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読者の皆さまから頂いたご投稿を元に、「なんとなく“これこそがハッピーエンドだ”と言われている方向へ流されて人生を終わりたくないわね、一緒に考えましょう。流れの中をどう泳ぐ?」ってことを考えるこちらの連載、「ハッピーエンドに殺されない」。
今回は、「男性からの性被害に遭った。男性の手の届かない場所で落ち着きたくて、レズビアン風俗で抱きしめてもらったが、後ろめたい」というご投稿です。
ちなみに前置きですが、わたし、こと、牧村朝子個人は、現実に起こった出来事に対して「痴漢」という言葉を使わないと決めています。
「漢」の字にはもともと「男性」の意味もありますが、わたしは性別に関わらず、
●現実でない、AVやイメージプレイのジャンル名……「痴漢」
●現実……「犯罪」「条例違反行為」「性暴力」など、場合によって
という使い分けをしています。
これは、フィクションと現実とをきっちり線引きするためです。 この線引きには、
●フィクションとしての痴漢を好む性的嗜好の持ち主が自分を責めずにフィクションの枠内で楽しめるように
●現実の犯罪・暴力に苦しむ人がフィクションのイメージで見られるような二重の暴力から守られるように
という願いを込めています。過去記事にもご紹介した通りで、わたしの個人的選択です。他人に押し付けるつもりはありません。
今回ご投稿くださった方は、「痴漢」という言葉を使っていらっしゃいます。これを、この言葉で呼ばれるフィクション作品と混同せず、「男性は加害者/女性は被害者」という単純すぎる構図にも落とし込まずに考えていきたい、というのが、今回の基本姿勢です。
では、ご投稿を読んで考えていきましょう。
今年に入ってから電車で痴漢にあいました。
その後心身に不調をきたし電車に乗れず仕事場でも背後を誰かが通ると落ち着けず、不安な日々を過ごしていました。
自分の中で様々な負の感情が噴出して悲しくなったりし、余計なことを言われず優しくされたい、できれば私を傷つけた、男の手が届かない場所で落ち着きたいと感じ、レズビアン風俗を利用しました。
詳しいことを聞かずに手を握ったり抱きしめてもらったり、女性として女性に優しくされたことで落ち着き、前に進めたような気がします。実際落ち着きましたし、乗り越えるとはいかないまでも冷静に裁判などにも向き合えました。
もちろん金銭で時間を買わせていただき、その分のサービスをしてもらったとわかっています。
極端だなと自分でも思いますし、知り合いに「風俗で癒されるなんて男と一緒じゃん」と言われるなどしてしまいました。自分も、逃げだったのだろうかともやもやしています。
風俗というと男が利用するもので女はナンセンス、みたいな風潮があって後ろめたくなってしまい、時折「やっぱ自分は不安定だったから間違った方法をとったのでは」とか対応してくれたお姉さんに失礼なことも考えます。
長くなってしまいましたがなにが言いたいかというと、風俗で心の安定を取り戻す、というのは本当に社会的にさげすまれるようなことなんでしょうか。
本当に、ご投稿くださって、胸の内を共有してくださってありがとうございます。
日本社会において痴漢という名称で呼ばれることもあるこの暴力行為をはたらく人の中には、「少し触るくらい」「減るものじゃない」みたいな認知の歪みを抱えた方々もおられるようですが、
モノじゃねえんだ!
心があるんだ!
そっちが勝手に決めないでくれ!
分かったつもりにならないでくれ!!!!
って、きもちよ。
裁判、お疲れ様でした。
一日も早く傷が癒えますように。
しかし……そんな心を、暴こうとせず、分かったつもりにならず感じ取り、「詳しいことを聞かずに手を握ったり抱きしめて」くれるお姉さん、本っ当、プロフェッショナル!
しかもそれが、二人きりの、日常における人間関係から切り離された場所で、体温の伝わる距離感で行われる。こんなサービスをプロフェッショナルから受けられる選択肢の一つとして、レズビアン風俗というものができたことを、わたし個人は、進歩だと思っています。(レズビアン風俗と呼ばれるサービスにもいろいろあるし、お店や個人による良し悪し・合う合わないはあると思うけどね。)
けれど、ご投稿者のお知り合いの方は、こうおっしゃったのね?
「風俗で癒されるなんて男と一緒じゃん」
このワンフレーズに、今この記事を読んでくださっている男性の方、性別に関わらず風俗利用経験のある方、また勤務経験のある方は、どう思っていらっしゃるのかしらと、思いを巡らせています。
「風俗利用はさげすまれるものか、否か」
「風俗は男性のためだけのものか、否か」
このへんを断定することを、わたしは、しないでおきます。だって、わたしが「そうだ!」と言おうが「違う!」と言おうが、あなたが誰とどうするかは、あなたとその人とが決めることだもんね。
で、ご投稿者の方は、お金と敬意をきちんと払い、プロフェッショナルのサービスを受けると決めて行動した。それに対して、こんなふうに言われてしまった。
「風俗で癒されるなんて男と一緒じゃん」
きっと、刺さったんですよね。忘れたいかもしれない。忘れるのも手ですよ。それかさっきの「わたしと相手が決めることに、他人がどう思おうが関係ない」主義を適用するとかね。けど、ご投稿者の方は多分、それだとスッキリしなさそうだなぁと思うんですよ。なぜなら、自分でも自分を責めていらっしゃるようだから。
なので、忘却でも切り離しでもなく、分解・消化を目指していきたいと思います。この発言、人間社会を考えるポイントが凝縮されてると思う。3つのポイントを洗い出してみました。
順番に行きます。「風俗で癒されるなんて男と一緒じゃん」発言を通して、この社会の何が見えるのか。わたしはなんとなく、こんな空気がその人もわたしも包んでいるように思うんです。
(1)「男の視線に疲れた私たち女がやっと安心できる空間を裏切るのね」感
・男は女をエロい目で見てるものでしょ?
・そんな女の苦しみを、同じ女ならわかるでしょ?
・だから女は女のことを、普通エロい目で見たりしないでしょ? ね? ね?
(2)サービスに対価を払うという意識の欠如、「女を買う」「体を売る」とか言う感じ
・性風俗って、体一つあればできる簡単な仕事でしょ?
・男は女を買うんでしょ? 女は体を売るんでしょ?(3)選んだのではなく“落とされた”のだ、というイメージ
・女は男より稼げないでしょ?
・だから、性風俗業界の女性は、全員お金に困って“落とされた”人なんでしょ?
・その職業を自分の意思で選んでいる人なんか、いないでしょ?
・みんな搾取されてる被害者でしょ?
もしそうだとしたら、わたしはこれらに、こう返しますかね。
(1)なんでそう思うの?
(2)なんでそう思うの?
(3)なんでそう思うの?
確かに、「そうだった」時代があるとわたしは思うんですよ。
「男は稼げ。嫁をもらえ。家族を養え。でないと半人前だ。できないなら娘を売れ」……みたいな状況下で生きてきた民衆のうめきが、もう、戦国から江戸・明治・大正・昭和と続き、たぶん令和にも終わり切ってはいないでしょ。
でも、わたしは終わらせたくって。で、個人差はあるだろうけどわたしの選んだ戦略は、
「いや、女だけど稼ぐね」
「わたしはわたしの技術によってこの世に創出した価値に対してお金をいただくことにしており、わたしそのものは売らないし、誰かをお金で買えるとも思わない」
「その、結婚しないと半人前、みたいな価値観をわたしは持たない」
「なにかを継がせるために子どもを産むという発想をわたしはしないし、この地球を生きてきた無数の先人たちからなにを継ぐかは血や家じゃなくわたしが選ぶことだと思うことにしている」
あたりです。
だから、
「風俗で癒されるなんて男と一緒じゃん」
これについては、上記3つのポイントから、「そもそもなんでそう思うの」を聞いた上で、こういう路線の返答を導き出しますかね。
「その、“男というオオカミだらけの世の中、女なら羊さんどうし身を寄せ合って安心できると思ったのに”みたいな期待感にわたしは添えないのでごめんね。男=オオカミ、みたいに思ってしまうあなたになにがあったのかは知らないけど、その傷が癒えますように。なんの毛皮をかぶろうが、かぶらされようが、男も、女も、みんな、人間だよ」
「金で存在は買えないよ」
「わたしが言っていきたいのは“男女の経済格差とその背景にあるものをなんとかしていこうぜ”って話なんだよね。例えば“女に学費をかけても仕方ないから、と、保護者からの経済的支援を受けられず進学に反対された女性が自力で数百万円の学費を払うためには性風俗しかないって思っちゃうような社会構造”とか、そういうのをなんとかしていきたいのであって。“性風俗はぜんぶ女性搾取だからなくすべき職業”って叩いても、社会構造そのものがなんとかなってくれないと、性風俗産業そのものが地下にもぐってしまって、余計、立場の弱い人が危険な目に遭うだけだと思う」
最後に、共有しておきたいことなんだけどね。1912年、日本で「吉原登楼事件」と言われるものが起こっています。これは、女性の手による女性解放のための雑誌『青鞜』(せいとう)を作っていたメンバーのうち、尾竹紅吉・平塚らいてう・中野初子という三人の女性が、吉原の花魁さん……無理やりだけど現代社会で例えるなら「風俗のお姉さん」に会いに行ったがために、メディアで激しく攻撃された事件です。
三人はなぜ、花魁さんに会いに行ったのか。それはもともと、尾竹紅吉の叔父・尾竹竹坡が、「女のための雑誌を作っているなら遊郭で働く女のことも知っておかないといけない」と言ったことがきっかけでした。紅吉も「確かに」と思ったので、叔父さんの紹介で、栄山さんという花魁さんに会ったそうです。食事を共にし、生い立ちを聞き、文通をして……そんな関係のことが、当時のゴシップ新聞「萬朝報」に、面白おかしく書かれてしまったのね。「女文士の吉原遊び!」とか言って。
栄山さんと紅吉さんたちを引き離したこの力が、女たちを「お座敷」と「台所」とに引き離そうとするこの力が、今も、あると思う。わたしは、流されたくない。「お座敷に行くなんてあんた男みたいね」って言われても、人間として、栄山さんに会いにいきたいよねって気持ちです。お金と敬意をちゃんと払って。
ご投稿者の方と、傷つけられた心ごと抱きしめてくれたお姉さんとが、100年前から続くこの力に、引き離されずにすみますように。
■参考文献:渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』不二出版刊、2001年、48ページ
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