活力失い閉館の連鎖 関西の小劇場、強まる危機感
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2019/11/29 7:01

トリイホールの歴史や閉館に至った経緯を話す鳥居弘昌住職(右)と桂米団治

トリイホールの歴史や閉館に至った経緯を話す鳥居弘昌住職(右)と桂米団治

大阪市の2つの小劇場、浄土宗應典(おうてん)院本堂とトリイホールが相次ぎ閉館する。若手や先鋭的な劇団にとって貴重な表現の場がまた消えていく。一方で新たな小劇場を建設する動きもあり、長く続く地盤沈下に歯止めをかけられるかが注目される。関西の小劇場の今を追った。

寺の本堂に転用

落語を中心に演劇公演も多かったトリイホールは来年3月で閉館し、その後は同ホールを運営する千日山弘昌寺の本堂として利用される。故桂米朝の提案をきっかけに1991年にオープン。天満天神繁昌亭の開場前の貴重な演芸場として、上方落語だけでなく江戸落語の名人、故古今亭志ん朝が毎年独演会を開くなど歴史を刻んできた。

今月上旬の記者会見は、同寺の鳥居弘昌住職と落語公演の中心的な役割を担ってきた桂米団治が登壇した。ホールの歴史とともに千日前の地名の由来に言及し、一帯がかつて処刑場や墓地で、法善寺などの門前であった歴史を紹介。地上げなどで千日前から寺が姿を消し「祈りの場所がなくなってしまった。街の本来の姿を考えた」と、本堂に転用する理由を説明した。

今後も奉納公演などの形で落語や上方文化に関する公演や催しは続けたい考え。ただ、演劇など演芸以外での利用は難しくなる。

演劇界にとってより深刻なのが應典院だ。本堂を劇場として活用してきたが、来年5月で劇場利用を終了。秋田光彦住職は「(福祉など他分野での活用も増やし)次のステージに進みたい」と話す。設備の老朽化に伴う改修費用の問題も重なった。同院は年間通じておよそ40週、演劇が上演され、多くの劇団から「次の公演を打つ場所がない」と嘆く声が聞かれる。

続く篤志家頼り

應典院は97年から「地域に開かれた寺院」の掛け声の下、地域・社会と寺院の新たな関わり方を模索し、演劇をその媒介と位置づけて演劇界を支えてきた。2000年代前半にかけては「阪神大震災や就職氷河期で傷ついた人たちのよりどころとなった」と秋田住職は振り返る。

若手劇団の登竜門となった演劇祭「space×drama」なども主催。演劇祭の上演作品でOMS戯曲賞大賞を受賞した脚本家・演出家のサリngROCKは「應典院があったから多くの人に作品を見てもらえたし、多くの演劇人とも知り合えた」と振り返る。

大阪現代舞台芸術協会(DIVE)理事長の笠井友仁は「ただの劇場でなく、演劇人のネットワークが生まれた場所。應典院で培われた関係は今後につなげていかなくては」と話す。演劇界を活性化してきた拠点が失われる衝撃は大きい。

劇団☆新感線などが輩出した80~90年代の関西小劇場ブームの後、演劇が社会を巻き込むようなエネルギーを失って久しい。演劇向けの公共ホールが少ない大阪では大企業が劇場運営から手を引いた後、應典院など篤志家による民間小劇場が演劇を支えてきた。

演劇人たちと大阪市が協力し、閉校した小学校の校舎を利用した精華小劇場が短期間で閉館するなど曲折もあった。志ある民間劇場が老朽化する中で「理念のあるオーナーに依存せざるを得ない状況は(大阪演劇界の)構造問題」と秋田住職は言う。

「今も(人や社会を変えていく力を持つ)演劇のポテンシャルを信じている。今後の活動にも演劇人との関係を生かしていく」とも秋田住職は話す。應典院が下した劇場利用終了という決断は、演劇がジャンルの内に閉じこもり、実社会に訴える力を失いかけている現状を象徴している。(佐藤洋輔)

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