シリアをあけすけに批判して爆殺されたレバノン人作家のサミル・カッシルは、アラブ人を「世界規模のチェス盤の上のつまらない歩兵にすぎない」という無力感に襲われていると述べた。しかし2011年のアラブの春は、そのストレスを拭いさろうとする試みである。子供時代をベイルートとカイロで過ごした著者は、西欧社会が感覚的にもつ中東とアラブへの先入観を払拭するために、アラビア語やトルコ語による現地史料を使いながら、アラブ世界のゲームが西欧のルールで動いてきた歴史的不条理を批判的に分析した。
著者は、これまでサダム・フセインやカダフィーのような独裁者から自力で脱却できない一方、勝手気ままに中東で利益を追求してきた欧米の力への怒りと不甲斐(ふがい)なさからストレスに陥ってきたアラブの民衆と近代史の構造を描いている。アラブ人の心にいかに絶望感が突き刺さっているかについて同情を隠さないのは好ましい。それでいて、近代をオスマン帝国支配期、ヨーロッパ植民地期、冷戦期、アメリカ支配とグローバル化時代の四つに分けて冷静な分析を怠らないのが魅力的である。
著者の分析に手がかりを与えたのは、アラブが繁栄と偉大さを達成するか、そうしようとしていた時期が二つあったというカッシルの指摘であろう。その第1は、広大なイスラーム帝国が成立した7世紀から12世紀までの時代である。第2は、19世紀に始まる文芸・思想のルネサンスであり、これはアラビア語でナフダ(覚醒)と呼ばれる。映画産業から劇作や音楽や美術に及ぶ実り豊かな成果を収めたものだった。
著者は、エジプト人の女性解放運動家フダ・シャーラウィが特権階級の女性から脱皮し、保守的な夫の思想を変えながら、民族運動とフェミニズム運動を結びつける過程を子細に描いている。エリートと労働者階級の女性の敷居を取り払い、エジプト国民としての同一性を獲得する歴史を分析できたのは、著者が市民の日常生活や慣習を理解する視点をもつからだろう。北アフリカから東アラブの世界にまたがる歴史をとにかく叙述した力量は凡ではない。
(明治大学特任教授 山内昌之)
[日本経済新聞朝刊2014年1月5日付]