第三艦隊司令官と宇宙艦隊副司令長官を兼ねるラザール・ロボス宇宙軍大将は、大胆かつ迅速な用兵に定評のある名将で、オストラヴァ星域会戦、惑星タリス攻防戦、第二次パランティア星域会戦、マイリージャ星域会戦などで勝利を重ねた。持ち前の豪腕は後方勤務でも発揮され、国防委員会装備副部長を務めた時に巡航艦調達体制の改革に成功し、「ミスター・クルーザー」の異名を取った。
大胆すぎて細心さに欠けると言われるが、それでもロボス大将がもう一人の副司令長官シドニー・シトレ宇宙軍大将と並ぶ同盟宇宙軍の二大名将であることを疑う者は、現時点では一人としていないはずだ。しかし、『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『帝国領侵攻作戦――責任なき戦場』といった前世界の戦記では、最悪と言っていい評価を受けている。
「史上最も愚かな戦争は何か?」
そう問われたら、宇宙暦七九一年の世界に生きる人のほとんどは、北方連合国家と三大陸合州国が争った西暦二〇三九年の一三日戦争、もしくは地球統一政府軍が暴虐の限りを尽くした西暦二六八九年の植民星戦役をあげるだろう。
しかし、前の世界では、「諸惑星の自由作戦」の名のもとに行われた宇宙暦七九六年の帝国領侵攻をあげる人が最も多いはずだ。功名心に駆られた参謀の立てたいい加減な作戦を、支持率目当ての政治家が承認し、行き当たりばったりの作戦指導を行ったあげく、当時の同盟軍現役戦力の四割にあたる二〇〇〇万人を失った。何から何まで最悪だったこの戦いの総指揮をとった当時の宇宙艦隊司令長官ロボス元帥は、愚将の汚名を後世に残した。
「名将という現在の評価と愚将という未来の評価。どっちがロボスの本質なんだろう?」
そんなことを考えつつ、執務室へと入る。広々とした執務室の奥に鎮座するロボス大将の眼には活力が宿り、口元はきりりと引き締まり、岩山のような肥満体と相まって、凄まじい貫禄を醸し出している。どこからどう見てもやり手そのものだ。
「宇宙軍少尉エリヤ・フィリップス、ただいま到着いたしました!」
俺が名乗ると、ロボス大将はすっと立ち上がって歩み寄ってきた。一六九・四五センチの俺より二センチほど背が低いのに、全身から放つ存在感が凄まじく、巨人と相対しているような気持ちになる。
「よく来たな、フィリップス少尉」
ロボス大将は、微笑みながら俺の肩を親しげに叩く。
「君のことは前から聞いていた。エル・ファシルでの活躍は言うまでもない。第七方面軍司令部で一生懸命学業や運動に取り組んだこと、幹部候補生養成所で模範学生だったこと、フィン・マックールの補給科で部下を良くまとめていること、そのすべてを知っている。一度会ってみたかった」
「小官のことをご存知だったんですか?」
ロボス大将は、メディアから消えた後の俺についても、良く知っているようだ。ちょっと調べただけではわからないはずなのに、どうしてこんなに詳しいのだろう? 心の中に不審感が生じる。
「ワドハニ提督は古い友人でね。彼から君のことを教えてもらった」
「納得しました」
ようやくロボス大将と俺を繋ぐ糸が見えた。第七方面軍の前司令官ヤンディ・ワドハニ予備役宇宙軍中将は、俺の幹部候補生養成所受験を後押ししてくれた恩人である。その友人ならば、知っていてもおかしいことはない。
「人を育てるのも仕事のうちだ。私は給料泥棒ではないのでね。君のような優秀な若者を見逃したりはせんよ」
「恐れ入ります」
「それにワドハニ提督からも君のことを頼まれている。五〇そこそこで引退に追い込まれた友人の頼みだ。引き受けずにはいられんよ」
「そうでしたか。何の役にも立てなかったのに、あの方は小官ごときのことを気にかけてくださったんですね」
胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。あれだけ手厚い援助をもらいながら、恩返しできなかったことを後ろめたく思っていた。そんな相手がまだ心配してくれているのだ。感動せずにはいられない。
「あれを見たまえ」
ロボス大将の太い指が壁面のスクリーンの方を向く。そこにはエルゴン星系からイゼルローン回廊に至る宙域の星図が映し出されていた。
「赤は同盟軍の色、青は帝国軍の色だ。エルゴンからイゼルローンに至る宙域の我が軍は、圧倒的な劣勢にある。もはやエルゴンですら絶対安全圏ではない」
「こんなに押し込まれてるんですか!?」
「三年前のエル・ファシル陥落が一つの転換点だった。エル・ファシルを無傷で手に入れた帝国軍は、大規模な艦隊基地を築き、国境宙域の制圧に乗り出した。我が軍は有人星系から住民を退避させた後に、大部隊を配備して迎え撃ったものの苦戦続きだ。エルゴン星系外周部の防衛基地群は七月に突破され、最近はシャンプール周辺宙域に敵の哨戒部隊が出現している。君が第七幹部候補生養成所を卒業してから、戦況が悪化したわけだな」
「知りませんでした……」
説明を受けて、自分が世間知らずなことを改めて思い知らされた。六月までは勉強、七月からは軍務にずっと熱中していて、世間のことに関心を払う余裕がなかった。
「君と一緒にエル・ファシルを脱出した三〇〇万人がどうなったか、知ってるかね?」
「知らないです……」
「一部は縁故を頼って他星系に移住した。だが、ほとんどは政府が提供した仮設住宅に住み、わずかな生活支援金を頼りに暮らしている。放棄された有人星系からの避難民も同じだ。一億人近い人々がエル・ファシルから脱出した人々と同じ境遇だ。君にとっては、エル・ファシルの戦いはハイネセンに戻ったところで終わりだろう。しかし、避難民にとってはまだ終わっていないのだ」
「返す言葉もありません」
頭を強く殴られたような衝撃を受けた。エル・ファシルからの脱出が成功すれば、それでハッピーエンドだと思っていたのに、それは俺一人だけのことだった。避難民には避難先での生活があるというごく当たり前のことを、すっかり忘れてしまっていたのだ。
エル・ファシルを脱出する間際に、エル・ファシルに戻れるかどうか心配していた赤毛の女の子に、「帰れるよ、きっと」と気休めを言ったことを思い出した。何の悪気もなかったが、この結果を考えれば、かなり残酷な言葉だったろう。自己嫌悪の気持ちが沸き上がってきた。
「彼らの力になりたいと思うかね?」
「なりたいです」
これを知って思わないと言えたら、それは人でなしだ
「我が軍は来月より反攻を開始する。彼らのために故郷を取り戻す戦いだ。君にも参加してもらいたい」
「小官が参加するのですか?」
「我が軍は、反攻作戦への参加を希望するエル・ファシル避難民五〇〇〇人を義勇兵として受け入れ、エル・ファシル義勇旅団を結成する」
そこで一旦ロボス大将は言葉を切り、俺の顔をまっすぐに見据える。
「指揮官は君だ! エル・ファシルの英雄エリヤ・フィリップス! 君がエル・ファシルを取り戻すのだ!」
ロボス大将が発した言葉は、電光となって俺の体を貫く。
エル・ファシル義勇旅団!
エル・ファシルを取り戻す!
その言葉の一つ一つが心地良い興奮をもたらす。しかし、決して魅入られてはならない。俺は任官して間もない一介の補給士官であって、英雄譚の主人公ではないのだ。落ち着け、エリヤ・フィリップス。分をわきまえろ。
「小官は少尉になったばかりです。兵を指揮したこともありません。小隊長なら引き受けますが、旅団長のような大任は受けかねます」
ほんの一瞬だけロボス大将は意外そうな表情を見せたが、すぐに元に戻る。
「志願者がエル・ファシルの英雄に指揮をとってほしいと要望しているのだ。不安を感じるのは理解できる。だが、そこで不安を感じるような者こそ指揮官にふさわしい。なぜなら、それだけ真摯に考えているからだ。野心が先走っていい加減に取り組むような者には、五〇〇〇人の命は任せられん」
俺のような人間こそ指揮官にふさわしいと、ロボス大将は言う。心がぐらぐらと揺れたものの、エル・ファシルの英雄はもう一人いることを思い出し、辛うじて踏み留まる。指揮能力ならば、同盟軍、いや全宇宙でも彼の右に出る者はいないはずだ。
「エル・ファシルの英雄なら、ヤン・ウェンリー少佐がいらっしゃいます。あの方こそ義勇旅団長にふさわしいのでは」
「自分の意思で故郷を取り戻す戦いに志願した義勇兵。彼らを指揮するのは、自分の意思でエル・ファシルに残った君でなければならない。君以外の指揮官は考えられん。志願者に代わってお願いしたい。義勇旅団の指揮をとってくれないか?」
暖かく力強い声が心に染み入っていく。彼のような偉い人がここまで評価してくれるのに、断っていいものだろうか? それにワドハニ中将のこともある。迷いがさらに大きくなっていく。
「指揮官の資格とは何か!? それは信頼だ! 部下が付いてくるかどうか、それだけが問題なのだ! 経験の欠如はとるに足らない! エル・ファシルの人々が命を預けるのは誰か!? それは英雄エリヤ・フィリップスだ! 幕僚はこちらで用意する! 君にできないことはすべて彼らがやる! 経験不足を恐れる必要はない!」
ロボス大将は一つ一つの言葉を短く区切って力を込める。
「高校の劣等生が一年で士官学校合格レベルの学力を身につけ、幹部候補生養成所ではベテラン下士官達と競い合って上位で卒業し、フィン・マックールでは見事に部下の心を掴んでみせた。君は常に努力で不可能を可能にしてきた。高校にいた時の君は、少尉となった自分を想像していたかね?」
「いえ、想像していませんでした」
「今の君が五〇〇〇人を指揮する自分を想像できないのは、当然のことだろう。なぜなら、まだ努力を始めていないからだ。しかし、一か月後の君にとっては、それは単なる日常になっているに違いない。私はそう信じている」
彼は俺がどれだけ努力してきたかを良く知っている。その上で「できる」と保証してくれる。ここまで期待されて断るなど、さすがにできなかった。
「わかりました。引き受けさせていただきます」
「良く言ってくれた。エル・ファシルのみんなもきっと喜ぶ」
ロボス大将はにっこり笑い、俺の肩をポンポンと叩く。
「微力を尽くさせていただきます」
同盟軍の重鎮にして、恩人の友人でもある人ができると言ってくれた。期待に背かないように頑張ろう。そう心に誓った。
エル・ファシル義勇旅団長を引き受けた翌日、俺はフィン・マックールの補給科から第三艦隊司令部に出向して、そこからさらに義勇旅団に出向することとなった。
最初、ロボス大将は、第三艦隊司令部の経理部にポストを用意し、そこから義勇旅団に出向する形にすると言った。一〇〇万人以上の隊員を抱える正規艦隊の経理部は、仕事の質量ともに大企業の経理部に匹敵すると言われ、士官学校を出ていない補給士官にとっては、出世コースと言っていい。だが、俺の心はフィン・マックールにある。戦いが終わったら戻りたいと強く要望した結果、籍を残したままで二重の出向をする形になったのだ。
第一艦隊司令部人事部で出向の辞令を受け取った後、軍用機でフィン・マックールが停泊しているランゴレン軍用宇宙港に向かい、補給科のみんなに一時的な別れを告げた。
「なるべく早く戻ってきなさい」
補給長タデシュ・コズヴォフスキ大尉の「戻ってきなさい」という言葉は、簡潔であったが、どんな美辞麗句よりも心を揺さぶる。
「義勇旅団にいる間に痩せたらいけません。少ないですが、これを持っていってください」
補給主任ポレン・カヤラル准尉は、お菓子がぎっしり詰まったでかい袋を三個もくれた。世話焼きの彼女は、俺が痩せているのを「ろくに食事しないから」と勘違いして、これ以上痩せないようにといつも食べ物をくれるのだ。
「少尉に心配を掛けないよう、しっかりやりますよ」
補給主任シャリファー・バダヴィ曹長は、胸を張って約束してくれた。部下に心配をかけているのは、いつも俺の方だったのに。
「そ、そんな……」
五歳下の少女志願兵ミシェル・カイエ一等兵は、この世の終わりのように沈みきっていた。根っから仕事好きの彼女は、いつも残業を手伝ってくれるのだが、礼を言うと「いいんです! 好きでやってるんです!」と顔を真赤にして大声で否定する。仕事のできない俺が職場を離れて、残業ができなくなるのが寂しいのだろう。「帰ったらまた手伝ってもらうよ」と必死でなだめた。
俺と同い年のベテラン志願兵エイミー・パークス上等兵は、何も言わずに泣き出した。彼女は大人びた容姿の持ち主なのに、いつもテンションが高く、子供のように良く笑い良く喋る。テンションの高さに引いてしまうことがある。笑顔が良く似合うというか、笑顔しか見せたことがない彼女が初めて見せる涙に驚いた。
研修に行っていた給食主任アルネ・フェーリン軍曹ら数名とは会えなかったが、それ以外の者とは別れを済ませて心残りが無くなった。
別れの次には、出会いがやってくる。軍用機に乗って再びフォンコート市に飛び、第三艦隊司令部に到着すると、ロボス大将から義勇旅団の幹部を紹介された。
「こちらの女性は、民間人代表として副旅団長を引き受けてくれるマリエット・ブーブリル予備役宇宙軍伍長だ。民間人といっても、実戦経験は職業軍人に勝るとも劣らない。兵役に行って陸戦隊の従軍看護師として活躍し、名誉戦傷章や青銅五稜星勲章も受章した愛国者の中の愛国者だ」
除隊時に予備役伍長の階級を得た徴集兵、名誉戦傷章や青銅五稜星勲章の持ち主と聞けば、誰もが勇猛な兵士を思い浮かべるだろう。しかし、マリエット・ブーブリル副旅団長は、とてもきれいな女性だった。年は俺より二つか三つ上ぐらいだろうか。病的なまでに白い肌、長いまつ手、切れ長の瞳、肉付きの薄い唇、艶やかな黒髪は儚げな印象を与える。小柄で華奢な体は、触ったら壊れてしまいそうだ。守ってあげたくなるような感じで、勇猛な兵士とは真逆の存在に見える。
「フィリップス旅団長、よろしくお願いします」
ブーブリル副旅団長は、微笑みながら右手を差し出してきた。手袋をはめているのが気になったが、表情には出さずに手を握り合わせる。
「こちらこそよろしくお願いします、ブーブリル副旅団長」
硬い物を握っているような感触に違和感を覚えつつ、笑顔を作る。
「ああ、右手のことなら気になさらないでください。これ、義手なんですよ。機関銃で吹き飛ばされまして」
ブーブリル副旅団長は微笑みを崩さずに説明する。俺は慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません」
「お気になさらないでください。私にとっては栄光の証なのですから」
何のこだわりもないブーブリル副旅団長の態度は、説明された通りの人間であることを教えてくれる。外見からは想像もつかない猛者のようだった。
後で聞いたところによると、ブーブリルの右足も義足だった。年齢は俺より二歳か三歳ぐらい上と思っていたのに、実際は九歳上の三二歳で三人の子を持つ既婚者。要するに俺の第一印象は、完全に間違っていた。
「彼は宇宙軍大佐のカーポ・ビロライネン君。士官学校を出てから、ずっと私の司令部で働いてきた。義勇旅団では首席幕僚を引き受けてくれる。まだ三〇歳と若いが能力は抜群だ。実務は彼に任せれば心配ない」
首席幕僚カーポ・ビロライネン宇宙軍大佐は、鋭角的な顔つきと強い眼光が印象的で、見るからに優秀そうに見える。あの「切れ者ドーソン」よりもずっと切れ者っぽい。
「小官の母方の曾祖母はエル・ファシル出身です。曾祖母の故郷は小官にとっても故郷同然。共に戦いましょう」
台本を読み上げるかのような口調は、ビロライネン大佐の志願理由が曾祖母の縁ではなく、ロボスとの縁であることを教えてくれた。
首席幕僚ビロライネン大佐の下に、五人の主要幕僚がいる。人事主任シー・ハイエン宇宙軍少佐、情報主任クラーラ・リンドボリ宇宙軍大尉、作戦主任ゲロルト・トラウトナー宇宙軍少佐、後方主任ニーニョ・アマドル宇宙軍少佐、、旅団最先任下士官アーマン・ウェルティ宇宙軍准尉らは、みんなエル・ファシル出身の陸戦隊員だ。
エル・ファシル義勇旅団の中核となるのは、軽編成(二個大隊編成)の三個義勇陸戦連隊で、それを率いる第一義勇連隊長のオタカル・ミカ義勇軍中佐、第二義勇連隊長のリディア・バルビー義勇軍中佐、第三義勇連隊長のボリス・ソドムカ義勇軍中佐らは、みんなエル・ファシルの名士だ。大隊長、中隊長、小隊長などもみんな民間人から起用され、部隊幕僚として配置されたエル・ファシル出身の軍人が補佐にあたる。
義勇旅団には、前の世界で聞いた名前は一人もいなかった。名前が残っているエル・ファシル人といえば、独立政府主席フランチェシク・ロムスキーくらいのものであるが、義勇旅団には参加していない。年齢と立場からすると、ビロライネン大佐あたりは七九六年から始まったラインハルト戦争時代には働き盛りのはずなのに、名前は残っていなかった。
戦記や伝記の類が詳しく記しているのは、二大英雄のヤン・ウェンリーとラインハルト・フォン・ローエングラムに関わりの深い事柄に限られる。そういったものと関係のないところでも、歴史は動く。彼らの動向ばかり気にするより、目前の相手としっかり向き合うことが大事だと感じる。
しかし、俺はあっという間に自分の決意を裏切った。世の中には向き合いたくない相手というものもいる。
「士官学校を首席で卒業したアンドリュー・フォーク君が、義勇旅団長補佐を引き受けてくれる。わかりやすく言えば、秘書といったところだな」
アンドリュー・フォーク宇宙軍中尉は、同性の俺ですら惚れ惚れするほどに爽やかだった。年齢は俺より二歳下で、均整の取れた長身、きれいに切り揃えられたライトブラウンの短髪、血色の良い肌は、スポーツ選手のような印象を与える。目鼻立ちは多少整いすぎているが、穏やかな眼差しと優しそうな口元のおかげで雰囲気が和らげられていて、程良い清冽さを醸し出す。
「はじめまして。アンドリュー・フォーク中尉と申します。曽祖父の姉の夫がエル・ファシル出身でした。エル・ファシルの英雄とご一緒できて光栄です」
フォーク中尉は人好きのする微笑みを浮かべながら、右手を差し出してきた。俺も右手を差し出して握手を交わす。手の大きさと温かさが印象的だ。
第一印象はブーブリルやビロライネン大佐よりもずっと良かった。いや、今の世界にやってきてから出会った誰よりも良かったと言っていい。それでも、引っかかりがある。アンドリュー・フォークという名前は、前の世界では悪い意味で有名だったからだ。
前の世界のフォークは功名心に取りつかれ、天才ヤン・ウェンリーとの出世競争に勝つために、帝国領侵攻計画「諸惑星の自由作戦」を立案した。その作戦は杜撰そのもので、後世の戦記作家から、「幼稚園児でも欠点を見抜ける」と嘲笑された代物だ。いざ作戦が始まると、補給を理解せずにひたすら前進させるだけの作戦指導で全軍を壊滅に追いやった。軍を追放された後は、二度のテロ未遂を起こし、恥の上塗りをした。
人格も最悪だった。上昇志向や自尊心が強いくせに、知能は劣悪で補給の概念すら理解してすらいない。人を批判するのは大好きなくせに、自分が批判されるとヒステリーを起こし、自分がヤン・ウェンリーを凌ぐ大天才という妄想にとらわれてテロに走る。狂人としか言いようが無い。ある戦記作家は「このような人間が入学できる時点で、同盟軍士官学校は小学校にも劣ると断言できるのである」と述べた。
ヤンやラインハルトに視点が偏りすぎていると、戦記作家を批判する者でも、フォークの愚劣さは認めざるを得ないと思う。誰が見ても弁護の余地が無い歴史上の大罪人。それがアンドリュー・フォークという人物だ。
しかし、俺の目の前に現れたフォーク中尉は、とんでもなく爽やかな好青年だった。同姓同名の別人かと思ったが、士官学校を首席で卒業したアンドリュー・フォークという名前の人物が、二人もいるとは考えにくい。ならば、爽やかさの中に狂気を秘めているということなのだろうか?
俺の知識はその推測を否定する。戦記の金字塔『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』、帝国領侵攻作戦について書かれた『帝国領侵攻作戦――責任なき戦場』、フォークを追い詰めたアレクサンドル・ビュコックの伝記『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』などに描かれたフォークは、まさに狂人そのもので、狂気を隠して正常者のように振る舞えるとは思えない。
目の前の好青年とどう接すればいいのだろうか? 別の名前だったら、何の迷いも無く受け容れられたのに。やり直す前の記憶が彼を受け入れる邪魔をしているのか、それとも「目の前の好青年に騙されるな」と警告してくれているのか、にわかに判断がつきかねた。
ひと通り義勇旅団の幹部を紹介された後、俺はロボス大将の執務室を出て、士官食堂へと向かった。歩いてる間もひたすら考え続けた。
「どうかしましたか?」
澄んだ声が俺の思考を中断した。俺の左隣にはフォーク中尉が立っている。意表を突かれて、混乱してしまった。
「い、いや、なんでもない」
みっともないぐらいに声が上ずる。史上最悪の狂人と一対一で落ち着いて会話するなど、俺の小さな胆には荷が重すぎる。
「そうでしたか。旅団長はこれからお食事にいらっしゃるんですよね?」
「まあ、そうだね。まだ昼食を食べてないし」
「うちの士官食堂のパンケーキはおいしいですよ。旅団長はホイップクリームを乗せるのが好みと聞いておりますが、うちのシロップは特製です。一度試してみてはいかがでしょうか?」
「なぜ俺の好みを知っているんだ?」
「フィリップス旅団長にお仕えするにあたって、いろいろと調べさせていただきました」
「そ、そうか」
幼稚園児以下の知能と戦記作家に罵倒された人物が、ここまで細かく下調べをしていたことに驚く。
「クレープはどれもいまいちです。あまりお勧めできません」
「それは残念だ」
なんか普通に会話が成立している。しかも親切だ。マイナス固定されていた心の中の好感度メーターが、少し揺れ始めた。
会話が途切れた後もなぜかフォーク中尉は俺の横を歩く。トイレに入る時も着いてくる。いったいどういうことだろうか?
「フォーク中尉」
「はい」
「どうして貴官は俺に着いてくるんだ?」
「補佐ですから」
フォーク中尉は真っ白な歯を見せて爽やかに微笑む。俺もつられて微笑んでしまう。心の中の好感度メーターの揺れがちょっと大きくなった。
「旅団長補佐といえば、秘書のようなものだからな。それなら着いてくるのが当然だ」
結局、俺はフォーク中尉と一緒に士官食堂に入り、昼食を共にすることになった。史上最悪の狂人と一緒に食事をするなど、ほんの数時間前までは想像もしなかった展開である。
シーフードドリア二皿、サンドイッチ三個、ビーフシチュー一皿、レンズ豆のサラダ二皿、ビーフハンバーグ一個を食べ終えた俺は、デザートを注文した。五分もしないうちにクレープ四皿、ラージサイズのパンケーキ二皿、ハーフサイズのパンケーキ一皿がテーブルの上に並ぶ。ハーフのパンケーキ以外は、すべて俺が食べる分だ。
最初にクレープに口をつけた。ホイップクリーム、チョコレート、チョコバナナ、バナナホイップの順に食べる。生地がパサパサしててあまりおいしくない。
「フォーク中尉、貴官のアドバイスは正しかった」
俺は渋い顔でフォーク中尉の正しさを認めた。
「あ、ありがとうございます」
なぜかフォーク中尉は、恐縮気味に返事をする。実直を絵に描いたような反応をされると、戦記の方が間違ってるんじゃないかと思えてきて、心の中の好感度メーターが激しく揺れ動く。
次はパンケーキだ。二皿のうち、片方にホイップクリームを乗せ、もう片方にメイプルシロップをかけて食べる。パンケーキはふわふわしていて、とてもおいしく、軍の食堂とは思えないクオリティだ。ホイップクリームはもちろん、メイプルシロップとも良く合ってる。
「フォーク中尉、貴官のアドバイスは正しかった。メイプルシロップも良いものだね」
俺は満面に笑みをたたえて、フォーク中尉の正しさを認めた。
「お、お役に立てて何よりです!」
フォーク中尉は心から嬉しそうに笑った。こんなに人の良さそうな奴を嫌ったら、自分が悪人のように思えてくる。
良く考えたら、俺がフォーク中尉を嫌うべき理由は何一つ無かった。前の世界とこの世界がまったく同じでないのは、今の自分を見ればわかる。この世界で何も悪いことをしていない人間を、前の世界での悪事を理由に嫌うのが正当ならば、俺だって嫌われるべき人間であろう。窃盗や麻薬の常習者で、一度は人をこ……。いやいや、俺のことはどうでもいい。とにかく、俺が彼を嫌うのは不当なのだ。
前の世界のことを度外視すれば、目の前にいる人物はとても爽やかな好青年で、デザートについてアドバイスもしてくれた。要するに良い奴である。そう判断を下した瞬間、揺れていた好感度メーターがプラスに振りきれた。
「アンドリュー・フォーク中尉、改めてよろしく」
「はい! 頑張ります!」
俺とフォーク中尉はガッチリと握手を交わす。新しい出会いはエル・ファシル義勇旅団の明るい未来を予感させてくれた。