2019/12/06
内戦勃発から8年目に入り、混迷を増すシリア
2019年10月10日、この原稿をちょうど執筆している時にシリア派遣の要請が入った。この前日、トルコ軍がシリア北部への攻撃を開始したからだ。私は現在、海外派遣スタッフとしては一線を退き、「国境なき医師団(MSF)」の日本オフィスに勤めている。そんな私にまで要請が入るというのはよほどの緊急事態だとうかがえた。もし私がこの要請に応じられていたら、シリア派遣は5回目となったのだが、結論からいうと、この時私は出発することができなかった。一旦は仮に引き受けたものの、オフィスでの業務をすぐさま放棄するわけにはいかない。出発を1~2日延ばしているうちに、他にいち早く出発できる看護師が見つかったようだ。
シリアの内戦は、今年で8年目になってしまった。発端は2011年、民衆のデモに対して政権側が銃を向けたことで内戦が始まった。私が初めてシリアに足を踏み入れたのはその翌年である2012年9月、内戦を取材していた日本人ジャーナリストの山本美香さんが殺害された直後だった。現地に入る前のブリーフィングでは、血を流した人々がシリア北部のアレッポやイドリブからMSFの病院に運び込まれていると聞いていたが、活動現場に向かう車窓の眺めからは、この国で戦争が起きているなど、にわかには信じられなかった。視界の果てにそびえる山脈の麓にまで続くいくつもの緩やかな丘と、そこを埋めつくすオリーブの低木と、牛や羊、山羊の群れ。静かでのどかで平和だった。
翌2013年、再びシリアに戻ってきた際、同じ道中の車窓で私が目にした、かつての壮大で美しいオリーブの丘には、おびただしい数のテントと避難してきた人々がひしめき合っていた。続いて、黒地に白い文字の不気味な旗を掲げた集団を目にし、この内戦は数カ月、長くても半年くらいで終わるだろう、という1年前の感覚があまりにも楽観的すぎた、と痛感した。それでもまさか2019年の私が、なおもシリア派遣を要請されているなどとは、この時は考えもしなかった。
2度目の派遣の後も、シリアの状況は好転しなかった。足を運ぶたびに廃墟が増え、避難民の数が膨れ上がり、その人々が着ている洋服がボロボロになり、表情はやつれていく。今回は2017年に私が見た3回目のシリアを綴りたい。
奪還間近のラッカへ
この年は特に国際情勢が荒れていた。こういう時のMSFは忙しくなる。私も激しい内戦下のイエメンから2017年3月に帰国し、6月にイラクのモスルへ向かった。過激派組織「イスラム国(IS)」が2014年から強権支配していたモスルがもうすぐ奪還されるというタイミングだった。ISを壊滅させたい多国籍軍・イラク軍による奪還作戦は、モスル市内にそれまで「人間の盾」として閉じ込められていた多くの一般市民をも巻き添えにした。空から、地上からの攻撃が進むにつれ、市民は空爆や戦闘の隙をみて逃げ出してくる。血を流す彼らの収容に、モスル周辺の各方面で待ち構えていたMSFのチームが対応した。モスルは2017年7月9日に奪還され、次は世界の注目がシリアのラッカに集まった。この地こそ、ISが2014年、勝手に建国宣言をしたイスラム国の「首都」だった。一瞬の間を置くこともなく、多国籍軍はラッカを強権支配していたISへの攻撃と奪還作戦を始め、そして私もラッカへと向かった。
テレビでも、ネットでも、もちろんMSFからのブリーフィングでも情報を手に入れることはできたが、この頃には私はシリア内戦の構図がもうよく分からなくなっていた。2011年当初は政府軍と、民主化を求める反体制派による内戦という単純な図式だったのが、いつからか世界中からやってきた大小様々な勢力が加わり、争いの理由が捻じ曲がっていき、いくつかの勢力が大きくまとまったり、仲間割れをしたり、組織名が変わったり、敵が変わったりなどと目まぐるしい変化を遂げ、そんな中、ISが台頭してきたのだ。
2017年7月に始まったラッカ攻防戦は、ISと多国籍軍・シリア軍による、内戦とは全く別の戦争になっていた。ここに至るまでの構図はイラクのモスルといたって同様だ。ある日突然、ISがラッカを乗っ取り、もともと住んでいた市民を強権支配し始めた。5年が経って、多国籍軍・シリア軍による奪還作戦が始まったわけである。MSFの活動としては、戦闘から逃れる市民を収容するまではモスルの時と同じだったが、ひとつだけ、決定的な違いがあった。ISによってラッカ周辺に埋められた地雷だ。
地雷で封鎖された町
ラッカに閉じ込められていた市民たちは、多国籍軍の空爆が始まった時に、究極の決断を迫られた。ISからも空爆からも逃れて市外に出るには、地雷原を抜けなければならなかったのだ。MSFの病院には、空爆が激しくなるほどに空爆の被害者よりもむしろ、地雷による負傷者の収容が爆発的に増えていった。MSFはセキュリティ上、前線近くには病院を構えず、少し離れた安全な場所に拠点を置いていた。それでもいち早く市民を救出するために、前線の近くには常に救急車を5~6台待機させ、そこから病院に搬送させていた。実際にそれらの救急車は連日、ラッカからの脱出中に地雷を踏んでしまった人々を搬送してきた。
地雷に被弾して運ばれる患者にはある特徴があった。まず、一度に運ばれてくるのは数人から時には10人以上の集団で、メンバーは必ず同じ一族だった。地雷原を抜ける脱出は、家族や親せきぐるみでの決死の覚悟で行うからだ。
さらに私は、もう一つの特徴に気づいた。集団の中には、亡くなってしまうか、両足切断など下半身に重傷を負う者が必ずいたが、同時に必ず軽症の者もいた。そして、重傷者はいつも成人男性ばかりだった。はじめはこのことを疑問に思っていたが、それがみな一家の主だと知った私は、死と隣り合わせになりながら生きている市民たちの壮絶な戦いと、戦争がいかに恐ろしく罪深いものであるかに思い至った。
彼らは地雷原を一列になって脱出する。先頭には一家の主が立ち、女性や子どもは、少し離れて後ろからその足跡をなぞっていく。万が一地雷を踏んでしまった場合、被弾するのは家長一人でなくてはならないからだ。戦火の中、命を張って家族を守ろうとする一家の主の姿がそこにあった。もちろん現実には、犠牲者が先頭だけで済むとは限らない。列の2番目に立つ者も亡くなるか、同じように四肢の切断、内臓の損傷などを負ってしまうことが多い。ただし、列の後方になるにつれて、傷は確実に浅くなる。
声もなく、言葉もなく(シリアの父娘)
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