終電高尾

終点高尾

ここは座敷

本当にやりたいこととは

ということを最近よく考えるのだが、やはり

  • それ自体が目的になること
  • 自分が良いと思っていること

ここらへんのことが肝になってくる気がする。

プラットフォームと価値という二元論

基本的に、それ自体が好きではない場合、これは何かを世間の人が成すために、その手助けをする仕事だ、という感覚になる。
プラットフォーマーという感覚だ。

しかし、自分はどうもプラットフォームを作るよりも、価値そのものを作り出したいという気持ちが強い。

ユーザー ← プラットフォーム ← 価値

といった流れで価値が届けられるとしたら、この価値を生み出すところをやりたい、という気持ちが強い。

しかし、実はこの図式自体、簡略化しすぎた恣意的なモノとも考えられる。

プラットフォームは価値では?

プラットフォームを作っている人で、本当にそのプラットフォームが好きな人は、自分はプラットフォームという素晴らしいプロダクト・価値をユーザーに届けている、と思える気がする。つまり、プラットフォーム自体が価値になるとも考えられるし実際にそうなっている場合もあると思う。

結局、価値を届けると言っているけど、それはプラットフォームでも良くて、それがプラットフォームであると私が感じる時は、その仕事に価値が無さそうだと考えているだけなのではと。

価値もプラットフォームになるのでは?

価値自体も色々に考えられる。
例えば、石鹸を毎日作ってる職人になるとする。
この石鹸、それ自体が価値だともし思うならばその仕事は素晴らしいものになるだろうが、そこに価値をあまり見いださないと、その石鹸を使って体を綺麗にした人が清潔な状態で毎日生活することで、そのユーザーが何かを生み出す手伝いをしている、と考えられる。
これはつまり自分が世界に生み出す価値はそのユーザーが生み出してくれる価値であり、その手助けをする、という構図であり、広く考えるとプラットフォーマー的である。

プラットフォームと価値創出は綺麗に二分されない

つまり、職業というものは、人間の生活が様々なプロダクトによって色々に相互作用していることから必然的に、プラットフォームであり、価値でもある、というふうに考えられる。

価値とは

じゃあ、価値ってなんだ、って話になってくるのだが、これは多分最終的には我々のDopamineあたりをジャバジャバ刺激して、人生を楽しくさせてくれるものな気がする。本質は多分そこ。

しかしそれだけだと価値をハックするやつが出てくる。具体的には麻薬とか。でもこのハック、無限に麻薬やってないとダメな状態になったりして、概ねサステイナビリティが無い。使い続けていたとしても、結局神経が不可逆な変性をしてしまうため快楽の閾値も上がってしまい、長期的には快楽が出なくなる。
そういうわけで、サステイナブルであるべきという制約条件が生まれる。


プラットフォームだとしても例えばGoogle検索画面とかそれ自体でもう楽しいと思うユーザーが居たらその人にとってはプラットフォームだと僕が考えるものがその人には価値になるわけだ。Dopamineバシャバシャかもしれないから。

仕事で自分が価値を生むとは

そうなってくると、これは価値がある、俺は価値を届けている!と思える自分なりの仕事を出来るように頑張りたいものだ。そして、その自負自体が自分にとっての価値・快楽に恐らくなるのだろうと思っている。この様に快楽には複数種類あって、それがいわゆる幸せの形、みたいなものなんだろうなとか。

自分はというと、自分が居なかったらこれはこうならなかっただろうなという仕事をちょいちょい出来ている気はするので、案外充実しているのかもしれない。ただ、まぁ関わってるプロダクト自体に興味はそんなに無いんだよなぁーというタダの好き嫌いの問題なのかもしれないとか思ったりするわけです。はい。

価値生産を社会規模で見てみる

価値を生んでいる自負があると、自分がそこに存在している理由というものを体感として納得出来ると思う。これはオルテガが言うところのトポス(場所。自分が意味ある存在としていれるような場所。)になんとなく繋がるところがあり、そういうトポスに根付きたいなぁーみたいなことを思った。トポスはもう少し、民主制をまともに成り立たせるための形として一般市民のあり方を問うたときに出てくるタームであり、目線が若干違いそうだ。その大衆化の過程や資本による労働の搾取の過程で多くの市民のDopamine放出タイミングを謎にコントロールしたせいで起きる矛盾やそれから生まれる人間の精神の虚無、民主主義においてこれを逆手に取った政治家が暴走して最終的にファシズムとかになるのだろう。
産業構造上、これは暴走というか、必然だったように思える。一度やらかして以来、世界全体での目が厳しくなったんだと思う。あとは徹底的に国をボコらないという精神みたいな。

ファシズムのような形に社会を変質させないようにどうしたら良いのかと言われると難しいもので、

  1. 個人個人の生きがいを生む(人の間で生きる意味を見いださせる)
  2. 個人に分離しないように中間領域を生み出す(パブリックマインドの形成)
  3. めんどくさい合意形成を丁寧にやっていく

ここらへんが必要かと思ったりする。
こういうことの実現のためには個人個人に生きる意味、価値を見いださせるというような点が大事なのかなとか思ったりする。



麻薬に関しての記事
www.yuzashiki.tokyo

オルテガの記事
www.yuzashiki.tokyo