銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第21話:檻の中の安らぎ 宇宙暦794年6月中旬~7月上旬 ハイネセンポリス第二国防病院

 六月上旬、ヴァンフリート四=二で殉職した部下全員に武功勲章が授与されたとの知らせを受けた。地上軍殊勲星章、国防殊勲章、銀色五稜星勲章など序列の高い勲章を授与された者もいる。受勲者リストにずらりと並んだ部下の名前に目頭が熱くなった。

 

 その数日後、国防委員会から名誉昇進者のリストが送られてきた。殉職した軍人は全員一階級昇進するが、功績抜群の者は二階級昇進する。トラビ大佐、デュポン中佐、ワンジル中佐、ロイシュナー准尉、ハルバッハ曹長ら五七名が一階級昇進から二階級昇進に改められた。軍は彼らの功績を認めてくれたのだ。これで肩の荷が下りた。

 

 最近はリハビリも順調だ。見舞いに来る客との歓談も楽しい。四月に死にかけたことが信じられないほど穏やかな毎日だ。不満といえば、食事が少ないこととトレーニングができないことくらいのものだった。

 

「嘘つけ。エリヤの人生から食事とトレーニングを差し引いたら何が残る?」

 

 見舞いに来た宇宙艦隊参謀アンドリュー・フォーク宇宙軍中佐がとても失礼なことを言った。

 

「勉強がある」

 

 俺はテーブルの上に積まれた本を指さす。最近になって参謀業務の勉強を始めたのだ。それを見たアンドリューが苦笑した。

 

「いい加減、食べ物とトレーニングと軍務以外にも興味を持てよ」

「例えば?」

「そうだなあ。女の子とか、ゲームとか、三点セットとか」

 

 軍人が好む物をアンドリューはあげていく。

 

「三点セットは昔やったけど、あまり好きになれなかった」

 

 軍人の三点セットとは、酒、ギャンブル、セックスサービスを指す。どれも前の人生でやり尽くした。アル中になるくらい酒を飲み、ギャンブルで借金を作り、売春婦とサイオキシンを使ったセックスをさんざんやった。思い出すたびに自己嫌悪に陥る。

 

「兵卒だった頃に一度だけやって嫌になったんだろ? 言われなくても分かるぞ。エリヤは堅いからな」

「まあ、そんなとこかな」

 

 アンドリューの勘違いを肯定した。俺が放蕩したのは前の世界のことだ。そんなのは誰にもわからない。

 

「ゲームはどうだ? 体を動かさないから駄目なのか?」

「そうだなあ。一人でゲームしてたら、どんどん後ろ向きになってしまう」

「そうか。じゃあ、女の子は? まあ、興味ないか。性欲も無さそうだし」

「何言ってんだ。彼女は欲しいし、結婚だってしたい」

「そう言ってるわりに何もしてないよな」

「相手がいないことにはどうしようもない」

「その気になればいくらでも見付かるだろうに」

「俺がその気になっても、あっちがなってくれないことにはどうしようもない」

 

 言ってて悲しくなってきた。どうして恋愛と縁が無いのか? やはり身長の問題だろうか?

 

「一緒に遊びに行ってる背の高い年上美人がいるだろ」

「誰のことかな?」

 

 一緒に遊びに行くような長身の年上美人と言うと、恩師のイレーシュ・マーリア少佐、スタイリストのラーニー・ガウリ軍曹、憲兵隊のアルネ・フェーリン軍曹の三人だ。

 

「迷うくらいいるのか? 女優のマルグリット・バルビーに似てる人だよ」

「マルグリット・バルビー? 知らないな」

「流行りのドラマ『特命捜査官 リンダ・アップルトン』の主演女優。そう言われたら顔は思い浮かばないか?」

「やっぱり分からないな。ニュースとパラディオン・レジェンズの試合しか見ないから」

 

 アップルトンと言われても、二年前にアルレスハイムで惨敗して失脚したサミュエル・アップルトンしか思い当たらない。

 

「エリヤがドラマなんか知ってるわけないか。これがバルビー」

 

 アンドリューは携帯端末の画面を見せた。そこには栗毛の美人が映っている。顔立ちはイレーシュ少佐に似ているが、あまり不機嫌そうではない。目つきは鋭いが、イレーシュ少佐ほど怖そうではない。

 

「ああ、イレーシュ少佐か。あの人は恩師というか家族というか、そんな感じだな。クリスチアン中佐と同じだ」

 

 イレーシュ少佐の方が美人だと思ったが、それは口にしなかった。四=二基地で振られたことも言わなかった。

 

 アンドリューはそれからも俺の知り合いの女性を列挙した。良くも他人の人間関係を詳しく把握しているものだと感心させられる。さすがは士官学校の首席だ。

 

「ああ、そうだ。ハラボフさんがエリヤの後任になってたはずだ。彼女はどうだ?」

「知ってるのか?」

 

 アンドリューの情報の早さに驚いた。本当は作戦参謀じゃなくて情報参謀なんじゃないかと疑いたくなる。

 

「戦略研究科の後輩だからな」

「ああ、なるほど」

「エリヤとハラボフさんならお似合いだと思うけどな。エル・ファシル出身だし、体育会系だし、赤毛だし、身長も同じくらいだ。雰囲気も似ている」

「エル・ファシル出身? ミトラじゃないのか?」

「生まれはエル・ファシルで、小学校の途中からミトラに引っ越してる」

「そうか。まあ、どうでもいいや」

 

 ハラボフ大尉のようなきつい人は苦手だ。あまり興味を感じる相手ではない。

 

「やはり女の子に興味ないんだな。その外見と性格で彼女ができない理由なんて、他には考えられない」

 

 アンドリューはそう断言した。彼はいつも人を善意で解釈する。前の世界でラインハルト・フォン・ミューゼルは親友のジークフリード・キルヒアイスに対し、「下水道の中を覗いても、そこに美を発見するタイプ」と言ったそうだ。アンドリューもそういうタイプに違いない。

 

 俺は劣等感だらけの小物だ。あまりに持ち上げられると居心地が悪い。しかし、否定すれば「そんなことはない」とますます持ち上げられるだろう。話題を変えることに決めた。

 

「そういう君はどうなんだ? 大学院生のオードリーさんとはうまくいってるのか?」

「ああ、最近別れた。何度通信入れても繋がらなくて、嫌になったんだとさ。前線に出てる間は通信が繋がらないなんて珍しくもないのに」

「ああ、宇宙嵐とか妨害電波とかいろいろあるからな」

「それが民間人にはなかなかわかってもらえない」

 

 アンドリューは苦笑を浮かべる。彼は先月までヴァンフリート星域の同盟軍総司令部にいた。同じ星域の中でもまともに通信が繋がらないような場所だ。ミス・オードリーが嫌になるのも無理はないと思う。

 

 軍隊の常識は民間の非常識だ。通信が何か月も繋がらないなんて当たり前。転勤が多いせいで遠距離恋愛になりがち。軍隊文化と一般社会の文化の違いは、帝国文化と同盟文化に違いよりも大きいと言われる。だから、軍人と民間人の恋愛は破綻しやすい。

 

「軍人と付き合えよ。宇宙艦隊総司令部ならいくらでもいい子がいるだろうに」

「それはないな。別れた後が面倒だ。軍隊は狭い社会だからな。士官学校で嫌というほど思い知らされた」

「見合い結婚は? 軍人や政治家の娘だったら、こちらの事情もわかってくれるって」

「そういう話は全然来ないなあ」

「嘘つけ。俺にだって来てるのに」

「へえ、エリヤのところにも来てるのか。いよいよエリートの仲間入りだな」

 

 きらりとアンドリューの眼が光る。調子に乗っていらないことを言ってしまったと後悔した。

 

「あ、いや、ほんの二件だぞ」

「誰から?」

「第六地上軍のアジュバリス中将と国防委員会のリバモア少将」

「どっちも大物じゃないか」

「それはそうだけどなあ……」

 

 微妙な気分だった。アジュバリス中将はヤン・ウェンリーが士官学校にいた当時の副校長で、保守派教官のボスとしてリベラルなシトレ校長と激しく対立した。リバモア少将は「NPC国防委員会支部長」「軍服を着た政治家秘書」とあだ名されるほどにNPCと密着している。こういう人から声が掛かる自分は世間からどう見られてるのだろうと考えてしまう。

 

 それからも俺とアンドリューは軍務に関係ない話を続けた。最近の彼はほとんど軍務の話をしない。気分転換をしたいのだろうと思う。

 

 ロボス元帥の幕僚チーム「ロボス・サークル」の体制が今年から大きく変わった。これまで中心となってきたホーウッドら四〇代の中堅が軍幹部として栄転し、コーネフ、ビロライネン、アンドリューら二〇代、三〇代の若手が新たな中心となった。

 

 今年に入ってからのアンドリューはいつも疲れた顔をしている。雰囲気も暗くなった。この半年で三年は老けたかのようだ。宇宙艦隊を背負う重圧、ヴァンフリート戦役での失敗などがストレスになっているのだろう。

 

「アンドリュー、体には気をつけろよ」

「ありがとうな」

「その痩せっぷりじゃあ、ろくに食事もとってないだろう。これでも食っとけよ」

 

 俺はベッドの横の棚からドーナツの入った袋を取り出し、アンドリューに渡した。

 

「いいのか?」

「ああ、差し入れを貰っても食べきれないんだ」

 

 残念そうに棚を見る。そこには菓子の入った袋がいくつも並んでいた。内臓の傷が完治するまでは大っぴらに食べられない。

 

「まさかエリヤから食べ物を貰えるなんて思わなかった。大事に食べさせてもらう」

 

 そう言ってアンドリューは病室を出て行く。足取りも頼りなく、職場に戻る前にこの病院で診察を受けたほうがいいんじゃないかと思える。

 

 前の世界で読んだ『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』では、アンドリューの容姿は「年齢より老けて見える」「血色の悪い顔は肉付きが薄すぎた」「対象をすくい上げるような上目遣いと歪んだような口元が印象を暗くしている」と評されていた。爽やかなアンドリューが、前の世界の病んだフォークになってしまうのではないか。そんな不安をかすかに覚えた。

 

 

 

 一月から始まった経済危機は、六月が過ぎても終息する気配を見せなかった。ディナールと株価は下落の一途を辿り、企業倒産件数と失業率は跳ね上がった。フェザーンの信用格付け機関が同盟国債を格下げした。証券業界第三位のバリントン・ファミリーを始めとする大手金融機関が次々と経営危機に陥った。シヴァ星系政府を始めとする複数の星系政府がデフォルト寸前と言われる。

 

 そんな中でも連立与党は通常営業だった。ヘーグリンド最高評議会議長が辞任を表明した後、国民平和会議(NPC)のオッタヴィアーニ元最高評議会議長、ドゥネーヴ元最高評議会議長、ムカルジ最高評議会議長、バイ前最高評議会議長の四名が新議長の座を巡って争った。辞任した議長も後継に名乗りを上げる者もみんな「ビッグ・ファイブ」という構図は、七年前からまったく変わらない。

 

 ビッグ・ファイブの一人一人の違いを理解できる者は少ないだろう。年齢は七〇歳前後、安全保障面では伝統的な積極的防御戦略、内政面では行政改革推進、財政面では財政再建重視。容貌と出自以外は似たり寄ったりの五人が、怨恨や利権のために離合集散を繰り返してきた。

 

 退屈な争いの末に七一歳のビハーリー・ムカルジが新議長の座を獲得し、与党第二党・進歩党の代表で七六歳のリンジー・グレシャムが引き続き副議長を務めることになった。その他の評議員も党派均衡人事で選ばれたと一目で分かる顔触れだ。特定の機関を管掌しない無任所評議員は、「最高評議会法」で認められた上限の五人。配分するポストを増やすためなのは言うまでもない。

 

 唯一注目された人事は、オラース・ラパラ下院議員の報道担当無任所評議員への抜擢だった。美少年アイドルとして絶大な人気を誇る彼は、一八歳で被選挙権を取得すると同時に下院補選へ出馬して議員となり、一九歳の若さで初入閣を果たした。話題作りと女性人気目当ての抜擢人事は、あまりに露骨すぎて市民感情を逆撫でした。

 

 そして、進歩党から選ばれたカステレン人的資源委員長が、退役軍人が無料で医療を受けられる権利について、「軍人は特権階級ではない」「彼らは自分の金で治療を受けるべきだ。市民はみんなそうしている」と述べたことから右派の反発を買って、就任からわずか一四日で辞任に追い込まれた。

 

 市民は改革を推進できる政権を望んでいる。見るからに弱そうな新政権が支持されるはずもなかった。世論調査によると、政権支持率はわずか二八パーセント。それでも、手堅い組織票と豊かな資金に支えられたNPCと進歩党が政権から転落することはない。

 

 病棟ロビーの大きなテレビには、ハイネセンポリス都心部の大通りを行進する数万人のデモ隊が映っている。彼らは統一正義党系列の極右民兵組織「正義の盾」だ。道路をびっしりと埋め尽くす老若男女。無秩序に飛び交う怒号。画面を通しても凄まじい熱気が伝わってくる。

 

「我々は“I・G・R”を待っている!」

「軍事費削減反対!」

「ムカルジ政権は即刻退陣しろ!」

「拝金主義と戦え! 汚職を追放しろ!」

「仕事を寄越せ!」

「金融資本優遇をやめろ!」

「帝国を倒せ! フェザーンと断交せよ!」

 

 参加者が掲げるプラカードのうち、軍事費削減反対や対帝国主戦論は保守派と重なる。だが、拝金主義批判、金融資本批判、反フェザーンなどの反資本主義的な主張、「I ・G・R」という隠語は、極右特有のものだ。

 

 I・G・Rとは「鋼鉄の巨人ルドルフ(Iron giant Rudolf)」の頭文字で、銀河帝国初代皇帝ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムを意味する。要するにデモ参加者はルドルフ待望論者だった。銀河連邦簒奪、劣悪遺伝子排除法、四〇億人粛清といったルドルフの悪行が忘れ去られたわけではない。知っていてなお彼らは待望論を口にする。これくらい思い切ったことのできる強い指導者を彼らは望む。民主主義に対する失望がルドルフ待望論に力を与えた。

 

 昨日は急進的反戦団体「反戦市民連合」のデモ隊数万人が同じ通りを行進した。彼らは現在の同盟を「反帝国に凝り固まって理想を失った。戦争のために自由を制限するなど本末転倒だ」と批判し、ハイネセン主義に忠実な国家の建設を目指す。対帝国戦争遂行のために国民生活が圧迫されている状況への不満から台頭した。

 

 左右の急進派が白昼堂々と首都の中心部をのし歩く。まるで革命前夜のようだ。前の世界で起きた帝国領侵攻作戦、救国軍事会議のクーデターなどもこういった雰囲気の延長上にある。

 

 戦記だけを読むと、帝国に侵攻しなくても政権を維持できるように思えるし、救国軍事会議がクーデターを起こすほど民主主義が酷いとは思えないし、ヤンの強烈な政治不信が理解できないし、レベロ議長がヤンを警戒したのも被害妄想にしか見えない。

 

 前の世界で戦記を書いた人々は、ヤン・ウェンリーやラインハルト・フォン・ローエングラムと接点のない事象に対する関心がおそろしく薄かった。登場人物が政治論を語る場面は多いのに、肝心の政治状況にはほとんど触れていない。選挙は完全に他人事、トリューニヒトと右翼運動の主導権を争ったルドルフ主義者、トリューニヒトに倒された保守政界の支配者ビッグ・ファイブなんかも完全に無視されている。

 

 ルドルフ主義者やビッグ・ファイブの存在を知識として知っている俺も、七九〇年代の大半を帝国の収容所で過ごし、トリューニヒトの一人勝ち状態になってから帰国したため、後知恵であれこれ考えることが多かった。しかし、実際に七九〇年代の空気に触れてみると、政治に背を向けたくなる気持ち、独裁者を待望する気持ちなどが理解できてくる。

 

 理解できたところで嬉しくも何ともなかった。完全に傍観していられるのならともかく、俺はこの社会の一員だ。不安定な政治など百害あって一利もない。

 

 携帯端末をチェックしてニュースを読む。暗いニュースが並ぶ中、見出しに「エル・ファシル」という文字を見つけると安心する。

 

 二年前に再建されたエル・ファシル星系政府は大胆な行政改革に乗り出した。財政支出と公務員を大幅に削減し、公務員が人口一〇〇〇人あたり一〇人という銀河で最も効率的な行政機構を作り上げた。それと同時に規制撤廃、公共事業の民営化などの経済改革にも取り組んだ。その結果、エル・ファシルは「辺境星域の優等生」と呼ばれる別天地になった。次期星系首相の有力候補であるフランチェシク・ロムスキー星系教育長官は、「エル・ファシルはフェザーンよりも自由だ」と改革の成果を誇る。

 

 問題が無いわけでは無かった。マリエット・ブーブリル上院議員の後押しを受けた守旧派が改革に激しく抵抗している。分離主義過激派組織「エル・ファシル解放運動(ELN)」のテロも続いており、最近はエル・ファシル義勇旅団の第一連隊長だったカッサラ州知事オタカル・ミカが暗殺された。しかし、いずれは改革の波に飲み込まれるだろうと言われる。

 

 ひと安心したところで長椅子に寝転ぶ。初夏の日差しが大きな窓から差し込んでくる。程良い空調のおかげで暑いと感じることも無く、ひなたぼっこができる。

 

 ロビーにいる二〇名ほどの入院患者も、茶を飲んだり、テレビを眺めたり、本を読んだり、昼寝をしたりと、思い思いに過ごす。この病棟の入院患者のうち、半数はヴァンフリート四=二基地の戦闘で負傷した中央兵站総軍の幕僚、すなわち麻薬犯罪の容疑者だ。

 

 彼らは容疑が晴れるまで、あるいは容疑が確定して憲兵司令部に送られるまで、治療を名目に軟禁されている。もちろん、当人はその事実を知らない。発覚したら重大な人権問題になりかねないからだ。不審を抱かれないよう、疑惑と無関係な患者も同じ病棟にいる。憲兵隊のエージェントも一般患者を装って監視にあたる。

 

 例えば、このロビーにいる患者の中では、新聞を読んでいる初老の男性、他の患者とカードゲームをしている中年女性、コーヒー片手に看護師と立ち話をしている若い女性が憲兵隊のエージェントだ。

 

 強力なセキュリティに守られた軍病院は、軍事犯罪者の拘禁、大物亡命者の保護、不祥事を起こした要人の避難場所など、裏の仕事にも使われてきた。軍上層部が内部告発者を精神病患者に仕立て上げて監禁したこともある。一部では軍病院を「白い牢獄」と呼ぶ者もいる。のどかな一時も同盟軍の闇と紙一重だった。

 

 

 

 ある朝、憎たらしい妹からのメールが携帯端末に届いた。もちろん、中身も見ずに削除した。発信アドレスも着信拒否にする。ヴァンフリートで前の携帯端末を無くし、新しい物に代えたばかりだった。軍の人事部には、誰が相手でも俺の許可無しにアドレスを教えないように依頼した。それなのにあの風船デブはアドレスを突き止めてくる。本当にうんざりだ。

 

「今日は随分と不機嫌ですね」

 

 脳天気な女性の声が聞こえた。丸っこい童顔、ボールを詰め込んだような馬鹿でかい胸、わりと細い体、俺より五ミリも高い身長。同じ棟に入院している中央兵站総軍参謀のダーシャ・ブレツェリ宇宙軍少佐だ。妹のせいで落ち込んだ気持ちがさらに落ち込む。

 

「そういうブレツェリ少佐はいつもご機嫌だな」

「やっぱり不機嫌ですね。まあ、そんな顔も可愛いですけど」

「君は『可愛い』以外の言葉を知らないのか? ジェンク・オルバイじゃあるまいし」

 

 ジェンク・オルバイとは、一世紀前に活躍した主戦派の政治家である。大した政治的業績はないが、議会で発言する際に必ず「いずれにせよ、銀河帝国は滅ぼさなければならない」と最後に付け加える奇癖のおかげで、「馬鹿の一つ覚え」の代名詞として名を残した。

 

「そうですね、ゆるいウェーブのかかった赤毛は、毛糸のようにふわふわです。くしゃくしゃにしたら気持ち良さそう。つり目気味の猫っぽい目、ふっくらしたほっぺた、細くて濃い眉はやんちゃ坊主って感じ。美形じゃないけど、とても愛嬌がある。そんなフィリップス少佐が不機嫌そうにしてると、まるで子供が……」

「もういい」

 

 聞かなければ良かったと心の底から後悔した。

 

「で、どうなさったんですか?」

 

 ブレツェリ少佐の丸っこい顔がやじうま感情で輝き出す。

 

「どうもしていない」

「どうもしてないのに、こんなに不機嫌になったりしないでしょ」

 

 この女はいつも正面から切り込んでくる。周囲では他の入院患者が「またやっているよ」と言いたげな顔で俺達を見る。本当に面倒くさい。

 

「あなた方はいつも仲が良いですな。羨ましい限りです」

 

 ハンス・ベッカー少佐が割り込んできた。彼もまた入院患者の一人だ。見た目は気楽な兄ちゃんといった感じだが、二年前までは帝国軍の情報将校で、姪を連れて亡命してきたという波瀾万丈の経歴を持つ。

 

「別に仲良くありませんよ」

 

 俺はふてくされ気味に答える。

 

「では、そういうことにしておきましょう」

「ありがとうございます」

「明後日で退院することになりましてね。謹厳なフィリップス少佐が年下の女性相手にむきになるところを見れなくなると思うと寂しいですよ」

 

 ベッカー少佐が右手に持った紙コップに口をつけた。中に入っているのはいつもと同じ緑茶であろう。彼の祖国ではグリューナーテーと呼ぶそうだが。

 

「おめでとうございます、ベッカー少佐。私はまだ退院のめどがたたないですよ」

 

 ブレツェリ少佐が笑顔で祝福する。

 

「それは不思議ですな。普通なら一か月で完治する怪我でしょうに」

「ええ。さっさと退院しちゃいたいんですけど」

「そうしたら、フィリップス少佐と会えなくなりますよ」

「ああ、入院が長引いて良かったのかな」

「一度実物を見てしまったら、もう画像だけでは満足できんでしょう。それがファン心理というものでは」

「ですよね。まとめサイトだけじゃ物足りないです」

 

 聞いてるだけで頭痛がするような会話が目の前で続く。そう、ブレツェリ少佐は俺のファンなのだ。

 

 ネットには「エリヤ・フィリップス画像まとめ」なるものがいくつか存在する。義勇旅団の解散後に更新されなくなったが、「エリヤ・フィリップスくん非公式ファンクラブ」なんてサイトもある。義勇旅団が人気絶頂だった頃は、「子供をフィリップス旅団長のような愛国者に育てるにはどうすればいいのか」なんて特集を組んだ保守系女性誌もあった。だから、俺のファンというものが存在することは知っていた。知っていたけれども、本物と対面すると困惑してしまう。

 

 俺のファンなのを差し引いても、ブレツェリ少佐は変人だった。猫舌のくせにいつもホットココアを注文しては、冷ましてから飲む。最初からアイスココアを注文すればいいのに、「負けた気がするから」と言って、頑なにホットココアを注文し続ける。非の打ち所のないアホだ。顔も子供のような丸顔。俺の一歳下だなんて信じられない。士官学校戦略研究科を三位で卒業したエリート、後方勤務本部や中央兵站総軍で勤務という華麗な経歴が嘘っぽく思えてくる。

 

 聞くところによると、ブレツェリ少佐の親友や一二歳になるベッカー少佐の姪も俺のファンらしい。あんな変人が他にもいると想像するだけでうんざりする。

 

「おお、フィリップス君。三次元チェスでも打たないか」

 

 三次元チェス盤を抱えた中年男性が声をかけてきた。彼は同じ棟に入院している中央輸送軍のグレドウィン・スコット宇宙軍代将。三次元チェスの師匠だ。

 

「いいですよ」

 

 アホな会話をする秀才参謀と亡命者から解放されたい一心で了承した。

 

「あれ? 俺には声かけてくれないんですか?」

 

 ベッカー少佐がスコット代将の方を向く。

 

「ベッカー君は強すぎるからな。行方がわかる勝負など面白くない」

「それを言うなら、フィリップス少佐は弱すぎるでしょう。二か月前にルールを覚えたばかりですから」

「勝負の厳しさを教えているのだよ。フィリップス君は戦闘では強いが、三次元チェスと女性に滅法弱い。若い者がそれではいかん。年長者が教え導いてやらねばな」

 

 得々と語るスコット代将。ベッカー少佐とブレツェリ少佐が微妙な表情をする。

 

「……あなたにそれを言う資格があるかどうかはともかく、フィリップス少佐が女性に弱いのは事実ですな。昨日は見舞いに来た赤毛の女の子を怒らせてましたよ。なかなかの美人だったんですがね。もったいないことをすると思いました」

 

 ベッカー少佐が最悪の方向に話を振った。

 

「ああ、憲兵隊副官のハラボフさんですか。戦略研究科の後輩ですよ」

 

 ブレツェリ少佐が話題に乗る。

 

「ご存知でしたか」

「ええ、あまり付き合いはなかったけど感じのいい子でした。あの子が怒るところなんて想像付きませんね」

「フィリップス少佐だって、他人を怒らせるようなことは言わない人でしょう。しかし、恋愛が絡むと人は変わるもんです」

 

 何の根拠もなくベッカー少佐は決め付けた。単に「こうだったら面白いのに」という願望で言ってることは明白だ。シェーンコップ中佐と言い、ベッカー少佐と言い、亡命者は人をからかうのが趣味なのかと思えてくる。

 

「ああ、なるほど。そういうことですか」

 

 ブレツェリ少佐の大きな目が野次馬根性で輝き出す。完全に誤解されてしまっている。俺は慌てて口を開いた。

 

「そういうことじゃない。ハラボフ大尉が『あなたの後任を務めるのは大変です』とため息をついたから、『雑な仕事したせいで苦労させてすまない』と謝ったんだ。そうしたら、急に怒りだしてね」

 

 目を伏せて軽くため息をついた。唇を噛み締めて俺を睨むハラボフ大尉の顔が脳裏に浮かぶ。

 

「どうして彼女が怒ったのか。さっぱりわからない」

 

 話し終えたところで、ブレツェリ少佐、ベッカー少佐、スコット代将の顔がひきつっているのが見えた。

 

「最悪……」

 

 ブレツェリ少佐が不快感を込めて呟く。

 

「弱いってもんじゃないな、これは」

 

 スコット代将は憐れむような目で俺を見る。

 

「ですなあ。天然もほどほどにしないと」

 

 ベッカー少佐がそれに同意する。想像もつかない反応に俺は慌てた。

 

「どこがまずかったんでしょうか?」

「わからないんですか?」

「本当にわからないんですよ。まずいこと言いましたか?」

 

 すがるような目でベッカー少佐を見る。

 

「――たぶん、彼女はフィリップス少佐に敵わないと思ってたんですよ」

「いや、そんなことはないでしょう。実際、彼女の方がずっと優秀ですし」

「世間の評価はあなたの方がずっと上です。亡命して日が浅い私の耳にもあなたの評判は入ってくる。ハラボフ大尉が優秀と言っても、あなたほどは評価されていないはずです」

「しかし……」

「客観的に自分を評価しましょう。士官学校を出ていないのに二六歳で少佐になった。憲兵隊副官や基地憲兵隊長代理を歴任した。勲章をたくさん持っている。中佐昇進が確実と言われる。そんなやり手に『雑な仕事したせいで苦労させてすまない』って言われたらどう思います? 皮肉られたように感じませんか?」

 

 いつになくベッカー少佐は真剣だ。

 

「ハラボフさんは真面目過ぎでしたからね。思い詰めたのかも」

 

 ブレツェリ少佐が痛ましそうに嘆息する。

 

「そうか、そういうことか」

 

 ここまで言われたら、鈍い俺だって理解できる。ハラボフ大尉はドーソン司令官にまったく信頼されていない。かなり精神的に追い込まれていたはずだ。そんな時にあんなことを言われたら、傷つくだろう。「お前は俺より無能だ」と言われた方がずっと気が楽だ。

 

「フィリップス少佐は変に謙遜し過ぎなんです。ほどほどにしないと嫌味ですよ。もっと自然体でいいんです、私みたいにね」

「いや、ブレツェリ少佐は自然体過ぎるんじゃ……」

「劣等生だったのって昔の話でしょ? 今は押しも押されぬエリート。中佐に昇進したら、同い年の士官学校首席と階級が並ぶんですよ?」

「いや、昇進は辞退するつもり……」

「腰が低いのはいいけど、卑屈なのは駄目。ドーソン提督の悪いところまで真似る必要はないんだから。今のフィリップス少佐は下から見られる立場です。ちゃんと胸を張ってください。そうしないと、下の人が困ります。ヴァンフリート四=二基地にいた時のように多少強引なくらいでいいんです」

 

 ブレツェリ少佐は俺の突っ込みを無視して喋り続ける。

 

「しかし、俺はそんなに大したもんじゃ……」

「大したもんです」

「で、でも……」

「そういうの鬱陶しいからやめてください」

 

 清々しいほどにばっさりとブレツェリ少佐は切り捨てる。俺の逃げ道は完全に塞がれた。

 

「すみません」

「あなたの卑屈さは人を傷つけますよ? 内心でどう思っててもいいですけど、表に出すのはなるべく控えていただけますか? そういうの可愛くないんで」

「気を付けます」

 

 俺の返事にブレツェリ少佐は「実に結構」といったふうに頷く。そして、一分ほど黙り込み、ぐいと顔を寄せてきた。

 

「フィリップス少佐」

「はい」

 

 大きな淡褐色の瞳が未だかつて無いほどの迫力をもって迫ってくる。

 

「本当に可愛いですね」

 

 そんな真面目な表情で何を言ってるんだと、腰が砕けそうになった。やはり、ブレツェリ少佐はブレツェリ少佐だった。しかし、ここで否定したら卑屈と思われる。持てる力を振り絞って返事をした。

 

「あ、ありがとう……」

 

 俺が礼を言うと、ブレツェリ少佐はいつもの無邪気な顔で笑う。ベッカー少佐、スコット代将、その他の入院患者が生暖かい視線を向ける。

 

 この病棟の入院患者のうち、半数が中央兵站総軍及びその傘下部隊の幕僚だ。彼らは憲兵隊によって軟禁されている。そのため、退院できる見通しが立っていない。面会も制限されている。だから、こんなつまらないことでも楽しめた。

 

 中にいる者は強力なセキュリティによって世間から隔離され、病院スタッフによって生活を管理され、医師の許可が出るまでは外に出られない。この安らぎは檻の中の安らぎだった。


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