西暦2138年の現代世界はとても人間が暮らせる世界として成り立っていなかった。
留まることのない環境汚染。ロボットの燃料と同義のような生きる為だけの栄養食。当然、自然などというモノは残されておらず……透き通った青空や真月、星々など目に映るはずもない。
濁った太陽光に濁った空気だけでなく、管理されつくした社会情勢や貧富の格差。もはや人は生きているのか死んでいるのかも分からなかったのではなかろうか。
そんな世界で生まれた一つのゲームは、まさに現代に生きていた人々の理想だったのではなかろうか。
仮想世界の魅力に憑りつかれた人々は後を絶たず、現代の生活をギリギリまで削ってでもその世界に入り浸った。
DMMORPG「ユグドラシル」
体感型大規模大人数オンラインロールプレイングゲームとして異例の大ヒットを博したそのゲームも終わりの時が来た。
日本中でその名を知らぬモノのいないゲームであっても、一コンテンツである限り時代や流行の移り変わりに逆らえるはずもなく……あと僅かな時間で栄光の歴史に幕を下ろす。
築いた栄光も、創り上げた理想(ゆめ)も、育んだ絆も……全てが。
†
“アインズ・ウール・ゴウン”というギルドがあった。
異形種のメンバーのみで構成されたそのギルドは、かつて1500人のプレイヤーの侵攻すら跳ねのけた上位ギルドだった。
しかし、栄光の道を進んでいたそのギルドであってもその他のギルドの例に漏れず、メンバーの引退は避けられぬ現実であり、今や残るメンバーは数人だけ。
一人、また一人と辞めていったその先に残った数人であっても、ここ数年でログインし続けたのはたった一人。
拠点であるナザリック地下大墳墓の最下層の玉座の間には、ギルド長であるモモンガが玉座にゆったりと腰かけていた。
「……やっぱり来ない、か」
寂寥を含んだ声音は広い部屋の中に静かに響く。
サービス終了を少しでも華々しく飾ろうと思い、ギルドメンバーに送った招待のメールは数名を除いて空振りに終わった。
ほんの数十分前に来てくれたギルドメンバーである“ヘロヘロ”も、明日の仕事があるからと簡易な挨拶だけを行いすぐに帰ってしまった。
嬉しさはあった。何せ数年ぶりに話すことができたのだ。
ギルドを維持する為にたった一人で来る日も来る日も効率を求めて金貨を稼ぐ日々。誰が戻って来てもいいようにと守り続けた大切な場所。
突きつけられたサービス終了の絶望であっても、こうしてメンバーと言葉が交わせたのだから幸せをくれたと言ってもいいのかもしれない。
ただ……モモンガの心には寂しい風が吹いていた。
死の支配者・オーバーロードであるモモンガは玉座に肩肘を立てて頬杖を突いた。髑髏の赤い目は不敵を移さずただ無機質な色を輝かせるだけ。
静寂の中で控える目の前のNPC達を見つめながら彼は膝に置いた片手を握りしめる。
(どうしてそんな簡単に捨てられる……っ)
――ギルドの皆は生きる為にリアルを選んだのだ。現実で人間として生きるには、いつまでも理想に囚われていてはいけない。
頭では分かっていても、孤独と寂寥に支配された彼の心は悲鳴を上げて泣いていた。
しかし口に出すことすら出来ず、彼は震える拳を握るだけ。
あと十数分で終わるゲーム。他の誰かがモモンガを見ればたかがゲームにと嗤うかもしれない。
しかし家族も友達もいないモモンガにとっては大切な大切な絆だったのだ。
一つ一つ楽しかった時間を思い出していく度に、彼の拳は握られる。
悪のギルドでは異端の正義を進んだ男、誰よりも悪に拘った悪魔、千変万化の声で癒してくれたピンクの粘体、ムードメーカーであった変態鳥人、失われた自然を創り上げようとした蒼い星、設定とギャップに情熱を注いだ錬金術師、動けば悪戯しかしないトラブルメイカー……
異形種狩りに苦しんでいた自分を助けてくれたのは誰であったか。回顧の末に辿り着いた始まりのきっかけに、彼はハッと息を呑む。
自分から彼らに繋がった40の絆のイトは切れても、思い出を切り離すことは出来なかった。
孤独に震えるモモンガであったが、握りしめていた拳をゆっくりと解いていく。
(このまま終わるのは……嫌だな)
ギルドメンバーがいなければ自分はここにはいない……否、ギルドメンバーが居たからこそ楽しかったのだと、思い出を反芻していく内に思えた。
今でも心に残る大切な思い出は宝物。旅立った彼らに対して怨嗟を向けることは、昔の彼らとの時間を否定しているように感じた。
(最後なんだ。誰も居なくても、誰も見てなくても、俺はモモンガとして……アインズ・ウール・ゴウンのギルドマスターとしてやりきろう)
残り時間は十数分。
ゆらりと立ち上がった彼は、最後に連れてきたNPC達を見下ろした。さながら魔王のように。
プレアデスと呼ばれる戦闘メイド達、まとめ役である執事のセバス・チャン、守護者統括のアルベド。控えさせたのはそれだけだ。
此処にナザリック全てのNPCを集めても良かったかと考えるも、今更そんな時間はない。
「面を上げよ」
静かな、それでいて重量感のある声が零れ落ちる。
支配者としてのロールを演じることは、ギルドメンバーが居る頃から慣れている。目の前にいるのはただのNPCであるが、モモンガはNPC達に向けて仲間たちに語り掛けるように言葉を紡ぐ。
「盟友達の帰還は未だ叶わず、理を覆すには我らは余りに矮小過ぎた。
我らがアインズ・ウール・ゴウンの栄光は不滅なれど、運命の歯車は止められぬ。我ら41人の力をもってしても……この世界を拾い上げることは出来なかった」
演じる自分は魔王。魔王は世界を救ってはならない。魔王はあくまでも尊大に、横暴に。
しかれども魔王は世界を知るモノでもあれと願った。今のモモンガが思い描く魔王は、世界に挑み、世界に負けたモノ。
仲間たちはきっと魔王の盟友。共に世界に挑んだ最高の戦友。彼らの力をもってしても、やはり世界には敵わない。
「聞け、愛しきアインズ・ウール・ゴウンの子らよ。
時は来た。今宵、我が求めた愛しき世界は泡沫へと消え去ることとなる」
間。
一寸の間は部下達が息を呑むようにと。
彼自身が思い描く部下達の姿を脳髄に移しながら、彼は震える喉を叱咤して言の葉を続けた。
「唯々……無念だ。
誇らしきナザリック地下大墳墓、そしてこの愛しき世界ユグドラシルは、このモモンガや盟友達が欲するも手に入るモノではなかった。
お前達には私が諦める姿を見せたくはないが……崩壊へと進んだ針は戻せない」
憐憫を振りまいたその声音は彼の本音が強く出ていた。
出来ることなら、ずっとユグドラシルで遊んでいたかった。そういった願望の発露。
「私たちの理想(ゆめ)は終わる。この私も、世界の選択によりこのユグドラシルから弾き出されることとなる。
不甲斐ない主ですまない。俺は……ナザリックを守ることが出来なかった」
真に迫る心の内だからこそ、彼の言葉には想いが宿る。
(どうせなら……ユグドラシルが現実ならよかったのに……)
壊れ行くことが確定している現実世界よりも、自分たちが理想(ゆめ)を求めた仮想世界(ユグドラシル)が現実であったならば。
到底叶うことのない願いを心の中だけで零して、モモンガは小さなため息を吐き出した。
(サーバーがダウンして全てが無に帰すとしても、俺達が過ごしたこのナザリックが宇宙の何処か遠い所で存在していたなら……NPC達はどうやって暮らしていくんだろうな)
自分が消えるということは、NPC達に自分自身の、モモンガと同じ痛みを与えるということだ。
帰ってこない仲間たちを待ち続けて、そうして、彼らは永遠を過ごしていくことになるだろう。
くだらないもしもの話だ。絶対にありえないと思うもしもの話。
最後に言うことは、きっと叶うことがないだろう願い。
「……しかしもし……もしもお前達だけは消えずにいられるというのなら、これからはお前達の思うように生きて、お前達の思うように未来を掴み取れ。
ただ一つだけ、どうか私たちの理想(ゆめ)を心に留めておいて欲しい。私たちがこのナザリックに生きていたことを覚えておいて欲しいのだ」
これは我がままだろう、とモモンガは思う。言うべきではないのだろう。しかし止まらない、止められない。
「私たちが笑いあったこの場所を、私たちとお前達の大切な家を、どうか……よろしく頼む」
これ以上続けていたら泣き出しそうだったから、モモンガは強引に終わらせる。
NPC達の表情は変わらない。何も、何もかもが変わらない。
急激な虚しさと寂しさが心を支配して、モモンガは彼らを見ていられなくなって背を向けた。
「では……さらばだ。愛しきナザリックの子らよ」
最後の刻まで後数分。
行く場所はもう決めていた。
「アインズ・ウール・ゴウンに栄光あれ!」
声を高らかに上げて示したるは過去の栄光。そして理想との決別。
装備していたリング・オブ・アインズウールゴウンを発動させて、彼は玉座の間を後にした。
カチ……カチ……とデジタル表示が刻を進める。
それを見ることが出来るモノはもはやこの部屋にはいない。
静寂だけが支配する玉座の間に取り残された者達は、主の命を待つだけしか出来ない。
カチ……カチ……と刻が進む。
永遠に続くと思われたその時間は、とある時刻を以ってがらりと様変わりすることとなる。
23:59:58
23:59:59
00:00:00
ポタリ、と何かが落ちる音がした。
荘厳な空気と静寂が支配する玉座の間に、その音は幾重も重なって広がっていく。
「……っ……ぅ……」
「……ぅぁ」
「ふ……ぅ…」
押し殺すような声が幾つもあった。その数は八つ。
主の命令はまだ来ていない。
動いてしまえば、声を出してしまえば“これ”が現実のこととなってしまいそうだから、彼らは声を押し殺していた。
小さな水音だけだったはずが、幾重も幾重も重なっていく。
衣擦れの音も、次第に増えていく。耐えなければならない。耐えなければ“これ”が現実となってしまう。
きっとたちの悪い冗談なのだ。
今にもきっと、戻ってきてくださる。
いつだって優しい主は自分たちの所に戻ってきてくれたのだ。
だから今回だってそう。あんな……あんなことを皆の前で言っていても、それはきっと冗談に過ぎないのだ。
自分たちは忠実な僕であるのだ。不甲斐ない姿を見せてはならない。
だから、だから……
けれども彼らにはもう、抑えることなど出来なかった。
「モモ……ンガ……さ、ま」
誰かが零した。何れは誰かが口にしたであろう。
誰かが耐えきれなくなって零した御方の名前を耳に入れてしまった全員が大きく息を呑み――
――上げていた面を地に伏して叫んだ。
「―――――――――っ!」
慟哭が世界を包み込む。
主の望んだ生が与えられたことを彼らは知らない。
彼らにとって、命の始まりの刻は残酷に過ぎた。
気が向いたら書いていこうと思うお話。