黒い現と白い夢(仮)

ご機嫌麗しゅう存じますお嬢様。

これまで、くどくどと長ったらしい講釈を並べ立てては、理解の及ばぬ奇妙奇天烈な話を繰り広げてまいりました。

意味が理解できず、やきもきしていらっしゃることでしょう。

最初に申し上げたでしょう。

きっと理解が及ばぬと。

ですがご安心くださいませ。





私が一番理解しておりません。





さて、お話の続きに参りましょう。







第三章 浅葱の小旅行



「これは...まずいんじゃないか」

黒崎がそう呟いて、私ははっとして眼下に広がる衝撃的な光景を整理し始めたのです。

あの紅茶を一口啜っただけで、泡吹き倒れた浅葱。

この劇物の生みの親は、きょとんとした表情で「配合、間違えたのかなぁ」と小首を傾げながら紅茶場へと下がって行ったのです。

「これ、どうしようか・・・」

「どうしようかったって・・・とりあえず容態を確かめよう」

黒崎はそう言って浅葱の体を摩り、声を掛け続けたのですが浅葱の体は時折痙攣するばかりで、目を覚ます気配は...ない。

なんと、惜しい人を亡くしてしまった。

彼はいつ何時だろうと、お嬢様の幸せを第一に考え、何事にも真摯に取り組む良き使用人でした。

ただ、この今際の際においては、浅葱が先刻粉砕したティーカップを巡って、第一に保身に走ろうと画策していたことはぜひ捨て置いていただきたい。

「ありがとう、達者でな」

私は静かに手の平を合わせ、仲間の別れを悼み、この壊れかけた日常と決別することにしたのです。

「おい、杉村!まだ死んだわけじゃないだろ。縁起でもないことするなよ。」

と黒崎に一喝されてしまったので、仕方なく浅葱を助けることにしました。

しかしまぁ、本当に・・・・飲まなくてよかった。





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わけがわからない...

ショーケースのガラス戸をそっと開けながら、手元に大切に抱えたティーカップを改めて眺めました。

自分が割ってしまったはずのティーカップが、何の奇跡か私の手の中に綺麗に据わっている。

割ってしまったはず、しかし割れていない。

割ってしまった自分の記憶を信じるか、割れていない現実を信じるか、私は少し眉間を摘みながら考えたのですが、答えは至極当然というべきでございましょう。

世の老若男女様々なる人に同じことを問いかけても同じことです。

私は、この奇跡をこの身いっぱいに受け止め、頬には一縷の涙が流れておりました。

「浅葱くん?どうしたのです。泣いているじゃありませんか」

乾執事には不思議なことかもしれませんが、三途の河を行って来いで生還できた私にとっては、涙を止めることなどできなかったのです。



ガラスに薄っすらと映る自身の泣きっ面に少しはにかみ笑いを浮かべながら、あの時果たすことのできなかった任務を確実に遂行させたのです。

改めて考えると、もはやあの苦い思い出は私の思い違いだったと認めざるを得ませんね。

黒崎さんが頓珍漢な夢物語を語りだしたことも、きっとそれ自体が夢物語だったのでしょう。

散りばめられた不可解なピースをひと繋ぎの日常に完成させた私は、静かに鎮座するティーカップを眺めつつ、ガラス戸をそっと閉め、満面の笑みで呟いたのです。

「これが、私の現実」





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嗚呼、世界はなんと素晴らしいのでしょう。

生きてるって、なんと素晴らしいのでしょう。

罪と罰の呪縛から解き放たれた私の目には、映るもの全てが愛おしく輝かしく見えて仕方がないのです。

件の任務を確実に完璧に遂行した私は、ティーサロンのフロアに一人たたずみ、生の喜びに浸っておりました。

美しい調度品には、まるで生きているかのように花が咲き、小鳥が止まり羽を休め、歌っているようにも見えてきます。

自分の日常がこれからも不変であることがあまりにも嬉しくて、なんだか幻想まで見えてきてしまいました。

しかし、突如としてなにか異様な香りが私の鼻腔に突き刺さりました。

嗅いだことのあるような、ないような・・・とにかく不愉快極まりない匂いがフロア中に漂っているのです。

臭いの元はどこかと歩き回った次第ですが、フロアに異様な点は見当たらない。

「もしや、フロアの外か?」

私はフロアから扉一枚隔てた先の、紅茶場へと歩を進めたのです。

もしかすると使用人達が紅茶を淹れているのかも、あるいはさらに奥にあるキッチンの方に、なにか臭いの元があるのかもしれません。

おそるおそる紅茶場へと続く扉を開くとそこには・・・

「やぁ、浅葱くんじゃあないか」

そこにいたのは、先の夢物語に登場した、あの使用人・・・

「隈川さんじゃないですか。なにしてるんです?」

まさかのまさかです。

悪夢とも言えるあの夢物語において、罪に打ちひしがれる私に追い打ちをかけるが如くの苦痛を与えた張本人が、また懲りずに紅茶をいれているのですから、私もさすがに驚きを隠せずにいました。

しかしながら、夢は夢。

空想の悪行をわざわざ咎めることなど、尊敬する先輩にできるはずもありませんから、隈川さんが如何に粗悪な紅茶を振る舞ってくれたのかなど、私の胸にそっとしまっておくことにしたのです。

「なにって、紅茶を淹れているのさ。いやね、今度のお茶会で振る舞う紅茶の試作をしていたところなんだ。なにせ開催は1か月後だからね、仕入れや最終的な調整を鑑みるとのんびりもしていられないから、こうやって休日にも出向いて試作しているのさ」

何事にも懸命で誠実。やはり私の知る隈川さんはこういうお方だ。あんなおどろおどろしい紅茶を作る人では決してないでしょう。

しかし一点、先ほどから臭う異臭が、私の鼻について取れないのが不愉快極まりないのです。

この臭いどこかで・・・いや、しかし初めての臭いのような気もします。

「いまね、途中段階だけどよかったら浅葱くんも何か意見をくれないかな。この特別なブレンドティーには、何かが足りないんだ」

「何かって、材料の話ですか?」

「そう。紅茶に合いそうなものをあれやこれやと試して作ってはみたものの、肝心な何かが足りない気がするんだよ。最後の一つの材料さえわかれば、完成なんだけどねぇ」

「ベースの紅茶はクセのないセイロンにしたんだ。そして、様々な副材料を混ぜ合わせてできた試作品がこれさ。あ、そろそろ蒸らし終わる頃だね。・・・ほら、できた。これさ」

そう言って隈川さんは蒸らし終わった紅茶をポットに移し、カップへと注いでくれたのですが・・・

私はそこで初めて、先ほどから鼻を突いてたまらないあの異臭の正体に気付いたのです。

紅茶特有の透き通った水色など皆無。

立ち上る湯気から香るのは、可憐な花や芳醇な蜜の香り・・・ではなくひたすらに腐臭が漂っている。

私を生命の危機にさらした、あの紅茶にそっくりなのです。

しかし、一つ疑問に思うことが・・・確かにあの紅茶に限りなく似てはいるのですが、それでもただ似ているだけなのです。

香りが鼻に入ってきた時の不快感が僅かに違う。

別に私は【異臭のソムリエ】といったような特異な技能を持ち合わせているわけでもなんでもないのですが、やはり違うと言い切れるのです。

隈川さんの表現をお借りするならば、まさに何かが足りないといったところです。

そこで私は、おそるおそる隈川さんに尋ねてみたのです。

「あの、隈川さん・・・これ、もしかして秋刀魚のはらわたって入ってたりします?」

私がそう問いかけると、隈川さんは少し俯いて考えると、途端に晴天の霹靂のような驚きを見せたのです。

「そうか!!!秋刀魚のはらわたね!いやぁ、それはいいかもしれない。よく思いついたねぇ!さっそく試してみるよ」

「いや、あの隈川さん・・・冗談ですよ?秋刀魚のはらわたなんて入った紅茶をお出ししては、お嬢様も卒倒してしまうでしょうから。現に私は・・・いえ、夢の中のことではありますけれどもさすがに―」

「よし、できたよ!」

私の抑止の言葉も虚しく、隈川さんは勝手に紅茶を完成させていました。

そもそも秋刀魚のはらわたを直ぐに用意できたのはなぜなのでしょうか・・・

「ありがとう、浅葱くん。君のおかげで何とかここまで仕上げることができたよ。ささ、試してくれ給え」

そういって手渡されたティーカップには、あの・・・まごうことなきあの紅茶が。

禍々しい水色も、この世のものとは思えないあの香り、いや臭いも。

何もかもあの悪夢で見た紅茶そのものではありませんか。

にやにやと不敵な笑みを浮かべる隈川さんを横目に、私は本当に余計なことを言ってしまったと深く後悔しました。

まさか、あの紅茶を再び生み出してしまうきっかけを、奇しくも被害者である私自身が与えてしまうことになるとは。

先ほどまでの生きる喜びとは一転、本能的に感じる死の恐怖に対面した私は、ティーカップを手にしたまま動けずにいました。

「どうしたんだい浅葱くん?ほら、早く飲みなよ」

「く、隈川さん、お言葉ですが本気でこの紅茶をお嬢様にお出しするつもりなのですか。どう考えても秋刀魚のはらわたを使った紅茶なんて、飲まずとも・・・」

「ああ、本気さ。今朝見た夢でインスピレーションを受けてねぇ。常日頃からお嬢様に未知の味を提供したいと思っていた私にとっては、試さずにはいられなかったのさ」

夢の中だけだと思っていた隈川さんの狂人ぶりを現実で目の当たりにした私は、もはやこの状況すらも夢であってくれと願うばかりなのです。

「さぁ、はやく」

尚も私に紅茶を勧める隈川さんの目に、圧倒的な畏怖の念を感じた私は、耐えきれずカップに口を近づけたのです。

嗚呼、お嬢様・・・先立つ浅葱をお許しください。

「ええい、ままよ!」





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あれ・・・ここは、紅茶場・・・でしょうか

私の手には、ティーポットが握られている。

蒸らし立ての紅茶から立ち上る禍々しい独特の香りがなんとも優美で、濁った水色には、満足気な自分の笑顔が映っている。

私は、すすぼけたティーカップを棚から取り出し、ティーセットの準備を進めていました。

揚々と紅茶場を抜けティーサロンのフロアに出ると、一足早くお嬢様に紅茶をお出ししようとする者がいる

凛とした立ち姿、後ろへと流した髪の、前髪だけがざんばらにおろされた頭髪。

彼が今まさにお嬢様の下へと紅茶を運んでゆく。

「待って!綾瀬!」

彼は少し横目に振り向き、私に言葉を投げる。

「悪いね浅葱。私の紅茶が先だ」

先を越されてしまった。

せっかく美味しい紅茶を淹れたというのに、出し抜かれるとは。

ああ、彼はついにお嬢様に紅茶をお出ししてしまった

しかし、お嬢様がひとたびカップに口をつけるやいなや、綾瀬の紅茶を・・・















「・・・・・ぎ・・・さぎ・・・・・浅葱!!」

「・・・はっ」

はたとして目覚めると、黒崎さんと杉村さんが心配そうに私を見つめていました。








続く
Filed under: 黒崎 — 23:00