リークアンユーの国づくり:独立国家・シンガポールの国家運営
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- 1 マレーシアからの独立
- 2 国防体制の創出
- 3 リークアンユー政権の経済成長戦略
- 4 外国資本か華僑資本か
- 5 国家主導の経済発展と賃金・中央積立基金システムの活用
- 6 「リー=カンパニー」の経営
- 7 シンガポール経済の発展のための労働政策
- 8 熟練労働者の育成
- 9 全国労働組合評議会と人民行動党
- 10 外国人労働者の活用
- 11 エリートたちの党・人民行動党
- 12 「行政国家」シンガポールの官僚たち
- 13 シンガポールのエリート官僚制の特色
- 14 人民行動党に有利な選挙制度
- 15 人民行動党の支持調達システム
- 16 国民統合への模索-種族融和政策
- 17 国民統合の完成をめざして~英語社会化
- 18 個人に権力が集中する「リー王朝」
- 19 経済発展の享受-住宅供給の推進
- 20 能力主義的な教育制度
- 21 英語による教育の拡大と「二言語政策」
- 22 華語普及運動とその目的
- 23 日常に張りめぐらされた管理
マレーシアからの独立
望まざる独立
シンガポールの独立は市民には事前に何の予告もなく、1965年8月9日当日の朝になって、突然、政府から発表がありました。
このことは、シンガポール政府やリークアンユーの意思というよりも、実際にはラーマン首相がリークアンユー首相にシンガポールの独立を迫って追い出したというのが真相に近いと考えられている根拠にもなっています。
シンガポール側からすれば、対立こそすれ、マレーシア連邦からの離脱ということは想像もしていなかったことでした。
そのため、これはシンガポール市民ばかりか当のシンガポール政府、さらには連邦離脱の文書に署名したリークアンユー自身にとっても想定外の出来事であったのです。
リークアンユーの自伝によれば、マレーシア連邦側に独立を要求され、「独立しなければ戒厳令を敷いて逮捕する」と言ってマレーシアから脅迫されたと書かれています。
シンガポールの独立は、それまで国内ばかりか外遊先でもマレーシアとの合併の必然性とメリットを宣伝して合併への支持を訴え、マレーシアとの合併こそがシンガポールが生きていく道だと主張してきたリークアンユー首相にとって、苦渋の決断であったと思われます。
そのことを物語るように、分離独立を発表するテレビ記者会見の席の途中、人前で泣くことなどなかったリークアンユー首相がなんと涙を流して泣き出してしまったのです。
まず、この会見でリークアンユーは次のように語りました。
私には、これは苦悶の瞬間である。これまでの私の人生、とりわけ政治家になって以降、私はマレーシアとシンガポールの合併と統一を固く確信し、そのために行動してきた。両国は、地理的にも経済的にも社会的にも一つになるのが自然だからである。それなのに、私があれほど信じてきたものが、いますべて崩れ去ってしまったのだ……。
こう言った直後に、泣き出したのです。
「信じてきたものが、いますべて崩れ去ってしまった」という、このリークアンユーの言葉から、シンガポールにとってこの独立がそれほど彼らの意思に背いたものであり、望まざる独立であったのか、ということが分かります。
シンガポール共和国の誕生
こうして1965年8月9日、マレーシア連邦から分離した人口200万人の都市国家として、現在のシンガポールが生まれることとなりましました。
これにともない、国名は「シンガポール共和国」となり、イギリス連邦の加盟国となりました。
国家体制としては政治的権能を有しない象徴的存在としての大統領を国家元首とする共和制国家で、これまでの州議会は国会となりました。
基本的な行政組織・制度は植民地統治機構が継承されました。
こうして、初代大統領にはこれまでシンガポール州元首であったマレー人でジャーナリストのユソフ=ビン=イシャクが就任し、リークアンユーは政治的実権をもった指導者としてシンガポール初代首相に就任しました。
マレーシアから分離独立してまもなく、世界の多くの国から国家として承認され、国連加盟国となりました。
独立国家シンガポールの課題
しかし、その船出は決して容易なものではありませんでした。その行方には多くの障害が横たわっていたのです。
まず第一に民族問題です。
シンガポールは人口の4分の3が華人(中国系)になります。
しかしながら、一言で「華人」と言ってもそこにはいくつかのグループがあります。
リークアンユー首相は人民行動党内の左派勢力であった華語派華人との党内闘争を経て、すでに述べたように彼らを排除することに成功して人民行動党のキャスティングボードを握り、政権を維持してきましたが、英語派華人である自分たちが社会の多数を占める華語派華人を無視して政権運営をすることはできません。
華語派華人をいかに押さえつけ、あるいは、いかに彼らと折り合いをつけてみずからの優位性を維持するのかが、シンガポール独立後のリークアンユー政権期全体の課題となっていきます。
また、マレーシアとの対立の過程で激化した華人とマレー人の民族対立をどのように収拾するのか、という課題も残されていました。
次に、非友好的な近隣諸国との対外関係があります。
北に隣接するマレーシアとは対立の末に連邦を離脱したという経緯がありますし、南のインドネシアもスカルノ大統領のもとでシンガポールとマレーシアに対する敵対政策が実施されており、連邦からの独立以前の1963年からシンガポールとの貿易を禁止していました。
インドネシアとの貿易は当時、シンガポールの総貿易額の3分の1を占めていましたので、貿易立国をめざすシンガポールにとっては前途多難な船出でした。
また、マレーシアもインドネシアもマレー人の国家であり、国内におけるマレー人問題の対応をあやまれば、マレーシアを支持するマレー系住民もいることから、これらの国々の武力による干渉を招きかねない状況でした。
もう一つ、深刻な問題が経済でした。とくに食糧を依存してきたマレーシアとは対立の末に分離したため、国土が狭小で農地もほとんどないシンガポールとしては200万人分の食糧を外国から輸入せざるをえなくなったことは、政権のみならず社会そのものの存立にかかわる問題でした。
これに加えて1968年にイギリス駐留軍が撤退することはシンガポールによって大きな経済的ダメージとなります。
イギリス軍はシンガポールの人びとにさまざまな就業の機会を提供してきました。
すなわち、当時シンガポールのGDPのなんとおよそ18%、間接的なものも含めるとおよそ20%が駐留軍関連のものだったのです。
そのイギリス駐留軍が撤退するのですから、大量の失業者が生まれることは間違いありません。
「生存のための政治」
以上のような危機的状況のなかでリークアンユー率いる人民行動党政権は「生存のための政治」というスローガンを掲げて危機の打開を図ろうとしました。
この「生存のための政治」においては4つの政策が実施されます。
1つは国内政治における国家凝縮性の向上です。簡単にいえば、政府批判や政権への敵対行為は認めず、政府が独占的に国家運営をしていく、というものです。
2つ目は国防体制の創出です。
3つ目は貿易立国、世界各国との経済関係強化です。
4つ目はマレー人国家に囲まれているという現実を直視して、華人国家ではなく、多民族国家をめざすことです。
そしてこのような生き残り戦略をもってリークアンユーはアジアやアフリカの国々を訪問し、新生シンガポールへの支援を訴えました。
周辺諸国の情勢変化
そのようななか、これまで敵だらけであった周辺諸国との関係に変化が訪れました。
まず、これまでシンガポールに敵対的な政策をとっていたインドネシアのスカルノがシンガポールが独立した直後の1965年10月に失脚し、クーデタによって政権を掌握したスハルトが敵対政策を捨てて、強調と開発重視の政策をうちだしました。
さらに、ベトナム戦争に対するアメリカ軍による軍事介入が本格化していた情勢に危機感をもった東南アジアの反共国家が政治協調の方向へと舵をきり、1967年8月にインドネシア、マレーシア、タイ、フィリピン、シンガポールの五ヵ国によって「東南アジア諸国連合(ASEAN)」が結成されました。
くわえて、1960年代は先進国における経済成長の時代で、その影響で発展途上国の経済機会も増加しました。
60年代の末になると、生産工程の分業化が進んだことから、多国籍企業による安い労働力を目当てとした発展途上国への投資・進出が活発化していきました。
チャンスの到来
こうして、これまでの敵対国の友好的な国家への変貌、そして貿易の拡大と多国籍企業による発展途上国への投資・進出はシンガポール経済にとってはプラスにはたらくものでした。
このような国際情勢の変化によるチャンスの到来を活かすべく、リークアンユーは経済と国防の体制を充実させていきました。
彼は、小国の生き残りのため、経済発展を最高かつ唯一の国家目標とする開発至上主義を掲げたのです。
その後は政府・人民行動党の支配のもと、リークアンユーの強力なリーダーシップによって経済発展のためにあらゆる面で政府が先頭に立つ強権政治を展開してゆくことなります。その過程で治安法の発動による反対勢力に対する弾圧も、たびたび行なわれました。
国防体制の創出
イギリス軍撤退
シンガポールには独立当初、独自の軍隊がありませんでした。
これまではイギリス軍とマレーシア軍がシンガポール防衛を担っていました。
このため、独立したことによって独自の国防体制を構築することが急務となりました。
とくに独立した時期には、北に隣接するマレーシアとは対立の末に連邦を離脱したという経緯があった上、南のインドネシアもスカルノ大統領のもとでシンガポールに対する敵対政策が実施されていました。
そしていずれの国も小国シンガポールとは比べ物にならないくらいの東南アジアの大国でした。まさに「見わたすところ、敵ばかり」といった状況だったのです。
その一方でシンガポールが分離独立したのちも、イギリス軍はマレーシア・シンガポール防衛のためにシンガポールに駐留していました。
しかし、1967年にイギリスが世界的に展開していたイギリス軍による軍事体制の見直しを進めました。
そして、1970年代のはじめまでにスエズ以東に駐留しているイギリス軍を撤退させることにしたのです。
国防体制整備への模索
分離独立後の国防をイギリス軍に依存していたシンガポールは早急に国防体制を整備する必要にせまられました。
まず、国防に対する基本的な考え方を策定しなければなりませんでした。
シンガポールはみずからの国防をめぐる環境を敵対的マレー国家に囲まれた華人の国家であると把握して、このような環境に類似した外国の事例を研究しました。
そして、そのモデルとしてスイス、フィンランド、イスラエルの三国に絞ってさらに研究をすすめた結果、数の上では圧倒的なアラブ世界に包囲されながらも、それに十分に対抗しうる国防体制を構築しているイスラエルがシンガポールの状況に近似していると判断されました。
また、イスラエルには世界各地からさまざまな背景を持つユダヤ人が集まっていましたが、彼らに国民的アイデンティティを育てる手段として徴兵制を活用していることは、「モザイク社会」シンガポールに国民としてのアイデンティティを育成するにあたっても参考になると考えられました。
こうして、イスラエルをモデルとして国防体制の整備につとめることになりました。
イスラエルをモデルにするからには、イスラエルから軍事顧問を迎えるのがベストですが、それが外国、とりわけ近隣諸国の耳に入れば不要な緊張を高めることになり、かえってシンガポールが軍事的な危機状態となってしまう可能性がありました。
そこで考え出されたのが、イスラエルからの軍事顧問を「農業顧問」という名目で受け入れる、という方式でした。
国防省の設立と軍備増強
分離独立当時のシンガポールが所有していた兵力は国内治安のための歩兵二大隊のみでした。
半島の先端にあり、海に囲まれているにもかかわらず、海軍や空軍は事実上不保持といったありさまでした。
そこで1965年11月に国防省を設立し、国防体制の確立を財務相であったゴーケンスイに委ねるため、首相のリー=クアンユーはゴーを国防相に転任させました。
ゴーケンスイは国防相就任後、積極的に軍事施設を整備していきました。
また、軍備を増強するため、積極的に国家予算が軍事費に投入されました。
イギリス軍が撤退したのちの1969年には国家予算のおよそ28%が軍事費として使われ、その後も国家予算の20~25%が軍事費として使われ軍備が年々増強されていきました。
空軍の戦闘機はアメリカから購入することにより、パイロットをアメリカの空軍基地で育成することができるようにしました。
そして1990年代にはシンガポールの軍備はマレーシアの軍備に匹敵するほどまでになりました。
一方、兵力の増強も順次行なわれ、1979年になると陸軍3万、さらに陸軍予備役が4万5,000で、海軍・空軍が各4,500の兵力を擁するようになりました。
ナショナル・サービス
シンガポールでは徴兵制が採用されました。
その導入にあたっては、前述のようにイスラエルにおけるアイデンティティ育成の要素が参考とされたほか、スイスのシステムがモデルにされました。
スイスにおいては少数の常備軍を中心としながら多数を占める徴兵された兵士によって国軍が構成されていますが、このシステムをシンガポールはモデルにしたのです。
これにより、国軍が創設されたのちの1967年にシンガポール国籍を持つ18歳以上の男子を対象として兵役を義務化し、徴兵制がしかれました。
この兵役を「ナショナル・サービス」と呼びます。シンガポール国民の男性は18歳で高校を卒業すると進学・就職先が決まりますが、それを保留にしたままで2年ないしは2年半の軍事訓練を受け、その後にあらかじめ決まっていた大学に入学、あるいは企業に就職する、というライフコースをたどります。
しかしながら、このナショナル・サービスというのはこれだけにとどまりません。
除隊してからも50歳にいたるまで予備役とならねばならないのです。予備役としての義務は毎年、訓練をこなさねばならず、その期間は最長で40日間にわたります。
それはその人の社会的立場にかかわりなく課されるもので、召集されれば仕事を休んで訓練に参加しなければならない、というものです。
その訓練地はシンガポール島の北西部にある訓練場のほか、国土が狭小であるため、大規模な訓練となる場合には台湾・タイ・オーストラリアといった国々のが訓練場を提供して行ないます。
トータル・ディフェンス
さらには、徴兵制だけでなく「トータル・ディフェンス」というスローガンのもと、全国民的な国防意識の向上につとめます。
シンガポールは国土が非常に狭いことから、攻撃をうけた場合には国の全域がなんらかの形で戦闘に巻き込まれることは不可避であり、そのことを全国民が平素から意識しておく必要があると考えたからでした。
以上のように、国防体制を充実させていったリークアンユー・人民行動党政権ですが、シンガポールという国の規模を考えた場合、侵略をうけても完全に敵対勢力に勝利すると考えるのは非現実的でした。
リークアンユーはそのことを十分理解したうえで、国防体制を整備していました。
そして、一撃に侵略勢力を撃退するような「勝利」を国防の目標とはしませんでした。
リークアンユーが国防体制の目標としたのは、侵略勢力が「シンガポールを飲み込んだら、簡単に消化できない」(『中国・香港を語る』)ようにすることだったのです。
そしてこのような防衛体制をリークアンユーは「毒エビ」と表現しました。
つまり、一旦飲み込まれたとしても、敵対勢力がたやすくシンガポールをみずからのものにできないような、全国民的な持久戦が可能な体制を構築しようとしたのでした。
信頼関係の構築
そのような防衛戦略で重要となってくるのが国際世論とそれを背景とした他国の支援です。
すなわち、シンガポールが侵略されたことに対して、国際世論がその不義に対して抗議の意志を示し、それによって各国の政府がさまざまな形で侵略勢力と戦うシンガポールの国と国民を支援することで、それがシンガポール国内の抵抗と相まってやがては侵略勢力が撃退できる、ということです。
そのためには、世界各国との平素からの「お付き合い」が重要になってきます。
リークアンユーはそのようなことを意識しながら、先進国・発展途上国問わず訪問して、世界のあらゆる国の最高指導者たちと個人的な信頼関係を構築するように努力しました。
「生き残りのテクニック」
以上見たように、分離独立後のシンガポールは軍備を増強しつつ、徴兵制さらには「トータル・ディフェンス」といった国民を総動員する体制の構築、さらには信頼関係を築く外交外交戦略によって国防体制を整えていったのでした。
リークアンユーは「小さな生き物には、それぞれ独自の防衛メカニズムが備わって」おり、「我々も自分自身の生き残りのテクニックを見つけなくて」はならないと言います(『政治哲学』)。
つまり、以上のようなシンガポールの国防体制確立とその前提にある発想はすべて「小さな生き物」であるシンガポールの「生き残りのテクニック」としてのものであり、そのための「独自の防衛システムを備」えるために努力してきたものなのです。
リークアンユー政権の経済成長戦略
残存する古い経済構造
国防体制の確立とならんで、1965年の分離独立後のシンガポールにとって最重要課題となっていたのが経済成長でした。
経済成長のための施策はすでにそれ以前のマレーシア時代から、当時のシンガポール州政府が首相のリークアンユーや財務相のゴーケンスイのもとですすめられつつありました。
しかしながら、この時期の政局においてはリークアンユーらの勢力と共産系グループとの政治闘争に大きなエネルギーが割かれていたた、いうなれば「政治の季節」であったため、本腰を入れて経済政策を実行することができませんでした。
このため、分離独立当時にはイギリス統治時代からの経済構造がかなり残存していました。
すなわち、当時のシンガポールでは、植民地期以来の中継貿易を基軸として、貿易・海運といった産業や、輸出品としてのすずやゴム、さらにはこれらの産業にかかわる金融や保険、小売り、サービスといった産業が中心となっていました。
これらの産業がかつて、タンカーキーなど華人の富豪を生み出していたことは事実です。
ですが、たとえばゴム加工や食料品関連などの一部の軽工業以外には製造業が未発達な状態であり、全体的にみてシンガポールは工業化の遅れた社会でした。
輸出志向型の工業化戦略へ
このような問題意識は、マレーシアとの合併がすすめられた1960年代前半から意識されていました。
そこで、マレーシア時代に採用された経済成長のための工業化戦略は輸入代替型、すなわちこれまでヨーロッパやアメリカから輸入していた工業製品をシンガポールで生産し、それをマレーシアの市場で販売する、というものでした。
しかし、これはマレーシアとの合併が前提となっていた戦略だったので、マレーシアからの分離独立とともに破綻してしまうことになりました。
きわめて規模の小さいシンガポール国内市場のみでの販売を前提としてそのまま輸入代替型の工業化戦略をすすめることはあまりに無謀なことでした。
これに代わる工業化戦略として登場したのが輸出志向型、すなわち特定の国や地域を対象とするのではなく、世界市場に向けて工業製品を生産し、これを輸出する、というものでした。
外国資本導入のための「開発体制」
ここで問題となったのが、シンガポール国内にはそのような産業を育成しうるほどの資本力やノウハウのある企業が皆無である、ということでした。
そこで活用されたのが外資系企業でした。
外国資本からの投資と、外国企業の進出によってシンガポールの工業化を推進しようとしたわけです。
そのためにシンガポール政府はリークアンユーの指導のもとで外国資本の投資・進出を促進するための制度的・行政的・経済的な環境整備を最優先しました。
これによって成立した体制を「開発体制」といいます。
この外国資本導入のための「開発体制」を数年で完成させたリークアンユー政権は、その後積極的に外資導入をすすめます。
外国資本との利害一致
当時の世界経済の趨勢は、このようなリークアンユーとゴーケンスイによる工業化政策にとってプラスにはたらく方向ですすんでいました。
世界の貿易が急速に拡大し、先進国の多国籍企業が安価な労働力のある発展途上国への進出をすすめつつあったのです。
これらの企業にとって、発展途上国でもインフラが整備されており、労働者の質がよいシンガポールは魅力的な場所でした。さらに、リークアンユー政権が急ピッチですすめた「開発体制」がさらに外国資本にとっての価値を高めていました。
外国資本とリークアンユー政権の利害が一致したことで、この工業化政策は成功に向かって加速してすすめられていきました。
経済成長の成功
外国資本によって労働力の集約がすすんでいた電器・電子部品などの工場が数多くシンガポール国内に建てられ、1970年代にはいると、シンガポールの工業化は一気に進み経済は急成長を遂げました。
1973年の第1次オイルショックによる経済危機を乗り切って1970年代の終わりには、NIES(ニーズ、新興工業経済地域)として数えられるまでになり、分離独立からわずか10数年で成し遂げたシンガポールの経済成長は世界の注目の的となりました。
分離独立の翌年である1966年から1978年までのシンガポールの経済成長率はオイルショックによる停滞の時期を除いて二ケタ台で、その成長のすさまじさがこの数字からもわかります。
外国資本導入による経済成長の成功について、リークアンユーは
経済発展は、シンガポールが世界経済の発電所である欧米と日本の配電網に繋がることができたからこそ可能になった。(『政治哲学』)
と、これといって資源がなかったシンガポールを分離独立当時の存亡の危機から成長へと導くことができたのは、資本力とノウハウのある外国資本を導入したことにある、と振り返っています。
このような経済成長によって、深刻な失業問題が解消に向かったばかりでなく、かえって労働力不足が問題となりました。
産業構造高度化政策による産業構造の転換
一方で、1970年代後半、シンガポールと同じように周辺の東南アジア諸国においても豊富で安価な労働力によって外資を誘致し、工業化をすすめはじめました。
そして、シンガポールに追いつきだしたのです。
そこで、リークアンユー政権は他の東南アジア諸国の成長戦略とは差別化された新たな成長戦略への転換を模索します。
そして、「産業構造高度化政策」が打ち出されました。
これまでの労働集約型ではない、資本集約型・技術集約型産業へと産業構造を転換していくというもので、経済政策の方向性を大幅に変更することにしたのです。
この「産業構造高度化政策」にもとづき、リークアンユー政権はハイテク産業や研究・開発関連産業といったこれまでとは異なる産業分野の誘致に尽力しました。
同時にこれまでの低賃金のみを目的とするような労働集約型の企業を淘汰するべく、賃金値上げを大幅に行ないます。
この新たな戦略ははじめは順調に成果を上げるものと思われました。
しかしながら、1980年代中盤にシンガポールにおいて不動産やホテルに対する投資が過剰となり、他方で経営コストが上昇したため、これがシンガポール経済にとって打撃となりました。
さらにアメリカ経済が停滞した影響を受けて、1985年には経済成長率がマイナス1.6%という、独立以来初のマイナス成長となってしまいました。
しかし、そこで指を咥えて見ているリークアンユー政権ではありません。
企業が国際競争力を回復できるように応急措置的な経済政策をすぐに実行に移し、わずか一年のうちにこの不況から脱出することに成功したのでした。
継続する経済成長
そののち、シンガポール経済はふたたび安定的な成長をつづけ、リークアンユーが首相を辞任したのちも1990年代にいたるまで6~10%の成長率を継続して記録します。
リークアンユーが首相を辞任する1990年ごろになると、シンガポールの光景はマレーシアから分離独立した頃とは一変して、まったく別の場所のようになっていました。
かつてマレーシアとの合併を見越して開発され、その計画が頓挫してしまったジェロン工業地帯は電子部品生産の拠点として発展し、その南に位置する島々には石油精製施設が立ち並びます。
そして、シンガポール市内のシェントンウェイには世界各国の銀行が競うように支店を構えています。
さらに、シンガポール島のあちこちに労働者のための住宅団地を備えた工業団地が造成され、シンガポールの内外から集まった労働者がシンガポールの経済発展を現場で支えています。
かつて資源が皆無でありながら、頼みの綱であったマレーシアからの分離を余儀なくされ、国家存亡の危機にあったシンガポールは、リークアンユーとゴーケンスイによる時機にかなった経済成長戦略によって20年あまりで国全体が産業基地となったのでした。
外国資本か華僑資本か
外国資本に依存した成長戦略
これまで見てきたように、リークアンユーのもとですすめられた工業化政策、経済成長戦略は外国資本に依存するものでした。
それは植民地期からの軽工業、あるいは従来の貿易や商業など地場産業をさらに発展させる、という戦略をとらず、重化学工業や技術集約産業といったこれまでシンガポールになかった分野の産業を新たにおこすことによって経済成長を実現させようとするものであったためでした。
新興の、それも非常に小さいシンガポールのような国が、それを自身の力で推進するのは資金面でもノウハウの面でも無理な話です。
そこで、どうしても外国の資本に依存するしかなかったのです。
そして、きわめて単純化して言うならば、分離独立後のシンガポールはリークアンユー政権のもとで工場用の土地や建物などインフラを整備し、外国資本がそこに資金と技術、さらには製品の輸出先までも持ってくる、という方法で驚異的な成長を遂げた、ということです。
そのなかで、最大の投資国となったのはアメリカと日本でした。
1970年代以降、日米両国がシンガポールの外国投資総額の半分以上を占め続けました。とりわけ日本の投資はさまざまな分野におよんでいます。
シンガポールの工業化に関与しない華僑資本
このように外国資本が積極的に投資を行なっているなかで、シンガポールの国内資本はなぜ、シンガポールの工業化に影響力を発揮できなかったのでしょうか?
シンガポールには在地の華僑資本が存在していました。
彼らが政府が主導する工業化に関わらなかった理由は2つあります。
1つは経済的な問題です。
華僑資本は貿易や金融分野への投資が長けていましたが、一方で政府がすすめた重化学工業に関しては経験に乏しく、容易に投資することができなかったのでした。
他方、もうひとつの理由があります。
それは政治的な要因に起因するものでした。
華語派華人の有力な企業家が参加する中華総商会は、バリサンの活動を支えていました。
このような経緯から、リークアンユー政権は彼らをシンガポール工業化の担い手にすることは避けたかったのでしょう。
そこで、彼らの頭越しに海外の資本を導入することにしたのでした。
国内華僑資本の育成へ
しかしながら、リークアンユー政権も華僑資本の存在をまったく無視してきたわけではなく、シンガポールは安定成長期にはいった1980年代になると、ようやくではありますが国内資本の育成にも力を入れはじめます。
そして1989年には「中小企業振興マスターズプラン」が作成されました。
しかし、華僑資本はこれまでの経緯もあって、国家に頼らずに発展する道を選ぶ傾向があり、一方のシンガポール政府も外国資本に依存した開発を継続していくことになりました。
職場として外資を選ぶ労働者
一方、この問題をシンガポールの労働者の視点からみるとどうなるのでしょうか。
アジアにある旧植民地の場合、経済ナショナリズムによって、外国の資本が流入することを非常に警戒し、場合によっては徹底した保護主義をとる国も少なくありません。
しかしながら、シンガポールの場合はそのような動きは政府内部からも国民からもほとんどありませんでした。
シンガポールという街自体が外国との交易で栄えたところであり、国家規模が小さいため単独でシンガポールがやっていくのは困難であることは大半の国民が理解していました。
したがって、市民のあいだには外資に対する反発よりも、職場としては給料や待遇がよく、環境が整った外資系のほうが国内企業よりもいいと考えるシンガポール人が非常におおくいます。
国家主導の経済発展と賃金・中央積立基金システムの活用
政府が主導する経済発展
シンガポールの経済発展は政府が主導しながら実現させてきたものでした。
すなわち、政府が港湾や工業用地、電力などといったインフラの整備を行ないつつ、同時に国内にあるさまざまな矛盾に対する不満を強力な政治権力を背景にして押さえつけ、社会的安定を創り出して、開発をすすめるための枠組みおよび外国資本の進出がスムーズにすすむような環境を創出しました。
このような環境のもとに外資が進出し、そこで国民が労働力を提供することによって経済を発展していきました。
リークアンユー政権のもとで経済政策を担当したゴ=ケンスイは「発展途上国において、経済進歩の速度を決定づけるもっとも重要な要因は、その国の政府だ」と言っています。
さらに、そのような役割を担う政府のあり方について、ゴーケンスイはシンガポールが分離独立した1965年に刊行された書籍のなかで次のようにいいます。
政府は効率的でなければならず、腐敗行為はダメだ。絶えず経済成長の達成に努力し、国家の栄光、軍事大国、権力者の私的蓄財、宗教の神聖さ、といった経済成長以外の国家目標に気をとられてはいけない。企業が育成され、経営合理性を奨励する必要がある。……法と秩序が維持され、契約は遵守されねばならない。(“The Economics of Modernization”)
ここでゴーケンスイが強調するように、「経済成長」こそが何にもまして重要な政府の役割であり、それ以外のことには「気をとられてはいけない」、というのがシンガポール政府の方針だったわけです。
そして、経済開発は政府が責任をもってすすめるべきである、という考えのもと、国家自身が経済活動に参加して経済成長を促進する、という方針によって経済政策が策定されていったのでした。
ここからシンガポールの国家をリークアンユーが経営する会社であるという比喩的な表現として「リーカンパニー」という言葉が生まれました。
政府主導の賃金決定プロセス
その象徴が政府主導の賃金決定プロセスの導入です。
すでに述べましたが、70年代になると外資系企業が大量にシンガポールに進出してきたため、失業者が多かった独立当初の状況とは打って変わって労働力が不足する事態となりました。
シンガポール政府は賃金の高騰とそれによる競争力の低下を恐れました。
そこで、シンガポール政府は賃金を政府の管理下に置くことを目的として「全国賃金評議会」を1972年に設置しました。
この評議会は政府・使用者そして労働者の代表によって構成された協議機関です。その主要な役割は毎年、賃上げ額を決定して勧告することでした。
しかしながら、バリサンとの激しい闘争を経た結果として労働界は政府に従属した状況にあり、一方の経済界は政治的な発言力はほとんどありませんでした。
ですので、実際は政府が提示した賃上げ額を評議会が追認するというものでしかありませんでした。
つまり、実質的に政府が賃上げ額を決定していた、ということです。
実はこの「全国賃金評議会」は日本の人事院制度と似たもので、その勧告対象は直接的には公務員のみでした。
民間企業の賃金は公務員の賃金を参照する形式で決められることになっていたので、事実上、政府がシンガポールにおけるすべての労働者の賃金を決めることになったのです。
成長のための賃金決定プロセス運用
この仕組みはリークアンユー政権のもとで政府の経済成長方針に沿ったかたちで活用されました。
1970年代においては、いまだ労働集約型企業の誘致を主眼においていたので、経済成長率に対して賃金の上昇率は抑制され、安い賃金が維持されていました。
ところが、70年代の末になると、政府の経済政策が技術と資本集約度の高い企業を誘致する産業構造高度化政策へと転換されたため、シンガポール国内の労働集約型企業を淘汰・撤退させるために積極的に賃上げを行なうようになります。
1979年から1981年にかけて、経済成長率が10%前後だったのに対して、3年連続で成長率の2倍近い20%にせまる水準の賃金引上げを行なったのです。
その後も、この政府主導による賃金決定システムは経済政策達成のために利用され、独立後はじめてマイナス成長となった1985年から2年連続で賃上げを凍結してしまいました。
これは、政府がこれまでの高賃金政策が経営コストの上昇をまねき、それによって国際競争力が低下したことがシンガポール経済の停滞の理由であると考えたからでした。
このように、シンガポールにおいて賃金は他国のように労使間の交渉によって決定されるのではなく、シンガポールの開発と成長を目標として政府がこれを管理化に置くことで、政府がその経済政策を実行する手段として利用されたのでした。
中央積立基金
さらに、リークアンユー政権のもとで、労働者のための社会保障制度も国家主導の経済発展のために活用されました。
その制度とは「中央積立基金(Central Provident Fund)」です。
この中央積立基金というのは、労働者が定年退職後に受け取る年金のシステムで、1955年に当時のイギリス植民地政府が導入したものでした。
労働者と雇用主である企業が毎月、一定割合の金額を出しあって労働者の年金用口座に積み立てられる、という制度なのですが、国民の年齢構成が若いシンガポールの場合、年金の引き出し額よりも積立額のほうが多いために、積立金が年々、基金にプールされていきました。
この巨額のプール金もまた、政府の経済政策に活用されたのでした。
基金の開発資金への転用
まず、この資金は開発資金として転用されます。
すなわち、基金を管理・運営する中央積立基金庁がシンガポール政府国債を買うことで、基金の余剰資金が国庫に入ったのです。
政府はこれを開発予算として政府傘下の開発関連機関に融資されることとなりました。
その最大の融資先が公共住宅建設を手がける住宅開発庁でした。
この資金により、シンガポール国内に多くの公共住宅が供給されることとなりました。
また、この資金は国民が公団住宅の購入資金としても活用されました。
こうして、数多くのシンガポール国民は新たに建設された住宅に居住することができるようになりました。
さらに、このような施策の成果として国内での一定の住宅需要が満たされた1980年代に入ると、健康保険の支払いや政府系企業の株式購入の資金としても使用が可能となりました。
このように、リークアンユー首相のもとでシンガポール政府は中央積立基金を社会開発におけるいわば「自己資金」として活用したのです。
経済発展の途上において他の東南アジアの国々のように、国内の開発のための資金調達にあたって外国政府からの借款に依存する必要がなかったのは、このような施策の賜物であるといえるでしょう。
基金拠出金比率変動による経済のコントロール
さらに、中央積立基金の労働者と企業の拠出金比率を変動させることで、シンガポールの経済を政策的にコントロールしようとしました。
すなわち、労働者の賃金が高騰した場合には拠出金の比率を引き上げることで、通常より多くの労働者および企業の収入を基金をつうじて国庫に回収します。
こうすることで国内の可処分所得を減少させてインフレを防ごうとしたのです。高賃金政策がとられていた1979年に決定された拠出金比率はその最たるもので、労働者と企業がそれぞれ賃金の25%ずつ、つまり労働者が受け取る賃金の半額に該当する金額を基金を通じて政府が回収しました。
一方で、1985年のマイナス成長の際には、労働者側の比率を据え置いたままで企業側の拠出金を大幅に引き下げをするという決定をしました。
これは、企業の基金への拠出金を減らすことで経営コストを削減し、これによってシンガポール国内にある企業の競争力を回復させようとしたのでした。
以上のような賃金のコントロールと中央積立基金の活用という2つの施策はシンガポールだけにみられるものではないですが、シンガポールが特別なのはその運用の適切さと巧妙さ、そしてそれによる実際の経済開発の成功、という点でした。
国家主導のもとで賃金と社会保障制度の資金を活用したすぐれた経済政策が「リー=カンパニー」を成功へと導いたのでした。
「リー=カンパニー」の経営
経済開発庁の役割
以上のような政策を企画立案し、実行した経済行政組織のうち、その中心的役割を果たしていたのが経済開発庁でした。
経済開発庁にとって、最大かつ最重要の任務は外国資本の誘致でした。
これは「リー=カンパニー」によるシンガポールの経済開発にとって最重要課題であり、それを担う経済開発庁は「リー=カンパニー」のけん引役であり、中心であった、といえるでしょう。
経済開発庁は世界の主要国に事務所を設置しています。その役割は、いうまでもなく各国の資本をシンガポールに誘致することでした。
つまり、経済開発庁の海外事務所は「リー=カンパニー」の営業部であり、資金調達という「リー=カンパニー」の命運を握る任務を遂行する「リー=カンパニー」経営の最前線なのです。
産業インフラストラクチャー整備
海外事務所の努力によって外国の企業が投資を決定した場合、つぎに課題となるのが実際に工場を設置し操業するための産業インフラストラクチャー整備です。
他の発展途上国とシンガポールが大いに異なっているのが、植民地時代にすでにある程度のインフラが整備されていた、ということでした。
しかし、シンガポール政府はさらにその整備に力を入れ、工場そのものの建設はもちろん、それを操業するのに必要な電力・水道・道路・港湾などを重点的に整備していきました。
このようなハード面のインフラにとどまらず、原料や製品の輸出入にあたっての行政手続きを簡略かつスピーディーに行なうことができるよう、ソフト面のインフラ整備にも力を注ぎました。
このような政府の努力が外国資本の大量誘致につながっていきました。
政府による資本参加
さらに、外国からの投資のみならず、政府自身が資本参加して生産事業を行ないました。
資本主義国家においては民間資本が投入されにくい分野に政府が企業を設立し、国の経済をリードしていくことが一般的です。
シンガポールにおいても、重化学工業化政策を進める初期段階にあって政府が造船・製鉄関連の企業を設立し、工業化を誘導する基幹産業をみずから興隆させることで国民経済をけん引する役割を果たそうとしたことはありました。
しかしながら、シンガポールが独自性をもっているのは、こういった初期段階の基幹産業のみならず民間企業が活動しているあらゆる分野に政府の資本が参入して、企業間の競争に参加しているという点です。
これらシンガポールの政府系企業は多くの国の政府系企業が赤字経営であるのに対して、ほとんどが黒字経営で、その分野で国内トップ企業となるほどの競争力も有しています。
では、赤字経営の政府系企業はどうなっているのでしょうか。
実は採算が取れない企業は撤退、廃止されてしまうのです。
このように、民間企業と競争し、民間企業と変わらない徹底した採算重視の経営が行なわれているのがシンガポールの政府系企業の特徴です。
海外市場における余剰資金の運用
以上のような外国資本の誘致と政府系企業の経営によって豊富な資金を得たシンガポール政府は、その余剰資金を海外市場で積極的に運用するようになります。
すなわち、政府が全株式を保有するシンガポール政府投資公社(GSIC)を1981年に設立して、ここをつうじて海外での資金運用を行なうようになったのです。
それまではシンガポールの中央銀行である金融庁によって行なっていた海外での資金運用を、専門の政府系企業によってより戦略的に行なうようになったのです。
「リー=カンパニー」の経営のスタイル
これまで述べてきたような経済政策を実施する機関を運営するのは欧米の有名大学で学位を取得したのち公務員となったエリート官僚たちです。
彼らは政府の中央省庁で事務次官あるいは局長クラスの職にありながら、これら政府系機関・企業の経営者としても活躍しているのです。
いくつもの役職を兼任している多忙な人物もいました。
実は、このような兼職こそが「リー=カンパニー」の経営のスタイルであり、強みであるのです。
つまり、政府の中央省庁と政府系機関、そして政府系企業が彼ら優秀なエリート官僚の人的ネットワークを基盤として連結され、一体となって「リー=カンパニー」が経営されている、ということなのです。
これにより、リークアンユーを経営トップとする国家カンパニーである「リー=カンパニー」はシンガポールの開発および成長を旗印に優秀な官僚によって効率と収益を重視した経営を行ない、高いパフォーマンスを実現することでシンガポール経済の発展を現実のものとしたのでした。
シンガポール経済の発展のための労働政策
国家・外国資本・労働者の有機的結合
リークアンユーのもとで確立した開発体制をささえたのは、国家と外国資本、そして労働者が結合したものでした。
この三者が有機的に結合することで、リー=クアンユー政権が描いた経済発展が可能となったのです。
これまで、外国資本そして国家について述べてきましたが、次に労働者がこの結合にどのよう編入され、どのような役割を担わされていったのかについてみてみたいと思います。
外国資本に有利な労使関係
国家が主導して外国資本を誘致するために、リークアンユーが懸念したことがありました。
このことについて、リー=クアンユーの側近が彼の言葉として次のように記しています。
リー=クアンユーは、終始シンガポールの生存に心を砕いた。労組との交渉に精力を集中 した。非共産系幹部全員をシティーホール内の閣議室に呼び集め、外資吸収のためには安定した政治情勢を作ることが大切だと説明した。「率直に言いたい。いかなるストライキも私は容赦しないつもりだ。無分別なストを煽る者は刑務所にぶちこまれることになる。本気だよ。外資を呼ぶには、それにふさわしい国内状況を生み出す必要がある。産業なしには、われわれは朽ち果ててしまう。……これは生存のための試練である。じっくり考えてほしい。この2年間、ボーナスや、あれこれのことは忘れてほしい」。(『南洋華人』)
リークアンユーがどれほどの決意と厳しい態度で労働組合の幹部たちに物申したのかが伝わってくる言葉です。
こうして、進出する外国資本に有利な労使関係を可能にするための法律を準備しました。
1967年に制定された「雇用法」と「労働関係修正法」です。
「雇用法」は労働者の労働時間を週39時間から44時間に増やし、公休日は年15日から11日に、そして休暇や病欠日の上限も減少させられました。
有給休暇も勤続10年以下で7日、10年以上は14日とされました。
一方の「労働関係修正法」では経営側の特権が大幅に拡大され、昇進・配転・人員削減・解雇・復職・仕事の割り当ては労働組合が交渉する内容ではない、とされたのです。
これにより、労働組合の活動は抑制され、その役割を事実上否定することで労働組合を弱体化させました。
さらに、1972年には労働集約型外国企業のニーズに対応できる低賃金を可能にするため、事実上、政府が労働者の賃金を決定する権限を有する全国賃金評議会(NWC)が設立されました。
政府・雇用者・労働者によって構成されましたが、労働者の代表は政府に管理されている全国労働組合評議会から選出されるため、現場の労働者の声を反映するものではありませんでした。
これは伝統的に労働組合が担ってきた賃金交渉権をも奪うものでした。
経済発展重視の労働政策
以上のような労使関係に関する施策は伝統的な労働組合の役割を否定し、労使関係について個別の企業と労働組合が交渉するのではなく、一律的に政府がこれを管理することで外国資本を誘致し輸出競争力を維持する、という経済発展重視の発想にもとづくものでした。
その結果として、1960年代前半のシンガポールでは毎年50件前後のストライキがありましたが、70年代中盤には一ケタ台に激減して、1978~85年にはストライキはゼロとなりました。
このような強圧的とも言えるリークアンユーの労働政策には、シンガポールの開発と成長のためには労働者に犠牲と忍耐を強いるのはやむを得ない、国家の危機を乗り切るため、リーダーである自分を信じてついてきてほしい、という強い信念がにじみ出ています。
こうすることで、のちには労働者たにちも豊かな社会生活を与えることができる、と考えていたわけです。
こういった、リークアンユーの労働政策もまた、その後のシンガポール発展の基盤となったことは言うまでもありません。
熟練労働者の育成
以上のような、管理された安い未熟練労働力の存在は外国資本誘致に大きな力になりましたが、外国資本はそのような労働力だけを必要としたわけではありませんでした。
一定の段階まで発展した産業においては、訓練を受けた熟練労働力も必要とされます。
こういった、熟練された労働力の存在は、周辺諸国との外国資本誘致競争においてシンガポールの労働市場の差別化をはかるためには欠くべからざるものでした。
したがって、リークアンユー率いるシンガポール政府は、労働者の技術訓練をすすめていきました。
その初期においては、職業訓練所のようなものでした。
しかし、1970年代末には、先進諸国の政府や大企業のバックアップのもと、多くの技能センターがシンガポールに設立されました。
日本政府も、この時期に「日本シンガポール職業技能センター」を設立しました。
ここでは、毎年数百人の若者が2年間の技能訓練を経て、シンガポール国内のあらゆる企業に中級技術者として就業するようになりました。
さらに、1980年代になると、シンガポール政府がハイテク産業振興政策を採用するようになり、それにしたがって、シンガポールの観光名所であるセントーサ島に渡るターミナルの「ワールド・トレード・センター」ビルに日本シンガポール・ソフトウェア研修センターがつくられました。
のちに、同センターは国家生産性庁のなかに移転しました。
ここでは日本企業が寄贈した端末を使って、約100名の生徒たちが研修を受けます。
修了後には、その大部分が政府省庁や政府系企業のプログラマーとして採用されています。
全国労働組合評議会と人民行動党
これまでみたような労働組合や労働者の国家による管理を可能にしたのが、1950年代に人民行動党の共産系グループを排除したのちに、共産系労働組合を強制的に解散させ、政府主導による「全国労働組合評議会」(National Trades Union Congress)を創設し、労働組合をこれに一本化したことでした。
これによって、共産系労働組合は一気に弱体化し、労働組合に参加している労働者は全国労働組合評議会に組織されることになりました。
この労働団体はいわゆる御用組合的な性格をもつもので、そのトップである書記長には人民行動党の有力指導者が任命されています。
すなわち、全国労働組合評議会によって、労働者と労働組合は人民行動党による政府の開発体制を支える重要な組織とされているのです。
その政府との密接な関係を象徴するように、毎年8月9日に行なわれる独立記念日のパレードには、数多くの経済・社会団体のうち、全国労働組合評議会がその先頭に登場しています。
以上のように、シンガポールの開発体制の担い手として、シンガポールの労働者たちは人民行動党政府のもとで、管理され、組織されることで、強圧的とも言えるリー=クアンユーの労働政策が実行可能になっているわけです。
外国人労働者の活用
外国人労働者の受け入れ
シンガポールの経済発展を語る上において、欠かせないのが外国人労働者の存在です。
当初、200万人の人口であったシンガポールは大規模な労働集約型産業を振興させれば、必然的に労働力不足に陥ります。
実際、早くも1970年代はじめには労働力不足となっていました。
このような場合、多くの国では農村などの余剰人口が都市に流入することで、その労働力不足がまかなわれます。
しかしながら、シンガポールは小さな都市国家であり、そのような農村人口は存在しませんでした。
そこで、シンガポール政府が選んだ道は、外国人労働者を受け入れ、これを活用することでした。
まず、導入がはかられたのは、隣接するマレーシアのジョホール州の労働力でした。
こうして、日常的にマレーシアからシンガポールに通勤する労働者が増え、マレーシアに接する入国管理事務所は朝になると、彼らが押し寄せ、長い列ができるようになりました。
しかし、シンガポールの労働力不足は彼らをもってして解決できませんでした。
また、マレーシア自体が経済発展したために、シンガポールまで働きに来る労働力をマレーシアにこれ以上期待することも難しくなっていきました。
このため、シンガポールは、スリランカ、インドネシア、インド、タイ、フィリピン、台湾、中国といったアジア各国から労働力を調達するようになりました。
2つに分けられた外国人労働者のカテゴリー
シンガポール政府は彼ら外国人労働者を2つのカテゴリーに分けました。ひとつは組立工場や建設現場の労働者、メイドなど「未熟練労働者」、もうひとつは、大学教授や弁護士など「専門労働者」です。前者の「未熟練労働者」の場合は、滞在期間も制限され、シンガポール国民と結婚する際には労働省の許可を必要とし、メイドには定期的な妊娠チェックが要求されています。
もう一方の「専門労働者」は比較的高給の職につく外国人が属していて、「エンプロイメント・パス」発行されます。
これらの人々は有能な知的労働者として優遇されていて、「未熟練労働者」のような細かい管理体制はとられていません。
「専門労働者」については、弁護士や会計士などを中心に、シンガポール政府が積極的に招聘するということも行なわれました。
経済と社会を維持する範囲内で
彼ら外国人労働者はシンガポール経済のなかに組み込まれていて、シンガポール経済を支える存在としてシンガポール社会には不可欠な存在となっています。
しかし、それは外国人労働者を無制限に受け入れることを意味しているわけではありません。
シンガポール政府は、あくまでシンガポールの経済と社会を維持する範囲内で外国人労働者を受け入れ、産業によっては外国人労働者の就業比率が詳細に規定されました。
また、外国人労働者はシンガポールの経済・産業の調整弁としても活用されています。
1985年にシンガポール建国後はじめてマイナス成長となった際には、電子部品工場、電機関連工場をはじめとして製造業全体で約2万人が解雇されましたが、そのさい、まずターゲットとなったのは外国人労働者でした。
以上のように、外国人労働者、とりわけ「未熟練労働者」にとっては楽なことばかりではありませんが、それでもほとんど不平をもらすことなくシンガポールで働く、とういう選択をするのは、自国では得ることが難しい収入をシンガポールで我慢して働けば得ることができるからであるということができます。
かつて、イギリス統治下にあったシンガポールに働きにやってきた華僑や周辺国の人々と似たような構造が、時代状況は違ってもリークアンユー時代のシンガポールにも存在した、と言うことができるのではないでしょうか。
彼らにとって、20世紀後半になっても、シンガポールは生活の糧を得る道がある、夢の町なのかもしれません。
エリートたちの党・人民行動党
イデオロギー政党からプラグマティズム政党へ
これまで、リークアンユー政権のもとでの経済政策についてみてきましたが、つぎに、リークアンユー政権のもとでの統治体制についてみていきたいと思います。
リークアンユー政権を語る上で絶対にはずすことのできないのが、リークアンユーを領袖として事実上の一党支配を行なう政権与党・人民行動党です。
人民行動党はもともと社会主義的なイデオロギーを前面に押し出していました。
しかし、共産系グループとの抗争を経て、次第にイデオロギー的には穏健な路線へと転換していきます。
かつて、社会主義政党の国際的連帯組織である社会主義インターに加入していましたが、1976年になると、その路線から除名される動きがおこりました。
これに対し、人民行動党は除名されるまえに自ら脱退するという道を選びました。
こうして、名実ともに、人民行動党はイデオロギー政党から現実路線のプラグマティズム政党へと変化していったのでした。
人民行動党の組織
党組織は、書記長であるリークアンユーを頂点として、中央執行委員会が党を運営し、下部組織として全国の各選挙区に支部委員会が置かれています。
そして、中央執行委員会と選挙区支部委員会の中間組織として、地区委員会が置かれています。
さらに、青年部、女性部、マレー人担当局といった専門部署、機関紙発行などを担う出版・情宣委員会などの専門委員会が置かれています。
各地区の党支部には大きく2つの活動があります。
ひとつは、地元選出議員による有権者のための相談会である「選挙民対話集会」です。
この集会は1960年代からはじまり、公団住宅の購入、屋台やタクシーの免許取得、求職、進学などといった有権者の生活に関するあらゆる相談に丁寧に応じる、というものです。
もうひとつは、支部に併設された「人民行動党幼稚園」の運営です。
就学前の児童を対象とした幼稚園ですが、とくに党による政治教育が行なわれるというものではなく、日本の一般的な幼稚園と同じようなものです。
しかし、これ以外に党員でない一般のシンガポール市民が日常生活で党にふれあったり、党を意識したり、ということはほとんどなく、機関紙も一般国民はほとんど読んでいません。
また、一般の国民が党員になっても、日常生活で利益を感じることはほとんどないようです。
エリート政党
一般国民と人民行動党とのこのような距離感は、その指導層の構成にも起因するものと思われます。
党の指導者たちの多くは高級官僚出身が圧倒的に多く、そのほか大学教員や弁護士などの専門職、企業経営者などといったエリート層出身で、そのような傾向はリークワンユー政権以降においてさらに顕著になっていきます。
人民行動党では国会議員候補者選定の際にも、社会階層が重視され、官僚をはじめとしたエリート層のなかから候補者を絞る、という形式がとられています。
このように、人民行動党は大衆政党ではなく、あきらかにエリート政党なのです。
このような党の運営は、つぎのようなリークアンユーの方針によるところが大きいと考えられます。
我々は、不必要な内部抗争や大っぴらな分派行動で支持者たちを混乱させるのは絶対にい けないということを学んだ。だから我々は、人目につかないところでけんかをして意見の相違を調整し、公衆の面前では相互に矛盾するようなことは絶対に言わなかった。(『政治哲学』下)
1950年代の人民行動党は党内抗争を繰り返し、1965年の共産系グループの分離まで混乱状態にありました。
その後、リークアンユーが党を掌握して、一枚岩の党となりました。
人民行動党の指導者たちは国民の前ではみんな同じ内容を主張します。
リークアンユー政権のもとで、彼らがオリジナルの考えや政策を説くというようなことはありませんでした。
このことが物語っているのは、人民行動党という政党はシンガポールの多様な社会階層や意見を持つ人々を擁する大衆政党ではなく、エリートたちを選別して集結させ、彼らをひとつの考え・政策・行動で結束させている党である、ということです。
このようにして、シンガポールのエリート層を糾合した人民行動党が独立後の政治を独占していきました。
なぜ一党独裁が可能なのか
人民行動党はマレーシアからの独立後初の国会議員選挙が行なわれた1968年から1981年の補欠選挙で野党に一議席を明け渡すまで、継続して国会の全議席を独占したことはその象徴的な出来事といえるでしょう。
複数政党制・自由選挙であるはずのシンガポールでこのようなことが可能になった背景には、人民行動党に敵対・対抗勢力に対する国内治安維持法の適用や行政指導の濫用など、さまざまな手段をつうじた容赦ない攻撃によって、それらの無力化に次々と成功したことがあります。
これによって、共産主義勢力や労働組合、学生団体、政権に批判的だった華語新聞や南洋大学、野党といったさまざまな批判勢力が解散・無力化させられました。
こうして、1970年代までには、シンガポールの政治からおける対抗勢力・圧力団体・利益団体などのアクターが消失し、唯一の政治アクターとして人民行動党が残った、というわけです。
その後も野党は存在してはいましたが、人民行動党に対抗できるような勢力はなく、いわゆる「ミニ政党」か有名無実の「幽霊政党」でした。
法廷を利用した野党への攻撃
そのように人民行動党が国会の議席を独占していたなか、1981年の補欠選挙で野党候補として当選したインド系の弁護士のジェヤレトナム労働者党書記長は、リークアンユー政権のもとで弱体化させられていた政府批判勢力の象徴的存在となって、1984年の選挙でも再選を果たしました。
そして、ジェヤレトナムは国会でリークアンユー政権や人民行動党のあり方に対する批判を繰り広げました。これに対して危機感をおぼえた人民行動党は彼を排除しようと考えるようになりました。
1984年に総選挙で当選したジャヤレトナムは、労働者党資金を不正利用したとして、起訴されました。
一審では無罪の判決が出されましたが、二審で逆転有罪となり、罰金刑をうけました。
この裁判に関連して、ジャヤレトナムは1986年に国会で、一審で無罪判決を下した裁判官がその判決の直後に人事異動になっていることを取り上げ、行政が司法に対して不当な介入をしたとして批判しました。
人民行動党はこれに対して、事実無根の非難であるとして、国会議員として不適切な発言だと攻撃しました。
しかし、このような発言を処罰する法がなかったため、人民行動党は国会法を改正して、国会で不適切な発言をおこなった議員は、議員資格喪失とするという条項を新設しました。
そして、ジャヤレトナムにこれを遡って適用したのです。これにより、ジャヤレトナムは国会の議席を失ってしまいました。
このように、リークアンユー政権期においては、政府批判をする野党政治家に対して、訴訟を起こし、有罪判決によって排除する方法によって、野党勢力を排除するという手法が用いられました。
法廷を利用する方法は弁護士でもあるリークアンユーらしい手法であるともいえます。
選挙制度改革
一方で、1984年の選挙結果をうけて、選挙制度改革が行なわれました。
この選挙ではジャヤレトナムを含め野党議員が2人当選しました。
政府と人民行動党はこれに危機感をもちました。彼らの理想は‘野党のいない国会’でした。
したがって、野党議員の存在そのものが問題になったのです。
このときの選挙改革の中心的なものが従来の小選挙区と併用されることとなった「集団選挙区制」でした。
これは3つの小選挙区をあわせて集団選挙区(GRC)とし、この集団選挙区に立候補する政党が3人の候補者を立てて争い、得票の多かった政党の候補者3人が当選となる選挙システムです。
また、候補者の3人のうち、1人はマレー人もしくはインド人でなければなりませんでした。
ここが実は、この制度のポイントなのです。
表向きには政府は少数民族の政治参加の機会拡大を理由としていましたが、野党が民族別に分かれていたことに目をつけた、巧妙な野党潰しであることは明白でした。
たとえば、華人の政党が、当選可能なインド人やマレー人を探すことは非常に困難なことであり、おのずと集団選挙区での立候補を断念せざるを得なくなるのです。
他方で、長年にわたって国会の議席を独占してきた人民行動党にとっては無名の新人を立候補させるにあたって、すでに知名度の高いベテランの現職とともにセットで立候補させることで、多くの新人議員を当選させることが可能になりました。
その結果、1988年の選挙では人民行動党の得票率は1984年の62.9%から61.8%へと減少したにもかかわらず、むしろ野党議員が2人から1人に減少しました。
選挙制度改革が人民行動党に有利にはたらいたのです。
市民運動への弾圧
また、野党議員のみならず1980年代にさかんになった市民運動が反政府的な主張をした場合も「共産主義」というレッテルでこれを取り締まる、ということが度々ありました。
これに対しては欧米諸国などからも人権侵害であるとして批判の声があがりました。
このように、リークアンユー政権と人民行動党は複数政党制や自由選挙の形態をとるシンガポールの政治システムのなかで、さまざまなかたちで政治的自由を制限しながら、一枚岩のエリート層による強力なリーダーシップを実現しようとしたのでした。
「行政国家」シンガポールの官僚たち
「行政国家」シンガポール
シンガポールの政治学者であるチャン=ヘンチーは、1975年に発表した論文「行政国家における政治―政治はどこにいってしまったのか」において、現代シンガポールを「行政国家」であると表現しました。
野党が有名無実となっていて政党政治が機能せず、圧力団体や利益団体が事実上不在の状況にあっては、社会諸集団の利害調整をはかるための「政治」が、政府の決定をいかに迅速かつ合理的に実行するのかという「行政」に代替されるとし、シンガポールはまさにそのような「行政国家」であるというのです。
エリート政党である人民行動党による政治統治を補佐し、支えるのがエリート官僚たちです。
そして、その人民行動党の中枢の中心もまたエリート官僚出身者によって占められています。
このことが象徴的であるように、シンガポールの政治と行政は、人民行動党と官僚が一体化して行なわれているのです。
いうまでもなく、当初からそのような体制が出来上がっていたわけではありませんでした。
党と官僚の一体化は、1960年代に熾烈に繰り広げれられた、共産系グループとの対立の過程で、彼らに対抗するために、人民行動党が官僚や政府組織を積極的に活用したことにはじまります。
その後、官僚および政府組織は、人民行動党による支配体制に組み込まれていったのでした。
官僚の再生産システム
ところで、人民行動党はどのようにしてこれらエリート官僚を育成・確保しているのでしょうか?
官僚機構を維持していくうえで、官僚の再生産システムは重要です。
シンガポールの場合は、その教育課程において、小学校4年生を終えた段階で選抜試験を行ない、そこで優秀な成績を収めた生徒を特別コースに集めてエリート育成をはじめます。
そして、高校卒業生のなかから毎年、250名ほどの優秀な生徒を選抜して、国費留学生として国内外の大学で学ばせます。
そのうち、特に優秀だとされた5~6名の生徒は「大統領特別奨学金」が給付され、ケンブリッジ大学やハーバード大学といった英米を中心とした海外の超一流大学に留学させます。
彼らは帰国後、政府機関で8年間勤務することが義務付けられていて、中央省庁などで官僚として勤務することになります。
このようにして、シンガポールでは優秀な若者が段階的に選抜され、そのような人材を官僚として確保する仕組みがあるわけです。
リークアンユーは次のように言います。
二流、三流の人々が残り、一流の人たちが出て行って政府に対抗するというのはいけない。これは国家を運営する方法として愚かなやり方だから(『政治哲学』上)
このようなリークアンユーの考えが、以上のような「一流」の人材を官僚として幼少期から育成し、確保するというシンガポール独自の官僚育成システムを形づくっているのです。
エリート主義
こうして、選抜されたエリートたちが人民行動党政府を運営することになりますが、これらのエリートたちは一般の国民が政治・経済について口出しすることを好みません。
あくまで、自分たちエリートこそが未来を見極めており、国民はそれにしたがって進んでこそ、シンガポール社会全体の利益がもたらされる、といった考えをもち、彼らは実際にこのような発言を公にします。
このようなことから分かるように、シンガポールの行政を掌るエリート官僚たちにとっては、専門能力が優れた少数の人びとによる指導・命令こそが「政治」であるのです。
このようなあり方に対して、シンガポール国民の一部からは常に過剰なエリート主義として批判されますが、一方でシンガポールの人びとがこのような統治を(たとえ少々不満があったとしても)受容してきたのは、彼らの統治によってもたらされた成長の成果が国民にも配分されてきたからなのでした。
シンガポールのエリート官僚制の特色
スピーディーな行政対応
このような人民行動党とエリート官僚による統治の「長所」として、スピーディーな行政対応をあげることができます。
では、効率的で、合理的な政策決定過程によって問題を処理し、目標を達成する行政対応がなぜ可能なのでしょうか?
それには、もちろん能力の高い優秀な人材が集められている、ということも考えられますが、もうひとつ、重要な理由があります。
それは、ほかの国のように、野党や圧力団体、あるいは住民など当事者の当面の利益や反対などを考慮する必要がない、ということです。
その結果、たとえば都市再開発においては、政府がいったん計画を立てると、すぐさま実現します。
ほかの国であれば、住民の反対や、住民の反対に呼応する野党や利益団体などへの説得や訴訟などへの対応を迫られ、多くの時間とエネルギーが費やされます。
しかしながら、シンガポールの場合には、住民が反対運動を組織することは困難であり、それに呼応することのできるひどの力のある野党や利益団体は皆無です。
したがって、政府は土地収用規定など行政命令を発するだけで住民を立ち退かせることができるのです。
住民たちに残された道は、地元選出の人民行動党議員に相談して、立ち退きにあたっての費用負担を少しばかり増額するように交渉してもらったり、移転先を有利にしてもらうようにお願いする程度のことだけです。
政策の柔軟性
このような人民行動党政府が官僚組織と一体となって効率的・合理的に統治するプラグマティックな体系は、一度政府が決めたプロジェクトであっても、状況をみて、変更や撤回がスムーズに行なうことができるというメリットもあります。
その例としては、シンガポールの人口政策の柔軟性をあげることができます。
1970年代までは、子供は2人まで、という政策を実施し、人口抑制策をとっていました。
このために、避妊手術を受けた女性に対して、中央積立金の口座に1万シンガポール・ドルを振り込むというインセンティブ政策まで行なわれていました。
これにより、多くの女性がこれによって避妊手術を受けました。
ところが、シンガポールにおいて労働力不足が深刻になると、政策を一転します。
1980年代のシンガポールにおける人口政策のスローガンは「子供は3人、可能ならもっと」とされ、人口増加策へと急旋回したのでした。
このような急な政策転換は、人口・労働問題への対処としては非常に合理的なものでしょう。
しかし、それによって国民生活は右往左往させられるため多くの国であれば国民の反発は必至ですが、徹底した「行政国家」シンガポールであればこそ可能であったと言えるでしょう。
クリーンな政府
徹底した効率性・合理性のほかに、もうひとつ、シンガポールの官僚制の特色として注目すべきなのが、汚職が皆無であることです。
汚職による政治・経済の停滞に悩んでいた発展途上国はもちろん、先進国でさえ根絶が難しい汚職を一掃した「クリーンな政府」をシンガポールが実現できたのはなぜでしょうか?
その大きな理由として、リークアンユー自身が、そのような汚職政治を極端に嫌っていたことがあります。
リークアンユーが首相に就任した際に、兄弟を集め、「家族から首相がでれば、何か特権やもうけを期待するかもしれない。しかし絶対にそんなことはない。これからは兄弟だと思うな」と話したというエピソードは非常に有名です。
このような、リークアンユーの政治家としての個性もさることながら、シンガポール経済発展のために導入しようとしていた外国資本がシンガポールへの進出を考えたとき、公務員による汚職はマイナス要因となります。
また、国民に対して忍耐を要求し、抑圧的ともいえる強硬な政策を実行する人民行動党政府にとって、実直な政府、公正な公務員による「クリーンな政府」を実現することは、政府が国民の信頼を得て、その指導にしたがってもらうためには必要不可欠なことでした。
こういった点からも、リークアンユーは効率的で合理的であるとともに、クリーンな行政を追求したわけです。
汚職撲滅のためのアメとムチ
リークアンユーは、つぎのように公務員たちに要求しました。
よく聞いてほしい。相手が日給制公務員組合であろうと公務員連合であろうと、私が譲れないことが2つある。公正な賃金と公正な仕事だ。公正な賃金は保障するが、諸君が怠ければ、ぶちのめす。私はシンガポールを代表しているんだから、シンガポール国民を欺いた人間をぶちのめすことに文句のある者は、政治の戦場で私に喧嘩を売ればいいのだ。それが誰であろうと……相手になる。(『政治哲学』上)
このようにして、リークアンユーは官僚に公正な賃金の保障を約束するとともに、業務遂行にあたっての公正さを厳しく要求しました。
シンガポール政府はその実現のために官僚を優遇する給与体系と汚職を取り締まるという「アメとムチ」の仕組みをつくりました。
「クリーンな政府」実現にあたって、官僚を金銭的に優遇するというのは、発展途上国で多くあるような、官僚の給与が極端に安いため、生活していくために業務に関連して不当な収入を得ようとする行為を防ぐためです。
つまり、汚職への誘惑が生じさせにくくするために、官僚の賃金を保障することにした、ということです。リークアンユーは晩年に、中国における官僚の汚職根絶に関連して、つぎのように発言しています。
政府役人が非現実的なほどに低い報酬しか与えられない状況下では、それらの奨励や措置は効果を生まないであろう。たとえ、どれだけ死刑や無期懲役といった処罰を強化しても、である。(《From Third World To First :The Singapore Story 1965-2000》)
中国においては、死刑を含む厳罰をもって汚職を根絶する取り組みがすすめられていますが、一方で低い賃金がそのままになっていることの限界をリークアンユーは指摘しているのです。
リークアンユーが、収入の保障による官僚の生活安定をはかることが、汚職根絶のためには必要不可欠であると考えていたことがわかります。
このような「アメ」と並行して、汚職に対する厳しい取り締まりの仕組みがつくられました。
すなわち、総理府直属の汚職行為調査局が設置され、強力な権限が与えられました。
その対応は非常に迅速で、調査局の捜査による汚職発覚から裁判所による判決まで、数日ほどとなっています。
このようなスピーディーな処理からも、リークアンユーの汚職根絶への意志が制度的に徹底していることが伺われます。
有罪となった場合は、「その人の社会生活は、もはやない」といわれるほどの厳しい社会的制裁が加えられます。
人民行動党に有利な選挙制度
義務投票制
リークアンユーもとで政権与党・人民行動党と官僚が一体となって、効率性・合理性を追求した統治・行政をおこなう体制が形成されたことは、これまで述べてきたとおりですが、そのような体制のもとで国民に対する統治・管理はどうやって行なわれてきたのでしょうか?
そのことを顕著に物語っているのが、徹底的に人民行動党に有利につくられたシンガポールの選挙制度です。
シンガポールで普通選挙が実施された1959年、同時に義務投票制が導入されることになりました。
すなわち、選挙権のあるすべての有権者に投票を義務づけ、投票しなかった者には罰則を科す、ということになったのです。
では、具体的にどのような罰則が課されるのでしょうか?
それは「選挙人名簿から名前が抹消される」ということです。
これだけを聞くと、たんに「今後、投票ができなくなるだけなので、そもそも投票する意思がなければ問題ないのでは?」と考えてしまいます。
しかし、選挙人名簿から名前が抹消されるというのは、シンガポール国民にとって、社会的に抹消されるに等しいペナルティなのです。
シンガポールでは国民としての行政上の権利行使が、選挙人名簿をもとに行なわれるため、選挙人名簿から名前が抹消されることで、公団住宅の購入権など、シンガポール国民であれば行使可能なさまざまな公民権が喪失してしまうのです。
ただし、海外居住者の場合など、物理的に投票が不可能な場合には、選挙登録局にその事由を申告することで名前を復活させることが可能です。
また、特別な理由なしに棄権した場合には、罰金を支払うことで選挙人名簿に再び名前を登録させることができます。
しかしながら、このような「救済」があったとしてもこれを申告したり罰金を支払ったりすることは面倒だと思うのは自然でしょう。
こうして、義務投票の制度自体が国民に投票を促すことになります。
秘密投票への疑念
シンガポールの選挙制度で、普通選挙・義務投票とならんで原則とされているのが、「秘密投票」です。シンガポールの国会議員選挙法には秘密投票制が明記されています。
しかし、その実態が野党や一部の政府に批判的な国民から不評をかってきました。それは投票用紙に記された通し番号に対する疑念です。
投票用紙には、有権者が候補者の名前を記入して投票する正用紙とあわせて、選挙管理委員会が半年間、保管する控え用紙があって、同じ通し番号がふられています。
そして、投票の際には、控え用紙に投票する有権者の個人番号が記入されます。
つまり、控え用紙に記された個人番号と投票用紙の通し番号を照合すれば、誰が、どの候補者に投票したのかを追跡することができる、というわけです。
これに対して、シンガポール政府は、不正投票防止のためのものであり、誰が、どの候補に投票したかについて、調べたことはない、と反論してきました。
しかしながら、こういったシステムが、有権者に対する心理的圧迫になることは否めないでしょう。
選挙制度改変
さらに、リークアンユー政権の終盤期である1988年の選挙で行なわれた選挙制度改変もまた、注目しなければなりません。
1984年の選挙結果をうけて、選挙制度改革が行なわれました。
この選挙ではジャヤレトナムを含め野党議員が2人当選しました。
これに対して、政府と人民行動党はこれに危機感をもちました。
このときの選挙改革の中心的なものが従来の小選挙区と併用されることとなった「集団選挙区制」でした。
これは前述の、3つの小選挙区をあわせて集団選挙区(GRC)とし、この集団選挙区に立候補する政党が3人の候補者を立てて争い、得票の多かった政党の候補者3人が当選となる選挙システムです。
このように、人民行動党はリークアンユー体制のもとで、選挙制度をつうじて政治管理をすすめ、自由選挙を名目としながらも、シンガポールにおいて長期間にわたる政治的独占を実現してきたのでした。
人民行動党の支持調達システム
地域機関と地域住民
これまで述べたように、人民行動党はみずからに有利な選挙制度をつくりあげ、これを運用することにより事実上の一党独裁状態を築きましたが、それは決して国民の支持がまったく反映されたものでない、とはいえません。
人民行動党は、このような制度によって選挙を有利にすすめるとともに、一方で積極的に国民のなかにはいって、支持を調達するシステムもつくりあげました。
行政制度として、シンガポールには地方制度はありません。
つまり、中央省庁が全国を一元管理するしくみになっています。
しかし、政治統治の観点からみると、地域社会振興省のもと、選挙区を単位として目的や機能ごとにそれぞれ地域機関が設置されていて、これによって政府と地域住民がつながっているのです。
地域機関と人民行動党支部委員会の一体化
各地域機関の委員会は、地域の有力者が運営をおこなうことになっていて、その選挙区から選出された国会議員が顧問に就任します。
形式としては、その国会議員の推薦によって政府が任命するということになっていますが、実態としては国会議員が選んでいる状態です。
そして、各選挙区に設置された人民行動党支部委員会の有力メンバーが、地域機関委員会の委員ポストを兼任することが多くなっているのです。
このようなしくみによって、各選挙区において、人民行動党所属国会議員を頂点として、地域機関と人民行動党支部委員会が一体となって、各地域において住民の統治・管理の担い手となっているのです。
そして、地域機関をつうじて、住民生活のさまざまな場面で、人民行動党が地域住民の面倒を見る、という構造ができあがっています。
こうして、地域機関は政治的に中立の組織としてでなく、人民行動党による一党支配を草の根レベルで支え、その支持を調達する組織としての性格をもつようになりました。
国民統合への模索-種族融和政策
国民統合の重要性
リー=クアンユー政権のもと、これまでみたような強権的な統治システムが構築されてきましたが、こういった上からの強権的な統治は短期的にみた場合、じゅうぶんに可能ではあります。
これは多くの独裁的な政権がとってきた統治手段でした。
しかしながら、このような強権のみに依拠した統治は非常に不安定になりやすく、長期的かつ安定的な統治を実現するためには、その国家を構成する国民が、自発的に国家との一体感をもつことが重要です。
すなわち、国民統合に依拠した、統治の安定化をはかってこそ、長期的かつ安定的な政権運営が可能になるのです。
単に国家暴力によって国民を支配する独裁政権とリークアンユー政権を分かつのは、長期的なシンガポールの政治社会安定のために、国民統合に尽力した、という点です。
「モザイク社会」統合の困難
シンガポールは規模としては非常に小さな独立国家ですが、そこに暮らす人びとには宗教、生活習慣、言語を異にする華人、マレー人、インド人などがいて、さらにそれぞれの集団に英語、華語などといった教育言語の違いがあり、もともと各集団に分化して生活していました。
このようなシンガポール社会の分化は、植民地時代から引き継がれたものでした。
したがって、この「モザイク社会」であるシンガポール社会をいかに政治社会的に統合していくこと、つまり、シンガポールに暮らす多様な集団を、ひとつの「シンガポール国民」としていかに国民統合を実現していくのか、ということが、独立国家シンガポールを担うこととなったリークアンユーにとって、建国以来の大きな歴史的課題でした。
国民統合の2つの方法
異なるアイデンティティをもつ集団によって構成される社会において国民統合をすすめる場合、2つの方法があります。
ひとつは、ある特定の集団の分化価値をその「国民」のアイデンティティとし、その文化価値に他の集団をさまざまな手段で同化させることで国民統合を図る、という方法です。
もうひとつは、特定の文化価値を強制するのではなく、主要な諸集団の文化価値を平等に扱い、それぞれの集団に他の文化価値を相互に尊重させることで国民統合を図る、という方法です。
種族融和政策
リークアンユー率いる人民行動党政府は、長期にわたって国民統合をさまざまな政策によって試みます。その試みを、大きく2つの段階に分けることができます。
まず、第一の段階が「種族融和政策」です。
これは、上の国民統合をすすめる方法としては後者に該当します。
すなわち、あらゆる集団の文化価値を平等にあつかい、共存させる、というものです。
リークアンユーは、この「種族融和政策」について、
われわれは国民を統合しようと努力しています。ヒンズー教徒を仏教徒に改宗させたりするのではなく、お互いを受け入れるのです。(『政治哲学』下)
と述べています。
このリー=クアンユーの言葉からもうかがえるように、シンガポール社会に存在する多様な規範や価値を否定して、ひとつのものに同化させるのではなく、それらを国家社会のなかに包摂し、その調和と安定を図ることによって国民統合を実現しよう、というのが第一段階の「種族融和政策」なのです。
種族融和政策の背景
では、どうしてこのような政策がまず、採用されたのでしょうか。
それにはシンガポールがおかれた当時の状況から、このような多様性を認める政策を採用せざるをえないという事情がありました。
そもそも、独立当時のシンガポールは人口の75%以上が中国系の華人が占めていました。
したがって、マジョリティである華人の文化価値・言語によって、国民を統合することが自然のように思われます。
しかしながら、それは政治的にも社会的にも、そして地政学的にもリークアンユー政権にとって不可能なことでした。
その理由として、まずあげられるのが、華人とマレー人との種族間対立が存在していたことでした。
マレーシア時代には激しい直接衝突があったことに象徴されるように、シンガポール社会における両者の対立は、シンガポールにおいて国民統合を図っていくうえで、障害になるものでした。
そのため、どちらか一方の文化価値を強制する政策を実施した場合には、種族間対立を激化させることになり、国民統合とは逆の効果を生む可能性が非常に高かったのです。
もうひとつの理由は、シンガポールの政権を運営していたのが海峡生まれの英語教育エリートの集団であったことです。
彼らにとっての政治的ライバルはまさに、シンガポール社会のマジョリティ集団である華語派華人でした。
華語派華人との激しい政治闘争の末に、彼らが政権を掌握したことは、すでに述べたとおりで、いわば政敵ともいえる華語派華人の文化価値をそのまま国民統合のスタンダードとして受容することは、政治的な判断としてはあり得ないことだったのです。
さらに、国際情勢という観点からみた場合、当時の冷戦体制にあって、共産主義中国と同じ文化価値を有する華人国家が東南アジアの真ん中に存在するということは、東南アジアの周辺諸国、ひいてはアメリカをはじめとした資本主義陣営の国々に不要な警戒感をいだかせることにもなりかねませんでした。
そのような「警戒」はシンガポール政府にとっては、意図しない、まったくの誤解にほかならず、あえてそのような誤解を生む選択をすることは、当時のシンガポールが地政学的におかれた位置を考えれば決して得策ではありませんでした。
以上のような理由から、シンガポールにとって国民統合をすすめる方策としては、この「種族融和政策」以外には考えられなかったのです。
その一環として、マレーシア時代に「国語」とされたマレー語のほか、英語、華語、タミル語という4つの言語がシンガポールの公用語とされました。
国民統合の完成をめざして~英語社会化
国民統合策の第二段階
以上のような、種族融和政策は、種族間の対立と近隣諸国との緊張を回避する、といった消極的な理由で採用されたものでした。
したがって、国内外に不要なトラブルを発生させない、というメリットはありましたが、国民を積極的に統合する、という観点からみれば不十分なものでした。
シンガポールをひとつに統合された社会として再構成するためには、やはり何らかの価値規範によって構成員を統合していくことが求められます。
そこで、国民統合策の第二段階として登場したのが、英語による学校教育によって「英語社会化」を図る、という政策でした。リー=クアンユーは、
英語教育はこの多種族社会に共通語と共通の環境、そして共通の価値観を与えている(『政治哲学』上)
と、言っています。
つまり、リークアンユーは、シンガポールにおける英語教育には、共通の言語、共通の環境、共通の価値、という三つの機能があり、これがモザイク社会シンガポールの国民統合の軸となる、と考えていたのです。
シンガポール社会と英語
シンガポール社会において英語は、宗主国イギリスの言語として、植民地時代からの共通語でした。
したがって、英語をシンガポールの共通語としていくことに対する国民の反発は少なく、シンガポール社会を構成する特定の民族の言語でもないため、モザイク社会における共通語としては非常にニュートラルなものとして、英語は受容されやすい、というメリットがありました。
また、英語は支配集団である人民行動党幹部たちの共通言語であり、彼らは英語をつうじてその価値文化も共有していました。
いわば、英語はシンガポールの支配層の文化、そしてアイデンティティそのものだったのです。
さらに、実利面からみた場合、シンガポールが外国資本を誘致し、国際ビジネスセンターとして発展していくうえで、シンガポール国民が国際言語である英語を共通語としていることが、きわめてプラスに作用することは言うまでもありません。
このような社会の英語化によって、シンガポール社会の安定と統合、そして発展を図ろうとしたわけです。
英語普及のための努力
そのために、シンガポール政府は英語を学ぶよう、国民に強く促しました。
そのため、国営放送であるシンガポール放送局(SBC)では、公用語である4つの言語を平等に扱って華語、マレー語、タミル語のニュース番組もありますが、そのメインとなっているのは英語のニュースです。
また、アナウンサーはイギリスで訓練を受けさせ、シンガポール国民の「正しい」英語のモデルとなるように努めています。
しかし、その一方で、「シングリッシュ」と呼ばれる、シンガポール独特の英語が一般国民のあいだで使われ、シンガポール政府は、国民に「正しい」英語を普及させるため試行錯誤し、リークアンユーが亡くなった今日にいたっても、その対策に頭を悩ませています。
そのようなことを考えると、社会の英語化をつうじたシンガポールの国民統合への試みは今もなお継続中であり、長い時間をかけて徐々に完成していくものではないかと思われます。
このほか、前述のナショナル・ディフェンスという、国防意識による国民統合、あるいは住宅政策において、特定種族が特定地域に偏ることがないように、あらゆる種族が隣人となるように意図的に公団住宅入居者を振り分けるなど、さまざまな国民統合のための試みがリークアンユーのもとですすめられました。
個人に権力が集中する「リー王朝」
党と政府の一体化とリークアンユー
1965年にマレーシアから独立して以降、シンガポールは経済的自立もままならず、将来への不安をかかえた船出でしたが、近隣諸国との緊張関係や国内の種族間対立をなんとか克服して、外国資本の導入による経済発展をリークアンユーのもとで成し遂げました。リークアンユーは建国の父であるとともに、シンガポール発展の功労者なのです。
そのリークアンユーはみずからの政策が一定の成果をあげた80年代のはじめにこれまでのシンガポールでのあゆみを振り返り、次のように述べました。
シンガポールの国民的結集は、初めはうまくいかないように思えました。たくさんの異なった人種の異なった言語を話す移民がいたのですから。……宗教で国民を団結させることはできません。……シンガポールには王室もなく、スルタン(国王)もいません。交互に政権につく二大政党の歴史も伝統もありません。シンガポールにあるのは、人民行動党だけです。(『政治哲学』下)
このように、リークアンユーはシンガポール国民を統合し、団結させるのは人民行動党以外にない、と明言しました。つづけて、つぎのように語っています。
わが党に代わってシンガポールをちゃんと指導していける政党はありません。1959年から23年間、人民行動党は政府と同義語でした。そして政府はすなわちシンガポールなのです。(『政治哲学』下)
人民行動党が政府と一体(「同義語」)となって、そして、それがシンガポールという国家そのものとして、シンガポール国民を指導してこそ、シンガポールは「うまくい」く、ということでしょう。
人民行動党と政府を独立からこの当時まで、一貫して指導してきたのは、言うまでもなくリークアンユー自身でした。
リークアンユーすなわち国家
上のような論理は、リークアンユーがすなわち、党であり、政府であり、そして国家である、という結論をおのずと導き出すものでした。
そして実際、学業成績による人材の徹底した振り分けにより官僚を調達するシステムや、汚職に対する徹底的な厳格さなどに象徴されるように、シンガポールという国家には、リークアンユーという人物の価値観がそのまま現れている部分もすくなくありません。
政治闘争の末に政権運営を担い、そこで積み上げた実績もあって、リークアンユーはマジョリィティの支持を得て、党・政府そして国家に圧倒的な支配力を発揮するようになりました。
シンガポールの国家元首は大統領となっていますが、これは象徴的な存在で、政治的権能を有していません。
政治的権限をもつ最高指導者は政府のトップである首相です。
そして、その政府の運営権を与党として掌握してくたのが人民行動党でした。
リークアンユーは分離独立以前の1959年6月から1990年11月の辞任まで、シンガポールの首相をつとめました。
実に31年5ヶ月にわたる長期政権でした。
そして、人民行動党の書記長として、1954年11月の結成当初から1992年11月までの38年間、党を指導しました。
この2つのポストによって、リークアンユーは権力を行使してシンガポール国家の最高権力者として君臨したのでした。
「リー王朝」
しかし、このような権力を行使していたのはリークアンユーだけではありませんでした。
リークアンユーの家族たちもまた、政府や政府傘下機関の要職についていたのです。
たとえば、リークアンユーの長男で、のちに父のあとを継いでみずからも首相となるリーシェンロンは、リークアンユーのもとで副首相のポストについていました。
また、次男のリーシェンヤンは政府傘下の巨大企業であるシンガポール・テレコムの副会長となりました。
このように、政治・経済の主要ポストにリークアンユーの一族が就任したことから、リークアンユーの絶対的ともいえる権力とあいまって、「リー王朝」と揶揄されることがあります。
経済発展の享受-住宅供給の推進
先にある豊かな生活
経済発展を最重要課題とし、労働者などの権利拡大要求を二の次とする強圧的な政策をとってきたリークアンユー政権は、一方でその発展の先にある豊かな生活を国民に訴えることで、国民に忍耐を求めてきました。
リークアンユーの側近が、経済発展に本格的に取り組もうとしていたリークアンユーの言葉を次のように記しています。
リー=クアンユーは、終始シンガポールの生存に心を砕いた。労組との交渉に精力を集中した。非共産系幹部全員をシティーホール内の閣議室に呼び集め、外資吸収のためには安定した政治情勢を作ることが大切だと説明した。「率直に言いたい。いかなるストライキも私は容赦しないつもりだ。無分別なストを煽る者は刑務所にぶちこまれることになる。本気だよ。外資を呼ぶには、それにふさわしい国内状況を生み出す必要がある。産業なしには、われわれは朽ち果ててしまう。……これは生存のための試練である。じっくり考えてほしい。この2年間、ボーナスや、あれこれのことは忘れてほしい」。(『南洋華人』)
この言葉のように、リークアンユーは「生存のための試練」として、労働者たちに「刑務所にぶちこまれることになる」などという言葉を発しつつ、厳しい態度で自制を求めたのです。
そして、それは労働者自身の利益にもつながる、というものでした。
このような開発体制のもとで、シンガポールは発展途上国は言うにおよばず、世界的にみても有数の豊かな国として成長しました。
経済成長の成果配分としての住宅供給
では、そのような経済発展の成果は、リークアンユー政権のもとでいかに国民に配分されたのでしょうか?
一般国民が享受した経済成長の成果配分のうち、もっとも目に見えるものは生活環境の改善、とりわけ住宅供給でした。
シンガポールのいたるところに高層の公団住宅を大量に建設し、ここに国民を入居させました。
そのような住宅政策をすすめたのが住宅開発庁でした。
日本で言えば、住宅公団に該当する政府機関で、もとは植民地時代にイギリスが創設したものでしたが、1960年に改組しました。
その後、改組から間もない1961年には、住宅建設5カ年計画を作成して、毎年の建設目標戸数を決めました。
計画が実行に移されると、すさまじいスピードで住宅建設がすすめられ、毎年の目標よりはるかに多い新住宅が建設されていきました。
はじめは、クィーンズタウン、トアパヨーなどの中心部で住宅団地が建設されましたが、やがて中心部の土地がなくなるや、郊外にあった沼地や荒地を開発するなどして土地を確保し、目新しい住宅団地がシンガポールのあらゆる場所に立ち並ぶようになりました。
このような、精力的な住宅団地建設によって、リー=クアンユー率いる人民行動党政権が誕生した1959年におけるシンガポール国民の公団住宅入居率は約9%程度でしたが、シンガポールがマレーシア連邦から分離独立した1965年には入居率が24%となり、1970年に36%、1975年には55%と国民の過半数が公団住宅に入居することとなり、1980年にいたって73%、1990年には87%と、国民の大半が、政府が供給した公団住宅に暮らすようになったのでした。
こういった急速な住宅供給による住宅事情の改善は、経済発展の成功と、シンガポールならではの迅速な行政処理が可能にしたもので、まさしく、発展の成果配分、といえるものでしょう。
「持ち家政策」の推進
さらに、政府はこれとあわせて「持ち家政策」も強力に推進しました。
もともと、公団住宅は賃貸のみでした。
ところが、分離独立直前の1964年になってこの持ち家政策がはじめられました。その背景には、マレーシアとの対立過程で、リー=クアンユー政権への忠誠やシンガポールへの帰属意識を高める必要性を感じたシンガポール政府が、持ち家を政府が積極的に供給することで、それが可能になるではないか、と考えたことがありました。
しかし、はじめシンガポールの人びとには購入資金を準備するのは困難なことでした。
そこで、前述のような中央積立基金の一部を住宅購入資金として充当することでできる仕組みを作ったのでした。
これにより、シンガポール国民は、住宅購入を人生の目標のひとつとするようになっていきました。
そして、住宅購入の需要が供給を上回る状態がつづき、人気のある地域では購入申請してから何年も待つ、というようなことがあったほどでした。
こうして、公団住宅における持ち家率は急速に伸び、1980年には42%となり、1985年に64%、1990年にいたっては80%と、公団住宅の5軒に1軒が持ち家、という状況になりました。
このように、1980年代終わりには多くのシンガポール国民が持ち家を手に入れたということもあり、住宅政策において単純に量を提供する時代から、住宅の質を向上させる時代へと変化していきました。
このような先進国並みの住宅にたいする要望がでてくるところまで、住宅事情が改善されたのは、「生存のための試練」を耐え抜いた国民に対する、シンガポール政府による経済発展の成果配分の代表的な事例であるといえるでしょう。
こうして、リー=クアンユー政権のもと、多くの国民が持ち家を手に入れ、シンガポールは途上国のなかで住宅政策にもっとも成功した国のひとつとなったのでした。
能力主義的な教育制度
シンガポールの教育制度
以上のような「豊かさ」を享受する国民に対し、リークアンユー政権は、さらなるシンガポール発展のための努力や規律も要求しました。
とくに国民に社会に貢献しうる「能力」を要求し、その能力が優れたものを早くから厳しく選別して、育成する教育システムはその象徴です。
それでは、シンガポールの教育制度とは、具体的にどのようなものなのでしょうか?
シンガポールの学校制度では、通常、6歳になると6年制の小学校に入学します。
この小学校の段階から、シンガポールの教育システムにおける選別がはじまります。
すなわち、小学校4年生の最後に全員が能力クラス分けの試験を受けさせられます。
そして、その成績によって、4年制の中学校へ進学する生徒と、職業訓練校もしくは卒業後に就職する生徒に分けられるのです。
前者は、さらに上級学校への進学も可能ですが、後者になった場合には、その後、進学することはできなくなってしまいます。
さらに、小学校のおわりに、前者に選ばれた生徒が「小学校卒業試験」を受験します。
そのうち、上位80%は合格とされて、中学校に進学することができますが、のこりの20%は職業訓練校に進むか、就職することになります。
中学に進んだ生徒たちは、中学卒業前に「普通水準教育修了証」の試験が課せられ、これに合格した者のうち、その成績によって進学先が決定されます。
まず上位10%の優秀な生徒たちは「ジュニア・カレッジ」というエリート教育を行なう2年制の高校に進学します。
その次のランクの生徒たちは、「プリユニバーシティ」(プリユニ)という3年制の高校に進みます。
そして、のこりの生徒たちは「ポリテクニック」(ポリテク)という、高等技術学校に進学することになります。
ここまでの過程で高校を修了できた者には、「上級水準教育修了証」という卒業試験が課されます。
その成績が優秀な者は、シンガポール国立大学や南洋工科大学に進学します。
そこから漏れた次のレベルの者はポリテクに進みなおすことになります。
シンガポールの大学は3年制となっていますが、上位10%の優秀な学生は、さらに「オーナーズ・コース」という1年の課程に進みます。
また、さきに官僚育成システムの説明のなかで紹介した国家奨学金受給生は、ジュニア・カレッジの1年生学年末の成績をもとに候補者がリストアップされ、2年生の成績によって100名あまりが最終決定されます。
そして、彼らはエリート官僚の卵として、卒業後に欧米の名門大学に国費で留学することになります。
以上のようなシンガポールの教育システムでは、能力による選別によって早期に進路が決定され、その選別過程においては「敗者復活」が許されない仕組みになっています。
厳しい能力主義的な選別教育システム
このような厳しい能力主義的な選別教育システムについて、リークアンユーは次のように語っています。
残酷なことを言いましょう。人間は才能のある者とない者に分かれます。我々の仕事は……才能を持っているか否かを、すばやく見極めることです。才能のない人間を訓練するのは、私の時間の無駄であり、その人の時間の無駄でもある。(『政治哲学』下)
上のようなシンガポールの教育システムは、リークアンユーのこのような思想を反映したものなのです。
つまり、人間の能力には歴然とした差があるのは当然で、能力の有無を早期に見極めて、能力があると考えられる者には教育をほどこし、ないと考えられるものには教育よりも早期に労働市場に出すことが、本人のためになる、という考えです。
このような能力主義による教育システムによって、シンガポール国民は選別され、その将来が決定されていくのです。
英語による教育の拡大と「二言語政策」
英語による教育の拡大
このようなエリート主義・能力主義に立脚したシンガポールの教育システムで重要なのが、英語による教育です。
もともと、シンガポールには各種族集団の言語による学校が存在していましたが、徐々に英語教育による学校に通う生徒が増加していきました。
1955年の時点では、英語学校が8万人、華語学校が8万3000人と拮抗状態でしたが、シンガポールが分離独立するころには、この割合が逆転し、1987年には華語学校は廃止されてしまいました。
そもそも中国系の華人が多数を占めるシンガポール社会でしたが、それでも中国語ではなく英語による教育が拡大していったのです。
その背景には、華語による教育を受けた者には将来がないに等しいのに対し、英語による教育は社会的エリートへの道を開くものであった、ということがありました。
つまり、社会的な成功を収めるうえで、英語による教育は必要不可欠なものとして認識されていたため、親が子供に英語による教育を受けさせたがった、というわけです。
二言語政策の推進
このように、シンガポール社会は英語による教育を受けた層が支配する社会ですが、その一方で1970年代初めに、リークアンユー政権は国民に複数言語を習得することを求めました。
これを「二言語政策」といいます。このような政策は、複数の言語空間が入り乱れたモザイク社会であるシンガポールにおいては、現実的に複数言語が欠かせなかった、という事情もありました。しかし、リークアンユーはもうひとつ、目的があるといいます。
二言語政策は、たんにふたつの言語を話す能力をつけるというだけの意味ではないのです。より基本的には、まず自分自身を理解することなのです。自分が何者で、どこから来たのか。(『政治哲学』下)
すなわち、リークアンユーによれば、二言語政策には、国民がそれぞれをルーツを知ることで、アイデンティティを持たせるという目的もあったのです。
種族アイデンティティを政府が尊重することで、国民統合をすすめるねらいもあったと思われます。つづけて、リークアンユーは言います。
二言語の習得に失敗し、一言語だけしかできない者は、わが国の状況のもとでは、危険な人物です。(『政治哲学』下)
このように、二言語を習得しない者は、シンガポールというモザイク社会にあっては「危険な人物」だとさえ言っています。
しかし、その政策の結果は芳しいものではありませんでした。
大卒のエリートたちは、二言語の習得に成功しましたが、それ以外の一般国民には必ずしもリークアンユー政権の試みは浸透しませんでした。
ただでさえ、複数の言語に苦闘しているシンガポールの一般の人びとに、「複数言語をきちんとマスターしろ」という二言語政策は、非常に難しいことであったのは、たやすく想像できます。
華語普及運動とその目的
華語普及運動のはじまり
人民行動党は、とりわけ外国と接する部分における英語化を推進し、国家運営に必要な英語エリートの養成に力を入れました。
しかし、これによってシンガポール社会全体が英語化されたわけではなく、大部分のシンガポール国民は学校での教育言語は英語であったとしても、日常言語としては、それぞれの種族言語である華語、マレー語、タミル語の世界に生きていました。
このような状況に対して、リークアンユー政権は、言語政策において介入することを試みます。各言語を尊重しながらも、各言語のあり方を政府が管理しようとしたのです。
その代表が、これからお話しする「華語普及運動」です。
すなわち、1979年から、リークアンユー政権によって、華人を対象とした華語普及運動(講華語運動、Speak Mandarin Campaign)が開始されたのです。
これにより放送では、基本的に全ての番組で華語が使われるようになりました。
標準中国語の使用奨励とその意図
これは、華語派華人の伝統を保護するような政策に見えますが、じつはその逆なのです。
華語派華人の社会は1つの言語で統一されていたのではなく、植民地時代から継続して福建、潮州、広東、海南、客家といった中国語の方言が使われ、方言の違いによって出身地別のコミュニティが形成されていました。
とくに移民第一世代の人びとは、英語はいうまでもなく、標準中国語(マンダリン)さえ話せず、方言だけで生活していました。
リークアンユーは、このことが、華人社会から一体性を失わせている原因であると考えました。
さらに、後続世代の華人が従来どおり中国語の方言を使い続けることは、社会統合の観点から、国家社会の発展のためにマイナスになると考えました。
こうして、華人の使用する言語を、標準中国語に統一することにし、みずからがキャンペーンの先頭に立ったのです。
「スピーク・マンダリン」キャンペーン
華語普及運動では、華人が日常の生活において方言を使用せず、華人同士では標準中国語を使用するよう奨励されました。
とくに毎年10月を「スピーク・マンダリン」キャンペーン月間と定めて、ターゲットとなる集団や場所を毎回絞ることで、重点的に運動が推進されました。
年によって、職場・市場などの場所、あるいはタクシー運転手といった特定の集団を対象としてキャンペーンが展開されたのでした。
このキャンペーンに比較的たやすく順応できたのは、1970年代初頭の二言語政策のもとで、英語と標準中国語を学んだ若い世代でした。
一方で、方言世界で長年のあいだ生活してきた年配の華人や、二言語政策以前に英語による教育を受けてきた華人は、標準中国語は新たに外国語を習得するようなもので、非常に苦労したといいます。
とくにキャンペーンを実施する側にいる役人には、英語教育を受けた層がほとんどであることから、標準中国語をマスターするために、終業後に語学学校に通った、という話まであります。
このため、地域などでキャンペーン推進のため動員されたのは、華語による教育を受けた地域社会指導者などでした。
華人社会の反応とキャンペーンの結果
では、このキャンペーンに対して華人社会はどのような反応をしめしたのでしょうか?
華語教育知識人たちは平素からの人民行動党による英語重視政策への不満から、冷ややかな反応でしたが、一般の華人たちには、自分たちの言語を強調する政策を歓迎する声が多く聞かれました。
これまで英語重視とそれと表裏一体となって華語軽視で進められてきた政府の言語政策において、突然に華語の使用を推進するという政策がはじまったことに対する、華人社会の戸惑いと誇りが複雑に交錯していたのが実態ではないかと考えられます。
キャンペーンの成果は、徐々にあらわれました。シンガポール政府の発表によると、キャンペーンが開始された1979年には、標準中国語を自在に使うことのできる華人は全体の76%だったのが、1987年には87%に上昇しました。
これによって、華語派華人たちが日常的に使ってきた、華語以外の中国語方言の伝承が妨げられる結果となりました。
現在では若い世代の大部分は方言を流暢に話すことができなくなりました。
すなわち、これには中国での出身地域別に形成されていたシンガポールの華語派華人コミュニティを弱体化させ、華人社会を一元的な言語のもと、再構築する効果があったのです。
一方で、問題もありました。
たとえば職場で標準中国語を話そう、というキャンペーンを実施した際に、モザイク社会のシンガポールでは、その職場には華人ばかりではなく、マレー人やインド人が働いていることも多くあります。
これらの人びとをさしおいて、共通語として英語があるにもかかわらず、華語を特別視して「標準中国語を話そう」というキャンペーンを進めることには、少なからず反発もありました。
このような反発は、多言語空間が入り混じるシンガポールにおいて、言語政策を推進していく難しさを物語っているといえるでしょう。
日常に張りめぐらされた管理
「清潔さ」のための規制と管理
シンガポールで有名なもののひとつに、その「清潔さ」があります。
このような環境を実現したのは、もちろん国民ひとりひとりの努力もありますが、政府による徹底した規制や管理によるところが大きいといえます。
路上でのポイ捨て、トイレの水の流し忘れ、などといった生活のさまざまなシーンにおいて罰金をともなう規制が張りめぐらされ、これを取り締まるためのテレビモニターによる監視も行なわれています。
また、街の清潔さを維持するために、リークアンユーの首相辞任後の1992年にはガムの製造・販売が禁止されたりもしました。
このような管理への反発、あるいは反動からか、国境を接するマレーシアで、シンガポール国民のゴミのマナーが問題になったことがありました。
これは、マレーシアの新聞に、マレーシアに行楽にやってきたシンガポール人が、シンガポール国内でのマナーのよさとは打って変わって、自動車の窓から空き缶や食べかすなどをポイ捨てしていることが報道されたのです。
ほとんどのシンガポール人は、残念ながらそのような行為があることを素直に認めました。
日常的に監視・管理されていることへの不満を、無意識にこのような形で発散しているのではないか、とも言われています。
性への介入と反発
シンガポール政府による国民管理は、性にもおよびました。
大卒女性に対する結婚と多産を奨励する政策がそれです。
1984年、リークアンユーは、種族別・学歴別の過去数年間の統計をあげながら、大卒女性が、仕事を優先して結婚しない人が増えており、結婚したとしても子供が少ないのに対して、学歴の低い女性の場合は、結婚して多くの子供を出産する傾向があると指摘しました。
そして、このような状況をそのままにしていたならば、シンガポールの知的水準はやがて低下し、次世代には能力の低い者ばかりになるので、このような事態を防ぐために、大卒女性は結婚して、より多くの子供を産むべきである、と述べました。
このようなリークアンユーの考えを受けて、シンガポール政府はすぐに大卒女性の結婚相手をマッチングする、いわば政府設立の結婚相談所を創ったり、多くの子供を出産した大卒女性に対する所得税免除、子弟が通う小学校の優先選択権授与などの政策を実施しました。
こうした政府の動きに対して、「リークアンユーの国民管理はついに夜のベッドにまでおよんだ」という皮肉が語られましたが、やがて当事者である大卒女性を巻き込んだ国民的議論に拡大していきました。
これを「結婚大論争」といいます。
この政策に対しては、普段はリークアンユーの政策を批判する声がほとんどない閣議でさえ異論が出るなど、リークアンユーの周辺でさえ批判的な意見がみられました。
とくに、当事者である大卒女性には不評で、結局、この政策は数年で撤回されることとなりました。
これらさまざまな管理を徹底しようとするリークアンユー政権に対し、不満の声がなくはありません。
しかし、このような声に対して、リークアンユーは、「私は、国民の私生活に介入している、と絶えず批判される。しかし、もし私が介入しなかったならば、今日のシンガポールの発展はなかっただろう」と反論しています。
たしかに、その管理には私生活への介入という側面があったのは否定できませんが、一方で、リークアンユーによる管理体制のもとで、シンガポールは清潔で、治安もよく、豊かで発展した社会を実現してきたことは、リークアンユーの言うとおりでしょう。
下記はリークアンユー氏に関する記事の一覧です。
リークアンユーのあゆみ【完全ダイジェスト版】 約1万7千文字
シンガポール建国の父、リークアンユー:その生涯と政治・思想 約13万文字
リークアンユーの国づくり:独立国家・シンガポールの国家運営 今回の記事
人生のすべてをシンガポールに捧げた「建国の父」リークアンユーの死
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