心の教科書

人の心の悩みについて。育児、恋愛、働き方など

いい加減な親は子どもから最も嫌われる存在である

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最近はマジメな記事、「子育て」「恋愛」「生き方」などについての記事が続き、私自身でもマジメマジメに述べさせてもらっていることからだいぶ疲れてきているのを感じる。

それもその筈で、いつか書いた記事にもあったのだが人の心というのは何かとエネルギーを使用するものなので、自身の感情なんかが加わった時なんかにはものすごいエネルギーを消費してしまうのである。

例えば、自身があるどこかの家庭の父親、母親だったとしよう。ある日、仕事が終わって家に帰ると何やら中学生になる息子or娘が不祥事を起こしたと学校から連絡があったことが分かった。

話を詳しく聞くと、学校の友人たちとの連みで万引きをしてしまいお店の方が子どもたちを捕まえ、そこから学校、家に連絡が入ったのだと言う。

そこで自分の子どもに対し、これを読んでおられる方であればどのように対応するだろうか?

「思春期だからそんなこともあるだろうし、万引きしたくなる気持ちは分かるよ。」と適当にわかったフリをして誤魔化す人もいれば、

馬鹿野郎!何てことをしてくれてんだ!お前はもう俺の家の子なんかじゃない!出て行け!」と昔ながらの親父像で子どもを殴り飛ばして説教する方もいるかと思われる。

別にどの方法が良いとか悪いとかはあまりないのだが、私としては「これだけはやってよろしくない。」という方法がある。それは「心のエネルギー」を消費しようともしないで、いい加減な態度や言葉を子どもに向けて放とうとすることだ。

 

目次

新生児〜三歳未満になる赤ちゃんの育て方

子育ての話になるが、子どもというのは育て方に順序というものがあるのをご存知だろうか?

例えば赤ちゃんが生まれたとして、その時に一番重要なのは母親との結びつきであるとされている。なぜ母親との結びつきが大事なのかというと、色々な理由があるからなのだが要は「情緒の安定」の為であると言ってしまえば話は早い。

生まれたばかりの赤ちゃんはほとんど何も出来ないことばかりなので、母親がそれを補う。ここでもし放置されてしまうと、言葉が出なくなったり、泣かなくなったり、無表情な子どもになってしまう。

無表情な子どもが大きくなるとどうなるか?私の知っている限りの話だとペットを殺したり叱られても笑う、他児を後ろから突き飛ばして大怪我、失明や骨折させたりするような子になることが分かっている。

この子が更に放置されて大きくなるとどうなるか?もうわかるだろう。そこらにいる人を見境なく殺すような人になってしまうのである

だから生まれた赤ちゃんにはとにかく人としての心が持てるようにたくさん話しかけたり、歌を歌ってあげたりすることが何より大切なのだが、、、スマホなんかをいじってばかりで朝食なんかも適当に与えようとする子どもに興味無関心な母親はそのことがわかっていないので後々後悔したり苦労することになる。

ちなみに泣かない赤ちゃんのことはサイレントベビーと呼ばれており、かつての日本では看護師一人が何十人ものの赤ちゃんの面倒を見ようとしていたことがあったため、お腹が空いても眠くなってきても決して泣かない赤ちゃんが後を経たなかった。なので保育園や乳児院なんかでは赤ちゃんに付く看護師、保育士の数は決まっていたりする。よく泣く赤ちゃんというのは良い赤ちゃんの印なのだ。

それでその良い赤ちゃんを安定させる為に母親という存在が居るのだが、ここで「父親じゃ駄目なんですか?」という声も何かとあるだろう。

駄目なのだ。いや、正確には出来なくはないのだが父親というのは男性であり女性である母親と比べると感情に欠けたり共感性も乏しい。ましてや赤ちゃんは父親の身体から生まれたものではない。母親の身体から生まれてきた存在なのである

それまで赤ちゃんは母親の身体の中で何ヶ月と長い間過ごしていたので母親と触れていた方が安心しやすいのだ。もし父親なんかがいきなり赤ちゃんを抱っこしようものならばそれこそ「誰だコイツ!?」と驚くこと間違いない。なので初めはとにかく母親に育てられて、安心していく中で徐々に父親とも、周りの環境に慣らしていくのが基本なのである。

赤ちゃんを叱ることの無意味さ

そうして母親を中心に育てられる期間は今度は三歳未満まで。三歳になってからは父親も子どもと関わる機会が増えてくる。

なぜ三歳になるまで母親中心の子育てなのかというと、先程も話した通り「情緒の安定」の為である。この間の赤ちゃんというのは「なぜそうなのか?」という「なぜ?」の部分がまだ出来上がっていないのでとにかく行動が感情的なのだ。

なので叱っても意味は無いし、しつけなんてのは以ての外だ。父親だとどうしてもそこは理解しづらいし、やはり母親の共感力、なんでも受け入れてくれる「母性」がとにかく必要なのである。

そうして物事が少しずつ理解できるようになってからは、父親の父性の出番が出てくる。子どもに社会で生きていく術を教える役割があるのだ。

父親母親と書かれるとやはり性差を意識されるかもしれないが、人の心の中には「男性的な心」と「女性的な心」の両方が存在していることを我々は忘れてはならない。このことは前に書いた記事、努力する女は報われない - 心の教科書の通りなので「父親だから。」「母親だから。」というのはあまり考えないように意識するのが良いかと思われる。

話がだいぶ流れてしまったが、子どもはこうした親の態度に非常に敏感なのだ。「自分はどれだけ大切にされているのか?」「お父さん、お母さんはどれだけ本当のこと言ってるのかな?」など。

このことは子どもが幼ければ幼いほどその自身に向けられた言葉の電波の受信力は強い。何せ子どもは言葉が出て来ないのだ。例え中学生、高校生になる子であったとしても...大人の難しい事情などわからないことがほとんどなのである。

その為子どもは自身の口から言葉が出て来ない代わりに、言葉が持つ態度にアンテナを貼ることになる。

このアンテナが異常な程、言葉が出てこない代わりに発達してくるので、子どもは親の言う言葉よりも親の態度に教化されるのだ。

いい加減な人は時に「殺意の対象」になる

話が最初に戻ると、つまりここである。万引きした自身の子どもに対して(何でこんな時に。今日は疲れてるから、それっぽいこと言って終わりにしよう。)などと思って「何でこんなことしたんだ?怒らないから言ってごらんなさい。」と話したとしても子どもから(いつも怒ってくるくせに...。しかも『怒らないから』と言いながら既に怒ってるし、適当なことを言いやがって。)と思われてしまったらもう駄目なのだ。子どもはますます親のことを信用しなくなり、部屋に引きこもるようになってしまうだろう。

だから私からは子どもに対しては「心のエネルギー」を出し惜しみなどせず、全力でぶつかって欲しいと思っているのだ。このことは何も、子育てに限った話ではないだろう。

私がいつも人の悩みについて書くのも、書いた記事を読んでくださる方に向けて言葉を発したり寄せられたコメントに対して全力で応えようとするのもこのためである。私はいい加減な気持ちで人の悩みと、実際に悩んでおられる方と向き合いたくないのだ。

そこにはその人の「個」と呼べるものがいつも存在している。人は「個」と向き合う時、同じ答えというものが存在しないのだ。いつだったか、このことがまだわからなかった時私は人の悩みに答えた所、その相手から

あなたは何もわかっていない!こんなにも真剣に悩んでいるというのに適当なこと言うな!

と激怒されたことがあった。私としては決してそのようなつもりはなかったのだが、つまりその方は私の言葉よりも言葉の持つ雰囲気や態度から言葉の軽さを感じ取られたのである。

それは、場合によってはその人から悩みの深さによって殺されていたかもしれないとも思える。人の悩みを聞くというのは「命がけ」でもあるのだ。

そんなわけで私は悩みに関してであったり、誰かと会話をする時にはそのことをよく注意しながら行っているのだが、、、冒頭でも述べた通りやはり疲れてくるものである。

だからといって言い訳はしたくないのだが、この記事はそんな疲れた状態で書いたものかと思われるのでもし言葉の内容がいい加減であったり軽く感じられたとしたら謝っておくとしよう。

このように書くと「努力をするからには言い訳はしない」と言っておきながら結局あなたも言い訳しているじゃないか!と怒られそうではある。確かにその通りだ、認めざるを得ない。私もまだまだ人間だったということだ、、、

と、このように自分の非からこれまでの行動を反省させられることは何かと人生を生きていれば起こることだろう。そのような体験が重なっていくことにより、その人の生き方にも厚みが増してきたりする。要は人のことを簡単に非難したり出来なくなってくるのである。それが大人になるということなんだろうと、我ながらしみじみと思っていたりするわけだが。

「母性だけの人」「父性だけの人」というのは人として欠けた存在だ

言い訳のついでではあるのだが、人はどうやら「母性」と「父性」はどちらともバランス良く持っていないと駄目なようである。

例えば私の話であればこれまでマジメマジメに書いてきた記事は、それこそ「父性」の塊そのものだっただろうし寄せられたコメントに対しても、その方からしてみると決して非難などしているつもりではないのに私自身の父性がありすぎるが故、勝手に戦う相手として認識されてしまう。これではコミュニケーションはあまり成り立たないだろう。

ましてや日本という国は非常に母性のある国なので、どちらかというと父性的なやり取りを行おうとするのはアウェイでしかない。つまり共感力の低い人というのはこの国にとってマイナスの存在でしかないのだ。

しかし、私としてはそれでも「母性的な人になろう。」とは思わないだろう。何故ならこれまでの私の人生がそれを物語っているからである。このことがわからない人はおそらく「じゃあ母性的な人になれば人から支持されやすいんだ。そうなろうっと。」と自分のことなど全く無視してコロコロと生き方を変えるかと思われるだろう。

そのような人が自分に自信の持てない、陰口を言ったり不満をぶちまけるような人として情けない人間になってしまわれるのだが、、、。果たしてわかっているのだろうか?

私は母性的な人にはならないとは言ったが、だからと言って全く共感力の低い人になるつもりは毛頭ない。共感力があまりないということを自覚した上で「じゃあどのタイミングで共感していけばよいのか?どこで父性を発揮していけばよいのだろうか?」などその適切なタイミングを計れるようになりたいと言っているのだ。

つまりどこでも父性を発揮するのではなく、発揮しなければならないタイミングで100%の父性を表示する、と言えばわかりやすいだろうか?

こうして自身のことを振り返ると、如何にもブレーキの無い車で走ってきたのかわかるものなのだが、これからはこうしたことを自覚しながら自身の行動を変えていくと良いかもしれないだろうと、思った次第である。