弱者コンテストは経済を活性化しない

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こちらの記事に対して「納税者は生活保護受給者の暮らしに意見する権利がある」といった趣旨の意見が届いた。

貧困問題についてはそれなりの覚悟を持って書いています - 48歳からのセミリタイア日記

 

現状日本の生活保護が「高待遇の福祉」と言えるかどうかはさておき、もちろん生活保護について何らかの意見を持つ権利は誰にでもある。納税していようがいまいが民主主義においてすべての国民は政治に意見する立場にいる。高額納税者生活保護受給者と同じくらい税金の使い道について国に意見していい。言い換えると生活保護受給者には支給金額が不足しているという権利がある。

 

しかし「納税者に感謝しろ」とか「生活保護費の範囲で暮らせ」という権利、また赤の他人の私生活に口出しする権利は誰にもない。一国民として生活保護受給者は高額納税者と完全に対等である。もちろん人権がない人は別ですよ。貴重な税金ですからね、そもそも人権がない人には税金を使う必要はないでしょう。生かしてやりたいほどの魅力がないやつは勝手に死ねと思うとしても仕方がない。しかし生活保護受給者に人権がないと思っているならそれは勘違いである。

 

常識的に考えればわかることだが他人の財布に首を突っ込むのはプライバシーの侵害だ。生活に困窮していると声を上げた生活保護受給者個人に対して「何に使っているのか暮らしぶりを見せろ」「こんな金の使い方は駄目だ」「受給資格を疑う」とおおっぴらに騒ぐ人をよく見かけるが、人の財布に首を突っ込んでいいのは国税局と税理士と家族くらいだ。

 

冒頭の人物は「その金はどこから出ているのか」と書いていた。いうまでもなく税金である。そして税金は国民すべてのものである。国民としての資格を有していれば納税額によらず国に意見する権利がある。国民は納税によって発言権を買っているわけではない。納税しているのだから生活保護受給者の暮らしぶり物申す権利があるというのは幻想だ。生活保護受給者は憐憫をもとめる乞食ではない。

 

たとえば赤の他人でもスポンサーやパトロンなら金の使いみちに口を出す権利はありますよ。株主とかね。条件付きで出資しているわけだからね。しかし納税額を根拠に他人の財布に口出しする権利のある人はいない。生活保護であろうと、医療控除であろうと、障害年金、老齢年金であろうと、受給したものを個人がどう使うかは私的な問題であって他人には口出しする権利ない。

 

生活保護費は医療費同様、国民が互いの命を守るために全員で支えている仕組みである。ある種の病気に罹患した患者を助ける価値があるかどうかを取沙汰した議員がいたが、こうした命の価値の値積もりがどれほど醜悪で傲慢な勘違いなのかは強烈なバックラッシュとともに周知された。しかし生活保護受給者に対してはこうした生き長らえるに値する人物かどうかを審議する資格があると勘違いしている人が大勢いる。

 

「健康で文化的な最低限度の生活」とは何かを議論することはできる。文化的の定義や健康の定義を議論したり生活費の統計を出したりすることもできる。生活保護を支給する条件についても地域格差や経済格差とあわせて考えていく必要がある。

 

しかし受給資格を備えた人物を私生活によって個別にジャッジ権利があると考えるのは最低最悪の思い上がりと言わざるを得ない。自覚があるかないかは別にして、これは命の価値を計る行為だ。

 

ひとり住まいの高齢男性生活保護受給者がデリヘルを利用していることを知った民生委員が「そこは高い」と中洲の大衆店を紹介したという話を聞いたことがある。

 

これが民生委員として適切なのかどうかわからないが、おっさん同士のやりとりとしては人間味のあるエピソードだと思った。高齢の一人暮らしでスキンシップをとる相手をみつけることがどれほど難しいか、それがどれほど寂しいことか、いまのわたしには想像がつく。後年男性は孤独死しているところを件の民生委員の知人に発見された。すぐに見つけてもらえてよかった。死を悼んでくれる人がいて、思い出して笑える話が残ってよかったと思う。

 

生活保護で風俗通いと聞いてゆるせないと思う人もいるだろう。しかし生きていくため切実に必要なものは人によって違う。何が生活必需品で何が贅沢品かを安易に決めることはできない。

 

老齢年金であろうと、障害年金であろうと、受給したお金をどう使うかは個々の自由だ。貧困は選択肢を奪う。貧困からの自由とは限定された選択肢からの自由でもある。すべての国民がこうした自由を手にするために仕組みづくりをしてきたのだ。漫画を買う、孫に小遣いをやる、劇場で映画をみる、デリヘルを呼ぶ。節約生活がしたければすればいい。しかしそれは納税者の顔色をうかがうためであってはならないはずだ。

 

言うまでもなく現状では健康で文化的な最低限度の生活がすべての国民に行き渡っているとはとてもいえない。この現状は変えていかなければならない。そのためにはすでに困窮しているところから取り上げる方法ではなく、あるところから持ってくる方法、集めたものの分配方法を考えるべきだ。

 

これはお涙頂戴のいい子ちゃんなお話ではない。血も涙もない守銭奴として考えたって、何も持たない、消費もしない、ただ生きているだけで納税もしない人より、自由にお金を使える人が増えた方が経済は活性化する。使うお金の出元が稼ぎ出したものであろうと支給されたものであろうと客が増えれば商売はまわる。元公務員の方にはわからないかもしれないが、客商売をすれば客が金を持っている方が景気がよくなることはすぐにわかる*1。金持ちに持たせて与党の花見にまわすだけが能ではない。

 

冒頭の意見をのべた人は「甘んじて乗たれ死ぬ覚悟がある」といった。

 

いまいちばん弱い立場で貧困に喘いでいるのは子供たちと彼らを養う後ろ盾のない母親たち、身寄りのない高齢者だ。すでに生き延びた養うもののない元公務員の中年男性が「貧困を脱したければ働け」「自分には貧困に甘んじる覚悟がある」とうそぶいて何になるだろう。

 

生活保護はね、あたしたちみたいな子供にも年寄りにもシンママにも縁遠くて、困っていることは知っていてもろくにしてやれることがない層、自分のことだけやって生きてればいい層が間接的に人と支えあうためにもあるのよ。保護を受ける人たちを追い出す大義名分を考えるより、自活して元気にそこを抜け出せるような仕組みを作ることを考えようよ。その方が国が、世界が豊かになる。 

*1:冒頭のブロガーは支出を減らしても収入が増えなければ貧困は解消されないということがどうにも解せないようだったが、どんなに節約しても残ったお金が収支を上回ることがないということについて考えてみてはどうか。