八〇一年一一月九日午前八時三〇分、大敗した市民軍はボーナム総合防災公園家族広場に逃げ込んだ。武器を持つ者は五人に一人もいない。粗末なバリケードが唯一の守りである。再建会議軍の精鋭が水も漏らさぬ包囲網を敷いた。唯一の頼みは第七陸戦遠征軍だが、到着まで持ちこたえる見込みは薄い。敗北は目前に迫っていた。
それから三年が過ぎた。市民軍が逆転勝利を収めた同じ日、同じ場所において、クーデター鎮圧三周年記念式典が開催された。元市民軍隊員や戦没者遺族など二〇万人がひしめく会場の中でも、俺はとりわけ目立つ場所に席を与えられた。
市民軍で特に目立った連中が座る席は、ゼッフル粒子が充満した密室のような様相を呈している。彼らの忠誠心は本物であった。統一正義党に「市民軍を抜けなければ除名する」と言われた者は、一人残らず市民軍を選んだ。忠誠心はあるが協調性はない。
「勘弁してくれ」
うんざりした俺だが、止めるつもりもなかった。彼らへの期待値は果てしなく低い。声や手を出さないなら、それで良しとしよう。三年前と比べればはるかにましだ。
英雄たちの席から少し離れた場所に、海外からの招待客が座っている。フェザーン政財界の要人がこの種の式典に出席することは珍しくない。ルビンスキー自治領主本人の出席は、珍しいものの十分にあり得る。ゴールデンバウム朝の帝位請求者は、貴賓席に座るのが仕事のようなものだ。しかし、旧世界諸国の元首の存在は目を引いた。
帝国の自治領は二種類に分類できる。一つは非ゲルマン系住民を押し込めるために作られた事実上の流刑地、一つは距離やコストの問題から放置された小国である。旧世界の自治領は後者に属する。
「ロンドリーナ王」
「ジュピター連邦大統領」
「マーキュリー大公」
「アエネアス共和国総統」
このような肩書きを名乗る旧世界の元首は、特別な存在に見えるかもしれない。だが、その内実は「しょぼい」の一言に尽きる。政治的にも経済的にもまったくの無力なので、臣下にあるまじき肩書きを名乗っても放置された。
元首を名乗るのもおこがましい連中でも、自治領主が一五人も集まったことは事実である。同盟史上、これほど多くの帝国要人を呼び寄せた例はない。しかも、教科書に名前が登場する国々の元首なのだ。出国許可を取り付けるにあたっては、フェザーンを動かしたという。トリューニヒト政権の親フェザーン外交が実を結んだ形だ。
「…………」
俺の全身が凍り付いた。右側から吹いてくる寒風は激しくなる一方だ。意識を逸らす努力は失敗に終わった。許されるものなら逃げ出したい。
絶対零度のブリザードは人間の形をしており、ヤン・ウェンリーという名前を持っていた。目深にかぶったベレー帽と長い前髪が、度の入っていない眼鏡に重なり、顔の上半分を覆い隠す。真一文字に結ばれた口はすべてを拒絶する。顔はまっすぐ正面を向き、いささかの揺らぎも感じられない。固く組まれた両手と両足は絶対障壁だ。
ヤン元帥が不機嫌な理由は考えるまでもない。この式典はトリューニヒト議長のための政治ショーだ。くだらぬ権力争いに巻き込んだ張本人が右側に座り、愛国者や軍国主義者が周囲を取り巻いている。何から何まで気に入らないという心境だろう。
俺は顔も目も動かさず、意識だけをヤン元帥に向けた。彼がここにいる理由がわからない。イゼルローン無血攻略の立役者として招待されているのだが、断ろうと思えば断れたはずだ。第九次イゼルローン攻防戦以降、トリューニヒト政権は彼を腫れ物に触るように扱っている。なぜ、
出たくもない式典に出席したのか。ハイネセンに行かねばならない理由があったのだろうか。
壇上ではヨブ・トリューニヒト議長が弁舌を振るった。美辞麗句の豪雨が犠牲者に降り注ぐ。きらびやかな賛辞が市民軍を輝かせる。絶対正義の鞭が民主政治再建会議を打ちのめす。朗々たる美声が大義を謳い上げる。
「つまらないな」
俺は拍手しながら呟いた。トリューニヒト議長の演説を聞いたのに、何も感じなかった。沸騰するような興奮もなく、痺れるような歓喜もない。悪い演説ではなかった。上品ではないが、アジテーションとしてはよくできている。話術は相変わらず素晴らしい。しかし、心に響くものがないのである。
他の人もそう思っているらしく、大きいが心のこもっていない拍手が鳴り響いた。素晴らしい原稿を用意しても、素晴らしい話術を駆使しても、それだけで人を動かすことはできない。
トリューニヒト議長が下がり、ヤン・ウェンリー元帥が壇上にのぼった。無難だが退屈な文章を適当に棒読みする。何かを伝えようという意欲は感じられない。持ち時間の一八〇秒を漫然と消化しただけだ。それでも、聴衆は熱烈な拍手を送った。
俺はヤン元帥と入れかわるように登壇した。聴衆二〇万人の目を正面から見据える。「同盟市民」や「市民軍」という曖昧なものではなく、この場にいる一人一人に向けて話す。市民軍司令官が語るべきことはただ一つ、「ウィー・アー・ユナイテッド」だ。一八〇秒で語りつくせるものではないが、それでも語らねばならない。
演説を終えた瞬間、二〇万人が沸騰した。怒涛のような拍手が会場を覆いつくす。「ウィー・アー・ユナイテッド!」の叫びが空高く鳴り響く。
俺は笑顔で手を振ったが、内心は不安に満ちていた。自分は彼らの期待に応えられるのだろうか? 彼らはいつまで自分を信じてくれるのだろうか? そう思うと、無邪気に喜べないのである。
二人の人物が視界に現れた。緋色の法衣を着た老人は地球教総大主教シャルル二四世、黒い軍服を着た少女は黒旗軍(BFF)総帥シャナズ四世である。俺は軽い戸惑いを覚えた。一緒に登壇するつもりなのだろうか? 次がシャルル二四世、次の次がシャナズ四世という順番ではなかったのか? プログラムにはそう書いてあったはずだ。
司会者が駆けよってきて、「二人一緒です。早く下りてください」とささやいた。サプライズらしい。
トリューニヒト議長はうまいところに目を付けた。「地球の下の平等」を掲げる地球教は、反地球至上主義という点でシリウスと一致する。地球教を信仰するシリウス人は少なくない。現在の総大主教シャルル二四世ことヴァリオ・パルムグレンは、ラグラン出身で、地球統一政府(GG)を倒したカーレ・パルムグレンの子孫を称している。地球教総大主教と黒旗軍総帥のツーショットは、実現するのがたやすく、しかもインパクトが大きい。
二人が壇上に現れると、大きなどよめきが起きた。大抵の人は、地球教の名前を見ただけで理解したつもりになり、中身を調べようとしない。だから、地球教総大主教と黒旗軍総帥が一緒にいるだけで仰天する。
「驚かれましたか?」
シャルル二四世が穏やかに微笑んだ。どよめきがぴたりと止まる。
「地球とシリウスは不倶戴天の敵。そう思っていらっしゃるのではありませんか?」
シャナズ四世の透き通った声が響き渡った。
「大きな誤解です。人類はみな地球の子。シリウス人もまた地球の子です。同じ親から生まれた子同士が憎しみ合う道理はありません。ラグラン生まれで聖パルムグレンの血を引く私が、地球代表を務めています。大地神テラの前では、地球人もシリウス人も子供として等しく愛されるのです」
「フランクール公はおっしゃいました。『子供から労働の成果をとりあげて贅沢をし、抗議すればなぐりつけるような母親がいまさら何の権利を主張するか』と。人類はみな地球の子。GGのえこひいきが親子の絆を壊しました」
「聖フランクールのお言葉こそ真理であります。人類はすべて地球の子。地球人もシリウス人も等しく愛さねばなりません。GGは地球人のみを愛した。神罰を被るのは当然です」
「シリウスの敵はGGであって、地球ではありません」
「地球はシリウスを恨んでおりません。恨むべきはGGです」
二人の演説はなおも続いた。ウィー・アー・ユナイテッド、地球の下の平等、黒旗軍精神が同じものだと語る。市民軍に参加した者に再建会議を赦すよう求める。再建会議に参加した者に市民軍を赦すよう求める。同盟社会の分断を憂い、和解を訴える。
「ジョリオ・フランクールの継承者、ナスリーズ・バフラーミーの末裔、シリウス及びロンドリーナの大元帥、シリウス連邦議長、ロンドリーナの王、黒旗軍総帥シャナズ・バフラーミーの名において宣言します。地球は我らの親であり友である、と」
「使徒アンリの継承者、全銀河の総大主教、太陽系及び地球の総大主教、アジア大主教、チベット主教、地球自治政府主席、大地神テラの召使いシャルルの名において宣言します。シリウスは我らの子であり友である、と」
「銀河は一つ、人類は一つ! ウィー・アー・ユナイテッド!」
シャルル二四世とシャナズ四世が叫んだ瞬間、熱風が渦巻いた。割れんばかりの拍手が巻き起こる。「ウィー・アー・ユナイテッド!」の叫びが会場を席巻した。
「ウィー・アー・ユナイテッド!」
俺は周囲に合わせつつ、壇上を眺めた。地球教総大主教が日の当たる場所に登場し、スピーチを行う。前の世界では考えられないことだった。この世界においても、数年前なら実現しなかったはずだ。
「ウィー・アー・ユナイテッド!」
群衆が繰り返し叫んだ。なんと空しい響きだろうか。この会場には市民軍を支持する者しかいない。統一正義党はボイコットした。反戦・反独裁市民会議(AACF)は、ハイネセン記念スタジアムに集った反戦派がクーデターを鎮圧したと主張し、独自の記念式典を開いた。団結を強調すればするほど、断絶が浮き彫りになる。
一八時、最高評議会ビル別館において夕食会が開かれた。政治家、軍人、官僚、財界人など五〇〇〇人が参加した。
「帰りたい……」
俺は獅子に囲まれたネズミの心境であった。右を向いたらヤン・ウェンリー元帥、左を向いたらフェザーンのアドリアン・ルビンスキー自治領主、正面を向いたらヨブ・トリューニヒト議長がいる。トリューニヒト議長の右隣にシャルル二四世、左隣にはシャナズ四世が座る。恐れ多すぎて心臓が止まりそうだ。
「この料理はチキンの唐揚げと言ってね。レモンの汁をかけるとうまいんだ」
トリューニヒト議長は俺の皿の上でレモンを絞り、唐揚げに果汁をかけた。
「食べてごらん」
「はい」
俺は唐揚げを頬張った。最高評議会議長、フェザーン自治領主、地球教総大主教、黒旗軍総帥がこちらを注視する。不敗の魔術師はつまらなさそうな目を向けた。こんな状況で味を感じるはずもない。
「どうだね?」
「おいしいです」
「自由の味だからね。うまくないはずがない」
トリューニヒト議長は誇らしげに言った。「唐揚げにレモンをかける国」は、自由な国を意味する慣用句である。
「唐揚げにレモンをかける自由。何にも代えがたいものだと思います」
「帝国は好きな味を楽しむことすら許さない。その一点において、私は独裁を否定できる」
「唐揚げにレモンをかける国に生まれた幸運に感謝したいです」
台本通りの発言だが、本音でもあった。
「やってみるかい?」
トリューニヒト議長はにっこり微笑み、輪切りのレモンを差し出す。
「かしこまりました」
俺はレモンを手に取り、皮の部分を下にして絞る。果実がぐちゃりと潰れた。
「フィリップス提督、強く絞りすぎだ」
「申し訳ありません」
「しょうがないな。私が絞ってあげよう」
トリューニヒト議長は苦笑しつつレモンを絞った。世話焼きの父親が不器用な子供の面倒を見ているといった感じだ。
「ありがとうございます」
俺は作り笑いしながら、唐揚げを口に入れた。強張る顔を必死で緩めた。おいしそうに食べているように見せかける。
ルビンスキー自治領主、シャルル二四世、シャナズ四世が次々と話しかけてくる。ヤン元帥が何を言われてもそっけない返事しかしないため、愛想のいい俺が相手をすることになった。最高評議会議長と同じテーブルに座り、外国の貴人と会話を交わす。名誉であることは疑いない。だが、小心者には重すぎる名誉であった。
食事と会話を一通り済ませたところで、トリューニヒト議長が立ち上がった。ルビンスキー自治領主らも席を立つ。見せるための食卓は終わった。これからが本番である。
要人たちは人の海を泳ぐように歩きまわった。知っている顔を見つけては声をかける。知らない顔を見つけたら挨拶し、名刺を交換する。腰を据えて話し込む者もいる。「宴会政治」は帝国貴族の専有物ではない。同盟でもパーティーは政治の場なのだ。
「最初の挨拶はどうなさいますか?」
プラチナブロンドの美人が耳元でささやいた。副官二人をシャンプールに置いてきたので、シェリル・コレット少将が副官役を務める。
「誰だっていいじゃん」
可愛い赤毛の女性が投げやりに言い放った。妹であるアルマ・フィリップス中将の本音は、手に取るようにわかる。挨拶などせず、自分ひとりに構ってほしいのだろう。
「良くないっすよー」
茶髪の男性が甘ったるいマスクにへらへらした笑いを浮かべた。エリオット・カプラン准将は何も考えていないように見えて、本当に何も考えていない。だが、良い家の生まれなので、挨拶の重要性を理解している。
「あっちだ」
そう言って俺は歩き出した。妹、コレット少将、カプラン准将の三人が後からついてくる。妹が来れば、アマラ・ムルティ少将が来ないはずはない。コレット少将がいる場所に、ファジル・キサ少将がいるのはいつものことだ。
五〇〇〇人の視線がこちらに集中した。エリヤ・フィリップスが誰に最初に挨拶するかを注視している。
「ご無沙汰しております」
俺は統合作戦本部本部長アレクサンドル・ビュコック元帥に声をかけた。最も強い者ではなく、最も親しい者ではなく、最も自分を嫌う者こそ最初に挨拶すべき相手だった。
「元気そうで何よりだ」
ビュコック元帥は最低限の礼節をもって応じたが、その声には嫌悪がにじみ出ていた。挨拶されるだけでも不快なのだろう。反骨の老将は小物を許容できない。
会話を続ける余地がなかったので、俺は逃げるように退散した。受け入れられるかどうかは重要ではない。仲が悪くても挨拶する。何度はねのけられても、手を差し出し続ける。自分を嫌う者に対しても門戸を開き続ける。その姿勢を示すことが重要なのだ。
「失礼な爺だね」
背後では妹が憤慨している。自分の敵に対しては寛大な彼女だが、兄の敵に対しては容赦しない。かつて尊敬していたビュコック元帥も、今はゴミクズ以下である。
「さすがです」
コレット少将はうっとりした目で俺を見た。彼女は俺の敵を絶対に許さない。だが、俺に「許せ」と命じられたら絶対に許す。そして、「敵をお許しになったフィリップス提督の度量」に感動する。
他の三人は何の反応も示さなかった。カプラン准将は良く言えば鷹揚、悪く言えば適当であった。ムルティ少将とキサ少将は、俺のことなどどうでもいい。
最も嫌いな者に対しても挨拶を欠かすことはない。俺は特殊作戦総軍司令官オム・クリシュナーマ上級大将に歩み寄った。視界に入るだけで嫌な気分になる。顔を見るだけでむしずが走る。声を聞くだけで吐き気がする。それでも笑顔で接するのだ。
「おおっとぉ! てがすべったぁ!」
クリシュナーマは右手に持ったコップの中身を俺に向かってぶちまけた。
「おおっ! そんなところにおったんか! ちっこすぎてみえんかったわ!」
「…………」
俺は何も言わずに苦笑いした。笑うしかなかった。六一歳の上級大将がこんな馬鹿げた嫌がらせをしてくる。ただの上級大将ではない。「ミスター地上軍」「七七〇年代最高の英雄」と称された英雄なのだ。あのオフレッサーと三度戦って生き残った唯一の戦士なのだ。二三八センチの長身、はち切れんばかりの筋肉という立派な体の持ち主なのだ。笑うしかないではないか。
「びびっとるんか!? こわがらんでもええんじゃぞ!? わしゃあ、おとなじゃからの! がきにはやさしいんじゃ!」
「武神の如き」と形容されるクリシュナーマの厳めしい顔に、にやけた笑みが浮かんだ。自称ヤン派の上級大将や大将が同調するように笑った。俺を嘲笑しつつ、ヤン元帥とビュコック元帥をちらちら見るところが嫌らしい。
こいつらは内輪しか見えないのだろう。自分たちのノリが、ヤン・ウェンリーとアレクサンドル・ビュコックにも通用すると思っている。
馬鹿馬鹿しくなった俺は足早に立ち去った。激発しかけた妹とコレット少将を制止し、自称ヤン派から距離をとった。市民軍が気づいたら、会場を二分する騒ぎに発展しかねない。この会場には海外要人や民間人が大勢いる。恥をかくのは俺でもクリシュナーマでもなく、主催者のトリューニヒト議長だ。
自ら挨拶に来る人もいた。小物を自認する俺だが、次期統合作戦本部長の最有力候補である。政界に転じるとの噂も流れている。好き嫌いは別として無視できない。
「八年ぶりですなあ」
にこやかに笑う地球教総書記代理エマニュエル・ド=ヴィリエ大主教は、相変わらずビジネスマンにしか見えなかった。
「月日が経つのは早いですね」
「まったくです。俺もすっかり老けました」
「御冗談を。しわ一つないではありませんか。うらやましい」
「見た目だけですよ。中身はボロボロです」
「私は外見もボロボロですよ」
「疲れていらっしゃるのではありませんか?」
俺は無難極まりない答えを返した。高い地位にある人間は大抵の場合、過労気味である。疲労のせいにしておけば間違いない。
「休む暇がないんですよ。朝から晩まで仕事漬け。先月の睡眠時間は八〇時間。一日平均三時間以下です。休みたくても休ませてもらえません」
ド=ヴィリエ大主教は愚痴を言っているように見えて、どこか自慢げである。
「じゃあ、今回の同盟訪問は良い機会ですね。移動中はのんびりできるでしょう?」
「普段と同じです。携帯端末が鳴りやみません。誰も彼もが私の意見を聞きたがる。少しは自分で考えてほしいものですが」
「仕方がないですよ。大主教猊下ほど仕事のできる方はおられませんから」
忙しさをステータスだと考える人種に対しては、こう答えておけばいい。ドーソン上級大将と付き合った経験からそう学んだ。
「仕事ができるというのもつまらんものです。息抜きする暇もない。六年前に新調したウェットスーツ、まだ一度も着ていないのですよ」
「大主教猊下の趣味はダイビングでしたね」
妹と部下がうんざりしつつあることに気づいた俺は、さりげなく話題を変えた。
「ええ。澄み切った海。雑音のない空間。無邪気な魚たち。やみつきになります。地球が失ったものですから」
「どんなきっかけで始められたのですか?」
「故郷のドウトンボリにはこんな言い伝えがあります。『古のドウトンボリはダイビングの名所として栄えた。ドウトンボリダイブはジャパン人ダイバーの夢であった』と。しかし、ドウトンボリには海などありません」
「ダイビングの名所なのに海がない。気になりますね」
「一三日戦争の影響だと言われています。ジャパンは核の被害が大きかった地域ですので」
「失われた海ドウトンボリですか……」
俺はかみしめるように呟いた。失われた海ドウトンボリ。なんと甘美な響きであろうか。九六年生きた俺ですらそう感じるのだ。ありし日のド=ヴィリエ少年がどう思ったかは、想像に難くない。
「一五年前、宣教師としてローエングラムに赴いた時、海を見ました。美しい海でした。ドウトンボリはこんな海だったのだと悟りました。それがダイビングを始めたきっかけです」
「ロマンチックですね」
「いずれ、ロマンは現実になります。地球は真の姿を取り戻すでしょう。ドウトンボリの海は甦るでしょう。大地神テラがそうお定めになったのです」
そう語るド=ヴィリエ大主教には熱がなかった。あらかじめ用意した模範解答を口にしただけに見えた。ドウトンボリの話は事実かもしれない。だが、彼がその頃の気持ちを失ったことは明白であった。
立ち去る彼の背中を見送りつつ、俺は内心でため息をついた。どこまでも底の浅い人だ。小物ですら見透かせる程度の器量しかない。宗教家が「俺は冷静だ。狂信者とは違う」なんて態度を取ったら、反感を買うに決まっているではないか。心の中でどう思っていたとしても、表に出した時点でアウトだ。肩書きから「代理」が取れないのも納得できる。
「油断ならない人ですね」
コレット少将が小声で呟いた。
「なぜそう思った?」
「必要以上に自分を小さく見せようとしています。どんな目的があるにせよ、手札を隠そうとする人間は危険です」
「君たちの意見は?」
俺は他の者たちの顔を見回した。
「二重のトラップだね。ロマンを長々と語り、最後にそれを馬鹿にするかのような顔をする。本音を隠しているけど隠せないという感じで。そんで、底が見えたと錯覚させる。本当は二重底なんだけどね。将来のための布石だよ。見え透いた底に隠れて、不意打ちを仕掛けるためのね」
妹はコレット少将と同意見だった。回りくどい話し方をするのは、嫌いな奴に同意したと思われたくないからだろう。
「ゲームはとっくに始まっているわけか」
俺は小さく肩をすくめた。
「つまらないゲームです。フィリップス提督の勝利は確定していますから」
何があろうとも俺の勝利を断言するのが、シェリル・コレットという人である。
「やってみないとわからないぞ」
「私にはわかります。フィリップス提督はあえて引っかかったふりをなさいました。あの男に策が成功したと勘違いさせました。しょせんは掌の上です」
コレット少将は目をきらきらさせた。過大評価にもほどがあった。
「いや……」
俺は否定しかけたが、すぐに思い直した。
「負ける気はしないけどね。彼の側には、シェリル・コレットもアルマ・フィリップスもいないから」
自分一人では見抜けなかった策だが、仲間が見抜いてくれた。一対一ならド=ヴィリエ大主教には太刀打ちできない。しかし、総合力なら勝てる。
「やあ、フィリップス提督ではありませんか」
ぎこちなく右手をあげた老人は、オーロラ・グループのクリスト・キューパー会長である。針金が服を着たような痩せっぷりだった。
「お久しぶりです」
俺はとても気まずい気分になった。オーロラ・グループは、新型単座式戦闘艇「チプホ」を開発した会社の親会社である。キューパー会長の体重を削ったのは、俺を筆頭とする反チプホ派なのだ。
「フィリップス提督はお元気そうですな」
「ぼちぼちやっております」
「飯はちゃんと食っておられますかな?」
「朝昼夜の三食は欠かさないようにしております」
「僕はね、飯が喉を通らんのです」
「それはきついですね……」
「嫌味ですかな?」
ぎょろりとした目がこちらを睨む。俺はたじろいだ。
「いえ、そんなつもりはありません」
「医者に叱られましたよ。『死にたいんですか?』と」
「…………」
「だからね、正直に答えました。『死んだほうがましです』と」
キューパー会長は追い詰められていた。チプホが正式採用される見込みは薄い。新兵器採用には莫大な金がかかる。チプホが採用されなければ、開発費を回収できず、巨額の負債だけが残される。
俺は気の毒な気持ちになったが、チプホ採用反対の方針を変えるつもりはなかった。チプホのスペックが素晴らしいことは認める。「一人乗り駆逐艦」という触れ込みは、誇大表現でも何でもない。しかし、単座式戦闘艇の機体は、駆逐艦級の戦闘力を詰め込むには小さすぎた。第九次イゼルローン攻防戦においては、事故死率が戦死率を上回り、三回で出撃中止となった。そんな機体に兵士を乗せるわけにはいかないのだ。
人が俺を見るように、俺も人を見る。誰と話しているか。誰と話さないか。誰に挨拶するか。誰に挨拶しないのか。歩きながらじっくり見極める。
「トリューニヒト派だらけですねー」
カプラン准将が周囲をきょろきょろと見回す。お世辞にも行儀がいいとは言えないが、変な目で見る者はいない。彼のキャラクターなら茶目っ気と受け取られる。
「そうだなあ」
俺は用心深く視線を動かした。右を見ればトリューニヒト派、左を見ればトリューニヒト派、前を見ればトリューニヒト派、後ろを向いたらトリューニヒト派がいる。ひょっとすると、上にも下にもトリューニヒト派がいるかもしれない。
彼らがみんな味方だったら、どんなに心強いことだろう。しかし、現在のトリューニヒト派は「現政権支持」以外の共通項を持たない集団である。トリューニヒト派同士が対立することも珍しくない。自称ヤン派は広い意味でのトリューニヒト派に含まれる。オーロラ・グループは、トリューニヒト議長が新人議員だった頃からのスポンサーだった。
凡人が世俗主義に傾くと俗悪になる。寛容派は節度がまるでなく、ルールを蔑ろにした。彼らに協力を求めると、金品、地位、口利き、違法行為のもみ消し、コンプライアンスに関わる規則の緩和などを見返りとして要求された。
凡人が道徳主義に傾くと潔癖になる。厳格派は禁欲的すぎて妥協できず、むやみに束縛しようとした。彼らに協力を求めると、軍における嗜好品や娯楽の規制、道徳的でない軍人の排除、兵士のプライベートを束縛する規則の制定などを見返りとして要求された。
どちらも付き合いたくない連中だが、無視することもできない。政治は妥協の連続である。嫌な人間と共存することはそれ自体が政治といえる。
道徳をめぐる対立とは別に、親フィリップスと反フィリップス、古参と新参、リベラルと保守と右翼、ハイネセン主義と宗教といった対立もある。当事者ですら状況を把握できない有様だ。
「市民軍もたくさんいるよ」
妹は満面の笑みを浮かべた。子供のように無邪気な笑いだ。
「多けりゃいいってもんじゃないけどね」
俺は会場全体を見渡した。この場においては、市民軍の数はトリューニヒト派に勝るとも劣らない。英雄枠を差し引いてもなお多い。
彼らが一つにまとまっていたら、どんなに心強いことだろう。しかし、市民軍は「ハイネセン市民軍メンバー」以外の共通項を持たない集団である。共通の敵が存在した頃ですら、内輪もめが絶えなかった。
市民軍の内情はトリューニヒト派よりさらに込み入っていた。右翼ポピュリスト、ルドルフ主義者、科学的社会主義者、保守主義者、リベラリスト、中道派、日和見主義者、宗教勢力の寄り合い所帯である。そして、寛容派と厳格派の対立はすべての党派に及んでいる。妹とコレット少将、アラルコン上級大将とエベンス中将、フリスチェンコ大将とセノオ中将のような個人的確執も存在する。
こんな連中が喧嘩しつつも「市民軍」という一つの枠に収まっているのは、俺の努力によるところが大きい。内輪もめが絶えなくても、派閥というには緩すぎても、枠は必要である。同じ枠に収まる者同士は、どんなに憎しみ合っていても、最低限の団結を維持できる。ラインハルトと対決する時、市民軍という巨大な枠は大きな意味を持つだろう。
トリューニヒト派と市民軍を除く派閥は、この会場においては一〇人に一人もいなかった。統一正義党とAACFは出席を拒んだ。この二党以外の反政権勢力は絶対数が少ない。
「あれ?」
俺の視線は会場の片隅にくぎ付けとなった。教育総隊司令官エリック・ムライ上級大将、陸戦隊総監ワルター・フォン・シェーンコップ、第一艦隊司令官フョードル・パトリチェフ大将の三人が、酒を飲みながら会話をかわしている。
「どうしたの?」
妹がいぶかしげに俺を見た。
「ヤン元帥がいない」
「トイレでしょ」
「それもそうだな」
適当な返事を返し、別の方角を見た。そこにいたのは、国防事務総長マーゴ・ベネット元帥、予備役総隊司令官ネイサン・クブルスリー上級大将の二人だった。
「ビュコック元帥も……」
そう言いかけたが、声には出さなかった。ヤン元帥とビュコック元帥が姿を消した。そのことに何らかの意味を見出すのは、軍上層部の中でもごく限られた人間のみである。明日になれば報告が入ってくるだろう。
誰にでも分け隔てなく挨拶し、誰からの挨拶も分け隔てなく受けた。そんな俺の姿を見た人はこう考えるはずだ。「エリヤ・フィリップスは誰とでも話そうとする」と。
あらゆる党派が先鋭化の道を直進していた。A派に挨拶するだけでA派とみなされ、A派の敵から憎まれる。A派の挨拶をはねつければ、A派の敵から絶賛を受ける。誰も彼もが味方しか見ていない。味方を喜ばせるために敵を侮辱する、味方から見捨てられないために敵を侮辱する。こんな社会で話し合いが成立するはずもない。
俺が率いる派閥ですら先鋭化と無縁ではなかった。クリシュナーマや自称ヤン派の如き輩は、あらゆる党派において圧倒的多数を占める。支持者は声を揃えて「敵を侮辱せよ! 話し合いを拒絶せよ!」と叫ぶ。だからこそ、上に立つ者がそれを否定しなければならないのである。
ハイネセンの一日目は無事に終了した。二日目以降は公務はほとんど入っておらず、休暇を楽しむことになっている。むろん、のんびりするわけではない。非公式会談で飛び回る予定だ。
「オリベイラ博士が最初か」
頭の中に、エンリケ・マルチノ・ボルジェス・デ・アランテス・エ・オリベイラ博士の顔が浮かんだ。資料では決してわからないことがある。通信画面からは伝わらないことがある。同盟政界の怪物はどんな人なのだろうか。それを知るために訪ねる。
翌朝、俺は朝の五時三〇分に目を覚ました。筋トレとランニングをこなし、シャワーを浴び、朝食を平らげた。いつもと同じ朝である。
ふと、首席副官ユリエ・ハラボフ大佐のことを思い出した。普段は彼女からもらった余り物を朝食にしている。量の加減がへたくそらしく、一人分の食事を作ろうとすると、三人分や四人分の食事が出来上がるそうだ。食べきれないし、捨てるのももったいないというので、俺が余り物をもらい受けた。俺がいない間は余り物を処分する人がいない。どうしているのだろうか。心配になってくる。
テレビに地球教総大主教シャルル二四世の顔が現れた。これから緊急記者会見を開くらしい。何を話すのだろうか。
フェザーンのルビンスキー自治領主が、シャルル二四世の隣に立った。記者たちが驚きの声をあげる。この世界では地球教とフェザーンの関係は明らかになっていない。驚くのは無理もないことだった。
さらに人が入ってきた。フェザーン一〇大財閥の総帥が二列に分かれ、ルビンスキー自治領主とシャルル二四世の左右に並んだ。
「えっ!? えっ!? えっ!?」
俺は驚き慌てた。展開が全く読めない。前の世界の知識もあてにならない。地球教とルビンスキーが何をしたかったのかは、戦記には記されていなかった。
「銀河の皆様――」
シャルル二四世は人類に向かって語りかけた。
「嘘だろう……」
俺は絶句した。前の世界で八〇年、今の世界で一六年生きた。歴史的事件をいくつも目の当たりにした。自ら歴史を動かしたこともあった。しかし、今回はとびきりだ。
地球教団は地球再生計画『The earth was bluish』を発動した。西暦一九六一年、人類史上初めて宇宙空間に到達したユーリ・ガガーリンは、「The earth was bluish(地球は青かった)」と述べた。それから一六四三年が過ぎた。地球は再び青くなる。期間は三〇年、予算は八〇〇兆フェザーンマルク。人類史上最大のプロジェクトである。
フェザーンの自治領主府と一〇大財閥は、地球再生計画への出資を決定した。理由を問われたルビンスキー自治領主は、「史上最大の儲け話、フェザーンが仕切るのは当然でしょう」と述べた。
「いったいどういうことだ」
俺は部屋の中をぐるぐる歩きながら考えた。このような状況など想定していなかった。どんな影響が生じるのだろうか、ヤン・ウェンリーやラインハルト・フォン・ローエングラムはどう対応するのか。何から何までわからない。
通信端末が鳴り響いた。車が宿舎に到着したという。待たせるわけにはいかない。俺は混乱した精神状態のまま、オリベイラ博士のもとに向かった。