どうも、タカ先生です。
「ディズニーの闇」なんて過激なタイトルをつけたら、どこかの組織に消されそうですね(汗)
なんて(笑)
――ピンポーン♪
おっと、誰か来たようだ。こんな時間に誰だろう?
(はい、はーい)
ガチャッ
(ハハッ)
(ちょ……あんた、誰ですか?)
グサッ
(ごふっ)
ドサッ
ザッザッザッ――。
その後、タカ先生の姿を見たものはいない……
――というような描写をネットでちらほら見かけます(笑)
ディズニーを少しでも批判すると、「ハハッ」と笑う誰かさんが消しにくるという。
なぜか日本ではディズニー批判はタブー視されていますが(少なくともテレビなどのメディアでは見たことありません)、海外では例えそれがディズニー相手であろうとも、間違っているものは間違っていると人々ははっきりと批判をします。
しかも多くの場合は、ディズニーを愛しているからこそ間違いを正して欲しいと、ファンが批判をしているのです。『ムーラン』の実写化で、9万人もの人がオリジナルにはない白人キャラクターの採用に反対の署名をしたのが、正にそうでしょう。どうでもいいと思う人は、わざわざこんなことをしないで、映画をただ見に行かないだけです。
しかし、一般の人の声がそれほど大きくなかった時代では、映画における表現は100%映画製作会社に委ねられていました。もちろん、アメリカ映画協会(Motion Picture Association of America, MPAA)による規制はありましたが、これはどちらか言うと性的描写や暴力的描写を規制するものです。
PG指定とかR指定とかを聞いたことありませんか?
ちなみに、この映画レイティングの表記を説明すると、以下の通りになります:
G (General Audience) → すべての観客
PG (Parental Guidance) → 親の指導・助言
R (Restricted) →(観覧)制限
NC-17 (No One 17 and Under Admitted/Adults Only) → 17歳以下の観賞を全面的に禁止/大人のみ(18歳以上)
つまり、G指定とは誰でも見れる作品です。
PG指定は、若干暴力シーンなどがあるので、子供に見せるかどうかは親の判断任せます、というものです。
それではR指定とNC-17指定は何が違うのでしょうか? 両方ともいわゆる「18禁」ですよね?
R指定は確かに18禁ですが、実は保護者と同伴なら子供も見に行けるのです。しかし、NC-17は親の同伴であっても、18歳未満は見られません(ちなみに、NC-17指定の映画なんて聞いたことありませんが、どんな映画なんでしょうね?)
ただ、日本ではR指定の映画は18歳以下の鑑賞だけではなく入場も禁止しているようなので、そもそも日本にNC-17という指定がないようです。
あと、国によってはR15+指定というのがあって、これは15歳以下の入場・鑑賞を禁止するものです。つまり、日本では高校生なら見ることができることになります。
――と、まただいぶ脱線してしまいましたね(汗)
とにかく、昔の映画製作会社は、ディズニーを含め、性的描写や暴力的描写には気遣っていましたが、差別的描写には無頓着でした。時には有色人種を面白おかしく描くことによって、comedic relief(喜劇的な息抜き)に使ったり、あるいは白人キャラクターと対峙する悪者として描かれたりしてきました。
それでは過去のディズニー映画における差別的描写を見てきましょう:
『ファンタジア』(1940)
この映画をよく知らない人も、赤いローブと青い帽子をかぶった魔法使いのミッキー・マウスを見たことあるでしょう――あの映画です。
この作品では、ミッキー自体に問題はありません。焦点が当たっているのはその脇役です。
『ファンタジア』に出てくるケンタウルスのサンフラワーは、黒人のケンタウルスです。そして、そのサンフラワーは、白人のケンタウルスの髪を結ったり蹄を磨いたりと、まるで女中扱いです。「黒人は白人の主人につかえなければならない」「黒人は白人の主人につかえることが喜びである」という印象をこのシーンから与えられます。ディズニーもそれを反省したのか、1960年の再リリース版にはサンフラワーを登場させていません。
『ダンボ』(1941)
『ダンボ』に登場するカラスたちは、格好も話し方も当時の黒人を描写していて、空を飛ぼうとするダンボを小バカにしてきます。その姿はまるで街のチンピラです。さらに酷いのが、リーダー格のカラスの名前がJim Crow(カラスのジム)ということです。日本語にすると一見無害な名前ですが、歴史を紐解くとその酷さがわかります。
ジム・クロウ法(Jim Crow Law: 1876~1964)
主に黒人の、一般公共施設の利用を禁止制限した法律を総称していう。しかし、この対象となる人種は、「アフリカ系黒人」だけでなく、「黒人の血が混じっているものはすべて黒人とみなす」という人種差別法の「一滴規定(One-drop rule)」に基づいており、黒人との混血者に対してだけでなく、インディアン、ブラック・インディアン(インディアンと黒人の混血)、黄色人種などの、白人以外の「有色人種」(Colored)も含んでいる。
<Wikipediaより>
『南部の唄(Songs of the South)』(1946)
ディズニーランドの「スプラッシュマウンテン」に乗ったことのある人は、「ジッパ・ディー・ドゥー・ダー、ジッパ・ディー・エイ(Zip-A-Dee-Doo-Dah, Zip-A-Dee-Ay)」という歌を聞いたことがあるかと思います。
あの歌が登場するディズニー映画がこの『南部の唄』です。この映画の存在を知っている人は、日本では余りいないのではないでしょうか? それもそのはずで、ディズニーは1986年以降、一度も公開していなければソフト化もしていません。今でいうディズニーの「黒歴史」ですね。
この物語の舞台はアメリカ南部州の農場で、白人の少年・ジョニーと黒人のリーマスおじさんの触れ合いを描いています。この映画が当時画期的だったのが、実写映画の中で、リーマスおじさんが話すおとぎ話の部分がアニメになっていたことです。なんとアカデミー賞も受賞している作品です。
少年とおじさんの友情に、おとぎ話の世界――あらすじだけを聞いていると、すごく心温まりそうな話に聞こえますよね?しかも、作品には黒人に対する差別的描写が一切含まれていませんでした。それでは、一体何がいけなかったのでしょうか?
問題は白人のジョニー少年と黒人のリーマスおじさんの関係性にあります。
映画の原作は1880年代に出版された小説ですが、当時のアメリカでは白人と黒人が対等に交流することはあり得ませんでした。しかも、リーマスおじさんが働いていたのは、その昔黒人奴隷が強制労働をさせられていた農場です。しかし、この作品は白人と黒人の理想的な主従関係を描いているため、誤った歴史認識を与えかねないと、黒人社会から強く抗議されました。「白人は黒人に対して良い主人だった」、「黒人は白人の主人につかえることが幸せだっんだ」、と。
『ピーターパン』(1953)
この映画ではネイティブアメリカン(インディアン)を赤い顔をした、とても乱暴で頭の悪い連中のように描いています。ウェンディの弟も「こすいやつらだけど頭は悪い」などと、しれっと言っています。
また、劇中には『What Made The Red Man Red(どうして赤い男は赤くなったのか?)』という歌があります。
それは昔々、チーフ(部族の首長)の息子が、可愛い子にキスをして赤面してしまい、以来一族そろって顔が赤くなったそうだ。
日本人からすると、可愛らしい逸話に聞こえるかもしませんが、わかりやすく例えるなら、こんな歌があったらどうでしょう?
What made the Yellow man’s eyes so thin?
(どうして黄色い男の目はそんなに細いんだ?)
What made the Yellow man’s face so flate?
(どうして黄色い男の顔はそんなにぺしゃんこなんだ?)
What made the Yellow man so short?
(どうして黄色い男はそんなに背が低いんだ?)
「黄色い男」は言うまでもなく、黄色人種の日本人およびアジア人です。
どうでしょう? このような歌がディズニー映画にあったら、あなたはどう思いますか?
『わんわん物語(Lady and the Tramp)』(1955)
物語の後半に出てくるシャムネコのシーとアム――この二匹はアジア人のステレオタイプである吊り目、出っ歯、強い訛り、ずる賢くて意地が悪い性格と人種差別のオンパレードです。
さらに、どうやら字幕で見ると、それぞれのキャラクターの発音がアメリカ訛り、イギリス訛り、アジア訛りと表記されているそうです。なので、この双子のシャムネコがアジア人を表しているのは確かでしょう。もちろん、シャムネコはタイ王国原産なので、アジア人として描くのは良いのですが、その描き方が上述したように差別的です。
『ジャングルブック』(1967)
この映画では、なぜかすべての猿のキャラクターは黒人の声優が担当し、また黒人のアクセントで話しています。
さらに罰が悪いことに、オラウータンのキング・ルイは劇中歌でモーグリみたいな「人間になりたい」と歌っています。まるで黒人や有色人種は、人間になりきれていない中途半端な生き物だと言わんばかりですね。
これはただの邪推でしょうか?
そこで『ジャングルブック』の著者であるラドヤード・キップリングの詩、『A White Man’s Burden(白人の重荷/責任)』の一部を見てみましょう。
この歌詞では、白人の入植者たちは理想的な白人社会を離れ、「新しく捕らえた、不機嫌で(new-caught, sullen)」「半分悪魔で半分子供(half devil and half child)」の「捕虜(captives)」に「文明(civilization)」をもたらせてやるんだとうたっています。
ちなみに、ここでうたわれている“野蛮人”はフィリピン人を指しています。
どうでしょう? この詩の存在を知った後でも、『ジャングルブック』の猿たちに、差別的な意図はなかったと言えるでしょうか? そして、当時のディズニーの制作者たちにも、その意図が世襲されていなかったと断言できるでしょうか?
このように過去の長編アニメだけでなく、戦前・戦中のショートフィルムやさらにディズニー社の雇用体制まで語ると、一つの論文が書けるほど、人種差別問題は根強くあります。
しかし、これはディズニーに限ったことではなく、アメリカ社会全体が抱えている社会的、歴史的問題なのです。
今でも黒人や有色人種は差別をされ、無実な人がなんと警察の手によって殺されたりもします。日本では冤罪による逮捕はあっても、無実の人が射殺されることはありません。これもまた重いテーマなので、いつか別の機会で語りましょう。
さて、日本に住んでいると、普段あまり人種差別を意識しないで生活を送っているかと思いますが(決して日本には人種差別がないと言っているわけではございません)、一連のブログエントリーはいかがでしたでしょうか?
来週からはもっと軽いテーマを語りたいと思います。
ベタですが、例えば春についてはどうでしょうか?
それではまた、次回のブログで。