満州事変以降、アメリカは「日本は世界征服の陰謀を企てている。」というあの偽書、「田中上奏文(メモランダム)」が日本を「美しき民主中国」を脅かす凶暴な侵略者として、激しく非難する声が上がりました。
「田中メモリアル」は、その後延々と反日宣伝に使われました。日米開戦の直前、エドガー・スノーが書いた「日本人は科学技術を持った首狩り族」という出鱈目な本「アジアの戦争」でも最大限に使われ、開戦後は国策映画に頻繁に登場しました。
フランク・キャプラの映画「ザ・バトルオブ チャイナ」は、今でも中国共産党がプロパガンダに使っています。
米国務長官スチムソンは、日本に対する経済制裁を主張しましたが、大統領フーパーは、経済制裁は戦争を誘発する危険がある、日本はソ連・中国の共産主義に対する防壁であると考え、強硬策は取りませんでした。
そのフーバーを大差で破り、1932年(昭和7年)大統領に当選したのが、フランクリン・デラノ・ルーズベルトでした。
この人物のアジア観が、歴史に決定的な影響を及ぼしたのです。
ルーズベルトは
「いつも中国人には親しみを感じている。」
と言っていました。
なぜかと言うと、祖先がアヘン貿易で儲けたからでした。
ルーズベルトの中国政策は、クリストファー・ソーンによると
「認識の甘い、役に立たない、無責任なものだった。」
と言います。
何しろ1943年の段階でも、ルーズベルトは蒋介石を
「蒋介石総統は今や4億の民の争うべからざる指導者だが、そうなるの当たっては、非常な苦労があった。我々であれば200年は掛かるようなものを、ごく短時間の間に中国に作り上げたのだ。その様な人物に厳しいことを言ったり、する事はできない。」
更に中国の覇権主義を警告したチャーチルに
「ウィンストン、君にはそれが理解できない。君の血の中には400年にわたす取得本能が潜んでいる。たとえ領土を手に入れる事が出来たとしても、それを得たいとは思わない国があるのだという事が、君にはわかっていない。世界の歴史に新しい時代が開けたのだ。君はそれに順応しなければならない。」
中国に、ここまで甘い幻想を持った大統領は、一方の日本をどう思っていたのでしょうか。
「日本は明治以来、世界征服の陰謀を企て、段階的に実行に移してきた悪の帝国だ!」
そう信じていたのでした。
ルーズベルトは「田中上奏文」とほぼ同じ内容の「日本の百年計画」なる与太話を学生時代に聞き、それを信じ続けていました。
そして大統領就任後、まず最初に太平洋艦隊を増強したのでした。日本に向けて。
更にルーズベルトは、スミソニアン博物館教授アレス・ハードシェリカに
「日本人は、なぜ邪悪なのか」
を内々に研究させ、その結果こんな事を本気で信じていました。
「日本人が邪悪なのは、我々よりも頭蓋骨の発達が2000年遅れているからだ」
と。
ルーズベルトは、この「科学的な研究」により、人種を交配し、混血させて「立派な文明と極東社会」を作る事を考えたのでした。
教授に
「日本人とヨーロッパ人の混血は良くないし、中国人とヨーロッパ人の混血も良くない。」
と言われたルーズベルトは、
「教授、それは反対だ。これまでの経験からして、日本人とヨーロッパ人との混血はまったく良くない事には賛成だが、中国人とヨーロッパ人との混血は、必ずしも悪くない。」
と、こんなことを大真面目に討論していたのでした。
そしてルーズベルトは周辺にも
「オランダ人と日本人、中国人と日本人の混血は良い。中国人とマレー人の混血は良くない。最も良いのは、ヨーロッパ人とインド人の混血だ。」
などと吹聴していたのでした。
そして「頭蓋骨が邪悪な」日本人は、日本列島に隔離し、徐々に衰退させる、
すなわち「日本人拒絶」「民族浄化」を理想としていたのでした。
シナ事変勃発の三か月後、ルーズベルトは「隔離演説」を行いました。
「いま世界には、不法という疫病が蔓延しているように思えます。疫病が蔓延すると、社会は患者を隔離し、健康な人に感染する事を防ぎますが、戦争にも伝染力がある!」
「悪の病原菌を隔離せよ!」とは、「日本人を隔離せよ!」という意味だったのです。
ルーズベルトは
「日本は誇大妄想に取りつかれている。」
と言いました。
しかし「誇大妄想」に取りつかれていたは、ルーズベルトの方でした。
カリスマ的指導者に良くある特徴で、ルーズベルトは話にどんどん尾ひれをつけて、
自分の話と現実の区別がつかなくなる性格があったという証言が、いくつもあります。
シナ事変が勃発すると、満州を巡って日本と覇権を争ってきたソ連は、中国国民党の支援を開始、独ソ戦勃発で手を引くまでの間、2億5千万ドルの借款で、膨大な武器・弾薬を中国に与え、さらに空軍を「義勇兵」として参戦させ、約200人の戦死者まで出しています。
ソ連は、日本を敵視するアメリカの力を利用しようと考えていました。
一方、ルーズベルトの対ソ認識は、対中国と同様にいい加減なものでした。
ルーズベルトは言いました。
「与えることのできるものはなんでもスターリンに与え、かわりには何も要求しないならば、当然彼はどこも併合しようとはしないだろうし、民主主義と平和のために私に協力するろう。」
と。
ルーズベルトには、共産主義への警戒感がほとんど無く、第二次大戦中は、ソ連と同盟を組み、蜜月時代を築いていたのでした。
そしてルーズベルト政権の中枢には、ソ連のスパイ網が広がり暗躍を続けていました。
日本の連戦連勝で、蒋介石政権が奥地の重慶まで撤退すると、英仏はシナ大陸や東南アジア直ミンチの利権まで脅かされることになるため、重慶まで「援蒋ルート」を建設し、蒋介石に支援物資、武器・弾薬を送り込んだのでした。
シナ事変は日本対白人の代理戦争の様相を呈し、蒋介石は事実上、白人の傀儡となり、戦争は泥沼化したのでした。
アメリカでは出版王ヘンリールースの「ライフ」が、日本を悪玉にする有名な偽写真を掲載し、「タイム」は蒋介石を「ザ・マンテンオブザ・イヤー」に選出し、徹底して親中・反日の世論を煽り、ほとんどの新聞・雑誌がそれに追随しました。
とはいえ世論は、実際に中国を助けて日本と戦争をしようとまではまったく考えておらず、ルーズベルトもあまり積極的な中国支援はできませんでした。
世論はそれまでアメリカが国是としてきた一国平和の「独立主義」を圧倒的に支持していました。
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