エル・ファシルから脱出した民間人三〇〇万人と軍人四万人を乗せた一〇〇〇隻の船団は、帝国軍の追撃に怯えながら航行を続けていた。
私はそのままヤンの従卒になって、脱出船団旗艦の駆逐艦「マーファ」に同乗している。だが、ヤンは司令室に常駐していて、部屋に帰ってくるのは寝る時のみで、着替えの用意とベッドメイク以外にすることは無い。
そういうわけで私はとても暇だった。本来の乗員五四名の他に、司令部要員四〇名、民間人二〇〇名が狭い駆逐艦に乗り組んでるせいか、どこを歩いても人に出くわす。あの赤毛の女の子も二日に一度は見かける。こんな狭い艦を旗艦にしなければならないのは、逃げ出したアーサー・リンチ司令官が戦艦と巡航艦を全部連れて行ってしまったせいだ。嫌いではないが、少し恨めしくなる。
「フィリップスさん、一緒に写真撮りません?」
黒い髪の少女が声を掛けてきた。写真と取りたいと言われるのは、今日だけで三度目だ。またかとうんざりする。
「いいですよ」
表向きは気安い感じで応じたけれども、これは単に断れないだけだ。写真を撮られるなど、嬉しくとも何ともない。チビで不細工な私の写真を撮る理由など、笑い者にするつもりに決まってるからだ。
外に出るのが嫌になった私は、仕事と食事以外の時は自室に閉じこもり、ヤンの荷物の中にあった本を勝手に読んでいた。大衆向けの偉人伝や戦記しか読んだことのない私には、『補給戦』『戦争概論』『韓非子』『隷従への道』『自由からの逃走』なんて本は、あまりに難解すぎて何を書いてるのか理解できなかったが、あの偉人と同じ本を読んでるというだけで自尊心は大いに満たされる。
私とは対照的に、ヤンは多忙を極めた。船団に指示を出し、上がってくる文書を決裁し、不安を訴えてくる民間人に対応する。そういった仕事をすべて一人でこなしていたのだ。寄せ集めの船団一〇〇〇隻を一人で指揮する苦労は想像を絶する。ヤンの顔には日に日に疲労の色が濃くなった。
船団には軍艦も混じっている。その艦長は中尉のヤンよりずっと階級が高い中佐や少佐だ。それなのに、なぜヤンが一人で仕事を背負い込まなければならないのか? 食堂でのんびりと朝食を食べていたマーファの艦長を見た時、気が小さい私もさすがに怒りが爆発した。
「中尉が艦橋に詰めっぱなしなのに、なぜ艦長が食堂でのんびりしているんですか!? 食堂で食べる暇があるなら、中尉を手伝えばいいでしょう? あなたもリンチ少将みたいに、全部中尉に押し付けるんですか!?」
宇宙軍少佐の階級章を付けた中年の艦長は、意外にもまったく怒りを見せなかった。
「うちの船団の艦長には参謀教育を受けてない叩き上げしかいなくてね。参謀教育を受けた者はみんなリンチ提督と一緒に逃げてしまって、ヤン中尉だけが残された。彼一人に一〇〇〇隻を任せてしまってるのは心苦しいがね。しかし、私が補佐役になっても、大船団の運用はわからない。かえって足手まといになってしまう。それに……」
艦長の表情に苦笑が混じる。
「この艦に乗ってる部下五四人、司令部要員四〇人、民間人二〇〇人の命を預かるのも、それはそれで大変でね。私は駆逐分隊司令も兼ねてるから、他の駆逐艦二隻に乗ってる四八九人の命にも責任がある。全部押し付けて、自分だけ楽してるわけじゃないのさ」
怒りの成分が全く含まれてない艦長の言葉は、何よりも強く俺を打ちのめした。知り合いの麻薬の売人だって、五人の子分をまとめるのに苦労してた。それを思えば、五四人の乗員をまとめる艦長の苦労なんて想像を絶する。まして、全員の命にかかわることなのだ。
伝記や戦記に登場するのは、艦隊司令官とその参謀だけだ。駆逐艦艦長なんて、命令を聞くだけの仕事だと思っていた。艦長の苦労など考えたこともなかった。自分の想像力の乏しさに泣きたくなる。本を読んで少しは賢くなったつもりだったのに、何もわかっていなかった。
「申し訳ありませんでした」
「ははは、構わんよ。私だって、艦長になる前はわからなかった。命令するだけで楽な仕事だと思ってたよ。何でもやってみないとわからんもんだ」
艦長は手の平を左右に振るジェスチャーをして笑った。何もわかってない一等兵に食事を邪魔されたというのに、笑って許してくれる。なんて懐の広い人なのだろう。それに比べて、自分のなんと浅はかなことか。涙がこぼれそうになる。八〇年も生きたのに、ひたすら耐えるだけで何も積み重ねてこなかった。
「泣かなくたっていいじゃないか。坊やはまだ若い。経験が足りないのだ。わからないのは当然だろう」
エル・ファシルではさんざん子供扱いされてむっと来たが、艦長の坊や扱いには何とも思わなかった。この人に比べたら、私は確かに坊やだ。
人は年を取れば成長するというのは大嘘だ。ハイネセンの救貧院には、私のように長く生きただけで何もまったく積み重ねていない年寄りが大勢いた。まともな社会経験がなければ、年を取っても子供と同じなのだ。
「はい」
涙を拭いながら答える。逃亡者にならなければ、それでハッピーエンドではないということに今さらながら気付く。帰った後も人生は続く。きっちり生きて、経験を積まなければならない。
「いつか坊やが人の上に立った時に、『こんなこと言ってたおっさんがいたな』って思い出してくれたら、それでいい」
「僕が人の上に、ですか……?」
「まだ二〇歳にもなってないんだろ? この先、何があるかわからんぞ? もしかしたら、議員や提督になる日が来るかもしれない」
この夢の中では未来がある。そんな当たり前のことを艦長は教えてくれた。今の私は二〇歳の若者なのだ。さすがに議員や提督はないだろうが、頑張ればコーヒーチェーンの店長ぐらいにはなれるかもしれないし、父と同じように警察に入るという手もある。広大な平野が目の前に広がったような思い、蒙を啓いてくれた艦長の名前を知りたくなった。
「名前を教えていただけますか?」
「私の名前かい?」
「はい。ご指導いただいたこと、絶対に忘れません」
「大袈裟だね。そんなに畏まって聞くほど大層な名前でもないよ。アーロン・ビューフォート。ただのおっさんだ」
ビューフォート少佐は気さくに笑う。三年前に読んだ『前進! 力戦! 敢闘! 奮励! ―フリッツ・ヨーゼフ・フォン・ビッテンフェルト自伝』に登場した同盟軍の名将の名前と似てるような気もしたが、立て続けにそんな大物が出てくることもないだろう。良く考えたら、あれはビューポートだった。
「ありがとうございます」
深々と頭を下げた。
「坊やは少年志願兵の一任期目だろ? 志願兵は二期務め上げたら、だいたい上等兵まで昇進できる。そこで下士官選抜を受けてみるといい。下士官になれたら、中卒者としては極上の就職と言っていい。目指してみる価値はある」
「僕は……」
中卒でも無いし未成年でも無いと言いかけてやめた。私が……、いや、年寄りくさい話し方はもうやめよう。ビューフォート少佐の目から未成年に見えるのは、俺が幼稚だからだ。成長した時に再会して訂正すればいい。
「わかりました。頑張ってみます」
ぎこちなく笑った、チャイムの音が鳴り響いた。
「緊急放送です! 当船団は第七方面軍所属の第七一星間巡視隊と接触! これより第七方面軍の保護下に入ります!」
放送が終わると同時に、歓声が爆発した。手を叩く者。拳を振り上げる者。抱擁し合う者。みんな、それぞれのやり方で喜びを表す。
「艦長命令だ! 今からここで祝賀会を始めるぞ! 飲み放題食い放題の無礼講だ! 軍人も民間人も区別なく楽しもうじゃないか!」
ビューフォート少佐の命令でありったけの酒と食料が放出された。艦内をあげてのどんちゃん騒ぎが始まり、人々は生きて祖国の土を踏める喜びに酔いしれた。
ずっと前に断酒した俺は、ジュースで乾杯した。アルコールが入ってないのにテンションが上がってしまい、人につられてわけもわからず大笑いし、知らない人と肩を組んで歌った。数人の女の子と意気投合して、端末アドレス交換までしてしまった。
大宴会から二日後、マーファからシャトルに乗ってシャンプールのジョード・ユヌス宇宙港に着陸した俺達を待っていたのは、港内を埋め尽くすような群衆だった。エル・ファシルからの避難者を激励する言葉が連ねられた横断幕やプラカードも溢れんばかり。地上には放送車が並び、空中には報道ヘリコプターが飛ぶ。
俺達がシャトルを降りると、軍楽隊が国歌『自由の旗、自由の民』を演奏し始めた。儀仗兵が両側に整列して、俺達のために通路を作る。
「熱烈歓迎だな……」
俺の隣にいるビューフォート少佐は、熱烈歓迎ぶりに開いた口が塞がらないようだ。
ちらりとヤン・ウェンリーの方を見ると、辟易したような顔をしている。後年の天才用兵家もこれには参ったようだ。
「俺の人生はどこに行ってしまうんだ……」
予想外の展開に頭を抱えた。せっかく逃亡者にならずに帰れたというのに、まだまだ落ち着きそうになかった。
シャンプール到着の翌朝。俺は第七方面軍司令部からあてがわれた客室で、エル・ファシル脱出劇関連の報道を見ていた。
最初に見たのはテレビだった。どの局もエル・ファシル脱出劇の特番を組んでいる。
「英雄エリヤ・フィリップス一等兵がシャトルから降りてきます!」
引きつった笑顔でシャトルから降りてくる俺が画面に映る。この映像を見るのはもう何度目だろうか。うんざりしてテレビの電源を消す。
今度は新聞を手に取った。どの新聞も紙面の大半を使ってエル・ファシル脱出劇を報じている。
「エル・ファシルの英雄エリヤ・フィリップス一等兵」
そう題された写真が一面を飾る。大きさはヤン・ウェンリーの写真と同じ。
「どうして俺なんだよ。ヤンの写真だけでいいじゃないか。彼だけが本当の英雄なんだから」
ぼやきながら新聞をめくると、二面には「若き英雄」「同盟軍人の鑑」などという見出しとともに、ヤン・ウェンリーと俺の紹介記事が並んでいた。
記事の中では俺が記者会見で語った言葉が引用され、「フィリップス一等兵の言葉が市民を落ち着かせた。彼こそ真の英雄である」と締めくくられていた。そして、アーサー・リンチ司令官は、「市民と部下を見捨てて逃げた卑怯者。同盟軍の恥」と糾弾されていた。
新聞を放り投げた俺は、携帯端末でネットを見た。大手のニュース系コミュニティでは、「誰が真のエル・ファシルの英雄か」という議論が繰り広げられている。
「ヤンだけが英雄という意見が多いな。みんな分かってる」
ネットに真実があるという言葉は胡散臭いが、この場合は正しいようだ。マスコミの報道は明らかに俺を持ち上げすぎている。
「なになに? 『地味なヤン中尉だけでは絵にならないから、マスコミは爽やかなフィリップス一等兵を持ち上げて、エル・ファシルの奇跡を演出しようとしたのではないか』だって!?」
首を傾げたくなる書き込みもあった。しかも、かなり支持を受けている。俺ほど爽やかとかけ離れた存在は滅多にいないのに。いったい何を見ているのだろうか?
また、俺の容姿を評価するコミュニティが乱立し、「見た目ならフィリップスが英雄」「かわいい」「アイドル誕生」などと書きこまれていた。中学や高校でも容姿を評価されたことは一度もなかったのに。
アンケート系のサイトでは、俺が「弟にしたい男性」の第一位になっていた。ちなみにそのサイトではヤンが「結婚したい男性」の一位になっていたので、あてにならない。
洗面所に行って鏡を見る。ゆるくウェーブした赤毛、つり目気味の猫目、小さな鼻、薄い唇、ややふっくらした頬、卵型の輪郭。控えめに言っても子供のような顔で、美形とは程遠い。身長が伸びて格好良く見えるようになったのかと思い、身長計を借りて測ってみたが、現実と変わらず一六九センチのままで、男性の平均身長が一七六センチのこの国では押しも押されぬチビだ。
悲しくなった俺は再び端末を手に取り、政治系や軍事系のサイトに目を通した。通俗的な本しか読んでない俺には難しすぎて頭が痛くなるけれども、目を通すだけで知能指数が上がったような気がするから、まったく問題はない。
「フィリップス一等兵の行為は、服従義務違反、抗命罪、逃亡罪にあたるのではないか」
ある軍事系サイトでこんな質問を見かけてヒヤッとした。自分の法的な立場なんて、まったく考えていなかった。
「いきなり軍法会議に呼び出されたらどうしよう? 抗命罪は死刑もありうるんだよな」
そんなことを思いながら、恐る恐る回答を読む。
「現在公開されている情報の範囲では、リンチ少将のエル・ファシル離脱は、上位司令部たる第七方面軍司令部の承認を得た形跡がなく、臨時措置として正当化しうる法的根拠も見当たらない。よって、職務上の命令とはみなし難い。フィリップス一等兵の行為は、抗命罪を規定する同盟軍法第八六条の『上官の職務上の命令に服従しない者』に該当せず、抗命罪に問うことはできない」
なるほど。抗命罪はセーフなのか。
「命令服従義務を規定する同盟軍法第三三条は、『軍人はその職務の遂行に当っては、上官の職務上の命令に忠実に従わなければならない』と述べている。職務上の命令ではない違法な命令への服従義務は課していない。よって、服従義務違反は成立しない」
服従義務違反も大丈夫。
「フィリップス一等兵の離脱には、違法な命令の拒否という正当な理由がある。離脱当日に司令官が放棄した任務を引き継いだヤン中尉の指揮下に入って本来の職務を継続したため、逃亡罪を規定する同盟軍法第八八条の『正当な理由がなくて職務の場所を離れ三日を過ぎた者』に該当せず、逃亡罪は成立しない」
逃亡罪も大丈夫だった。自分は完全に安全とわかって安心した。俺にとっての法律は、「破ったら警察に捕まる」程度のものだった。法的根拠なんて考えたこともなかった。ちゃんとやり直すには法律も学ばないといけない。
そんなことを思いながら端末を操作していると、ドアホンが鳴った。誰が来たのだろうか。急いで画面を確認する。
軍用ベレーをかぶった四〇歳ぐらいの男性の顔が映っていた。目つきは刃物のように鋭く、大きな鼻と厚い唇が存在感を主張する。角張った顔の輪郭、綺麗に刈り込まれたブロンドの短髪は、漫画に出てくる堅物の軍人そのものだ。現実で培われた軍人への苦手意識を刺激されて、思わず身構えてしまう。
「おはよう、良く眠れたかね?」
軍人らしい容貌にふさわしい威圧的な声。ドアを開けた途端に「貴官の逮捕を執行する」と言われそうな雰囲気がある。
「どちら様でしょうか?」
「軍の広報の者だ。入ってもいいか?」
「どうぞ」
なんでこんな人が広報をやってるんだろうか。そもそも、広報が俺に何の用だ? 不審に思いながらも、ドアを開けて男性を中に入れる。
男性は顔と声にふさわしい体格の持ち主だった。身長は平均程度程度だが、肩幅や胸板の厚みが凄く、岩石のようだ。首筋の階級章を見ると地上軍の少佐で、大隊長として五〇〇から八〇〇人の兵士を指揮するような偉い人だ。胸元にはパラシュートをあしらったバッジが付いている。空挺の経験者ということだろうか? いずれにせよ、一等兵の俺から見れば雲の上の人である。
「国防委員会広報課のエーベルト・クリスチアン地上軍少佐だ。貴官を担当することになった」
クリスチアンという名前はどこかで聞いた気がする。ヤン・ウェンリーやラインハルト・フォン・ローエングラムと深く関わった有名人では無いはずだ。俺の記憶はこの二大英雄と関わった人物以外には、きわめて冷淡なのである。まあ、クリスチアンというのは良くある姓だから、前に知り合った人の中にいたのだろう。大物が頻繁に出てくるはずもない。
それにしても、国防委員会といえば同盟軍の最高機関だ。そんな所から来た偉い人が俺の何を担当するのだろうか?
「担当って何の担当ですか?」
「スケジュール管理、メディア対応などを担当する」
「ちょっと待って下さい。どういうことです?」
「貴官には、広報活動に従事してもらうことになった。しばらくはメディア出演やイベントで休む暇もないだろうが、これも軍人の大事な任務だ。頑張ってもらいたい」
メディア出演やイベントと聞いて、めまいがしそうになった。まだ人前に出なければいけないのか。今朝の報道だけでもうんざりなのに。
「貴官は卑劣な司令官を拒絶して市民を守った。同盟軍人の誇りだ。広報官としての最初の任務が貴官の担当であることを名誉に思う」
クリスチアン少佐は俺の手を力強く握る。手を握られているのに、なぜか頭が痛くなった。もしかして、この夢は悪夢なんじゃないか? そんなことを思う。
司令部食堂に連れて行かれ、昼食を共にしながら今後のスケジュールの説明を受けた。ハイネセンポリスに向かい、式典やパーティーの合間に取材やメディア出演を入れていくのだそうだ。
「まるで芸能人みたいですね」
「貴官は英雄だ。勘違いするな」
「英雄はヤン中尉だけですよ」
「ヤン中尉だけでは、動揺する市民を抑えることはできなかった。中尉の指示を拒否する船長、単独脱出を試みる市民もいた。貴官の記者会見がなければ、彼らは抑えられなかった」
俺の知らない場所で起きていたことを、クリスチアン少佐は教えてくれた。市民がリンチの逃亡に怒ってたのは知っていたが、そこまで深刻だったとは聞いてなかった。
「そんなことがあったんですか? 今知りました。何が起きていたんですか?」
「軍がエル・ファシル市民を見捨ててリンチだけを脱出させた。ヤン中尉はそのための時間稼ぎをした。市民はそう誤解した。軍が市民を見捨てることなど有り得ないが、不安に駆られた市民にはわからなかったのだ。自らエル・ファシルに残った貴官がいたおかげで不安を抑えられた」
クリスチアン少佐は俺が自分の意志で残ったことを強調した。しかし、それがそんなに重要なのだろうか? 俺は出発直前にやってきて、ほんのちょっと喋っただけに過ぎない。エル・ファシルから民間人を脱出させたのは、ヤンと脱出船団の乗組員だ。成すべきことをした彼らこそ真の英雄だ。
そんな俺の戸惑いをよそに、クリスチアン少佐は熱弁を振るい続ける。
「反戦派どもは『軍はエル・ファシルを見捨ててリンチを脱出させた。ヤン中尉のおかげで三〇〇万人の市民は事なきを得たが、軍の責任は追及しなければならない』などと言う。批判するしか能のない奴らめっ! 誰のおかげで安全に暮らせると思っているっ!」
バーン、と大きな音がした。怒れるクリスチアン少佐がテーブルに拳を叩きつけたのだ。食堂の中にいる人が一斉にこちらを見るが、彼はおかまいなしにボルテージを上げていく。
「軍が市民を見捨てて軍人だけ逃がそうとするなど有り得ん! あるはずがないのだっ! 我々は市民を守る最後の盾だ! 平和のために命を賭ける! それが同盟軍人の矜持だっ! 命惜しさに市民を見捨てるなど軍人のすることではないっ! 卑怯者のすることだっ! 軍がそのような真似を許すとでも思っているのかっ!」
またクリスチアン少佐はテーブルに拳を叩きつけた。興奮するのに比例して、俺も含めた周りの人は引いていく。
「貴官は記者会見で敵よりも卑怯者と呼ばれる方が怖いと言った。それこそがまさに名誉ある同盟軍人の精神なのだ。軍人とは貴官のような崇高な精神の持ち主なのだ」
クリスチアン少佐の目に涙が浮かぶ。賞賛されているはずなのに怖い。この人は今の俺を賞賛したのと同じ口で、かつての俺を罵倒できる人だ。そして、自分の立場が見えてきて怖くなった。
リンチ司令官は第七方面軍の命令を口実にエル・ファシルから逃げ出したため、それが軍が組織としてエル・ファシルを見捨てたと疑われても仕方ない状況である。置き去りにされたヤンだけを英雄にすると、「軍に見捨てられたのに頑張った」と言われ、ヤンを持ち上げる人々が「軍は英雄ヤンを見捨てた」と言い出すかもしれない。俺を持ち上げれば、「軍はエル・ファシルを見捨てていないのに、リンチは勝手に逃げた。逃げなかったフィリップスこそ、軍に忠実なのだ」とアピールできる。
俺への賞賛と逃亡したリンチ司令官への罵倒が表裏一体であることに気づいた時、背筋に冷たいものが走った。
「逃げた人達はどうなるんですか……?」
「帰国したら軍法会議に告発されるだろう。判例から推測すると、リンチは階級剥奪の上で死刑、共謀した幹部は死刑または懲役が妥当なところか。任務を放棄した卑怯者にふさわしい末路だ。収容所から生きて帰ってこれたらの話だがな」
「事情を知らなくて司令官の命令に従っただけの人も……?」
「事情を知らずにただ従っただけでも、違法行為に加担したことに変わりはない。不名誉除隊で軍から追放、生還した捕虜に認められる一階級昇進と一時金は無し。そんなところだな」
クリスチアン少佐の答えは、俺が帰国後に受けた処分と一致していた。不名誉除隊は民間の懲戒免職にあたる。退役軍人としての一切の権利を剥奪され、軍人年金や退職金も支給されない。軍を退いた者は、公式の場で「退役○○(○○の中は現役時代の階級)」を名乗ることが許されるが、不名誉除隊になればそれも禁止される。民間企業からも敬遠されて、就職が著しく不利になる。被選挙権の停止など独自のペナルティを課す星系も多い。
従っただけでそんな重い処分になるのは理不尽だとあの時は思った。しかし、軍隊という組織では、従ったことそのものが罪になることもあるようだ。
戦記では、「軍規は絶対」「敵前逃亡は死刑」「命令違反は厳罰」などと書いているが、実際に軍規がどう運用されるのかは知らなかった。俺には社会経験が足りない。その事実をあらためて噛みしめる。
「卑怯者には、卑怯者にふさわしい報いを与える。それが軍だ。貴官が卑怯者になることが怖いと言ったのは正しい」
クリスチアン少佐が言うように、確かに軍はエル・ファシルで逃げた者に報いを与えた。不名誉除隊に世間からの批判が追い打ちをかけた。
ならば、英雄になった俺はどんな報いを受けるのだろうか? 社会を動かす論理は逃げた俺を排除し、逃げなかった俺を英雄に祭り上げた。祭り上げられた英雄は、祭りが終わったらどこに行くのだろうか? そんなことを思った。
九月一八日にハイネセンポリスに到着した俺は、翌日の一九日一〇時二五分に一等兵から上等兵に昇進し、六時間後の一六時三〇分に上等兵から兵長に昇進した。ヤン・ウェンリーは俺の上等兵昇進と同じ時刻に大尉に昇進し、兵長昇進と同じ時刻に少佐に昇進した。事実上の二階級昇進である。
自由惑星同盟軍では、二階級昇進は功績著しい戦死者のみに認められる。生きている者は大きな功績を立てても一度に一階級しか昇進できない。だから、こんなまどろっこしいことをした。
エル・ファシル脱出作戦に参加した軍人四万人は、全員一階級昇進した。これも異例の措置ではあるが、事実上の二階級昇進を果たした俺とヤンはさらに特別扱いされているのだ。
昇進の翌日には、自由戦士勲章、ハイネセン記念特別勲功大章、共和国栄誉章、国防殊勲章を授与された。いずれも英雄的な行動をした者に授与される勲章。現実の不名誉を埋め合わせて余りあるほどの名誉であった。
特に同盟軍の最高勲章である自由戦士勲章の受勲は、信じられなかった。自由戦士勲章所持者が受けられる特典は、凄まじいの一言に尽きる。年間一万ディナールの終身年金、公共施設の特別席利用権、子弟の士官学校推薦権といった特典が受けられる。元帥や大将であっても、自由戦士勲章所持者と遭遇したら、先に敬礼をしなければならない。
そんな凄い自由戦士勲章が生きた者に授与されることは珍しく、これまでに授与された者のほとんどは、味方を助けるために戦死した者だ。単艦で一〇隻の敵艦を撃破するような怪物でもなければ、生きて自由戦士勲章を授与されることは無い。要するに俺は怪物の域に達していると公式に認められたことになる。どんどん虚像が膨らんでいく。
それから一週間は、記念式典や表彰式に参加してその合間に番組出演やインタビューをこなす過密スケジュールだった。それが一段落すると、合間にやっていた番組出演やインタビューがメインに移り変わる。
「自分は英雄ではありません。脱出船団を指揮なさったヤン少佐、そして船に市民を乗せてシャンプールまで送り届けたすべての乗組員こそ真の英雄です」
「責任とか誇りとか、そういった難しいことは僕にはわかりません。ただ、家族や友人に顔向けできなくなるのが嫌なだけでした」
「好きな女性のタイプですか? 自分を愛してくれる女性なら誰でもいいですよ。選べるような立場でもないですから」
気の利いたことも言えず、勇壮なことも言えない俺は、できる限り真面目に答えることだけを心がけた。あまり面白いことを言ったつもりは無かったのに、俺の発言は好意をもって受け入れられた。どうやら世間は英雄に機知よりも誠意を期待していたらしい。
軍服を着た俺の笑顔が雑誌の表紙を飾り、街には俺の写真を使ったポスターがあふれた。俺という人間はさっぱり変わっていない。内面は卑屈なままだし、容姿も六〇年前に逃げた時と変わらず冴えないままだ。それなのに何を言っても英雄らしく聞こえ、何をしても英雄らしく見える。俺という人間が「英雄エリヤ・フィリップス」という巨大な虚像に飲み込まれつつある気がした。
「またバラエティですか。やはり芸能人みたいですね」
バラエティ番組の予定が入ったスケジュール表を見て、軽くため息をついた。
「これも任務だ。芸能活動のような浮ついたものではないぞ」
クリスチアン少佐は渋い顔になった。
「その浮ついたことをしたくないんですよ。人に見られるの苦手なんです。自分の姿がメディアを通じて大勢の人に見られるなんて、想像するだけでぞっとします」
「意外だな」
「えっ?」
「貴官は人目を引く振る舞いが板についている。見られるのに慣れているとばかり思っていた」
俺は無言で首を横に振った。白い目で見られることには慣れているが、好奇の目で見られることには慣れていない。しかし、ガチガチの軍人であるクリスチアン少佐にそんなことを言っても仕方がないだろう。話が通じるとは思えなかった。
「考慮しよう」
怒声で返されると思ったのに、クリスチアン少佐は頷いてスケジュール表をしまった。
それからメディアへの出演予定が少し減った。落ち着いた番組への出演が中心になり、ウケ狙いの記事を書こうとする軽薄な記者は来なくなった。パーティーへの出席もパタリとなくなった。
「それはクリスチアン少佐が頑張ってるおかげですよ」
ラーニー・ガウリ地上軍軍曹が俺の髪をセットしながら言う。二〇代後半の彼女は、国防委員会広報課所属のヘアメイクだった。今の俺には、なんと担当のヘアメイクまで付いているのである。
「その点、ヤン少佐はついてないな。担当のグッドウィン大尉が張り切って、ぎっしりスケジュールを詰めこんでる。昨日なんてセクシータレントがドッキリ仕掛ける番組まで出てただろ? 飯を食う暇もないんじゃないか?」
小奇麗なおじさんと言った感じのトニオ・ルシエンデス地上軍曹長が口を挟む。彼は俺の担当カメラマンだった。軍の広告に使われる写真を手がけていて、軍服を着た人を格好良く撮ることにかけては右に出る者はないのだそうだ。
「軍の広報の仕事では、食事と睡眠の時間は必ず確保する決まりじゃないんですか?」
出演が減る前から食事と睡眠の時間は長めに取られていた。クリスチアン少佐には、「そういう決まりだ」と説明されていて、軍の配慮に感心させられたものだ。
「まさか。普通はスケジュールぎっしり詰め込むよ。食事時間は移動時間。少ない睡眠時間を移動中に寝て補う。旬のうちに出せるだけ出そうと思うのは、軍も民間も同じだ」
ルシエンデス曹長はあっさり否定した。彼は一〇年以上広報にいるベテラン。クリスチアン少佐は空挺部隊から広報に異動したばかり。どちらが正しいかは言うまでもない。
「少佐は部下の待遇改善には熱心な方ですからね。『部隊は我が家。上官は我が親。同僚は我が兄弟。部下は我が子』という言葉を、自分の部隊の標語にしていたそうですし」
ガウリ軍曹の言葉は意外だった。ちゃんと話したのは初対面の時だけだけど、「良い待遇を求めるなど甘え」と言いそうなイメージがあった。
「あの人は軍隊を本気で我が家だと思ってるんだろうなあ。初対面の時に『宿舎のシャワーから熱湯が出るようにしたのが一番誇れる仕事だ』と言っていた。銀色五稜星勲章を二つ持ってる方がよほど自慢できると思うんだが。兵隊やったことがない俺には、わからない心理だよ」
「変わった人ですよね」
苦笑するルシエンデス曹長にガウリ軍曹が頷く。純粋な軍人ではないこの二人と、軍人以外の職業が想像できないクリスチアン少佐は、相性が悪そうだと思ってた。それなのにけっこう好意的なようだ。
俺はクリスチアン少佐の脳内イメージを「意味不明で怖い人」から、「意味不明で怖いけど悪い人じゃない」に修正することにした。
「そういえば、『フィリップスをもっと出せって苦情が多い』と、課長がぼやいてたな。なにせ、年寄りと女性の心をがっちり掴んでる」
「ヤン少佐はハンサムだけど、コメントつまらないから人気ないんですよね。わざと話の腰を折ろうとする時もあるでしょう? フィリップスくんみたいに、忠君愛国っぽいコメントをしたら人気も出るのに。もったいないですよね」
「偉いさんは明らかにフィリップス兵長を売り出したがってるからなあ。そんな中で出演を減らそうと頑張ってるクリスチアン少佐も大変だと思うわ。おとといは国防委員のパーティーの招待を断ったとかで課長に呼び出されてたな。あの国防委員、なんて名前だったか? ほら、最近売り出し中の若手で、俳優みたいな男前だ。顔は浮かんでくるのに、名前が思い出せねえな」
ルシエンデス曹長は自慢の口ひげをひねりながら、国防委員の名前を思い出そうとする。
「男前といえば、兵站担当国防委員のトリューニヒトさんじゃないですか?」
「それだ、トリューニヒトだ。爽やかなイメージが売りのくせに、案外根に持つタイプなんだなあって思ったわ」
やれやれといった感じでルシエンデス曹長は両手を広げる。彼はどうやらトリューニヒト委員に好意的でないらしい。男前同士、対抗意識でも感じているのだろうか?
俺は素知らぬふりをして、右手でマドレーヌをつかみ、左手を添えて両手持ちで口に運ぶ。それを見付けたガウリ軍曹が「ハムスターみたいでかわいい」と言い、俺は「パラディオンでは、いかつい大男だってみんなこうしてますよ」と答える。いつものやり取りである。
それにしても、あのヨブ・トリューニヒトの名前をこんなところで聞くとは思わなかった。この政治家は俺が帰国した時の最高評議会議長で、爽やかなイメージを売りにフィーバーを巻き起こした。しかし、政治家としてはまったくの無能で、事あるごとに天才ヤン・ウェンリーの足を引っ張り、反動勢力「銀河帝国正統政府」を支援して帝国の改革政権と対話する道を自ら閉じ、本土決戦に際しては雲隠れしたあげくに最後はヤンが戦ってる間に降伏してしまった。どうしようもないの一言に尽きる。
俺が読んだ伝記や戦記は、ユリアン・ミンツやダスティ・アッテンボローといったヤンの支持者が残した記録に基づく。そういった本の中では、ヤンの政敵だったトリューニヒトは、「保身の天才」「エゴイズムの怪物」と呼ばれ、民主主義を食い潰した邪悪の権化とされた。トリューニヒトがローエングラム朝を立憲政治に移行させようと工作を進めていたという説、反帝国勢力の地球教団と組んで良からぬ企みをしていたという説を紹介する本もある。
だが、同じ時代に生きた俺には、トリューニヒトがそんな化け物じみた存在とは思えない。人気取りはうまかっただろうが、政治家としてはまったく結果を残さなかった。戦争指導に失敗し、帝国に仕官した後もさほど重用されず、最後は反乱に巻き込まれて犬死にした。トリューニヒト派の残党は、新領土総督ロイエンタール元帥がデモンストレーションとして旧同盟の贈収賄事件を摘発した際に、ことごとく処分された。ジョアン・レベロはその死後も支持者が表舞台で活躍したが、トリューニヒトはバーラト自治区発足以降の歴史にまったく影響していない。
俺も含めた同時代人の一般的な評価は、「ただの無能」といったところであろう。むろん、結果論なのは承知の上だ。しかし、ヤンやミンツもトリューニヒトとの距離においては、俺達一般人と大差がなく、少ない情報から推測しているという点ではさほど変わりがない。英雄の残した記録は面白いが、俺がこの目で見た狭い範囲では、トリューニヒトや地球教団に関する記述のようにあてにならないものもある。そんな記述を目にすると、偉大な英雄も手持ちの情報の限界を超えられないことがわかるし、その限界にもかかわらずあれだけの業績を残したから偉大なのだ。
英雄論はともかく、六〇年後の視点からは無能なだけのトリューニヒトも、今の時点ではヤンよりずっと大物である。なにせ現職の下院議員で、同盟軍の兵站関連政策を取り仕切る兵站担当国防委員の要職に就いているのだから。
クリスチアン少佐はそんな大物の怒りを恐れずに、俺を擁護してくれた。脳内イメージを「意味不明で怖いけど、悪い人じゃない」から、「意味不明で怖いけど、良い人かもしれない」にこっそり修正した。