黒い現と白い夢(仮)

お読みいただいているお嬢様に於かれましては、きっとこのようにお思いでしょう。

「黒崎がおかしくなった」と。

恐れながら、敢えて申し上げます。

「私は、最初から私です」と。

人の心の内というものは甚だ理解し難いもので、かくいう私もお嬢様の心の内に秘めた、壮大かつ清廉な御心を計り知ることはできません。

ですが、私はお嬢様に知っていただきたい。

私のこの心に秘めた底知れぬ不思議を、知っていただきたい。

受け入れてほしいなどと、我儘は申しませんから。





さて、お話の続きに参りましょう。








第二章 起きてみる夢



静かな夜

雲一つない空は光を遮ることなく

月はより一層輝いてみせる

月の麓には小さな窓明かり

月の煌びやかな光とは対照的に

小さなスタンドライトがぼんやりと部屋を灯す

私は机に向かっている

少し虚空を見つめてはまた筆を進ませる

何を書いているのだろうか

その手に持つ筆の先へと目を凝らす

ぼんやりと霞み内容はわからない

私はやがて側にあった湯気の立つティーカップを手に立ち上がった

窓の側まで行くと月の光が私を照らす

薄暗い影と煌びやかな光に包まれた私の顔

小声で何か呟いてカップをくいと傾けた...


これは、夢の中の私…か





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隈川さんはにこやかな笑みを浮かべ、私たちの前に現れた。

手には何やら銀製の大きなトレイを持っており、大きなティーポットと三客のティーカップを乗せている。

「どうしたんです?それ」

杉村は彼の意外な登場に驚きながらも問いかける。

「どうしたって、紅茶を淹れたのさ。今試作している紅茶だけど、よかったら君たちにも飲んでもらおうかと思ってね」

隈川さんがそっとテーブルにトレイを置いて答えた。

「それはそれは...ありがとうございます」

杉村は驚きの表情を変えず、ただ礼を述べたが、彼とは対照的に私は歓喜していた。

「これはありがたいです。ちょうど話し疲れて喉も渇いていましたから。何より、隈川さんの紅茶が飲めるなんて、これ以上に幸せな休日がありましょうか」

私は大の紅茶好きで、日に大体1リットル近く、朝昼晩と熱々の紅茶を淹れては嗜んでいる。

さらに嬉しいことに、隈川さんは当家の紅茶係としても有能な方で、紅茶に関する知識・技術は使用人の中でもトップクラスだ。

そんな彼の紅茶を飲めるとなれば、喜ばずにはいられない。

「でも、なんだってこんな休日に隈川さんが?」と杉村が問う。

「いやぁ、今日は休日ということもあってね。今度のお茶会で振る舞う紅茶を開発しようかと思って」

隈川さんの言う“お茶会”というのは、ここティーサロンにて多数の賓客を招き、優雅なるティータイムを楽しむパーティーのことを指す。

開催を1か月後に控えていることもあり、彼はそこで振る舞う紅茶の試作に勤しんでいたようだ。

「そうだったんですか」と杉村もようやく落ち着いた。

「で、今しがた紅茶場で作業をしていたら、フロアの方から声が聞こえたものでね」

「お騒がせしたようですみません」

「構うことはないよ。楽しそうで何よりじゃないか。ところで、なんの話?聞かせてくれないか」

隈川さんは眼鏡をくいと上げ、にこりと笑った。

咄嗟に杉村が慌てて応える。

「そうそう!隈川さん聞いてくださいよ。さっき浅葱が-」

すると浅葱が「ちょっと!」と杉村の肩をぐいと掴み、話を遮った。

「杉村さん、あの話は今はやめてくださいよ」

杉村の耳元で囁くように言う。

おそらく浅葱がそうしたのは、件のティーカップ事件が隈川さんの耳に入るのを恐れてのことだ。

まぁ、焦るのも理解できる。

隈川さんは非常に正義感の強い方であるから、このことを知ればきっと執事の元に自首するよう促すだろう。

だが浅葱にとってそれは最終手段であり、彼の中ではまだ尚早だと考えているに違いない。

「浅葱くんが...どうかしたのかい?なんだか、目も腫れて真っ赤のようだけど」

「い、いえ...あの...そう!そうなんですよ!どうやら花粉にやられてしまったようで、この通り目も鼻も真っ赤な始末です」

なんともお粗末な言い訳で誤魔化す浅葱。

これでは隈川さんが勘繰ってしまうに違いない。

しかし、「そう。それは災難だったねぇ」という声を聞いて私は椅子からずり落ちそうになった。

浅葱はホッとしたように肩を落とす。

「で、なんの話だったかな?」





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時刻は、もう6時半を迎えようかという頃。

私と杉村が話し始めてから、いつの間にやら一人二人と増え、さらなる夢の議論を広げようとしていた。

「実は黒崎が夢に関する考察を立てたようで、二人でそれを聞いていたんです」と杉村が隈川さんに説明してくれた。

「それは面白そうだね。どれ、私にもぜひ聞かせてくれないか?」

隈川さんは近くにあった椅子を持ち寄り、私たちの側に腰掛けた。

私は早く紅茶を飲みたかったのだが、杉村に横目で合図をされ、仕方なく先ほどの見解を手短に述べていく。



「なるほどね・・・現実に経験のないことを夢に見るのは、並行世界の自分が経験したものを見てる、ということね。いや実に面白い。面白いことには違いないが、一つ疑問に思うことがある。いいかな」

隈川さんが顎をさすりながら言う。

私は黙って頷いた。

「そもそも、夢と並行世界が関連すると思ったのは何故かな」

すると、なぜか浅葱が続けて声をあげた。

「確かに、それはおかしいですよね。"経験にない夢は並行世界の経験だー"なんて、いくら何でも関連性がないですよね!」

並行世界と夢の関連性を詳しく説明しようと思った矢先に、浅葱がティーカップがどうのこうのと騒ぎ立てたせいで話が折れてしまったことは、私の胸の中にしまっておいてやることにして、改めて語った。

「それは、夢について調べていくうちに気付いたことなのですが、夢と非常に関連性のあるワードとして、“正夢”とか“デジャヴ”って聞いたことありますよね?」

「あぁ、夢で見たことが実際に起こるのが正夢。実際に経験したことのないものを過去経験していたかのように感じるのがデジャヴだったかな?」

と隈川さんは得意げに答えた。

「まぁ研究者によっては、正夢もデジャヴも同じだと述べる方もいますがね。概ねその通りです。」

「なぜ同じだというのですか?」と浅葱が小首を傾げて聞く。

「正夢は“思い出せる夢”だからこそ夢が実現したと思える。そしてデジャブは“思い出せない夢”なだけであって、本当は夢で見ていたからこそ既に経験したかのように感じるわけらしい」

「はぁ...」

浅葱は考えることをやめたのか、きょとんとしている。

「さ、早く続きを聞かせてくれないか。その正夢やデジャヴがどうしたっていうんだい?」

少し前のめりになる隈川さんに応える様に、私もずいと体を起こして話を続けた。

「その二つの現象を知っていくにつれ、やがて私は一つの答えを出しました。研究者達の語る夢の仕組みというのは、自分の経験したことの記憶からランダムに呼び出してストーリーを作り出すというもの。言い換えるならば、“経験にないことを夢には見ない”というのは先ほど述べた通りです」

「ふむふむ」隈川さんはじっと目を瞑って深く頷く。

「そして、ここではデジャブも正夢の一種だと仮定しておきますが、二つの現象は“夢で見たことを実際に経験する”というものです。ここで一つ疑問に思いませんか?」

くどくどと説明するのにも飽きた私は、ここらで優秀なワトソン諸君らに意見を求めたのです。

「んー...あっ、そうだね!」

隈川トソンさんは目を見開いて人差し指を立てた。

「...確かに、それは少し変だよね!」

次いで杉村ワトソンも察したようだ。

「えっ、えっ!?なんです?僕にはさっぱり...」

ひとり焦る浅葱ワトソンを見かねて、隈川トソンさんが優しく教えた。

「つまりだよ。夢は過去の経験から構成されているのに、正夢は夢を見た後に経験しているじゃないか。夢と経験の順番が逆なんじゃないか?ってことさ」

浅葱ワトソンは少し宙を見上げている。

どうやら反芻しているようだ。

「...なるほど、確かにデジャヴを感じる時っていうと、“この景色、初めて見たのになぜかみたことある”って思いますけど、その景色を初めて見ることは確かなんです。なのに夢の中では既にその景色を見てしまっている...経験にないことを夢に見てしまっていますね」

「やっと追いついたか?ワトソン君」

「ワトソン?」と二人が呆気にとられている中、杉村がクスッと笑う。

もうホームズ気取りも飽きてきたところで、私はより真理への道のりを語る。

「夢の原理と正夢の原理が矛盾してしまったことにより、“経験にないことを夢には見ない”という原則は私の中で一度崩れました。しかし、改めてその原則を信じてみることにしたのです」

「なぜだい?」と隈川さんが問う。

「“夢は必ず自分が経験したことを基に見る”と仮定してみれば、自ずと私が出した答えに繋がります」

「また推理問題ですか?勘弁してくださいよぉ」

浅葱が頭を掻きむしりながら喚いたが、それを横目に隈川さんは淡々と答えた。

「デジャヴや正夢は経験と夢が逆順しているけれど、夢の原則を考えると実際は過去経験していたことになる。でも現実の自分は経験していない...だったら、いつ経験したのか...誰が経験したのか」

隈川さんは少し考えて、恐る恐る答えた。

「もう一人の...自分?」

「ビンゴです」

私は指をぱちんと鳴らし、隈川さんを指さした。

後で杉村に“ビンゴはないよ黒崎...”と馬鹿にされたが、私は構わず話を続ける。

「自分が経験していないなら、他の誰かが経験している。だが、他人の記憶は共有できない。ならばもう一人の自分が経験したことだろう。だとすると、もう一人の自分の記憶を共有できれば、“夢は必ず自分が経験したことを基に見る”という仮説が成り立つと考えたのです」

「それで、もう一人の自分が存在するであろう並行世界へと考えが行きついたってわけだね」

隈川さんは感心したように手の平を打つ。

「そして、もう一つ」と私が続けて言うと。

「えぇ!まだあるんですか!?紅茶が冷めちゃいますよー」

浅葱がもういいよと言わんばかりに声を荒げた。

「そう言うな。これはそう長くないから」

じたばたと地団駄を踏む浅葱を、どうどうといなす。

「まだ謎は残ってるね。並行世界の自分の記憶が、どういう理由で現実の自分と共有されるのか...ってこと」

隈川さんは非常に察しが良い。

「そこです隈川さん。私は、人の記憶というものは“意識できる記憶”と“意識できない記憶”に分かれると考えたのです。難しいことを話すと浅葱がフリーズするので簡単に例えますね」

「ぜひ、お願いします!」と浅葱が背筋を伸ばす。

「記憶の保管庫をパソコンのデータフォルダだとしよう。そこをクリックして開くと、さらに二つのフォルダがあるとする」

「それならイメージできますよ!」

「一つのフォルダの名前は“意識できる記憶”。そのフォルダはクリックすれば簡単に開いて自分の記憶を見ることができる。要するに“思い出せる”ってことだな」

「はい、わかりますよ!はい!」

「そしてもう一つのフォルダは“意識できない記憶”。そのフォルダはクリックしても鍵が掛かっていて開けない。記憶というデータが入っているのかもわからない。つまりは、閲覧=意識できないフォルダってことだ。これが無意識の記憶だと考える」

「それだと、そもそも“意識できない記憶”フォルダが存在すること自体、意識できないんじゃない?」と杉村が問う。

「“意識フォルダ”があるならその対として“無意識フォルダ”があるのは絶対だと思うんだ。正夢やデジャブだって、意識できる夢と意識できない夢に分かれてるわけだろ?」

「ほら!またわかりにくくなってきましたよもう」

辛抱強く聞いていた浅葱は、がっくりと肩を落とした。

「わかったわかったよ。悪かった。あと少しで難しいお話は終わりだ」

「...わかりました。あと少しだけですね?本当ですね?」

私は浅葱の肩をぽんと叩き優しく答えた。「多分な」

「で、その“無意識フォルダ”にはおそらく色んな世界軸の自分の記憶が入っているのではないかと考えた。今で言うならば、“クラウド”みたいなものかな」

「クラウド???例え話で知らないワードを出すのはやめてください黒崎さん」ふんっと浅葱が息巻く。

「クラウドってのはな...ん~やめた。他のことに例えよう」

私はなぜに例え話でさらに例え話を重ねればならないのか、と不満に思ったが仕方なく続けた。

「図書館に例えよう!【浅葱の記憶図書館】ってのがあるとするだろ?そこは自分しか入れない図書館だ。中に入ると数万冊いや数億冊、それ以上の本=記憶が置かれている。だけど、手に取って読むことができるのは【現実世界の浅葱】というラベルが貼られたものだけだ。その他の世界軸の本は手に取ることはできない。というか、他の本があることすら認識できないだろう。だけど、無意識状態の時だけ、すべての世界軸の本が読めるということだ」

「その無意識状態っていうのになるには、どうすればいいんです?」

中々に核心を突いた疑問を投げかけてきた浅葱。

「はっきり言ってわからない。無意識とは、意識していない時のことを指すわけだから、“これが無意識状態だ”なんて自分では意識できるはずもない。ただ無意識状態かもしれない時はある。それが寝ている時ってわけさ。寝ている時だけは“自分は寝ている”と意識できないだろう?」

「まぁ確かに、いつも気づいたら朝になってますからねぇ」ようやく浅葱も理解できたようだ。

しかし一通り謎解きが終わった後も尚、浅葱は怪訝な顔をしていた。

「でもやっぱりわかりづらいです。意識とか無意識とか、並行世界の自分だとか、話を聞けば聞くほど混乱してきました。結局黒崎さんは何が言いたいんでしょうか。もっとわかりやすくまとめてくださいよ...杉村さん、お願いします!」

浅葱がまたも泣きそうな表情を浮かべ、杉村にすがる。...何なんだこの子は。

「浅葱、君は深く考えすぎだよ。黒崎の話はあくまで仮説さ」

杉村が浅葱の背中をさする。

「深く考えてるわけじゃないんです。その...仮説の中に仮説があって、そのまた仮説があって、その繰り返しでもはや深く考えることすら出来ない浅いところで止まってるんです。浅葱だけに」

「はいはい。じゃあ三行にまとめてあげよう」

私ならもうこれ以上は放っておくところだが、杉村は優しい。

「わぁい」と生返事で返す浅葱。

本当に理解したいのかと疑ってしまう...本当に何なんだこの子は。

「自分が見たことない景色でも、どこかの世界でもう一人の自分が見ているんじゃないかなー。

そしてもしかすると無意識の中では二人は繋がってるかもしれないなー。

だから記憶が収束して夢でその景色を見るんじゃないかなーってことだよ。

全部黒崎の妄想なのさ。でも、考えられない話じゃないだろ?」

「うぅ...杉村さん」

「どうした?わかった?」

浅葱はひと呼吸おいて、杉村の顔をじっと見つめてこう言った。

「一言にまとめてください!!!」

この後浅葱は杉村にヘッドロックをかけられていた。

そこで隈川さんがゆっくりと口を開く。

「最初からずっと黒崎くんが言っていたことは、一言にまとめるときっとこうじゃないかな」

「なん...でしょう...か」

浅葱が苦しそうに聞いている。

「“並行世界は存在する”ってことなんじゃない?」

「ビンゴです」私はまたパチンと指を鳴らした。

浅葱に全力を注いでいるのか、杉村はもう何も言わなかった。

「夢について調べていたら、いつの間にか並行世界の存在を確信することになったってことです。わかったか浅葱」

浅葱は首を縦にぶんぶん振りながら、首に巻き付いた杉村の腕をとんとんと叩いた。

「さぁ、お話はこれくらいにして、お茶が冷めちゃうよ?ティーブレイクといこう」

隈川さんはぱんぱんと手を叩き、茶の準備を始めた。





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人は好奇心を掻き立てられると、一体どうなるのでしょうか。

環境を忘れ、時間を忘れ、時には自分を忘れてしまうこともあるでしょう。

そして、かつて知りえなかった世界に触れた時、人は新しい自分に出会うことができるでしょう。

私は、お嬢様と共に過ごす日々の中で、いつも新しい自分に出会います。

貴女と共に笑って過ごすティータイムに、得も言われぬ幸福を感じている自分。

貴女が喜ぶだろうと、美味しい紅茶をひたすらに追求しようとする自分。

貴女はどんな時に笑うのでしょうか。

貴女はどんな時に怒るのでしょうか。

貴女はどんな時に...

すべてはお嬢様への好奇心が、私を新しい私へと導いてくれました。

次は、どんな新しい私に出会えるのでしょうか...

出会いは、突然です。

まさに、今まさに目の前にいる者たちが、私の興味を掻き立ててならないのです。

どうやら、新しい自分に出会わせてくれるのは、お嬢様だけに限らないようです...





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「さ、紅茶の用意ができたよ。飲みながらさっきの続きでも話そうじゃないか」

私は少し冷めてしまった紅茶を改めて淹れ直したのです。

「やっと隈川さんの紅茶が飲めるな」

「黒崎さんが小難しい話を延々とするからですよ」

「口を慎みたまえ浅葱君。俺は杉村の様に優しくないぞ」

黒崎と浅葱の小競り合いを微笑ましく眺めながら、私は淹れたての紅茶をカップに注ぐ。

鼻腔をくすぐる甘美な香りが立ちのぼり、滴る雫が線となり、美しい紅茶の滝を作り出す。

嗚呼、私こそが紅茶のエバンジェリスト

エレガント極まる当家の紅茶係

素敵なひと時を作り出すエンターテイナー

隈川でございます...

そして注がれた紅茶に映るのは、彼らの幸せそうな-

...おや、どうしたのでしょう。

美味しい紅茶が入ったというのに、欠片も嬉しそうじゃありません。

それどころか、まるでこの世の終わりのような、絶望に沈む顔をしております。

「どうしたのです?紅茶が入りましたよ。なんですその顔は」

「これは...なんですか?」と浅葱がひきつった顔で尋ねてきました。

一目瞭然だというのに、紅茶を見るのは初めてなのでしょうか...不思議な子です。

「そう、これが紅茶だよ。茶の樹から葉を摘み取り、それを発酵させて作られるのが、この紅茶というものだよ」

「いえ、それは存じております。私が聞いているのは、これはどういう紅茶かということです。お二人もそう思いませんか?」

浅葱は、杉村と黒崎に同意を求めたようですが、二人はなぜか紅茶一点を凝視したまま固まっておりました。

「どういう...とは?」私は改めて尋ねてみる。

浅葱は、私のこの紅茶にかける想いを知りたいのでしょうか。

「ですから、どんな材料を使えばこのように禍々しい紅茶ができるのでしょうか、ということです」

「禍々しいとは失敬な。どこがおかしいのです?」

「まず色です。私が今まで飲んできた紅茶は、透き通った赤褐色のものでした。なのにこの紅茶の色は...まるで暗黒じゃないですか」

「こんな紅茶もあっていいじゃないか。何故か急にインスピレーションが湧いてきたんだよね」

私の言葉を無視して、浅葱が続けて言う。

「そして香りです。まるで半年間放っておいたカレーのような独特のコク深い異臭...」

「半年間もカレーを放置したのかい?それはよくないよ」

「物の例えですよ!私は作ったカレーは二日で食べきります!何をブレンドしたらこんな世紀末の飲み物ができるのですか。秋刀魚のはらわたでも入れたんですか」

「すごいね。香りだけで材料を一つ当ててしまうなんて」

私は彼の嗅覚の凄さに感心しました。これならば紅茶係も任せられるかもしれませんね。

「当たってうれしくない正解ですね。他には...何です?」

「あとは秘密さ。飲んで当ててみて」

「身の危険を感じますそのクイズは」

なにを頑固になっているのか、浅葱はカップを手に取ろうともしません。

「いいからほら、飲んでみなよ。まさに天にも昇るほどの美味しさだよきっと」

「冗談に聞こえないんですが...ちょっと待ってください。きっとって、隈川さんはまだ飲んでないんですか?」

「ああ、君たちからの意見を聞きたいからね。僕は後でいいよ」

私は後輩達に真っ先に飲ませたいという、ある種の親心のようなものを抱いていました。

「う...じ、じゃあそれならばまず先輩からどうぞ!」尚も遠慮する浅葱。

きっと先輩を差し置いて飲むことなどいけないと思っているのでしょうね。なんと健気な。

「いやいや!ここは浅葱君が!先輩達はとってもやさしいから、君に譲ろう。な?杉村」

「そうそう!それにこの紅茶に一番興味を示していただろ?だからまず浅葱君が飲んだ方がいいよ」

「いたたたたたわかりましたよぉぉぉぉぉ」

黒崎と杉村が浅葱の両肩を抓ってじゃれ合っております。なんとも和やかな三人ですね。

「ほんとにこれ...飲めるのでしょうか」

私は無言で、微笑みながら浅葱をじっと見つめていました。

どのような感想が聞けるのか、楽しみですね。

浅葱は静かに深呼吸をして、カップをじっと見つめている。

「...来年は、圧力に屈しない人間になろう」

今浅葱が小声で来年の抱負を呟いたのはなぜでしょうか、年の瀬はまだだというのに、殊勝な子ですね。

浅葱はカップを手に取り「ええい、ままよ」と呟いて、一口啜る。

すると突然、浅葱は白目をむき、泡を吹いて倒れてしまいました。

天にも昇るとは言いましたが、まさかそれほどまでとは...

私はすごい紅茶を作り出してしまったのかもしれませんね。

「.....天にも昇るほど...不味い...ぐふっ」





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ここは...お屋敷、でしょうか...

ぼやけた視界の中で、私は彼を眺めていました。.

いえ、ぼやけているのは私の目ではなく、立ち込める湯気によるものだと気づく。

黒いベストとエプロンに身を包み、紅茶を淹れる男をぼんやりと見つめている。

彼は、隈川...さん?

隈川さんの姿をはっきりと認識すると、彼は私に問いかけてきました。

「まずはクセのないセイロンをベースして、副材料は何がいいと思う?」

どうやら、私と隈川さんで紅茶をブレンドしているようですね。

「僕が思うに、まずはこれとこれを入れてみようかと」

そう言って私は紅茶には本来使われるはずのない材料を次々と混ぜたのです。

「そして最後の材料は....これなんかどうだろう」

隈川さんが手に持っているのは...

「それは、なんでしょうか?」

「秋刀魚のはらわたさ」

「それはいいですね!」

私と隈川さんは喜々として紅茶を作り続けました。

「「できた!!!」」

完成したのは、黒々しくかつてない香りを漂わせた紅茶。

「それじゃあ浅葱君、試飲してみて」

隈川さんに促された私は、その紅茶をゆっくりと口に近づけていく。

その時、「ドン!」と背中に何かがぶつかった衝撃を受けた...
 

そこで目が覚めたのです。





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「う...頭が痛い...」脳裏に痛みが走る。

気が付けば、私は使用人寮の自室のベッドに横たわっているじゃないですか。

どれくらい寝ていたのでしょう。

鉛の様に重い体をゆっくり起こした私は、窓を覗き込み辺りを見渡しました。

「もう夕方だ...まさか丸一日寝てしまっていたのでしょうか...」

部屋の壁掛け時計に目をやると、時刻は午後4時半を過ぎたあたりを指している。

私はベッドに座り込んだまま、ぼーっとどこともなく眺めていると、そこである異変に気付いたのです。

「ここは.....どこだ?」

私の部屋...のはずなのですが、私の部屋じゃない。

ですが、私の部屋の様な気もします。

「何かが違う」

確かに、私が暮らしていたであろう痕跡は見られますが、僅かに違和感があるのです。

私は、お気に入りの蔵書を並べている本棚に目をやりました。

確かに私の本棚は、見たことのない本がいくつか収められている。「こんなのあったっけなぁ」

今度は机の方に目をやると、書きかけの日誌が...確かに私の字です。

「でもこんな日誌...書いた覚えがない。やっぱりおかしい」

私は、自分の部屋であって自分の部屋ではないこの空間が怖くなり、部屋を飛び出しましたのです。

「やっぱり何かおかしい...」

私はこの不可思議な状況を整理すべく頭をフル回転させていました。

隈川さんの紅茶を飲んでから、後の記憶がない。

ということは、きっとあのおどろおどろしい紅茶を飲んで倒れてしまったのでしょう。

そして先輩方が私を部屋まで運び込み、安置していった。

部屋に違和感があるのは、きっと二人が私の部屋を間違えて別の誰かの部屋に運んでしまったのでは...

でも、あの机にあった見覚えのない日誌は私によって書かれたものですし、あの見知らぬ本が並んだ本棚もまた私のものです。

そうすると...ああ、だめだ。混乱してきた。

もしかすると見間違いかもしれないと、再び部屋を覗き込んだのですが...何度見ても違う。

状況を呑み込めないまま悶々としていたのですが、そこで一つ思い出したのです。

「あれ、今日は...午後から給仕の務めがある日じゃないか!」

丸一日寝てしまったということは、今日は休日ではなくティーサロンの開館日。

私は急いで仕度をし、寮を飛び出してティーサロンに向かう。

まずい...お嬢様が帰っていらっしゃるというのに、寝坊だなんて非常にまずい。

おそらくは、私が寝坊したことなど、執事にはもう知られていることでしょう。

既にお嬢様がご帰宅なさる時刻を5分ほど過ぎていますから。

「まずい...まずい....乾執事はきっとお怒りだ」

駆け足でティーサロンに向かう道中、私はもう一つ大事なことを思い出してしまう。

「あっ!ティーカップ、隠したままだ...」

キャビネットに隠したままの割れたティーカップを解決できていないことを思い出した私は、さらなる絶望にくれることに...

あのキャビネットには、執事の用度品も収納していますし、今頃執事がティーカップを見つけて騒ぎになっていることでしょう。

あれは乾執事が私にしまうように頼んだものですから、きっと割った犯人は私だと思うに違いありません...まぁ実際そうなのですが。

怠惰と隠蔽。

この二つの大罪を背負った私に、残された術はたったひとつ。

誠心誠意謝罪することです。

もうそれしかありません。

そうすれば、もしかしたら容赦してくださるかもしれません。

万に一つもないことかもしれませんが、僅かな可能性を信じて、私はティーサロンへと走りました。

私のミッションインポッシブルは、まだ終わってはいない!





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ようやくティーサロンへ着いた私は、急いで燕尾服に着替えてフロアに向かう。

フロアの扉を抜け、飛び入った先には...

「あれ...誰もいない」

使用人どころか、お嬢様の姿すらないガランとしたフロア。

なぜでしょう。なぜ誰もいないのでしょうか。

もしかしたら私がひとりでに勘違いをして、今日が開館日だと思い込んでしまっていたのかもしれません。

いやはや、焦らせてくれますよまったく私は。

ひとまず、怒られる状況を脱したことに安堵する。

いえ、まだ怒られる状況は脱していませんでしたね。

確認しなければならないことが一つあります。

「そうだ...ティーカップ。もしかするとまだ見つかっていないのかも!」

私の心は途端に希望で満ち溢れ、まだ手の施しようがあることを胸に、ショーケース横にあるキャビネットに駆け足で近寄り、戸を開けました。

「ティーカップが、ない!」

隠しておいたはずのティーカップはそこにはなく、執事の用度品だけが綺麗に並べられておりました。

やはり執事に見つかってしまっていたのかもしれません。

となると、きっと乾執事が私を血眼になって探していることでしょう。

希望は一瞬にして打ち砕かれ、私はがくっと肩を落とした。

「仕方ない、乾執事に謝りに行こう...」

とぼとぼと歩きながらフロアを出た矢先、誰かに呼び止められたのです。

「良いところにいた。浅葱君、君に任せたい仕事があるのだが」

「あっ、乾執...事?」

振り向いた先に立っていたのは、乾執事...ではあるのですが、トレードマークの眼鏡もかけていなければ、髪型も少し違う。

そんな違和感はさておき、私は慌てて謝罪の言葉を述べようとしましたが、中々言い出せない。

「はて、どうしたのです。そんなに暗い顔をして」

乾執事は私を叱責するでもなく、心配そうに見つめていました。

「どうしたって...あれ?」

もしかすると乾執事はまだティーカップのことを知らないのでしょうか。

私はホッと胸を撫でおろし、隠蔽の事実が見つかってしまう前に謝罪しようと試みたのです。

「あの-」

と言いかけたその時、私は目を疑いました。

乾執事が手にしているのは...あの割れたはずのティーカップではないですか。

しかも割れていない...綺麗なままの状態に戻っています。

「そのティーカップ...」

「そうそう。このカップを、あのショーケースに飾ってほしいのです」




私は、大きな異変に気付き始めていました。









-続く-











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