榎本はニヤリと笑みを浮かべた。 そうだ、と言わんばかりに榎本はキーボードを操作し、画面を切り替えた。 そこに映ったのは「Y軸──時間を傾け、直線t´と垂直に交じり合わせた」映像……。 「……」 「これで理論上は──いや、事実上と言ってもいいかな── ふたつの地点は同じ時間軸上に存在することになった」 「……」 「先ほどの諸問題は一挙解決」 「量子情報を交換しあうための状態は整った」 「こうして、2011年の朱倉岳サークルと2012年の青鷺島サークルは相互に転移を繰り返す」 「OK?」 バカげた話だった。 しかし、それは事実起きてしまっているのだ。 この身で何度も何度も体験しているのだ。 どんなに信じがたい理論であっても、それはオレにとっては間違いなく現実なのだ。 オレの頭は、まだそれを受け入れることに激しい拒絶反応を示していた。 「まだ納得できないようだな」 「仕方ない」 「では実証してあげようじゃないか」 「なんだって?」 「時空間転移を、さ」 「とは言っても、きみ達に起きているような大がかりなものは無理だがね」 「時空間転移装置のプロトタイプがある」 「それを使って実践すれば、さすがのきみも納得せざるを得ないだろう」 「これが時空間転移装置のプロトタイプだ」 「ざっと説明しておこう」 「この中央の箱がEPRペアの発生源……量子的絡みあい状態の粒子を発生させるところだ」 「そして、その両側にある箱がアリスとボブ──送信側と受信側だ」 「能書きはいい。見れば大体わかる。さっさと始めてくれ」 「それは結構なことだ」 「ではアリスとボブの中に、この淹れたばかりのコーヒーを入れるとしよう」 「ちなみに、アリスは2011年の朱倉岳、白いコーヒーソーサーは朱倉岳サークル……」 「白いカップは冬川こころ、を示していると思ってくれたまえ」 「逆にボブは2012年の青鷺島、黒いコーヒーソーサーは青鷺島サークル……」 「黒いカップはきみ──優希堂悟、を示している」 「なるほど……で?」 「う~ん、美味い」 「やはりコーヒーは濃いめのブラック、それも淹れたてが一番だ」 「……」 「それに引き換え……」 「ミルクの入ったコーヒーは最悪だ。不純物のせいでコーヒーがコーヒーでなくなっている」 「そうは思わないかね?」 「話が逸れてるようだが?」 「そんなことはない。これも重要なプロセスの一部なのだよ」 「……」 「で? きみはどう思う? コーヒーはブラックか? それともミルク入りか?」 「ミルク入りだ。当然だろう」 「ミルクを入れないコーヒーなんて、ソースのかかっていないステーキみたいなものだ」 「それにブラックは胃にも優しくないんだ。長生きしないぜ、あんた」 「ふっ、大きなお世話だよ」 「まったく、きみとは本当に意見があわないな」 「どうだい? きみもひとくち飲んでみないかい? 実際に舌で確かめてくれよ」 「これを、か?」 「あんたが飲んだ、このコーヒーを?」 「そうだ」 「心配するな。毒なんて入っていない。私も飲んだだろう?」 「それに私は変な病気も持っていない。妙な意味も込めていない。安心してくれ」 「……」 「まあ、無理にとは言わないが」 「これを飲むことが重要なのか? その実証のために」 「もちろんだ」 「……」 「どうだい?」 「アリスの方──つまりミルク入りの方が断然美味い」 「なるほど。結構だ」 「では、続けようか」 「で? どうすればいい?」 「なにもする必要はない。ただ見ているだけでいい」 「……」 「なにも起きないようだが……?」 「まあ、見ていたまえ」 「そろそろだな」 「これは……」 「転移したのだよ」 「では、アリスに入っているコーヒーは……」 「そう。未来──今から一分後のボブのコーヒーの情報が、アリス──過去へと転移してきたのだ」 「……」 「そして、さらに一分が経過すると……」 「……!」 「過去──今から一分前のアリスのコーヒーの情報が、ボブ──未来へと転移してきた……」 「その通り。さすが物わかりがいい」 「これが……」 「転移──量子テレポーテーションだ」 「では、もう一度ふたつのコーヒーを飲み比べてみたまえ」 「は?」 「いいから。飲めばわかる」 「えっ!?」 「今度はどうかな?」 「ふふっ」 「どういうことだ……?」 「わからないかね? コーヒーとカップという『物質』は入れ替わったのに、 美味さという『概念』はその場に残留している」 「まるでなにかを暗示しているように感じられないか?」 「……」 「意識……」 「そう、意識の残留現象。それを意味している」 「きみ達ふたりのまわりの物質と肉体は入れ替わっていても、意識はその場に残り続けている」 「──以上、実証終了」 「待てよ! 味なんて、そんな曖昧なもので説明されたって……」 「味覚があてにならないと?」 「そうだ。そのときの気分でコロコロ変わったってオカシクない」 「まあ、その考え方も否定できなくはないが……」 「先程も言っただろう? 真理は頭で考えても見えてこない。常識という枠に囚われてはいけない」 「感じたことを、素直に受け入れたまえ」 「だが、しかし……!」 「では、あえて補足しよう」 「きみがこれまで幾度となくその身で体験してきた現象はなにを意味する? どう説明する?」 「……」 まさにグゥの音も出なかった。 「これで信じてもらえたかな?」 オレは基本的に疑り深い性格ではあるが、これまで体験してきたことと、 今目の前で行われた現象を目の当たりにして、 疑う余地はまったくと言っていいほどなくなってしまった。 ──これは、誰がなんと言おうと、現実なのだ。 「なぜだ……?」 「なぜ、とは?」 「なぜ、こんなことをする必要があったんだ……?」 「こんな時空間転移なんてことを……」 「……」 「答えろよ!」 「どうしてこんなバカげたことを!」 「ふふっ」 「ふふっ、ふふっ、あははは……」 「あははははははははあははは」 「なにが、なにが可笑しい!?」 「可笑しいさ。非常に可笑しい。大変可笑しい。可笑しくて可笑しくて堪らない」 「なにせ……きみのくちから、そんなセリフが聞けるとは思っていなかったんでね」 「ああ、失礼」 「今のきみなら、そう言うのは当然かも知れないな」 「……」 「では答えよう」 「この時空間転移を……計画を行った理由……目的……」 「それは……」 榎本は……すっと……オレを指差した。 「それはきみがよく知っていることだろう?」 「なに……?」 「これが答えだ」 「これ以外に言いようがない」 オレは自分が何者なのか、知らなかった。
オレは……。 オレは…………。 オレは………………。 |
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