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更新日:2010年3月1日
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箕面に足跡をしるした有名人
母とともに紅葉の箕面を訪れた野口英世
文 福田薫(郷土資料館館長)
阪急箕面駅から滝道を徒歩で約25分、瀧安寺を過ぎてしばらく行った左手の崖がけの上に、昭和30(1955)年11月に建立された野口英世博士の銅像があります。
銅像の台座の石には、赤間文三府知事の文による、野口博士の偉業と銅像建立の由来が記された銘板がはめ込まれているほか、箕面町長を始めとする、銅像建立に尽力された多くの人々の名が刻まれています。
野口博士が箕面を訪れたのは、大正4(1915)年10月10日のことでした。
15年ぶりにアメリカから帰国した野口博士は母シカを伴って、大阪城を見学した後、接待役の大阪高等医学校長(現大阪大学医学部)佐多愛彦氏ら一行で2台の自動車に分乗して、紅葉色づく箕面を訪れました。
滝道の料亭『琴の家』で歓迎の宴が開かれましたが、野口博士は「おっかさん、これは鰹かつおの刺身ですよ」「ご飯も召し上がれ、松茸(たけ)のおつゆですよ」と自ら箸はしを取って母に食べさせるなど、老いた母をいたわる野口博士の孝行のようすは、同席者を始め、宴会に呼ばれていた舞妓まいこ衆、琴の家の女将おかみや従業員などに感動を与え、涙を誘いました。
このときのようすを見て心を打たれた琴の家の女将の妹、南川光枝氏は野口博士の銅像を建立するため、自らが所有する土地を処分して500000円を用意しました。
しかし、銅像建立に必要な額には足らず、府内の学童や箕面町の人々に募金を求め、2500000円の浄財が集められました。
銅像の製作を著名な彫刻家・吉田三郎氏(日本芸術院会員)に託し、横浜で完成した銅像は、国鉄川西池田駅(現JR川西池田駅)まで鉄道で運ばれた後、箕面にお住まいの農家のかたが牛車に乗せて箕面駅前まで運びました。
さらに、箕面駅前からは、牛車に紅白の綱を結んで、子どもたちが滝道を引いて行き、『琴の家』を見おろす崖の上に安置されました。
箕面公園にある野口英世像(写真)
右手に試験管をかざして、左手を腰にあてる姿は、東京の上野公園に建てられている同じく吉田三郎氏作の野口博士の銅像(昭和26年3月建立)と同じスタイルのものですが、箕面にある銅像は滝道から見えにくい崖の上にあることから、上野公園のものほど多くの人に知られていません。しかしながら、野口博士が見せた母親への孝行と、それに心をうたれた人々の物語を今に伝えています。
琴の家(写真)
銅像の下にある琴の家は、現在民間の保養施設になっていますが、今も看板には『琴の家』の文字が残されてます。
残暑厳しい9月ですが、これから箕面は少しずつ秋の気配が深まっていき、歩きやすく美しい季節を迎えます。
滝道からほんの2分ほど、山道を上っていただくと、千円札の肖像でおなじみの野口博士の端正な尊顔と対面できます。
銅像の前から『琴の家』を見下ろし、野口博士の母への孝行や、南川光枝氏を始めとする、銅像建立に携わった人々に思いを寄せていただけると幸いです。
(参考『大阪毎日新聞 大正4年10月10日夕刊』)
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