小説『空席のある教室』に対する表現規制について再論します。

2019年 04月25日 (木) 16:25

 小説『空席のある教室』に対する、運営側からの表現規制について、私の見解は基本的に前回の活動報告で表明した通りです。
 当方として、さらなる紛争的な対応をとるつもりはありませんが、ただ、一般的に危惧の念を感じざるをえない論点について、多少申し残しておきます。

 前回の見解表明の後、おそらくはその返答として、小説家になろう運営側から、以下のようなメールが送られてきたので、抜粋して掲載します。

《いつも小説家になろうをご利用頂き、ありがとうございます。
小説家になろう運営です。(略)

この度は運営側の対応によりご不快の念をお掛け致しまして大変申し訳ございません。

小説家になろうのような無料で閲覧が可能なサイト上のコンテンツに関しましては、
実際の書店で販売されている書籍等よりも、読者側での閲覧が容易なものとなります。

こういった状況においては、書籍を購入する・立ち読みする等といった場合よりも、
年少者や性描写を苦手とする方が意図せずに刺激の強い描写を目にする可能性が高いと運営側では考えております。

サイト運営側と致しまして、利用者の方には安心してサイト利用を行なって頂きたく考えておりますので、
小説家になろうグループでは、ガイドラインに記載を行ないました上で、
投稿作品への年齢制限の設定、R18相当の作品の投稿サイトの開設を行なっております次第です。

運営側としてユーザの方の創作活動を制限するという意図や、R18相当と判断した作品を
ポルノ作品・有害な作品等として取り扱う意図は決してございません。

あくまで青少年の方等に安心してサイト利用を行なって頂くための対応となりますこと、
何卒ご理解ご了承を頂きますようお願い申し上げます。

また、「空席のある教室」につきまして、
改稿等の対応は実施されないとのこと、運営側にて把握致しました。

重ねてのご連絡となり恐縮ではございますが、5月7日を経過しても修正等の対応が見られない場合は、
当該小説の削除を行ないますので、何卒ご了承ください。》

 今回の表現規制に対する、運営側の言い分を要約すると、実際には生じてもおらず、実際に生じうる何の根拠もない、偶然の可能性を過剰におそれ、それを運営上の障害とみなし、先回りしてあらかじめ排除しておこう、ということです。
 前回の見解で、投稿者側からの運営の意向に対する忖度の懸念を申し上げましたが、一方で、今回の運営側がとった対応は、まだありもしない仮想の反応に対する、極めて過剰な忖度である、と言えます。昨今、表現をめぐる場面ではさまざまに取り沙汰されているような、実にありがちな話です。
 空気を読み、お気持ちを察する。疑わしきは排除し、闇に紛れて隠し葬る。まさに今の社会の有り様を映し取っているかのようです。

 また、運営側は「判断」などと言うのですが、一体何を判断したというのでしょうか?少しでも引っかかりそうな部分を見つけたら、ただいたずらにその文脈を問わず一律に網をかける。まさに全くの思考停止です。
 全ての投稿作品を熟読せよとはさすがに申しませんが、少なくとも今回のように、そちら側から意図をもって対応してきているようなケースであるなら、多少なりとも作品上必要な表現であるか否か、その文脈に沿って読み取ってもよさそうなものですが、どうやらそのような能力は、運営側にはないようです。
 今回の返答から察するに、一応前回の見解に目を通した実在の人間がいるようだが、はたして本当にそこに「人間」はいたのか?AIにも及ばない、主体性のない自動人形ではなかったのか?今回の返答に接して、改めて訝しく感じざるをえません。

 「ユーザーの創作活動に制限を加える意図はない」と運営側は申しております。しかし、ユーザーの意図に反する改稿に応じなければ作品を削除するというのは、まさしく制限として機能しており、実力と権限を振りかざしてユーザーに対し一方的な圧力を行使しているのに他ならないものです。
 「運営側の対応によりご不快の念をお掛け致しまして大変申し訳ございません」と、表面では謝罪しているかに見せかけて(私が「不快の念」を持っているかのように「お気持ち」を察していただき恐縮ですが、別に私は「不快」と言っているのではありません。「不審」と「不信」を表明しているまでです)、何の対応の練り直しを検討することもなく、「修正等の対応が見られない場合は、当該小説の削除を行ないますので、何卒ご了承ください」と繰り返すばかり。
 「こちらの言うことに従うなら、お前を生かしておいてやる」とでもいうような不遜な態度。ありふれた言い方ですが、こういうのを一般にファッショというのです。

 かつてナチスドイツでアウシュビッツに大量の無辜のユダヤ人を送り込み、「私は秩序の維持のために働いただけだ」と悪びれることなく強弁して憚らなかった、アイヒマンという人物がいます。
 主体性なく制度順応的な人間を私は「小さなアイヒマン」と呼んでいますが、今回の問題にもそのような影を見る思いです。そして私は、そのようなアイヒマンの影に対抗する思いも込めて、自ら思考し書いているのだと自負します。
 今回の件を通じて、私は自身の作品どうこう以上に、そのような「小さなアイヒマン」に対する懸念を強く感じ取り、改めてその危惧をここに書き残しておきたいと思い至った次第です。

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