心の教科書

人の心の悩みについて。育児、恋愛、働き方など

不登校する子どもには総じて心の居場所が無い

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子どもの不登校問題について、少し話そうかと思う。

学校に子どもが来ない、子どもが学校へ行かない。この悩みは担任の先生であったり子どもを持つ両親の悩みだったりと大人たちの問題としてフォーカスされやすい。

これまでも、数多くのメディアは不登校の子どもに対して「なぜ学校へ行かないのか?」と大人だけでなく時には子どもたちにまで問いかけることを行ってきた。それは学校の授業としてであったり、文字通り不登校の子どもたち数人を集まらせて直接問いかけるなんてこともあった。

予め申しておくが、不登校の子どもに対して「どうして学校に行かないの?」と聞くのはナンセンスである。不登校の子どもの多くは小学生、中学生であるかと思われるが、たった約十五年しか生きていないような方たちが我々大人が納得出来るような答えを示すなどほとんど不可能のことである。

例えば子どもが学校へ登校しないからと、「どうして学校に行かないの?」と聞いて「学校が嫌だから」としか答えないのは目に見える話ではないだろうか?「授業がつまらない」「学校に行く意味がわからない」「勉強したくない」...。

不登校の子どもに対してほとんどの大人たちはその背景に一体何があるのかを探さずなんとか誤魔化したり怒鳴ったりと無理やり連れて行こうとする。子どもをなんだと思っているのだろうか?ペットか奴隷、人形のようにしか思っていないのだろうか。

もしそうなのであれば即刻子どもの目の前で土下座をするべきだ。そこには例え、「子どもから殺された」としても同情の余地がない。子どもであれなんであれ人の尊厳を無視するような方に子どもと関わる資格は無いのだ。

大人たちから人格までも無視するような態度を受けた子どもというのは、ますます居場所が無くなって大人たちを信用しなくなるだろう。

 

目次

 

子どもにとっての学校はまず「友人」と「自分」が必須

不登校になる子どもというのは年齢幅が実に広い。小学生から高校、大学までは当然のことで、「不登校」という言葉だけに限らなければ「出社拒否」をする社会人であったり「登園拒否」をする保育園、幼稚園の子どもだったりと学校だけに範囲を狭めること自体が的外れのようだったりする。

今回の記事では主に小学生、さらにその下の保育園、幼稚園に通う子どもの不登校、登園拒否についてフォーカスしていこうかと思う。まず小学生以下の子どもの特徴は「言葉がまだ未熟」「行動に責任が伴っていない」所が挙げられる。

この点に関してはこれから身に付けていくものなので、別に出来ていないからと子どもを責め立てる必要性は全く無い。むしろ我々大人がそのような子どもたちに対して正しい態度を教え示したり言葉の出ない子どもの代わりに大人が言葉を引き出していくことの方がよっぽど重要であるかと思われる。

小学生の不登校モデルとして、世間を賑わせた某小学生YouTuberがいる。その子どもについて勝手にこちらの方であれこれ述べるのはどうかと私は感じるのでかの有名なトーマス・エジソンのエピソードを取り入れようかと思う。

今では我々にとって当たり前になっている電話や電球もエジソンが居なければ時代はもっと遅れていたかもしれない。エジソンは小学校に入学していた時、教師から「腐れ脳みそ」と罵倒されたことがあった。

もしこのような発言を子どもに対して、現代で行うような方がいるのであればそれは一発で担任から解雇されるかと思われる。エジソンはそれでもめげずに質問を繰り返したのだが、ついには校長先生にまで見放されエジソンは学校を辞めることになる。

この話であればまず学校がエジソンという子どもを追い出したことになるだろう。今の日本では子どもを追い出すような所は無い。むしろ「学校に来い!」と言うのが今の教育現場なのだから実におもしろく感じる。

学校を辞めたエジソンは孤独になってしまったのだが、そのようなエジソンに寄り添ったのは母親の存在であった。エジソンの母は学校の代わりに徹底的に自身の子どもであるエジソンに対して付き合ってあげた。母親がエジソンにとっての「居場所」になったのである。

これがもし母親がいなかったとしたらどうなるのだろうか?そのような考えを分析する為に私はこのような本を読んだ経験があるので今度はこちらの話をしよう。

母親の存在、遊び(感性)の重要性

ある町の片隅にハンスという少年がいた。ハンスには母親がおらず父親だけがいたのだが、父親は息子であるハンスに対してあまり関心など示さなかった。

そのためハンスは幼い頃から一人の趣味に没頭するようになった。川で魚を釣ったり、ウサギ小屋で飼育を楽しんでいたハンスであったが今度は町の期待から「牧師になるように」と勉強を勧められることとなる。ハンスには母親がいなかったのでそれに従うことになるのだが、度重なる勉強漬けに趣味である釣りをやめるようになりウサギ小屋は勉強によるストレスから、斧で跡形もなく破壊してしまった。

そしてついに牧師になるための神学校に入学するのだが、同じ友人たちと接する内に自らの生き方に疑問を持つようになる。始めはトップクラスの成績を収めていたハンスも徐々に成績が落ち始め、見かねた校長先生はハンスを呼び出し「君の友人とは縁を切りなさい。さもなければ『車輪の下』になってしまうぞ。」と伝えた。

しかしハンスは友人を見捨てることが出来なかったのでこれを拒否。ハンスと親しかった友人は問題児として退学させられ、再び孤独と勉強だけとなったハンスはまもなくして学校を自ら退学することとなる。

この後ハンスは実家に戻り機械工見習いとして就職するのだが、慣れない酒に酔い潰れて川に転落。翌日、遺体として発見されるなど最後まで救いようの無い話でこの本は終わる。

この話は作者であるヘルマン・ヘッセの実体験を元にして作られた。それでもヘッセが死んでいないのは母親が居たか、居なかったかによる差が大きいことを示している。

勘違いして貰うと困る部分にハンスの勉強に対する向き合い方がある。ハンスのような生涯を見て「そっか、じゃあ勉強はほどほどにして遊べば良いんだな。」と思われるかもしれないが、遊ぶということは駄菓子を食うかのように茶々な玩具で時間を潰すことなどでは無い。ましてや

「はーい!じゃあ今から鬼ごっこしまーす!鬼は誰かな〜?」

「はじまるよーはじまるよー。はじまるよったらはじまるよー。」

などと、誰かから頼まれてもいないのに勝手に遊びの内容を与えられるものでも無い(まだ意思のない赤ちゃんに対しては非常に有効だが、赤ちゃんは鬼ごっこなど出来るわけがない)。このような教育は子ども自身の創造性を奪う何よりの「病原体」である。

私はこのような大人の在り方に疑問を感じたので保育士を辞めたのだが、遊ぶということに関してはそこに感性が非常に密接に関わっているのは言うまでもないだろう。

この辺りを勘違いしている方がクリスマスなんかに子どもがすぐに飽き散らかすような、欲しいのか欲しくなかったのかそれすらも曖昧な「高額な粗大ゴミ」を買い与えようとするのである。子どもの遊びに金などかける必要性は全く無いのに、だ。

話のついでに子どもの服装や靴なんかも同様である。最近はそうした母親の自尊心に漬け込む玩具メーカーであったりファッション性をアピールする為にフリルの付いたお姫さまが着るような服、マニキュア、華やかなスカートなど親の自己満足を満たそうとする馬鹿な会社があったりするのだが。

極め付けには子どもの髪まで染めるように促す所もあり、しかも母親も母親でその気になっているものだから揃いも揃って救いようがない。「その無駄な金を少しは子どもの朝ごはんであったり病院、会社を休むための資金などに回したらどうですか?」と言わずにはいられないのである。

子どものことをなんだと思っているのだろうか?ペットか人形と、「自慰の対象」として何か勘違いしているのではないだろうか?

寂しさを埋めるためだけに子どもを産み利用しようとする親はクズ中のクズなのである

子どものイヤイヤは「自分の居場所」の始まり

不登校の話から随分と遠ざかってしまったので話を戻すとしよう。

ここまで私が述べた上で一番言いたいことは、子どもにとって学校はまず「自身の居場所」が必要不可欠ということだ。自分の居場所とはどういうことか分かるだろうか?

子どもが生まれてから、一番始めに子ども自身が「自身の居場所」を意識するのは二歳である。二歳というとある程度、言葉数が増えてきて一語文二語文で親やクラスの子と会話をすることが出来たり自ら歩行して欲しい玩具なんかを取りに向かったり大人たちともかけっこで遊ぶことも出来る。

つまりある程度自由に動けるようになるのだ。そこから子どもの移動範囲は一歳の頃と比べると大分広くなるので大人は子どもに目が行き届くように範囲を制限したり集団を意識した関わりを入れることになる(最も、二歳で集団性というのは全く必要ないものなのだが)。

そして子どもは自身の行動範囲が広がったことをきっかけに自らの力を試そうと一人でなんでもやり始めるようになる。つまりイヤイヤ期の到来だ。

今回の記事は不登校に関する内容なのでイヤイヤ期についての詳しい内容は書かないこととするが、私から言えるのは如何にその子どもだけの時間を与えられるかが重要である、ということだ。

それは親にとっては「待つ」「見守る」ということだろうし子どもにとっては「一人の時間」の始まりでもある。今まであやしにあやしていた時間から「個」の時間へと変わっていくのだ。

ここで子育てに対する考え方がトンチンカンで阿房な大人や親たちはこう思ったりするのである。

「一人で遊ばせるなんてかわいそうだ!」

「お兄ちゃんだから貸してあげなさい。」

「はい、遊ぶ時間はもうお終いです。十分遊んだよね?」

馬鹿か?何を見てまぬけな言葉を発しているのだろうか。一人で遊ぶことが可哀想だと思う人は「一人で遊ぶことすらできない可哀想な人」である。人は誰かと一緒にいることが重要なのではない。一人でも生きていけることがまず大前提として大切なのだ。

このように子育てに関して無知、それどころか「子どものために考えてやっているんです!」などという「害悪中の害悪」は共通して「大人の都合」を押し付けていることが非常に多かったりする。

百歩譲って無知ならまだ分かる。次からは行動を改められる余地があるのだから(それでも子育てを知ろうとも考えようとすらしない怠けた輩がいたりするが)。しかし、都合の良い言葉を使って子どもに「自身の都合」を押し付ける大人は子どもにとって最悪の害悪である。

「朝ご飯作るの面倒だからケーキを食べさせた。」

「子どもがオッパイ飲んでいる間暇だからスマホ触ろう。」

「さっさと眠ってくれないかなー。」

もはや子育て以前に人間性の問題である。一体何をして生きているのだろうか?こんなくだらないことで誰かに相談、悩むくらいなら初めから子どもなど産まなければ、結婚しなければ良かっただろうと言いたくてしょうがない。子どもが成長してから「親を殺したくなってくる」というのも当然であるだろう

不登校以前の問題

二歳の場合、イヤイヤになったらまずその子どもだけの部屋を与える。大きめの風呂敷やビニールシートなんかを敷いてあげる。そして部屋に入る時はスリッパでも脱いで必ず「入っても良いですか?」と聞くのだ。

子どもの「個」も守れないような、「子どもだから良いよね。」などと子ども馬鹿にする大人は子どもを育てる資格は無い。一切関わってもらいたくないものなのだが、親は親なので行動や態度を改める必要が出てくる。

子どもが複数いる場合もそのことを示さなくてはならない。「ここはお姉ちゃんのお部屋ね。入る時は必ずお姉ちゃんに聞くのよ?」と。

ここが甘いと人の玩具を「使っていなかったから。」「どこかに行っちゃったから。」と隙を見てまるで奪うかのように人の目を気にする悲しい心の小さい子どもになってしまう。そしてその子どもが大きくなってケンカになった際にはこう言うのだ。

「お兄ちゃんは遊んでいたのに勝手にどっかにいっちゃうから取られちゃうんでしょ!」

「お姉ちゃんは使っていたのを見て何も聞かないで取っちゃうからいけないんでしょ!」

全く無知もいい加減にして欲しいものだ。自分の都合は棚に上げて子どものことは勝手に両成敗する。こんなので何を学び何が育つというのだろうか?

子どもの居場所というのはこんな些細な所から始まっている。そして居場所がない子ども、自身を受け入れてくれる存在がいないとその子は孤立してしまうのだ。

部屋の隅に一日中座って、遊ばない子ども。「保育園行きたくない。幼稚園行きたくない。」と登園を嫌がり母親から離れると泣き叫ぶ子ども。そのような子を見ても何とも思わない大人の数々。

「あら、一人で遊んでるじゃない。もう気持ちの切り替えは済んだのね。

反吐が出る。何をどうしたらこんなにも子どもの気持ちを粗末に扱えるようになるというのだろうか?こんなのだから不登校する子どもが後を絶たないのだ。

不登校する子どもを何とかしようとも思ってもないのに不登校を問題として扱わないでもらいたいものである。