2018年3月29日
黒い現と白い夢(仮)
黒崎にとって黒は白であり
白は黒なのです
もっとも、この世界においては
黒は黒なのでしょうが...
はじめに
さて、このお話をする前に、お嬢様に少しだけ断わっておかなければなりません。
常日ごろから、理解の及ばぬ荒唐無稽な話(茶葉と会話しようと試みたり)をしてはお嬢様にモヤモヤを抱かせることがある黒崎ではございますが、お嬢様を困らせたい訳ではございません。
さらに言うならば、お嬢様が「わかってあげよう」と頭を捻りにひねらせて考えてらっしゃる様を楽しみとしているわけでもございません。
常に、お嬢様に楽しい毎日を送っていただく為のほんの少しのアクセントになればと思っております。
しかしながら毎度の如く、この話はいささか理解の及ばぬ領域に踏み込んでしまうやもしれません。
きっとまたお嬢様を、訳のわからぬ難解な迷路へと誘うこととなりましょう。
ですが、ぜひお読みいただきたい。
絵空事と一蹴することなく、真摯にお読みいただきたい。
いえ.....やはり面白半分でお読みいただく方がよろしいのかもしれません。
文才のない黒崎が、お嬢様の真摯な姿勢に値する話をできるとも思いません。
それに、この話を信じていただけたとするならば、黒崎はおそらく真の変人としてお嬢様から疎まれる存在になりうるやもしれませんから。
世迷い黒崎の滑稽さを肴に、お楽しみいただければと存じます。
-----
第1章 研究者もどきの妄想
「ん〜...今日の紅茶もまた、格別に美味しい。」
私は淹れたての紅茶が入ったポットに、温かさが保つようティーコジーを被せた。
そしてすぐ様、ティーサロンの玄関近くにある荘厳なショーケースに近寄った。
随分と長く使われていないようで、ショーケースのガラス戸は埃まみれになっていた。
私はそのガラスの戸を慎重に開け、お嬢様がお気に入りのティーカップを、手に取った。
「今日は、この子にしよう」
煌びやかに光り、美しいルビーを思わせるそのカップを取り出し、またそっとガラス戸を閉じた。
ティーカップをお湯にくぐらせ、温める。
よし、これで用意は整った。
そこに、突然男が現れて、こう言った。
「どれ、俺が味見してやろう」
「いけません。これはお嬢様の紅茶ですから」
私は頑なに拒む。
「いいからよこせ」
男は無理やりティーポットを奪い取り、そこら中に転がっていたカップを拾い上げ、紅茶を注いで一啜りした。
「...まずい!こんなもの、人が飲めたものじゃない。正気か?」
男はそう言うと、淹れたての温かい紅茶を、ドボドボと勢いよく流し台に捨ててしまったのだ。
「何をするんだ...よせ!」
止めようとするも、覆水は盆に還らず。
やがて段々と視界が暗くなり、灰色がかってゆく世界を見つめながら、絶望に落ちてゆくのだった…
そこで、目が覚めた。
「夢・・・か・・・今日はまた嫌な夢を見たものだ」
時刻は、朝5時。
私は這うようにベッドから抜け出し、今日も勤めに向かうべく仕度を始めた。
-----
ここは、池袋の一角にひっそりと屋敷を構えるティーサロン。
お嬢様、お坊ちゃまが訪れては、紅茶を嗜み、菓子をつまみ、羽を休める浮世の楽園。
その屋敷には様々な使用人が仕えており、かく言う私も、給仕係を仰せつかった使用人の一人。
「しかしまた、今朝の目覚めはすこぶる悪いな・・・」
半開きの瞼をこすりながら、私は使用人寮から程なく離れたティーサロンへと足を運ぶ。
「おはよう、黒崎」
私に声をかけた爽やかな声の主は、名を杉村という。
私がこのお屋敷に来た頃、同じくして共に働くこととなった使用人であり、私の無二の友人でもある。
「あぁ...おはよう、杉村」
目覚めの悪そうな私を見て杉村が言う。
「今朝もまた、覇気がないね。低血圧も大変だよねぇ」
杉村は私とほぼ毎日といっていい程共に過ごし、共に勤めている。
彼は私が朝弱いのは、毎度お馴染みの低血圧によるものだと思っているようだ。
「今日はそういうわけじゃあないんだ。まぁ、血の巡りが悪いのはいつもだが」
「朝一番に淹れた紅茶が、絶望的にまずかったとか?それじゃあ、当家の紅茶係の名が廃るねぇ」
杉村にからかい交じりで言われた言葉に、あの夢を思い出す。
「あー...そうだ。そうそう、紅茶だ。紅茶」
「なに、やっぱり紅茶がおいしくなかったの?」
「夢だよ。ひどい夢だった。俺の淹れた紅茶が不味いと言って、捨ててしまった輩がいたんだよ」
「それは災難だったねぇ。その人、舌でもひっくり返ってたんじゃないか?」
そう言いながら燕尾服に着替える杉村は、ケタケタと笑った。
にこやかに話を聞く杉村に、私は愚痴をこぼした。
「ここのところ嫌な夢ばかりだ。これじゃあ疲れも取れやしないよ」
「まぁ大丈夫さ。うんと働いて、うんと疲れたら、夢も見れないほど熟睡できるさ」
杉村が慰めるように言った。
「そういうもんかねぇ」
「とにかく、今日もお給仕がんばろうね。黒ちゃん」
杉村の底抜けの明るさに照らされると、暗い気持ちも消え去ってしまう様に感じる。
「あぁ、そうだな」
私の心臓が、ようやく血液を巡らせ始めた。
-----
えぇ、彼の事なら何でも知っていますよ。
何せ、このお屋敷に来たときからずっと一緒に過ごした間柄ですから。
別段、共通の趣味があるとか、星座が同じだとか、そういうきっかけは何もありませんが、気がつけばいつも隣にいたのです。
あまり言葉に出して意識してはいませんが、お互い密かに尊重し合っているのはわかります。
それがわかるのは、私が私だからという答え以外、示すこともできないのですが。
ともかく、黒崎は私の無二の友人なのです。
一日の給仕を終え、寮に戻った私は、始終気怠そうにしていた黒崎の事を、ベッドに横たわりながら考えていました。
そんな彼の近頃の悩みは、悪夢に魘されることらしい。
まぁ、出来れば力になってやりたい。
しかし、夢という不可解な事象が相手では、解決の方法など皆目検討もつきません。
そもそも、黒崎は気分屋であるからして、今日の悩みは明日の悩みとは限らない男。
おそらくは既に悪夢のことなど、脳内ゴミ箱に捨ててしまっているに違いありません。
私はあの男を知っているからこそ、何も考えないことにしました。
明日は使用人にとって休日ということもあり、私は ゆっくりと体を休めるべく、考え事を投げうち床に就いたのです。
「....寝よう。怖い夢、見ないといいな」
-----
翌日、この日はいつもの賑やかな景色とは一変して、誰もいないガランとしたティーサロン。
夕暮れも近づいてきた頃、私はティーサロンに赴き、フロアの掃除がてらある考察に耽ろうと画策していた。
休日は大体誰もいないはずなのだが、足早にティーサロンから出てゆく使用人が目に留まった。
「あれは…誰だ?」
もしかすると他の使用人達がすでに何かやっているのだろうか。
そう思ってティーサロンのフロアへと入ったが、予想は外れた。
「誰もいないのか。なら、ここでいいか」
考え事をする時は決まって人っ子一人いない場所を探しては籠もるのが私の習性だ。
ブツブツと呟きながら、床を箒で掃いていく。
「この仮説が正しいとするならば、このような謎多き事象を紐解く鍵になるかもしれないな...」
自分独りの時に限っては、思ったことを口に出しながら考えるのもまた、私の習性である。
「文献で見た限りでは、おそらくはこの仮説は成り立たないのかもしれないが―」
「なにやってるの?黒崎」
突然、私の背後から声がした。
振り向くとそこには、杉村が怪しげな眼差しで私を見つめていた。
思わぬ訪問者に少し驚いたが、私は口調を変えずに彼の声に言葉を返した。
「突如、私の呟きを遮った声の主は、杉村だっ―」
「いや、だからさっきから誰に向かって話してるの?」
私は尚も続けてこう言う。
「杉村は再び私の声を遮り―」
「もういいよその独り語り口調」
「ったく...乗りが悪いな」
私は観念して杉村をからかうのを止めた。
「ついに悪夢に魘されすぎて、おかしくなったのかとおもったよ」
「まさにそのことについてだよワトソン君。【夢】という謎多き事象に関して、研究者気取りの考察を並べ立て、自己陶酔に励んでいるところだ」
「誰がワトソン君だよ。まったく...殊勝なことだね」
杉村は呆れたように言う。
「ところで、さっきから云々と宣っていたその考察とやら、聞かせてもらおうじゃあないか。ホームズさん」
そう言うと近くにあった椅子を持ち出し、背もたれを前に座り肘をつき、にやりとした表情で私を見上げた。
「なにその顔…..本気で聞きたいのか?」
私は彼の意外な態度に少したじろいだ。
「そう疑るなよ。僕は君の考えることには凡そ興味があるし、小耳にした限りでは、面白そうだと踏んでいるんだ」
いつの間にやら杉村の顔からは、先ほどの嘲りの表情など消え失せていた。
彼のビー玉のような純真無垢な眼差しで見つめられると、私はいつもマタタビの前の猫になる。
「仕方がないな……真面目に聞けよ?」
「真面目に話せよ?」
彼は返す刀で言い放ち、にやりと笑う。
私は辺りを見回し、囁くように彼に問いかけた。
「......なぁおい、【並行世界】って信じてるか?」
杉村は友の口から飛び出した珍妙なワードに、目を丸くした。
「なんだって?並行世界?…あぁ、俗にいうパラレルワールドってやつだろ?小説か何かで読んだことあるよ」
「まぁSFの世界ではありふれたワードだからな。ただ、これからの話で重要なのは...」
少し間を置き、杉村の顔を睨むようにじっと見つめ、重い声で再び問いかけた。
「信じてるかってことさ」
杉村の先ほどまでのにこやかな表情は消え、みるみる怪訝な顔をして考え込みだした。
「え?....う〜ん」
時計は、午後5時を指していた。
-----
我々使用人が仰せつかっている執務は多岐にわたります。
このお屋敷では、主に給仕をする使用人が大半を占めていますが、ほとんどの使用人は給仕だけが務めではないのです。
調度品の手入れや美術品の管理なども仰せつかっているのです。
中でも私、浅葱の務めは書庫の清掃。
お屋敷の書庫には様々な書物が保管されており、時には小説マニア垂涎の作品まであったりする。
そういったお屋敷の蔵書を、読み漁ってみたいという欲望を満たすには、清掃係を買って出る他ないと考えたのです。
私はティーサロンが休館となれば、すぐさま書庫に走り、本にかじりついていました。
そして、今日はティーサロンがお休みの日。
「ならば、書庫へといざゆかん!」
と息巻いたところで、乾執事に呼び止められたのです。
「良いところにいた。浅葱君、君に任せたい仕事があるのだが」
「...はぁ、なんでしょう」
ポマードで綺麗に整えられた頭髪。
眼鏡からグラスチェーンがきらりと垂れる。
"ダンディズム、ここに極まれり"といったお方。
乾執事の頼みとあらば、無下にすることはできませんね。
「このカップを、あのショーケースに飾ってほしいのです」
乾執事が手にしていたのは、お嬢様がとても大切にしていらっしゃるティーカップ。
「私が、でございますか...」
この頼み事には、私の心もきゅっと音を立てて竦んだ。
物怖じするのも無理はありませんよ。
なんたってこのティーカップは、私が逆立ちしたって手に入れることの出来ない高価な物。
万が一のことがあっては、私は市中引きずりまわしにされること間違いないでしょうね...
そのリスクを背負うプレッシャーに耐えかねた私は、一時退却を試みたのです。
「私、これから書庫の清掃に急がねばなりませんので...」
一つ会釈をして立ち去ろうとする。
しかし、すぐさま乾執事に首根っこをくいと捕まえられてしまった。
首をすくめて大人しく観念する私。まるで猫です。
「それじゃあ、頼みましたよ」
にこやかな笑顔とは対照的に、眼鏡に光が反射して目が見えないのがなんとも...怖い。
伸びやかで優しい声の裏に、底知れぬ圧力を感じさせながら、私にティーカップを手渡しました。
「いえ..あの.......はい」
本音をぐっと堪えると、なんともうわずった今まで発したことのない声がでた。
颯爽と立ち去る乾執事が奥へと下がっていくのを見送ったまま、私はしばらく立ち尽くしていました。
ともかく、引き受けたからにはちゃんと遂行するのが浅葱の良いところです。
「さっと片して書庫に向かい、世界中の本を地図に、世界一周にでも出かけましょうかね」
もはや頭の中は完全に本のことでいっぱいだった私は、足早にティーサロンのフロア内にあるショーケースへと向かいました。
ショーケースが眼前にまで迫ったとき、あろう事かショーケースの手前にある段差に躓いてしまったのです。
こんな時に段差に躓くなんて、まったく浅葱はドジっ子だね。
などと言っている場合ではございません。
悲劇の始まりを告げる破裂音が鳴り響く。
見事に持ち手とカップが離れ離れになっておりました。
「悪夢だ...そうだ、きっとこれは夢だ」
私は咄嗟にそう思い込み、「夢ならば頬を抓っても痛くない」という古典的な方法で、状況の打破を図りました。
すぐさま頬を力いっぱい抓ってみる。
「いたたたたた夢じゃなかったぁぁぁ」
夢ではないことなど最初から気づいていたのに、痛みをもって現実を現実たらしめた私。
そんなお茶目なところも、浅葱の良いところです。
「まずい…やってしまった」
ようやく現実を受け入れた私は、瞬時に隠ぺいの方法を考えてだしていました。
しかし、妙案が中々浮かばない。
割れたカップを誰かに見られては、もはや私の命はありません。
ひとまず、解決策が浮かぶまでは、ショーケースの脇にある木造のキャビネットに隠しておくことにしたのです。
「いっそ、頼れる誰かに相談してみるか...」
少々観念し、私は親しい使用人をあたってみることにして、足早にティーサロンを離れました。
ここから、浅葱による絶体絶命の“ミッションインポッシブル”が始まるのです。
必ずや、生き延びて見せましょう。
...私は、天寿を全うして人生を終えたい。
時刻は、午後5時を迎えようとしていた。
-----
「つまり、そういったことから推察するとだ。並行世界の存在を証明するものこそ、夢なんじゃないかって思うわけだよ」
「う~ん...すごく突飛な考えだけど、もしかしたら、もしかするかも」
かれこれ1時間は続けていただろうか。
誰もいないティーサロンのフロアで二人きり。
私と杉村は、互いの意見を交わしながら、「夢」の正体について議論していた。
熱い議論を交わしていると、そこに一人の使用人が現れた。
「あれ...先輩方。なにしてるんですか?」
そう言うと彼は、少し不安げな顔をしていたが、私たちを見てどこか安心したような笑みを浮かべた。
「浅葱じゃないか。君こそなにしてるんだ?」
杉村が驚いたように言う。
私も驚きはしなかったが、少々意外には思った。
それというのも、浅葱は休日となれば決まって、清掃だとか言っては書庫を図書館代わりにしているのを知っていたからだ。
「書庫の清掃はどうしたの」
杉村がそう問いかけると、浅葱はまた先ほどの不安な表情を見せた。
「それが...」
途中、浅葱は少し俯いて、開きかけた口を閉じてしまった。
彼が話そうとしないのは、私たち二人が彼にとって尊敬してやまない偉大な先輩だから...ではないようだ。
「どうした。なにかあったのか」
「その様子だと、何かのっぴきならないことでもあったんじゃない?」
私と杉村は、尚も喋ろうとしない浅葱に問い続ける。
それでも浅葱は押し黙ったまま、私たちの前に立ち尽くしていた。
どうあっても口を開かない浅葱に、私は業を煮やして近くにあった椅子を引き、腰掛けるよう促した。
「まぁ、あまり話したくないことがあるなら、無理はしなくていい。まずは気持ちを休めろ」
浅葱は、固まった体をぎこちなく動かし、恐る恐る腰掛けた。
「そうだ。浅葱にもさっきの話聞かせてやったらどう?黒崎」
杉村が重くるしい場の空気を変えようと、明るい口調でそう言った。
「それはいいかもな。浅葱は小説好きだし、空想的とも思えるこの話にも、きっと興味があるだろう」
「はて、なんですか?その話というのは」
「夢を見ることはあるだろう。夢っていうのはな、実は並行世界の記憶なのかもしれないんだ」
浅葱の顔は、固まった。
-----
件のミッションインポッシブルを完遂せねばと、使用人寮に戻ってはみたものの、休日ということもあってか、親しい使用人達は皆外出しているようです。
「仕方ない…もう一度ティーサロンに戻ってみるか。誰かいるかも」
そこで再び訪れたティーサロン。
フロアの方から声がしますね。
やはり誰かいるのでしょうか。
そこで二人を見つけた私はなぜか今、突拍子もない話に頭を捻らせているのです。
「そもそも、なんで夢の正体なんか突き止めようと思ったのです?」
私がそう聞くと、杉村さんがその経緯を話してくれた。
「黒崎は最近、悪夢に魘されることがよくあったらしくてね。その原因を調べてたんだよ」
「そこで彼は様々な文献を読んで研究したらしい。そこで、悪夢だけに限らず夢そのものの正体を説くヒントを得たんだ」
「それが、並行世界ってやつですか」
突飛な話に内容がすんなり入ってこない私を察したのか、黒崎さんが問いかけた。
「ところで、浅葱は今日寝ている間、夢を見たか?」
「えぇ...まぁ、はい」
「どんな夢だった?」
「あまりはっきり覚えていませんが、ティーサロンでの夢だったかと」
私は、途切れた夢の記憶をなんとかつなぎ合わせて、二人に説明した。
-ある日のティーサロン、私は紅茶係を仰せつかることとなって、自分がブレントした新開発の紅茶を、使用人の皆に振る舞っていたのです-
「すごいね!浅葱も立派な紅茶係になったんだね。浅葱なら、葱フレーバーの紅茶かな」
杉村さんが喜々として言う。
「葱にお湯かけたらできますかね。で、その夢が何なのです?」
そう問いかけると、黒崎さんが私に問い返してきた。
「浅葱は、過去に自分で紅茶をブレンドしたことがあるか?」
「いえ、ないですけど」
「そうか。いや、夢というのは過去の自分の記憶をランダムに繋ぎ合わせて構成されているらしいんだ」
「はぁ」
「おかしいと思わないか?」
「何がです?」
ピンとこない私に、杉村さんがわかりやすく解説してくれました。
「浅葱は紅茶をブレンドしたことがないにも関わらずだ、夢で紅茶を作っていたんだろ?」
「過去の記憶にないものが、夢に出てきてしまっているんじゃないか?」
「...確かに」
私はなぜ経験にないものを夢にみたのでしょうか。
「俺だって経験にない夢は今までたくさん見てきた。でもそれは過去の埋もれてしまった記憶だとか、他者の経験を自分の経験だと思い込んでしまうことで、それが繋ぎ合わされて夢になると思っていた」
「それに、世の高名な研究者たちが研究した結果を調べてみても、やはり自身の脳にある記憶の保管庫から、記憶が呼び出されて夢をみるという結論が出ているらしいんだ」
熱く語る黒崎さんを横目に、杉村さんが合わせて言う。
「まぁ、実際は夢については不明確なことが多いようだけどねー」
「でも、それじゃああまりに浪漫がないとは思わないか」
黒崎さんはニヤリと笑う。
「“夢=記憶のストーリー仕立て”だと言ってしまえばそれで終わりだが、俺の妄想はそこで止まらなかった。そこで最初の話に戻るわけだ」
「なんだか壮大な話になってきましたね」
私は段々と黒崎さんの話にのめり込んでいきました。
黒崎さんの仮説(妄想)を要約すると、こうです。
-並行世界では、もう一人の自分が存在していて、並行世界の自分とこの世界の自分は潜在的な意識の中では繋がっているという。
そして、寝ている間だけ並行世界の意識と共有することができるのではないか、ということらしい。
つまり、夢で経験にないものを見るのは、並行世界の自分が体験したことを見ているのではないかと語った-
「あの、ひとついいですか」
黒崎さんはこくりと頷く。
「そもそも、その並行世界というのも、教養がないもので申し訳ないですが、ご教授願えませんか」
「そうだね。僕も詳しくは知らないから、ぜひ聞きたいね」
「杉村さんもよく知らなかったんですか?なのに、あんな壮大な妄想をよく聞いていられましたね」
「まぁ、聞き上手ってやつかな。はは」
日々黒崎さんの荒唐無稽な話に付き合っていると思うと、やっぱり杉村さんはすごい。
「俺はいつも自分のペースで話してしまうからな。悪い癖だと思ってるよ」
黒崎さんはそう言って、改めて並行世界について語った。
「並行世界というものは、今自分がいる世界とは別の世界のことだ。その別の世界ってのは、今の世界から分岐してできた世界のことを指すんだ」
「分岐した世界?」
私と杉村さんはまったく同じ方向に頭を傾げました。
「例えば、自分が石ころを蹴飛ばしたとすればだ。その時点から石ころを蹴飛ばさなかった世界ができるわけだ。そうすると、石を蹴飛ばした世界と蹴飛ばさなかった世界に分かれて、時は進んでいくってわけだ」
私たちはさらに深く頭を傾げました。
「ん...分かりにくかったか。だったらこんな話はどうだ」
-ある一人の使用人が、主人の大切にしているティーカップを割ってしまった。憤慨した主人は、その使用人を解雇してしまう。そしてかつて使用人だった者は路頭に迷い、不幸な人生を辿った。もし、あの時ティーカップを割っていなければ、使用人として幸せに暮らす人生になっていたであろう-
「ティーカップを割ってしまったことにより、割らなかった世界と割ってしまった世界の分岐が存在することになる。信じられないかもしれないが、俺たちは過去そう言った分岐点を辿り、いまこうした人生を送っているわけだ。」
「なるほど...いまこうして使用人として生きている自分がいるけど、他の人生を歩んでいたかもしれないっていうのは、可能性としては十分あり得る話だね。つまりは、その“もしかしたらこうなっていたかもしれない自分”ってのが、別の世界では現在進行形で生きている。それが並行世界ってことね」
黒崎さんより随分とわかりやすい説明、ありがとうございます。杉村さん。
「なるほど...ティーカップを割った自分と割ってない自-...ああ!」
そうでした...そうでした。
二人の話に夢中で、とんでもないことを忘れていました。
急に額に脂汗を滲ませ、慄きだした私を二人が心配そうに見つめていました。
「どうしたの...浅葱。ティーカップがどうかしたの?」
「そういやさっき話さなかったことがあったな。おそらくティーカップに関わることなんだろ?聞いてやるから話してみな」
私は観念して洗いざらい事の経緯を二人に話しました。
「「なんだって!?お嬢様の大切なティーカップを、割ってしまっただと!?」」
二人は口を揃えて驚嘆しました。
「まずいぞ...あのカップはお嬢様が御幼少の砌から大切になさっていた物。あれを割ったとなっては...」
「まずいよねぇ。たぶん市中引きずりまわし、どころじゃすまないかもね」
私の不安を恐怖に変えるほどに、煽る二人。あな恐ろしや。
「私...私は………どうじたらいいんでじょうがぁぁ!」
ついに私は、恐怖からくる涙を抑えきれず、二人に泣きつきました。
「どうするったって、ねぇ」
「こればかりは仕方ない。誠心誠意、謝るしかないだろう。浅葱、君はもう“カップを割ってしまった”世界にいるんだからな。並行世界へ行けるなら、話は別だが」
先だって並行世界の存在を聞いていた私は、藁をもすがる気持ちで言いました。
「黒崎ざんっ…ぐすっ…へいごうぜがいがあるっで信じでるなら、そごへ行ぐ方法ぐらい...ひくっ...考えづぎまぜんが…ひくっ」
「無理言うなよ…自分で見つけてくれ。机の引き出しとかに入ってこい」
「そんなぁ…」
もはや、私に生き残る術は残っていないのでしょうか…
「これはこれは、皆さんお集りのようで...」
突如、そこに現れた一人の使用人は、不気味な液体を持って私達を見据えていました。
「紅茶でも...いかがですか」
「隈川…さん?」
-続く-
白は黒なのです
もっとも、この世界においては
黒は黒なのでしょうが...
はじめに
さて、このお話をする前に、お嬢様に少しだけ断わっておかなければなりません。
常日ごろから、理解の及ばぬ荒唐無稽な話(茶葉と会話しようと試みたり)をしてはお嬢様にモヤモヤを抱かせることがある黒崎ではございますが、お嬢様を困らせたい訳ではございません。
さらに言うならば、お嬢様が「わかってあげよう」と頭を捻りにひねらせて考えてらっしゃる様を楽しみとしているわけでもございません。
常に、お嬢様に楽しい毎日を送っていただく為のほんの少しのアクセントになればと思っております。
しかしながら毎度の如く、この話はいささか理解の及ばぬ領域に踏み込んでしまうやもしれません。
きっとまたお嬢様を、訳のわからぬ難解な迷路へと誘うこととなりましょう。
ですが、ぜひお読みいただきたい。
絵空事と一蹴することなく、真摯にお読みいただきたい。
いえ.....やはり面白半分でお読みいただく方がよろしいのかもしれません。
文才のない黒崎が、お嬢様の真摯な姿勢に値する話をできるとも思いません。
それに、この話を信じていただけたとするならば、黒崎はおそらく真の変人としてお嬢様から疎まれる存在になりうるやもしれませんから。
世迷い黒崎の滑稽さを肴に、お楽しみいただければと存じます。
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第1章 研究者もどきの妄想
「ん〜...今日の紅茶もまた、格別に美味しい。」
私は淹れたての紅茶が入ったポットに、温かさが保つようティーコジーを被せた。
そしてすぐ様、ティーサロンの玄関近くにある荘厳なショーケースに近寄った。
随分と長く使われていないようで、ショーケースのガラス戸は埃まみれになっていた。
私はそのガラスの戸を慎重に開け、お嬢様がお気に入りのティーカップを、手に取った。
「今日は、この子にしよう」
煌びやかに光り、美しいルビーを思わせるそのカップを取り出し、またそっとガラス戸を閉じた。
ティーカップをお湯にくぐらせ、温める。
よし、これで用意は整った。
そこに、突然男が現れて、こう言った。
「どれ、俺が味見してやろう」
「いけません。これはお嬢様の紅茶ですから」
私は頑なに拒む。
「いいからよこせ」
男は無理やりティーポットを奪い取り、そこら中に転がっていたカップを拾い上げ、紅茶を注いで一啜りした。
「...まずい!こんなもの、人が飲めたものじゃない。正気か?」
男はそう言うと、淹れたての温かい紅茶を、ドボドボと勢いよく流し台に捨ててしまったのだ。
「何をするんだ...よせ!」
止めようとするも、覆水は盆に還らず。
やがて段々と視界が暗くなり、灰色がかってゆく世界を見つめながら、絶望に落ちてゆくのだった…
そこで、目が覚めた。
「夢・・・か・・・今日はまた嫌な夢を見たものだ」
時刻は、朝5時。
私は這うようにベッドから抜け出し、今日も勤めに向かうべく仕度を始めた。
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ここは、池袋の一角にひっそりと屋敷を構えるティーサロン。
お嬢様、お坊ちゃまが訪れては、紅茶を嗜み、菓子をつまみ、羽を休める浮世の楽園。
その屋敷には様々な使用人が仕えており、かく言う私も、給仕係を仰せつかった使用人の一人。
「しかしまた、今朝の目覚めはすこぶる悪いな・・・」
半開きの瞼をこすりながら、私は使用人寮から程なく離れたティーサロンへと足を運ぶ。
「おはよう、黒崎」
私に声をかけた爽やかな声の主は、名を杉村という。
私がこのお屋敷に来た頃、同じくして共に働くこととなった使用人であり、私の無二の友人でもある。
「あぁ...おはよう、杉村」
目覚めの悪そうな私を見て杉村が言う。
「今朝もまた、覇気がないね。低血圧も大変だよねぇ」
杉村は私とほぼ毎日といっていい程共に過ごし、共に勤めている。
彼は私が朝弱いのは、毎度お馴染みの低血圧によるものだと思っているようだ。
「今日はそういうわけじゃあないんだ。まぁ、血の巡りが悪いのはいつもだが」
「朝一番に淹れた紅茶が、絶望的にまずかったとか?それじゃあ、当家の紅茶係の名が廃るねぇ」
杉村にからかい交じりで言われた言葉に、あの夢を思い出す。
「あー...そうだ。そうそう、紅茶だ。紅茶」
「なに、やっぱり紅茶がおいしくなかったの?」
「夢だよ。ひどい夢だった。俺の淹れた紅茶が不味いと言って、捨ててしまった輩がいたんだよ」
「それは災難だったねぇ。その人、舌でもひっくり返ってたんじゃないか?」
そう言いながら燕尾服に着替える杉村は、ケタケタと笑った。
にこやかに話を聞く杉村に、私は愚痴をこぼした。
「ここのところ嫌な夢ばかりだ。これじゃあ疲れも取れやしないよ」
「まぁ大丈夫さ。うんと働いて、うんと疲れたら、夢も見れないほど熟睡できるさ」
杉村が慰めるように言った。
「そういうもんかねぇ」
「とにかく、今日もお給仕がんばろうね。黒ちゃん」
杉村の底抜けの明るさに照らされると、暗い気持ちも消え去ってしまう様に感じる。
「あぁ、そうだな」
私の心臓が、ようやく血液を巡らせ始めた。
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えぇ、彼の事なら何でも知っていますよ。
何せ、このお屋敷に来たときからずっと一緒に過ごした間柄ですから。
別段、共通の趣味があるとか、星座が同じだとか、そういうきっかけは何もありませんが、気がつけばいつも隣にいたのです。
あまり言葉に出して意識してはいませんが、お互い密かに尊重し合っているのはわかります。
それがわかるのは、私が私だからという答え以外、示すこともできないのですが。
ともかく、黒崎は私の無二の友人なのです。
一日の給仕を終え、寮に戻った私は、始終気怠そうにしていた黒崎の事を、ベッドに横たわりながら考えていました。
そんな彼の近頃の悩みは、悪夢に魘されることらしい。
まぁ、出来れば力になってやりたい。
しかし、夢という不可解な事象が相手では、解決の方法など皆目検討もつきません。
そもそも、黒崎は気分屋であるからして、今日の悩みは明日の悩みとは限らない男。
おそらくは既に悪夢のことなど、脳内ゴミ箱に捨ててしまっているに違いありません。
私はあの男を知っているからこそ、何も考えないことにしました。
明日は使用人にとって休日ということもあり、私は ゆっくりと体を休めるべく、考え事を投げうち床に就いたのです。
「....寝よう。怖い夢、見ないといいな」
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翌日、この日はいつもの賑やかな景色とは一変して、誰もいないガランとしたティーサロン。
夕暮れも近づいてきた頃、私はティーサロンに赴き、フロアの掃除がてらある考察に耽ろうと画策していた。
休日は大体誰もいないはずなのだが、足早にティーサロンから出てゆく使用人が目に留まった。
「あれは…誰だ?」
もしかすると他の使用人達がすでに何かやっているのだろうか。
そう思ってティーサロンのフロアへと入ったが、予想は外れた。
「誰もいないのか。なら、ここでいいか」
考え事をする時は決まって人っ子一人いない場所を探しては籠もるのが私の習性だ。
ブツブツと呟きながら、床を箒で掃いていく。
「この仮説が正しいとするならば、このような謎多き事象を紐解く鍵になるかもしれないな...」
自分独りの時に限っては、思ったことを口に出しながら考えるのもまた、私の習性である。
「文献で見た限りでは、おそらくはこの仮説は成り立たないのかもしれないが―」
「なにやってるの?黒崎」
突然、私の背後から声がした。
振り向くとそこには、杉村が怪しげな眼差しで私を見つめていた。
思わぬ訪問者に少し驚いたが、私は口調を変えずに彼の声に言葉を返した。
「突如、私の呟きを遮った声の主は、杉村だっ―」
「いや、だからさっきから誰に向かって話してるの?」
私は尚も続けてこう言う。
「杉村は再び私の声を遮り―」
「もういいよその独り語り口調」
「ったく...乗りが悪いな」
私は観念して杉村をからかうのを止めた。
「ついに悪夢に魘されすぎて、おかしくなったのかとおもったよ」
「まさにそのことについてだよワトソン君。【夢】という謎多き事象に関して、研究者気取りの考察を並べ立て、自己陶酔に励んでいるところだ」
「誰がワトソン君だよ。まったく...殊勝なことだね」
杉村は呆れたように言う。
「ところで、さっきから云々と宣っていたその考察とやら、聞かせてもらおうじゃあないか。ホームズさん」
そう言うと近くにあった椅子を持ち出し、背もたれを前に座り肘をつき、にやりとした表情で私を見上げた。
「なにその顔…..本気で聞きたいのか?」
私は彼の意外な態度に少したじろいだ。
「そう疑るなよ。僕は君の考えることには凡そ興味があるし、小耳にした限りでは、面白そうだと踏んでいるんだ」
いつの間にやら杉村の顔からは、先ほどの嘲りの表情など消え失せていた。
彼のビー玉のような純真無垢な眼差しで見つめられると、私はいつもマタタビの前の猫になる。
「仕方がないな……真面目に聞けよ?」
「真面目に話せよ?」
彼は返す刀で言い放ち、にやりと笑う。
私は辺りを見回し、囁くように彼に問いかけた。
「......なぁおい、【並行世界】って信じてるか?」
杉村は友の口から飛び出した珍妙なワードに、目を丸くした。
「なんだって?並行世界?…あぁ、俗にいうパラレルワールドってやつだろ?小説か何かで読んだことあるよ」
「まぁSFの世界ではありふれたワードだからな。ただ、これからの話で重要なのは...」
少し間を置き、杉村の顔を睨むようにじっと見つめ、重い声で再び問いかけた。
「信じてるかってことさ」
杉村の先ほどまでのにこやかな表情は消え、みるみる怪訝な顔をして考え込みだした。
「え?....う〜ん」
時計は、午後5時を指していた。
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我々使用人が仰せつかっている執務は多岐にわたります。
このお屋敷では、主に給仕をする使用人が大半を占めていますが、ほとんどの使用人は給仕だけが務めではないのです。
調度品の手入れや美術品の管理なども仰せつかっているのです。
中でも私、浅葱の務めは書庫の清掃。
お屋敷の書庫には様々な書物が保管されており、時には小説マニア垂涎の作品まであったりする。
そういったお屋敷の蔵書を、読み漁ってみたいという欲望を満たすには、清掃係を買って出る他ないと考えたのです。
私はティーサロンが休館となれば、すぐさま書庫に走り、本にかじりついていました。
そして、今日はティーサロンがお休みの日。
「ならば、書庫へといざゆかん!」
と息巻いたところで、乾執事に呼び止められたのです。
「良いところにいた。浅葱君、君に任せたい仕事があるのだが」
「...はぁ、なんでしょう」
ポマードで綺麗に整えられた頭髪。
眼鏡からグラスチェーンがきらりと垂れる。
"ダンディズム、ここに極まれり"といったお方。
乾執事の頼みとあらば、無下にすることはできませんね。
「このカップを、あのショーケースに飾ってほしいのです」
乾執事が手にしていたのは、お嬢様がとても大切にしていらっしゃるティーカップ。
「私が、でございますか...」
この頼み事には、私の心もきゅっと音を立てて竦んだ。
物怖じするのも無理はありませんよ。
なんたってこのティーカップは、私が逆立ちしたって手に入れることの出来ない高価な物。
万が一のことがあっては、私は市中引きずりまわしにされること間違いないでしょうね...
そのリスクを背負うプレッシャーに耐えかねた私は、一時退却を試みたのです。
「私、これから書庫の清掃に急がねばなりませんので...」
一つ会釈をして立ち去ろうとする。
しかし、すぐさま乾執事に首根っこをくいと捕まえられてしまった。
首をすくめて大人しく観念する私。まるで猫です。
「それじゃあ、頼みましたよ」
にこやかな笑顔とは対照的に、眼鏡に光が反射して目が見えないのがなんとも...怖い。
伸びやかで優しい声の裏に、底知れぬ圧力を感じさせながら、私にティーカップを手渡しました。
「いえ..あの.......はい」
本音をぐっと堪えると、なんともうわずった今まで発したことのない声がでた。
颯爽と立ち去る乾執事が奥へと下がっていくのを見送ったまま、私はしばらく立ち尽くしていました。
ともかく、引き受けたからにはちゃんと遂行するのが浅葱の良いところです。
「さっと片して書庫に向かい、世界中の本を地図に、世界一周にでも出かけましょうかね」
もはや頭の中は完全に本のことでいっぱいだった私は、足早にティーサロンのフロア内にあるショーケースへと向かいました。
ショーケースが眼前にまで迫ったとき、あろう事かショーケースの手前にある段差に躓いてしまったのです。
こんな時に段差に躓くなんて、まったく浅葱はドジっ子だね。
などと言っている場合ではございません。
悲劇の始まりを告げる破裂音が鳴り響く。
見事に持ち手とカップが離れ離れになっておりました。
「悪夢だ...そうだ、きっとこれは夢だ」
私は咄嗟にそう思い込み、「夢ならば頬を抓っても痛くない」という古典的な方法で、状況の打破を図りました。
すぐさま頬を力いっぱい抓ってみる。
「いたたたたた夢じゃなかったぁぁぁ」
夢ではないことなど最初から気づいていたのに、痛みをもって現実を現実たらしめた私。
そんなお茶目なところも、浅葱の良いところです。
「まずい…やってしまった」
ようやく現実を受け入れた私は、瞬時に隠ぺいの方法を考えてだしていました。
しかし、妙案が中々浮かばない。
割れたカップを誰かに見られては、もはや私の命はありません。
ひとまず、解決策が浮かぶまでは、ショーケースの脇にある木造のキャビネットに隠しておくことにしたのです。
「いっそ、頼れる誰かに相談してみるか...」
少々観念し、私は親しい使用人をあたってみることにして、足早にティーサロンを離れました。
ここから、浅葱による絶体絶命の“ミッションインポッシブル”が始まるのです。
必ずや、生き延びて見せましょう。
...私は、天寿を全うして人生を終えたい。
時刻は、午後5時を迎えようとしていた。
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「つまり、そういったことから推察するとだ。並行世界の存在を証明するものこそ、夢なんじゃないかって思うわけだよ」
「う~ん...すごく突飛な考えだけど、もしかしたら、もしかするかも」
かれこれ1時間は続けていただろうか。
誰もいないティーサロンのフロアで二人きり。
私と杉村は、互いの意見を交わしながら、「夢」の正体について議論していた。
熱い議論を交わしていると、そこに一人の使用人が現れた。
「あれ...先輩方。なにしてるんですか?」
そう言うと彼は、少し不安げな顔をしていたが、私たちを見てどこか安心したような笑みを浮かべた。
「浅葱じゃないか。君こそなにしてるんだ?」
杉村が驚いたように言う。
私も驚きはしなかったが、少々意外には思った。
それというのも、浅葱は休日となれば決まって、清掃だとか言っては書庫を図書館代わりにしているのを知っていたからだ。
「書庫の清掃はどうしたの」
杉村がそう問いかけると、浅葱はまた先ほどの不安な表情を見せた。
「それが...」
途中、浅葱は少し俯いて、開きかけた口を閉じてしまった。
彼が話そうとしないのは、私たち二人が彼にとって尊敬してやまない偉大な先輩だから...ではないようだ。
「どうした。なにかあったのか」
「その様子だと、何かのっぴきならないことでもあったんじゃない?」
私と杉村は、尚も喋ろうとしない浅葱に問い続ける。
それでも浅葱は押し黙ったまま、私たちの前に立ち尽くしていた。
どうあっても口を開かない浅葱に、私は業を煮やして近くにあった椅子を引き、腰掛けるよう促した。
「まぁ、あまり話したくないことがあるなら、無理はしなくていい。まずは気持ちを休めろ」
浅葱は、固まった体をぎこちなく動かし、恐る恐る腰掛けた。
「そうだ。浅葱にもさっきの話聞かせてやったらどう?黒崎」
杉村が重くるしい場の空気を変えようと、明るい口調でそう言った。
「それはいいかもな。浅葱は小説好きだし、空想的とも思えるこの話にも、きっと興味があるだろう」
「はて、なんですか?その話というのは」
「夢を見ることはあるだろう。夢っていうのはな、実は並行世界の記憶なのかもしれないんだ」
浅葱の顔は、固まった。
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件のミッションインポッシブルを完遂せねばと、使用人寮に戻ってはみたものの、休日ということもあってか、親しい使用人達は皆外出しているようです。
「仕方ない…もう一度ティーサロンに戻ってみるか。誰かいるかも」
そこで再び訪れたティーサロン。
フロアの方から声がしますね。
やはり誰かいるのでしょうか。
そこで二人を見つけた私はなぜか今、突拍子もない話に頭を捻らせているのです。
「そもそも、なんで夢の正体なんか突き止めようと思ったのです?」
私がそう聞くと、杉村さんがその経緯を話してくれた。
「黒崎は最近、悪夢に魘されることがよくあったらしくてね。その原因を調べてたんだよ」
「そこで彼は様々な文献を読んで研究したらしい。そこで、悪夢だけに限らず夢そのものの正体を説くヒントを得たんだ」
「それが、並行世界ってやつですか」
突飛な話に内容がすんなり入ってこない私を察したのか、黒崎さんが問いかけた。
「ところで、浅葱は今日寝ている間、夢を見たか?」
「えぇ...まぁ、はい」
「どんな夢だった?」
「あまりはっきり覚えていませんが、ティーサロンでの夢だったかと」
私は、途切れた夢の記憶をなんとかつなぎ合わせて、二人に説明した。
-ある日のティーサロン、私は紅茶係を仰せつかることとなって、自分がブレントした新開発の紅茶を、使用人の皆に振る舞っていたのです-
「すごいね!浅葱も立派な紅茶係になったんだね。浅葱なら、葱フレーバーの紅茶かな」
杉村さんが喜々として言う。
「葱にお湯かけたらできますかね。で、その夢が何なのです?」
そう問いかけると、黒崎さんが私に問い返してきた。
「浅葱は、過去に自分で紅茶をブレンドしたことがあるか?」
「いえ、ないですけど」
「そうか。いや、夢というのは過去の自分の記憶をランダムに繋ぎ合わせて構成されているらしいんだ」
「はぁ」
「おかしいと思わないか?」
「何がです?」
ピンとこない私に、杉村さんがわかりやすく解説してくれました。
「浅葱は紅茶をブレンドしたことがないにも関わらずだ、夢で紅茶を作っていたんだろ?」
「過去の記憶にないものが、夢に出てきてしまっているんじゃないか?」
「...確かに」
私はなぜ経験にないものを夢にみたのでしょうか。
「俺だって経験にない夢は今までたくさん見てきた。でもそれは過去の埋もれてしまった記憶だとか、他者の経験を自分の経験だと思い込んでしまうことで、それが繋ぎ合わされて夢になると思っていた」
「それに、世の高名な研究者たちが研究した結果を調べてみても、やはり自身の脳にある記憶の保管庫から、記憶が呼び出されて夢をみるという結論が出ているらしいんだ」
熱く語る黒崎さんを横目に、杉村さんが合わせて言う。
「まぁ、実際は夢については不明確なことが多いようだけどねー」
「でも、それじゃああまりに浪漫がないとは思わないか」
黒崎さんはニヤリと笑う。
「“夢=記憶のストーリー仕立て”だと言ってしまえばそれで終わりだが、俺の妄想はそこで止まらなかった。そこで最初の話に戻るわけだ」
「なんだか壮大な話になってきましたね」
私は段々と黒崎さんの話にのめり込んでいきました。
黒崎さんの仮説(妄想)を要約すると、こうです。
-並行世界では、もう一人の自分が存在していて、並行世界の自分とこの世界の自分は潜在的な意識の中では繋がっているという。
そして、寝ている間だけ並行世界の意識と共有することができるのではないか、ということらしい。
つまり、夢で経験にないものを見るのは、並行世界の自分が体験したことを見ているのではないかと語った-
「あの、ひとついいですか」
黒崎さんはこくりと頷く。
「そもそも、その並行世界というのも、教養がないもので申し訳ないですが、ご教授願えませんか」
「そうだね。僕も詳しくは知らないから、ぜひ聞きたいね」
「杉村さんもよく知らなかったんですか?なのに、あんな壮大な妄想をよく聞いていられましたね」
「まぁ、聞き上手ってやつかな。はは」
日々黒崎さんの荒唐無稽な話に付き合っていると思うと、やっぱり杉村さんはすごい。
「俺はいつも自分のペースで話してしまうからな。悪い癖だと思ってるよ」
黒崎さんはそう言って、改めて並行世界について語った。
「並行世界というものは、今自分がいる世界とは別の世界のことだ。その別の世界ってのは、今の世界から分岐してできた世界のことを指すんだ」
「分岐した世界?」
私と杉村さんはまったく同じ方向に頭を傾げました。
「例えば、自分が石ころを蹴飛ばしたとすればだ。その時点から石ころを蹴飛ばさなかった世界ができるわけだ。そうすると、石を蹴飛ばした世界と蹴飛ばさなかった世界に分かれて、時は進んでいくってわけだ」
私たちはさらに深く頭を傾げました。
「ん...分かりにくかったか。だったらこんな話はどうだ」
-ある一人の使用人が、主人の大切にしているティーカップを割ってしまった。憤慨した主人は、その使用人を解雇してしまう。そしてかつて使用人だった者は路頭に迷い、不幸な人生を辿った。もし、あの時ティーカップを割っていなければ、使用人として幸せに暮らす人生になっていたであろう-
「ティーカップを割ってしまったことにより、割らなかった世界と割ってしまった世界の分岐が存在することになる。信じられないかもしれないが、俺たちは過去そう言った分岐点を辿り、いまこうした人生を送っているわけだ。」
「なるほど...いまこうして使用人として生きている自分がいるけど、他の人生を歩んでいたかもしれないっていうのは、可能性としては十分あり得る話だね。つまりは、その“もしかしたらこうなっていたかもしれない自分”ってのが、別の世界では現在進行形で生きている。それが並行世界ってことね」
黒崎さんより随分とわかりやすい説明、ありがとうございます。杉村さん。
「なるほど...ティーカップを割った自分と割ってない自-...ああ!」
そうでした...そうでした。
二人の話に夢中で、とんでもないことを忘れていました。
急に額に脂汗を滲ませ、慄きだした私を二人が心配そうに見つめていました。
「どうしたの...浅葱。ティーカップがどうかしたの?」
「そういやさっき話さなかったことがあったな。おそらくティーカップに関わることなんだろ?聞いてやるから話してみな」
私は観念して洗いざらい事の経緯を二人に話しました。
「「なんだって!?お嬢様の大切なティーカップを、割ってしまっただと!?」」
二人は口を揃えて驚嘆しました。
「まずいぞ...あのカップはお嬢様が御幼少の砌から大切になさっていた物。あれを割ったとなっては...」
「まずいよねぇ。たぶん市中引きずりまわし、どころじゃすまないかもね」
私の不安を恐怖に変えるほどに、煽る二人。あな恐ろしや。
「私...私は………どうじたらいいんでじょうがぁぁ!」
ついに私は、恐怖からくる涙を抑えきれず、二人に泣きつきました。
「どうするったって、ねぇ」
「こればかりは仕方ない。誠心誠意、謝るしかないだろう。浅葱、君はもう“カップを割ってしまった”世界にいるんだからな。並行世界へ行けるなら、話は別だが」
先だって並行世界の存在を聞いていた私は、藁をもすがる気持ちで言いました。
「黒崎ざんっ…ぐすっ…へいごうぜがいがあるっで信じでるなら、そごへ行ぐ方法ぐらい...ひくっ...考えづぎまぜんが…ひくっ」
「無理言うなよ…自分で見つけてくれ。机の引き出しとかに入ってこい」
「そんなぁ…」
もはや、私に生き残る術は残っていないのでしょうか…
「これはこれは、皆さんお集りのようで...」
突如、そこに現れた一人の使用人は、不気味な液体を持って私達を見据えていました。
「紅茶でも...いかがですか」
「隈川…さん?」
-続く-
Filed under: 黒崎 — 17:08