「侵略戦争ではないその理由ー谷沢永一文学博士」 日本軍がいたのはシナが外国人を誘致するために設けた共同租界という地区です。租界とは「中国の開港都市で、外国人がその居留地区の行政・警察を管理する組織、およびその地域。1845年イギリスが上海に創設、一時は八カ国27箇所に及んだ。第二次大戦中に消滅(広辞苑・第4版)」。つまり侵略でも占領でもなく日本企業と日本人を警護するために8カ国のうちの一国として、シナの了承の下で小規模の軍隊を駐屯させていたのである。そもそも租界地に日本が軍隊を置かなければならなかったのは、シナがその当時は国家としては体をなしておらず、まさに荒蕪の地と言ってもいいくらいで、香港の例でもわかるように沿岸の主要な港はイギリス、フランスなどの列強各国に完全に抑えられていたという時代背景があった。 日本にとっても上海貿易は欠かせないものでした。長く大阪港が日本で有数の貿易高を上げていて、そのピークは大正14年ですが、大阪港が栄えていたのはすべて上海貿易のおかげです。日本にとって上海は死活にかかわるマーケットであった。しかし日本は随分我慢をして、武力でマーケットを保持しょうとしたことは一遍もなかった。しかし列強がことあるごとに貿易の邪魔をするに及んで、『シナと協定を結んで自衛のために出て行かざるをえなかった』ということです。むろん貿易ですからシナ側の利益にもなったのは当然です。 日華事変は北京の南に流れる蘆溝河に架かる蘆溝橋で日本とシナの軍隊が衝突し、やがてシナ全土に戦線が拡大していくのですが、最初に闇討ちを仕掛けてきたのはシナのほうです。蘆溝橋の近くで日本軍が夜間演習をしていると暗闇から銃撃され、さては国民党軍が撃ってきたのだと判断し、やがて戦闘が始まってしまった。 ところが撃ってきたのは国民党ではなく、もちろん日本軍でもなく、じつはシナ共産党のスパイであったことが今では定説となっている。共産党員の兵士向けのパンフレットに『蘆溝橋事変はわが優秀なる劉少奇同士の指示によって行われたものである』と自慢した記述があった。 間違いなく蘆溝橋事件は毛沢東ひきいる共産党軍の謀略だった。当時の共産党軍は国民党軍との内線に連敗につぐ連敗で、次々と活動拠点が奪われていった。そこでこのじり貧状態を打開するために国民党軍と日本軍を戦わせて漁夫の利を得ようとしたわけです。 狙いは的中したということになりますが、まもなく一週間ほどで国民党軍も日本軍もどうも様子が変なことに気付いて銃撃戦はいったん沈静化し、日本軍は事件不拡大方針をとり現地協定を成立させる。 しかしそれから3週間後に北京東方の通州という町でシナ保安隊によって、残忍きわまりない手口で、日本人居留民約260人が虐殺される事件が起きた。その『通州虐殺事件』は戦後の教科書はもちろん歴史年表にもマスコミ報道にも出てこない。まるでタブーのようになっているが、本当にあったことです。これで当時の日本の世論は激怒します。 さらに通州虐殺事件に追い討ちをかけるように、蒋介石の国民党軍は、上海周辺に正規軍10個師団を配置して日本に圧力を加えて挑発し、それに応戦したところ、今度は上空から同胞のシナ人、そして日本人、欧米人の区別無く、無差別に爆撃、空襲をかけるという暴挙にでてきた。 『日華事変の引き金を引いたのがシナ側』であることは明白である。あの『東京裁判』でさえ、この大東亜戦争の端緒でもある『日華事変を不問にせざるを得なかった』のもこうした事実があったからにほかならない。だから、日華事変に対して日本人は不当な罪悪感など持つ必要はない。とにかく『始めたのはシナ側』ですから、これは、絶対に言いつづけなければならない。 シナ事変が起きた時、急遽”大本営政府連絡懇談会”なるものだできるのだが、このあたりの対応の遅れを見ても、シナ事変がシナの側からの仕掛けであったことが読み取れる。 「水間政憲 ジャーナリスト SAPIO8/24・9/7」 元中国共産党軍の将校であった葛西純一氏の編訳書『新資料盧溝橋事件』(1974年、成祥出版社)の中で、中国人民解放軍総政治部発行のポケット版『戦士政治課本』に次のような記述があると書いてある。「7・7事変(盧溝橋事件)は、劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って党中央の指令を実行したもので、(略)蒋介石南京反動政府は、世界有数の精強を誇る日本陸軍と戦わざるを得なくなった。その結果、滅亡したのは、中国共産党ではなく蒋介石南京反動政府と日本帝国主義であった」と、共産党ゲリラの決死の作戦だったことを元共産党の将校が明らかにしているのだ。
http://www8.ocn.ne.jp/~senden97/nikkajihen1.html |
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「侵略戦争ではないその理由ー谷沢永一文学博士」 日本は中国を侵略していない、この谷沢という人物は文学博士だそうですが日本の文学界がいかにいい加減なものかがこれではっきりします。谷沢氏が中国に出かけてこの論文なり記事を発表したら私は認めます。15年戦われた日中戦争の主役は日本軍のように見えますが実はそうではないのです。中国の資源、権益に触手を伸ばしたのは日本の財閥でこれを確保するために日本軍に中国全土の攻撃を頼んだのは財閥です。日本は戦争経済でやらないと国として存続できなかった。このためにアメリカに罠を仕掛けられ日中戦争からアジア太平洋戦争へとおびき出されました、欧米から石油、全ての資源の輸出を止められさらに経済封鎖をされて、完全に正気をなくした指導部は東南アジアの西洋の植民地の資源を強奪するしか生き残る道はないと打って出たのです。中国での資源強奪が行き詰ったから次は東南アジアとはただ哀れとしか思えません、文学博士がそれを理解できないとはもっと哀れです。私は無学な素人ですが文学博士はそれ以下ということになります。
2007/8/12(日) 午前 7:43
>中国の資源、権益に触手を伸ばしたのは日本の財閥でこれを確保するために日本軍に中国全土の攻撃を頼んだのは財閥です。
この説は初耳です。
私が承知している史実は、
①日本に中国侵略の意図はなかった。
②中国は、「廬溝橋事件」後の停戦協定違反を繰り返した。
③「通州大虐殺」とも呼ばれる日本人居留民虐殺事件が、全面戦争に至った原因
というものです。
この史実には財閥云々は一切絡んでいません。
2007/8/13(月) 午後 2:10 [ Dogma ]
121haijin121さん。山本薩夫監督の映画「戦争と人間」を見て勉強してください。アジア侵略に日本の独占資本の強力な意図が働いたという歴史的事実がわかりやすく描かれていますよ。
2007/8/14(火) 午前 2:08 [ 猿固痔 ]
山本薩夫
「山本薩夫
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山本 薩夫(やまもと さつお、1910年7月15日 - 1983年8月11日)は、日本の映画監督。鹿児島県出身。早稲田大学文学部独文科中退。甥に俳優の山本學、山本圭、山本亘がおり、自身の作品への配役も多い。
来歴・人物
大学を中退し、松竹蒲田撮影所に入所。成瀬巳喜男監督の助監督などを務め、後に成瀬がPCL(東宝の前身)に移籍する際、行動を共にした。東宝で監督に昇進し、戦時中は戦意高揚映画などを監督したが、熱心な日本共産党員で、戦後、共産党も深く関与していた東宝争議では、組合側の首謀者として会社と敵対し、結果東宝を解雇された。」
共産党員・・・こんな人が作った映画なんて話になりません(苦笑
そもそも、大東亜戦争はコミンテルン(共産主義者)によって仕掛けられた戦争でもありますし。
2007/8/14(火) 午前 4:35 [ Dogma ]
サルコジさん失礼ですが国家独占資本主義理論はともかく作品の中の伍代財閥は新興財閥として描かれていますよ 実際にも日産などはともかく老舗の財閥は満州進出に躊躇してましたよ 財閥は軍国主義が嫌いで右翼は財閥を攻撃していました ほんとうのブルジョワはもっと穏健でしたよ 左翼の嘘 独占資本が軍部と結びついたという話しを鵜呑みにしないで下さい
2007/8/15(水) 午後 0:55
ラメールさん あなたはそろそろ中国問題から手を引いてはいかがか、陳腐な説を撒き散らすのはかまわないとして 少なくとも資料ぐらい添付してもらえないか 日本が中国に兵を進めれば日貨排斥運動がおこり日本の経済界に大打撃を与えることが理解できないか 英米を敵に回すことを財閥が恐れていたことをご存知ないか・当時は綿花をインドエジプトから買い、絹をアメリカに売っていた 石油くず鉄はアメリカから買い、陸軍のトラックと輸送機はアメリカ製だった・ 軍部の中にも対ソ戦略上反対意見が強かったのをご存知ないか 財界が統制経済を嫌い、右翼左翼がともに国家社会主義を唱えたのをご存知ないか で結局シナ事変で儲けた財閥ってどこなんですか
2007/8/15(水) 午後 1:15