのです」
レーヴェは軽く目を伏せた。言葉ではなく表情が憲兵総監の運命を教えてくれる。帝国要人の急病死は、自殺や謀殺と同義語なのだ。
「そちらの憲兵総監といえば大将級ですよね? 実質的な実力は上級大将級の近衛兵総監を凌ぎ、三長官に次ぐと言われる。そんな方が急病とはいったい……」
「帝国マフィアの背後にいる政府高官の摘発。それが憲兵隊の最終目標でした。金の力で政界を支配するという野望に取りつかれたその高官は、不正な手段で金を集め、麻薬密輸にまで手を染めました。そして、今や頂点に手の届く所まで来ています。何としても摘発したかったのですが、力が及びませんでした」
「その高官とは……?」
「ザンクトゥアーリウム」
レーヴェは帝国公用語で聖域を意味する言葉を口にした。そう呼ばれる帝国政府の高官はただ一人しかいない。
財務尚書オイゲン・フォン・カストロプ公爵。一五年にわたって帝国の経済財政政策を取り仕切り、「軍事宰相」の帝国宰相ルートヴィヒ皇太子、「行政宰相」の国務尚書リヒテンラーデ侯爵に対し、「経済宰相」と呼ばれる重鎮。「彼と比べたら、フェザーン人ビジネスマンも夢見る少女に過ぎない」と言われ、対同盟戦争を「無意味な浪費」と言って和平を主張する究極のリアリスト。非合法な手段で集めた政治資金を武器とする金権政治家。三〇を超える疑獄事件で名前があがったのに、事情聴取すら一度も受けなかったことから「聖域」と呼ばれる。一種の政治的怪物だ。
「なるほど、よく分かりました」
俺は額に浮かんだ汗を拭いた。帝国政治の腐敗ぶりは噂で聞いている。前の世界の戦記にも載っていた。しかし、自分がいざ関わってみると、途方もなく恐ろしく感じられる。
「私の主君は憲兵総監閣下より捜査資料のコピーを託されました。真相を知ったのも主君から捜査資料を見せていただいたおかげです。あの方がおられなければ、私は何も知らないままでした」
「レーヴェさんのご主君はどんなお方なのですか? 聖域から捜査資料を隠すのは並大抵でないと思いますが」
「皇帝陛下より厚い信任をいただいているお方です」
「なるほど。そういうことですか」
帝国の権力はすべて皇帝に集中している。レーヴェの主君の背後に皇帝がいるとしたら、さすがのカストロプ公爵もうかつな動きはできない。
「誤解しないでいただきたいのですが、この会見はあくまで私の主君の希望であって、皇帝陛下のご意思とは無関係です。例の高官との権力争いでもありません。寡欲ゆえに信任をいただいた方ですから」
レーヴェが俺の予想をあっという間に覆す。
「では、どういうお考えなのですか?」
「私の主君は長きにわたって宮廷の機密を預かってきました。その中には今回の件のような不祥事も多数含まれております。本来は永久に隠し通すべきなのでしょう。しかし、主君はそれを良しとなさいませんでした。自分の知り得た機密をすべて克明に記録し、真実を残そうと尽力されてきたのです。私が派遣されたのもその一環であるとご理解ください」
そう言うと、レーヴェは上着のポケットの中から小さな紙の包みを取り出した。
「これは?」
「憲兵隊の捜査資料が入った補助記録メモリです。役立てていただきたいと主君は申しておりました」
「わかりました。ですが、受け取る前に一つ聞かせてください」
「何でしょう」
「なぜ、ここまでしてくださるのですか?」
レーヴェの主君の考えが理解できなかった。皇帝の命令でもなければ、カストロプ公爵を蹴落とすつもりもないのに、私的に敵国と接触して機密資料を渡そうとする。発覚したら死刑は免れないだろう。そんなリスクを冒してやる価値があるのだろうか?
「これは主君の私戦なのです」
「私戦?」
「はい。我が国の宮廷は陰謀の巣窟。冤罪や不審死も珍しくはない場所です。誰もが不正に見て見ぬふりをする。不正の告発は権力抗争の手段としてのみ行われる。私の主君はそんな腐敗を目の当たりにしても何もできない自分に憤っておりました。そして、いつの日かマクシミリアン・ヨーゼフ晴眼帝や弾劾者ミュンツァーのような正義の人が現れると信じて、真実を残し続けたのです」
「そういうことでしたか」
ようやく腑に落ちた。同盟に正義の人がいるように、帝国にも正義の人がいたのだ。俺はレーヴェからメモリを受け取った。腐敗した宮廷でたった一人の戦争を続けてきた人が残した真実を受け取った。
「このようなことがあると、どこに正義があるのかわからなくなります。しかし、レーヴェさんのお話を聞き、世の中も捨てたものではないと思いました。そんな立派な人がいるのに嘆いてはいられません。僕も不正が正される日のために戦いましょう。ご主君のもとに戻られましたら、よろしくお伝えいただけると幸いです」
「主君は憲兵総監閣下から託された捜査記録を読んだ後、病に倒れました。戦いの真相を知って落胆なさったのです。もって年内いっぱいでしょう。あなた方に託されたのは、資料だけではありません。志も託されたとお考えください」
「あなたのご主君の志、決して無にはいたしません」
「ありがとうございます。これで肩の荷が下りました。私はオーディンに戻り、主君が亡くなるまで精一杯お仕えするつもりです。その後は辺境に行くことになるでしょう」
「辺境ですか……?」
「本当はもっと早く飛ばされる予定でした。主君のご厚意のおかげでどうにかオーディンに残っているのです」
それが何を意味するかは言われなくとも分かる。同盟軍では最優秀の人材は宇宙艦隊や地上総軍に配置され、それに次ぐ人材は要衝の警備部隊に配置され、余りが辺境警備に回される。上層部に忌避された者は退役まで辺境巡りが続く。帝国軍でもそれは同じだ。
「辺境送り。それが彼らからの報復というわけですか。理不尽ですね」
「捜査に加わった時から覚悟はしておりました。今日まで残っていられただけで有り難いと思っています。やるだけのことはやりました。二度とオーディンには戻れないでしょうが、悔いはありません。命ある限り戦いは続きます。お互い頑張りましょう」
レーヴェの表情は実にさっぱりしたものだった。この人は本当に強い。最後まで怒りを顔に出さなかった。
「わかりました。お元気で」
俺はレーヴェと握手を交わした。もう二度と会うことは無いだろう。しかし、彼とその主君を忘れることも決して無いと断言できる。
辺境勤務といえば、前の世界の銀河統一戦争で活躍したウルリッヒ・ケスラー元帥も、ラインハルト・フォン・ローエングラムに仕えるまでは、辺境に飛ばされていた。レーヴェもいつか良い上官に出会ってほしい。去っていく彼の後ろ姿を見ながらそう願う。
そういえば、ケスラー元帥は軍人というより弁護士に見えたそうだが、レーヴェも弁護士っぽく見える。そして、ケスラー元帥と同じ憲兵だ。
レーヴェの主君は宮廷の機密を預かる人物らしいが、ケスラー元帥も皇帝側近のグリンメウスハウゼン子爵に仕えていた時期がある。グリンメウスハウゼン子爵は、皇帝フリードリヒ四世の信頼厚い側近であり、ヴァンフリート四=二に進駐した艦隊の司令官でもある。実に共通点が多い。これだけ似ていれば、似たような幸運に恵まれてもおかしくないのではないか。
「そういえば、グリンメルスハウゼン文書というのがあったな。グリンメルスハウゼン子爵が宮廷の機密を記録した文書。確かケスラー元帥からラインハルト帝の手に渡ったはずだけど……」
いつの間にかレーヴェとケスラー元帥を重ねている自分に気づいた。俺のような小物がケスラー元帥のような超大物と縁を持つなど、妄想もいいところだ。そもそも、髪の色が全然違うではないか。ケスラー元帥は白髪交じりの茶髪だったはずだが、レーヴェは黒髪だ。
「でも、俺は髪を染めているし、カラーコンタクトもはめてる」
レーヴェは俺よりずっと危ない立場にいる。変装する必然性は俺より高い。ループレヒト・レーヴェという名前も間違いなく偽名だろう。
もう一度首を横に振った。思い上がるのもほどほどにしておこう。レーヴェとその主君から託された志を同盟に持ち帰る。そのことだけを考えればいい。ストロベリーパフェを平らげた後、店から出た。
九月初めにハイネセンポリスに戻った俺とナイジェル・ベイ中佐は、ハイネセンポリス都心部から五〇キロほど離れた場所にあるウェイクフィールド国立墓地を訪れた。戦時・平時を問わず、軍務中に殉職した軍人が埋葬される軍人墓地の中で最も新しく最も大きな墓地である。
まず、墓地の管理事務所に行って小型の乗用車を借りた。八平方キロメートルに及ぶ広大な墓地を徒歩で移動するのは難しい。また、軍人は一度に複数の墓に詣でる場合が多いため、大量の花や供え物を運ぶ手段も必要なのだ。
ベイ中佐が運転し、助手席の俺は携帯端末から墓地の公式サイトを開く。部隊名や被葬者名で検索すれば、誰がどこに埋葬されているか一発でわかるようになっている。
「ヴァンフリート四=二基地憲兵隊の殉職者は、第五三九区画のJ四八ブロックです」
俺がそう言うと、ベイ中佐は頷いて車を走らせた。彼の運転は良く言えば堅実、悪く言えば消極的だった。広くて車通りが少ない墓道でも低速走行する。何かあればすぐブレーキを踏む。人柄そのままの運転だ。
第五三九区画の第六駐車場に車を停めた。花や供物を両手いっぱいに抱えてJ四八ブロックへと入る。広い敷地内は白い大理石の墓石で埋め尽くされている。
「どの墓石も新しいな」
ベイ中佐がぽつりと漏らす。
「みんな、五か月前まで生きてましたから」
俺は目を伏せた。彼らを殺したのは俺だ。真新しい墓石の群がその事実を教えてくれる。
「確かにそうだ」
納得したようにベイ中佐が呟く。それからは無言のままで歩き続けた。罪の標識の中をひたすら歩き続けた。
「ありました」
俺は目当ての墓石を指差した。そこには「C四〇〇七九 パトリシア・デュポン 自由惑星同盟地上軍中佐 宇宙暦七六〇年三月九日-七九四年四月六日」と記されていた。
四=二基地司令部ビルで戦死したデュポン中佐の墓石は、新しい墓石の中でも特に新しいように見えた。彼女は死後に大尉から少佐に一階級昇進し、後に中佐への二階級昇進に改められた。墓石を新しい階級に合わせて作り直したのであろう。
俺とベイ中佐は墓前にユリの花束を置き、デュポン中佐の好物だったアルンハイムの缶ビールを供えた。そして、しばし敬礼を捧げる。
在りし日の故人を思い浮かべる。小柄で明るい人だった。ミスを犯した俺に一言も文句を言わず死んでいった。そんな彼女に対する謝罪と感謝を心の中で言葉にする。
墓参りとは故人に向き合う作業である。墓標を故人と見立てて対話を行い、抱え込んでいた愛情や悲しみや罪悪感を形にしていく。そして、気持ちを整理する。前の人生では宗教団体に世話になってたくせに「儀式なんて無意味」と思ってた俺だが、こうやって部下の死と正面から向き合ってみると、その意味が理解できた。
敬礼を終えた後、隣にあるケーシー地上軍少佐の墓に移動する。そして、同じように花と供物を供え、敬礼を捧げ、自分の気持ちを伝えた。終わったら、そのまた隣にあるグオ宇宙軍中佐の墓に行く。ヴァンフリート四=二で亡くなった部下の墓一つ一つに参拝した。
「トラビ副隊長の墓は行かないのか?」
ベイ中佐は怪訝そうに俺を見た。
「副隊長のお墓はマスジットにあるんですよ」
「マスジット? 随分辺鄙な星じゃないか」
「三五年前に亡くなられた奥さんのお墓がマスジットなんです。『同じ墓に入りたい』と遺言状に書かれていました」
殉職した軍人がすべて軍人墓地に埋葬されるとは限らない。本人や遺族が別の墓地への埋葬を希望した場合は、そちらが優先される。家族と同じ墓地への埋葬を希望する者、信仰やイデオロギーを理由に別の墓地への埋葬を希望する者は結構多い。
「三五年間も亡き妻を思い続けていたということか。まさに純愛だな。トラビという人はロマンチストだったらしい」
「生前はそんな素振りはまったく無かったんですけどね」
小さくため息をついた。副隊長トラビ大佐が三五年前に結婚してすぐ奥さんと死別したこと、その後も再婚しなかったことは、資料を読んで知っていた。しかし、それ以上のことは何も知らなかった。遺言状を読んだ時、老憲兵の意外な側面に驚いたものだ。
「人間は本当にわからんものだな。うちの子が考えてることもさっぱりだ。家に帰っても何を話していいかわからない」
「確かにわからないですね」
ベイ中佐の言う通りだった。人間は分からない。前の世界では前科者だった俺が、今の世界では宇宙軍の少佐なのだから。
憲兵隊員の墓を回り終えると、四=二基地で殉職した薔薇の騎士(ローゼンリッター)連隊隊員が眠る区画へと移動した。最初に参拝したのは、もちろんロイシュナー准尉とハルバッハ曹長の墓だ。それから、シェーンコップ中佐が付けてくれた隊員の墓を巡る。彼らは憲兵隊ではないが、俺の指揮で戦って亡くなったことに変わりはない。
「あれはホーランド提督じゃないか?」
ベイ中佐が視線を向けた先には、薔薇の騎士連隊の第二大隊長だったバルドゥル・フォン・デーア大佐の墓標に敬礼を捧げる五人の軍人がいた。その中にプロスポーツ選手かアクションスターのような美丈夫がいる。
精悍な顔つき。鍛え抜かれた長身。体の隅々までみなぎる鋭気。ひと目で選ばれた人物と分かるこの青年は、「グリフォン」の異名で知られる同盟軍の若き英雄ウィレム・ホーランド宇宙軍少将だった。
「そうですね、間違いないです」
「どうして薔薇の騎士の墓参りをしてるんだ?」
「薔薇の騎士連隊第二大隊は、数か月だけホーランド提督の下に臨時配属されたことがあったんですよ」
「なるほど。しかし、あのグリフォンでも部下の墓参りなんてするんだなあ」
「ですね」
俺とベイ中佐は顔を見合わせた。テレビの中のホーランド少将はいつも自信満々だ。亡くなった部下、それも臨時配属された部隊の指揮官を気にかけるようには見えなかった。
「やはり人間は分からん。行こうか」
「はい」
俺とベイ中佐は再び歩き出す。ゆっくり時間を掛けて、俺の力不足のせいで死んだ人、俺を助けるために死んだ人の墓を巡る。正午少し前に墓地に入ったのに、墓参りを終えて管理事務所に車を返却した時には空は赤くなり始めていた。
「ベイ中佐、お付き合いいただきありがとうございました」
感謝の気持ちを込めて頭を下げた。
「彼らも憲兵隊の仲間だ。そして、私と同じようにマフィアと戦った。墓参りは当然の義務さ。それに……」
ベイ中佐の顔が少し曇る。
「私はもう何年も戦場に出ていない。自分が戦場向きでないのはわかっている。頭は回らないし、勇敢でもない。今のように裏方に徹するのが分相応だと思う。それでも軍人だ。死なずに済むのは有難いが、多少の引け目はあるんだよ」
平凡で愚直な軍人の告白には悲痛な響きがあった。
「そんなことは……」
出しかけた慰めの言葉を飲み込んだ。裏方も大事な仕事だなんて、俺なんかに言われなくとも彼はわかっている。誰よりも真面目に取り組んできた人なのだから。
「フィリップス少佐」
「はい」
「君は中佐への昇進を嫌がってるそうじゃないか」
「ええ、まあ……」
殉職した部下の顕彰が一段落した後も中佐昇進を断り続けている。理由はいくつかあるが、どれも人前で言うには少し情けない理由だった。
「そろそろ受けたらどうだ? 墓参りも済んだ。ここらで区切りをつけてもいいだろう?」
「し、しかし……」
「務まらないなんてことはないはずだ。君は基地憲兵隊長をしっかりこなした。中佐に昇進しても十分やっていける」
「力が無いというのは言い訳でしょうね。力があるからやる。力が無いからやらない。彼らはそんなことは言わなかった」
俺は墓地の方に視線を向けた。あそこに眠っている人々は命を賭けて責務を果たした。ループレヒト・レーヴェの主君は無力を自覚した上でできることをした。力が無いというのは理由にならない。
「私は少佐から中佐になるまで八年かかった。君は数か月で昇進のチャンスが来たが、これを逃したら次は何年先になるか分からないぞ?」
ベイ中佐はぎこちなく笑う。
「わかりました」
頷くしか無かった。満足そうな顔のベイ中佐が俺の肩を叩く。夕日が生者と死者を分け隔てなく照らし出す。夕暮れ時の墓地はとても暖かかった。
人物一覧
エリヤ・フィリップス (768~ ) オリジナル主人公
ドーソンの腹心。同盟宇宙軍少佐。憲兵司令部付。
ヤン・ウェンリー (767~ ) 原作主人公
同盟宇宙軍代将。前世界では銀河最強の用兵家。
ラインハルト・フォン・ミューゼル (776~ ) 原作主人公
強敵。帝国騎士。帝国宇宙軍准将。白色槍騎兵艦隊所属。前世界では銀河を統一した覇王。
ヨブ・トリューニヒト (755~) 原作キャラクター
憲兵隊の後援者。同盟下院議員。前NPC政審会長。前世界では同盟末期の衆愚政治家
クレメンス・ドーソン (740~ )原作キャラクター
エリヤの上官。同盟宇宙軍中将。同盟軍憲兵司令官。前世界ではトリューニヒト派の軍高官。
ワルター・フォン・シェーンコップ (764~ ) 原作キャラクター
曲者。同盟宇宙軍大佐。薔薇の騎士連隊長。亡命者。前世界ではヤン・ウェンリーの腹心。
エーベルト・クリスチアン (?~ ) 原作キャラクター
エリヤの恩師。同盟地上軍中佐。前世界ではスタジアムの虐殺を起こした。
イレーシュ・マーリア (762~ ) オリジナルキャラクター
エリヤの恩師。同盟宇宙軍少佐。
アンドリュー・フォーク (770~ ) 原作キャラクター
エリヤの親友。同盟宇宙軍中佐。同盟宇宙艦隊参謀。前世界では帝国領遠征軍敗北の戦犯。
カスパー・リンツ (770~ ) 原作キャラクター
エリヤの友人。同盟宇宙軍少佐。薔薇の騎士連隊隊員。亡命者。前世界では薔薇の騎士連隊の第一四代連隊長。
ナイジェル・ベイ (749~) 原作キャラクター
エリヤの同僚。同盟宇宙軍中佐。フェザーン駐在武官。前世界ではトリューニヒト派の軍人。
シンクレア・セレブレッゼ (746~ ) 原作キャラクター
同盟宇宙軍中将。前中央兵站総軍司令官。前世界では帝国軍の捕虜となる。
マルキス・トラビ (738~794) オリジナルキャラクター
エリヤの部下。同盟宇宙軍大佐。ヴァンフリート四=二基地憲兵副隊長。
ロイシュナー (?~794) 原作キャラクター
エリヤの戦友。同盟宇宙軍准尉。薔薇の騎士連隊隊員。亡命者。ヴァンフリート四=二で戦死。前世界ではシヴァ星域会戦で戦死。
ハルバッハ (?~794) 原作キャラクター
エリヤの戦友。同盟宇宙軍曹長。薔薇の騎士連隊隊員。亡命者。ヴァンフリート四=二で戦死。前世界ではシヴァ星域会戦で戦死。
ユリエ・ハラボフ (771~ ) オリジナルキャラクター
エリヤの同僚。同盟宇宙軍大尉。憲兵司令部副官。
ダーシャ・ブレツェリ (769~ ) オリジナルキャラクター
エリヤの友人。同盟宇宙軍少佐。
ハンス・ベッカー (?~ ) オリジナルキャラクター
エリヤの友人。同盟宇宙軍少佐。亡命者。
グレドウィン・スコット (?~ ) 原作キャラクター
エリヤの友人。同盟宇宙軍代将。前世界では帝国領侵攻で戦死。
ループレヒト・レーヴェ (?~ ) オリジナルキャラクター
帝国軍憲兵。