白というよりはグレーというべき色合いが目立っていた。おざなりで簡素な壁紙は所々が剥がれ、天井板は至る所に穴が開き、とても清潔と呼べる空間ではない。
ただ、剥がれた壁紙にも、穴が開いた天井にも、見慣れた汚染空気遮断の特殊フィルター繊維が覗いている。人間が生活できる最低限の空気循環設備は整えてあるのか機材の音が大きく唸っていた。
中央に据えられている、部屋の主人と呼んでもいいベッドのシーツだけは真新しいらしく、そこが訪れた男の不快感をより煽った。
ベッドの傍にある機材の数々には、見慣れたモノは二つだけ。そのゲームを行う為に必要なパソコンと……そのゲームの世界に入り込む為に必要な……
ジジッ……と部屋の天井角に据えられているスピーカーから音が鳴る。男は気にせずにゆっくりとベッドへと歩み寄って腰かけた。
『よく来てくれた。勇気ある参加にまず感謝しよう』
中年男性のモノと思われる声が流れ、男は気怠げにスピーカーをチラと見るもすぐにゲームの為の機材へと視線を落とす。
まるで興味がないと言わんばかりに。
『本名は勿論知っているが……此処では君のことはゲーム内でのハンドルネームで呼ばせて貰おう。
ユグドラシルギルドランキング第9位、ユグドラシルの悪の華――“アインズ・ウール・ゴウン”所属、ウルベルト・アレイン・オードル君』
は……と嘲笑のような声を男は漏らした。
目を細め、三日月型に開かれた口は心底楽しいと言わんばかり。
『通常ならばこのような場所ではなく適切な施設にて君の経過と成果を観察・管理する所なんだが、今回は状況が悪くてね。
警察や他の企業も今回の事態に対して成果を出そうと躍起になってる。恥ずべきことではあるが、我々にも派閥があるんだ。表立った施設などで大々的に行ってしまうと思わぬ邪魔などが入って少しばかりまずいのだよ。そこは……すまないが飲み込んで欲しい』
真摯に語り掛ける声は子供に接する父のような声音で。
しかし男には、腐りきった大人が必死に言い訳をしているようにしか聞こえなかった。
『あくまで非公式である為にこの件はメディアにも秘匿されていると前に伝えたと思う。この廃病院は私達の派閥の所有物だから関係者以外の誰かが出入りすることもない。
栄養剤の点滴、人工心肺機能の確保、非常時の処置、終わってからの仕事先の斡旋などなど、心配しなくてもいい。君が潜った後に……しっかりとこちらで責任を持とう。
君に依頼することだが、ギルド:アインズ・ウール・ゴウンに取り残されているであろうプレイヤー:モモンガの現実世界への保護だ。こちらの予測ではログインと同時に君がギルド拠点内に入っていれば上出来、それ以外のユグドラシルの世界であっても上々、その場合君は君のギルド拠点を捜索し、ギルドマスターを連れ帰って来てくれたまえ。
君のギルドはデジタルの海で何処かに消失してしまっている。場所が分からない状態だからこそ、君というギルドメンバーの存在は私達にとっても非常に重要な存在だ。
消失したギルドは他にもあるが、他ギルドのメンバーを私達とは別の派閥が探し当てて同じようなことをしているかもしれない……すまないが別派閥の動きについてはこちらから教えることが出来ない。ただ……君たちよりも上位のギルドは喪失の事態に合ってはいない……とだけ伝えておこう。
ここまでで一先ず、何か質問はあるかね?』
区切られた説明にも男は対して興味を示さず。
「くくっ」
声が、漏れた。抑えきれないというように。待ちきれないというように。
「ああ、それでいい。どうせこんなこったろうと思ってたんだ」
スピーカーから流れる声に対しての回答とは思えない返事を口に出す。
「別におキレイで上等な環境を望んだわけじゃないさ。ただ……そうだよなぁ……そりゃそうだぁ」
それは自分への哂いであり、世界への嗤いであった。
「責任者の顔も分からねぇ。どこの企業かも分からねぇ。呼び出されたのは潰れてるはずの廃病院で、並んでるのはテレビなんかで見たことある生命維持の為に必要な機械ばかり」
男はそれほど頭が悪いわけではなく、唯々、生まれてきた時代が悪かった。
貧しい生活に膝を折らずに研鑽してきた頭脳を回せば……この状況が何を意味しているかを理解するなど容易だった。
『……』
「つまり……俺はお前らのモルモットってわけだな?」
返答はなく沈黙するスピーカーを見ながら楽しそうに笑う男が一人。
命の保証もなく、生命の有無が世に知れ渡る保険もなく、己の存在の可否を証明できる術すらない。
得体のしれないメールから呼び出されて、こんな曖昧な“実験”に参加するモノなど普通はいるはずもない。
当然、男は自分が無事に帰れるなどという甘い妄想はしていない。通常の危機感を持つモノならば、メールが来て指定された場所を知覚した時点で断っているはずなのだ。否、ゲームで知り合っただけの赤の他人の為に命の危険のある実験に参加しようとするモノなど、普通はいるわけがない。
甘いやり方、とは男は考えない。これは企業側からした篩いなのだ。世の中に不必要な、変えの利く代替品の部品を見つけるための、自分達にとって都合のいい歯車を探すための。
反対した場合は無理やり縛り付けてでも実験にさらされることであろう。その為の施設で、その為の状況で、その為の人選なのだ。
だからこそ、男にとっては愉快だった。
「まあ、どうでもいいか。個室ってことは、俺の“心配”はほぼ杞憂だったんだろう……」
――俺一人が、最後にお前らに中指立ててやれればそれでいい
ほっと胸をなで下ろすため息に、スピーカーから感じられるのは疑問のような空気。どう答えるべきか迷っているのだろう。
男はそんな相手のことなどお構いなしに、かちゃりと機材を手に取った。
「勘違いすんなよ。お前らの計画には喜んで参加するよ。モルモットだろうがなんだろうが、俺はお前らがくれたこの機会に感謝してるんだ。
だが、確認の為に一つだけ質問がある。心配だったのはたった一つだ。前にお前らにメールで問いかけたたった一つだけだ」
楽しそうに、懐かしそうに機材を見つめながら綺麗に笑った男の口から……驚くほど冷たい声が流れ出る。
「こんなクソみてぇな実験に、俺の……ウルベルト・アレイン・オードルの、アインズ・ウール・ゴウンの仲間達は誰も参加してねぇだろうな?」
生来の目つきの悪さもあってか男の放つ雰囲気はまるで殺し屋のようであった。
沈黙を貫くスピーカーからは何も返答がない。
「命を賭けるのは俺みたいな使い捨ての歯車だけで十分だ。そうだろうがよ」
男は……ウルベルトは嘗ての仲間をこの実験に参加させるつもりはなかった。彼とてこの実験に参加するような愚か者がいるとはあまり考えていない。
ウルベルトとモモンガ以外、現実の世界に繋がりの多いモノ達ばかりなのだ。家族であったり、仕事であったり、友人であったり……それがウルベルトには眩しくて、羨ましいモノなのだが。
故にもし、万が一誰かが居たなら止めるつもりだったのだ。命の危険のある実験に参加するモノなど、この世界になんの未練も持っていない自分だけでいいのだから、と。
優しい誰かなら、もしかしたら責任感からモモンガ救出に参加するかもしれない……そんな予想は少しだけあった。しかし――
『……質問に答えよう。
君たちアインズ・ウール・ゴウンのメンバーでこの実験に参加するモノは……君だけだ』
現実は、ウルベルトの予測から出ることはなかった。
優し気な笑みをこぼしながら彼は視線を落とす。クルクルと手に持った機材を回し、スピーカーからの続きを待った。
『ほぼ全員に送りはしたが、返答はたった一通を覗いてNOだった。家族、恋人、友人、仕事……理由も様々だったが、ネットでの友人の為に命を賭けるモノは君だけだった』
「……そうかい」
少しだけ、ほんの少しだけだが彼は寂しそうにため息を吐いた。
所詮はゲームだ、という言葉が頭を巡る。スピーカーの相手からのそういった感情が容易に読み取れて、仲間の誰かはきっと、それと同じことを言うだろうと思ったから。
(あのくそったれな正義の味方なら……どうしたろうなぁ)
一人だけ絶対にソレを言いそうにない男を知っているが……彼はふるふると頭を振って考えることを辞めた。
『薄情な仲間、とは思わないのかね?』
「はっ……もう何年経ってると思ってんだよ。俺みたいにいつまでも進んでないバカじゃなくて、みんなそれぞれ大切なモン出来てるだろ。引退の理由なんてほとんどがリアルの優先だ。リアルの優先ってのは……“自分自身の優先”だ。俺みたいな選択をする方がオカシイ奴だろうよ」
自分自身にあきれたと言わんばかりに肩を竦めた彼は、コキコキと首を鳴らした。
「もう十分だ、運営さんよ。ビジネスの話といこう。報酬は確認した、条件も確認した、状況も把握した、説明も拝聴した。死ぬかもしれない事でも俺はもうやるって決めたからやる。俺がどうなるかはあんたらに任せよう。最低限の契約ってやつを守ってくれることを願ってるぜ。
他の仲間が巻き込まれることがない以上、余計な詮索はあんたらにとっても苛立たしいことだろうからしない。俺はただ……もう一度あの場所であの人に会えるならそれでいい」
少し寂しいが……と小さく呟き彼は機材を頭から被った。
――もし、この企業の人間のいう別派閥が、嘗てのメンバーを無理やりに実験に参加させていたなら……
ふとそんな予測が頭によぎった。ありえない話ではない。比較的温和な対応をしている自分の相手とは違い、誰かしら無理やりに連れ去られていてもおかしくはないだろう。
彼はそこまで考えて小さく首を振る。
――それならそれで、俺のやることが増えるだけ
これ以上は考えても仕方ない。ゴロリ、と大の字にベッドで横たわる。
『聞き分けのいい協力者でとても助かるよ』
「騙して悪いが……なんて言わないでくれると助かるがな」
軽口に対しての返答はなかった。
多くの機材が動き出す音が聞こえる。彼は気にせずに目を瞑った。ヘッドギアにある一つのボタンに手を伸ばす。もう何年も前からしていないログインの為の動作。
少しだけ、ウルベルトはワクワクしていた。確かに死ぬかもしれないことへの恐怖はあるが、未知の事態に挑戦する自分のその行い自体にワクワクしてしまっていた。
非常識だろう、なんて言葉は受け付けない。彼は相応の覚悟を以っているのだから。
『では――――よい理想(ゆめ)を――――古き大災厄、ウルベルト・アレイン・オードル』
最後に聞こえたのはそんな言葉だった。
何処か期待を込められたその声を聞いて……深く、深く堕ちていく。
(待ってろよ……モモンガさ……ん)
思考が
視界が
感覚が
心情が
脳髄が
彼の全てが闇の中へ
†
涼やかな風が頬を撫でる。静かであたたかな木漏れ日がチラリチラリと閉じた瞼を刺激して、彼は落ちていた眠りから優しく起こされる。
ゆっくりと開いた目。吐き出した吐息は小さく、ぼんやりとした脳内はまだはっきりと整理されていない。
小鳥達の囀りが耳に優しく響き、身体の上に乗った小動物が不思議そうに彼の顔を覗き込んできて―――
「うぉっ!」
跳ね起こした上半身から転げ落ち逃げていく小動物を目で追いながら、呆然と、彼は大きく息を吸う。
昔とは違う始まり方。本来ならばいるべきはずの場所に居ない自分と始まりの場所。現状把握を……と考える暇もなく、聡い彼はあることに気づく。
「なんだよ……」
脈打つ鼓動は不安から。速くなる呼吸は焦りから。額をつたう汗は恐れから。
自然と顔に持って行った手は……“山羊の頭”をしっかりと掴んだ。
「なんなんだよ……これは……」
慣れていたはずの理想(ゆめ)の世界とは違う場所であると気づいて、彼は混乱の渦に飲み込まれる。
冷静であれ、と心がけていたさしもの彼でさえ落ち着いてなどいられない。なにせ―――
「感覚が……」
デジタルにはあるはずのない五感の全てを感じられることが、異常事態以外の何物でもないのだから。
静かに恐怖する彼はまだ気づかない。世界が変わったのならば、自分も変わっているのだということに。
混乱に落ちている彼はまだ気づかない。己の望んだ……理想が叶えられるほどの強大な力を得ていることに。
乖離した人の自分と今の自分、違和感を全く感じないその異常にも、まだ気づかない。
カサリ、と音がした。小さく大地に何かが落ちる音もした。
混乱していた彼は人の気配に気づけなかった。
この異常から抜け出す為に、せめて何か……と手がかりやきっかけを求めてしまうのは詮無きこと。そして彼はその気配に近づいて行き――
「――おげぇぇぇぇぇ!」
「うぉっ! きたねっ!」
いきなり口から神秘の液体を吐き出す少女と出会った。
ほんとはたっちさんの始まりも合わせて書きたかったんや……
たっちさんは後まわし
次はモモンガ様のお話