「うつ病」という心の病がある。私はあまり心の悩みについての記事を書く上で専門的なことを話すのはあまり好きでは無いのだが、うつ病には様々な種類が存在する。
私は以前まで「うつ病」は「うつ病」であり「それ以上」でも「それ以下」でもない、「うつ病」という一つの病気のように捉えていた。しかし実際には「抑うつ」なんてのもあるし「躁うつ」、今調べてみた所「大うつ」なんてのもあることが分かった。
こうして考えてみると「人は何でも、名前を付けたがるのだなぁ。」と思ったりするものなのだが、このことが発展して「うつ病自慢」をしているような方を見る機会があったので、このことについて話していこうかと思う。
目次
現代とうつ病の関係
先日のことである。私がインターネットで他の方が書かれたブログを見て回っているとよく「うつ病」のことについて書かれている方が多く見かけられた。
これは私がインターネットで本格的にブログに取り組むようになってから感じられたことなのだが、他の方が書かれるブログ記事のテーマというのは意外と日常日記や雑記、その道の専門的な話だけでなく、自身がうつ病になった経験を体験談として、もしくは現在進行形で治療されていることをテーマとして毎日記事を書いている方がなかなか多いのである。
このことから「意外とうつで悩んでいる人って自分だけじゃないんだな。」「うつ病になる人って人を問わず誰にでも発症してしまう一般的な病気なんだな。」とそのような気持ちを感じられやすい。
この話の良いところというのは「悩みを一人で抱え込むリスク」が大幅に減少出来る点であろう。「悩みの共有化」とでも言うのだろうか?そのこともあって「うつ病」で苦しんでいる人は大分気持ちがほぐれて毎日良く過ごされているかと思われる。必ずしもそうであるとは言い切れないが。
またこのことは何も「うつ病」に限った話でもないだろう。我々は今、インターネットを情報の媒体元としてその方に直接顔を見せなくとも、いつでもどこでも会話を行うことが可能になっている。そのこともあって「人の悩み」の共有化が異常なスピードで促進されるようになった。このような便利時代に、インターネットを使わない手はあまりないかと思われる。中には「困ったらインターネットを使え!」とでも話す人が居そうである。
ところで私がそのインターネットの世界でブログ巡りなんかをしていると、何やらちょっと「おかしな人」を見かけることが多々あったりする。それが今回の記事タイトルにもなっている「うつ病自慢」というものをされている方だ。
うつ病を愚痴のネタにする女性
うつ病自慢だなんて聞くと、「何かの催し物か何かか?」「初めて聞いたよ。」とそのような声が出てくるかと思われるかもしれないが、それもそのはずである。何故なら私自身が、先日の際に考え作り出した言葉だからだ。
うつ病自慢という言葉は何か?と問われると、似たような言葉にある「不幸自慢」という言葉があるだろう。それをイメージして貰えると分かりやすいかと思われるが、要は不幸自慢のうつ病バージョンと言っても良い。
自身が如何に不幸で苦しみ悩んだのか、もしくは自身が今うつ病を患っておりそのことをことある場面においてそのことについて話したりする。そのような方がこの「うつ病自慢」に入るのだ。
具体的な内容について話してみよう。私はいつものようにブログを毎日更新されている方の元へその日の記事を見に行った。そしていつものようにその記事を読んでいくのだが、ふと、文章に違和感を感じるような点があった。
そのおかしな点というものは例えば
「今日はこのようなことがあった。
嫌な上司、夫、姑などからあれこれ言われてムカついた。そしてこのことをブログを通して記事のネタとして発信している自分の姿も何だか好きになれない。
他の方たちのブログを読んでいるとちゃんとした内容のある話を書いているというのに、自身のブログはというと内容のかけらも感じられない、ただの『愚痴溜め場』『独り言置き場』になっている。こんなことになってしまうのは自身が今うつだからだ。
そしてうつ病になってしまったのはその人たち、もしくは自分がいけないからだ。
あー、うつ病治らないかなー。」
という内容である。確かにこの方というのはその日起きた場面において嫌なことを様々な方から受けて来たのだろうし、この人が過去に「うつ病」を発症したというのも実際に起きた本当のことなのだろう。
しかし、これを見ている方からすると「結局何なんだ?」と思いたくなるのが正直な所であるかと思われる。ましてや「本当にうつ病なのか?」とその病気に対する不信感さえ覚えそうだ。要は信憑性に欠けるのである。うつ病というものは、そこまで軽々しく人の言葉から出て来て良いものなのだろうか?
前に書かれた悩まない人は総じて「嫌われ者」である - 心の教科書では無いが、うつ病というものをこの方はどこか誤解しているのではないだろうか?もし「どこもおかしくない。」と言うのであれば、その書かれた記事内容そのまま同じうつ病患者の目の前で話してみると良いだろう。
果たしてどうなることか。少し考えてみると容易に分かることだろう。この方というのは誰の目から見られているのか、インターネットにおける最低限のモラル、エチケットを知らない「頭のおかしい方」なのである。
そのような方が誰かの目に留まってあれこれ言われたりする。そして泣き喚いて「あの人はおかしい。私をいじめてくる。」などとワカランチンな、的外れな事を周りの方々に対して共感を求めようとする(とっちめてやろうか?)。
ここまでくると「本当に成人されたのですか?何歳になる『保育園児』ですか?」と疑いたくなるほどの低レベルな、呆れ返るような話なのだが、このような方というのは腐るほどいたりするものだから非常に疲れてくると言うものだろうか、何なのだろうか?それはインターネットだけでなく、現実社会においてもだ。
そしてそのような方がいても「あらー可哀想に。よしよし、嫌だったね〜。」「泣いて良いんだよー。」などと言わんばかりに共感したり擁護しようとする方も大概「馬鹿」である。このような方というのはその方の母親を筆頭に、学校の「女子グループ」なんかで非常に多い。一体、何が育つのだと言うのだろうか?ぜひ教えて頂きたいところだ。
うつ病を「ネタ感覚」で話そうとする男性
また昨日見たブログの中ではこのような記事を書かかれる方もいた。その方というのは自身のうつ病経験を元に「うつ病になるとこうなる。」「病院にはどこどこに行った。」「会社にはこう話した。」とうつ病に関する情報発信をメインとした「うつ病ブログ」を書く男性と思われる方であった。
この事自体については別に構わなく、むしろうつ病を患っている方々に対して勇気や希望を与えられる素晴らしい事であると思うのだが、やはりその方の書かれた記事をよく読んでみるとどこか違和感を覚えるようなおかしな文章であったのである。
例えば
「自分はうつ病になった時まさか自分がうつ病になるなんて思ってもいなかった。笑ってしまうね。
それから会社も行けなくなって、行こうとしても足がマジで震えちゃって。行きたくても『うわっ、これヤバいな。』と。一緒に働く会社の人たちの顔なんてとても見れなかったし、何なら受付の女の子にだって『おはようございます...』って声が出ない笑笑
それから病院に行ったけど見てもらったら『うつ病』って診断されて『あーっ、やっばりか...』って落ち込んだ。スゲーショックだったし、しかも治療費に50万近い金額の契約されて『えっ?これ詐欺じゃないの?』って疑ったね笑
でもこれ、本当だったんだよ。何でもいつまで経っても治らなかったりすると最大で50万円くらいの金額がかかるけど、もしうつ病が速く治ればその治療した分だけのお金だけで済む。なんなら途中解約しても全額払わずに、治療した分だけでいいよって言ったからさ仕方なくサインしたよね笑
それからうんたらかんたらアレコレホニャララ...」
と書いていたとする。この文面から感じられたのは、確かにこの方が経験されたことは本当でその時自身はどう動くことになったのか、何をしなければならなくなったなどの良い情報が書かれている。しかし、これも愚痴記事を書かれている方と似たようなもので信憑性に欠けるような「それはそれは、大変でしたね。」「それ、どこの飲み会の話?」と疑いたくなるような記事内容だったのである。
本当にうつ病だったのだろうか?
もしうつ病を本当に患ったことのある方であればこのように感じる事だろう。それは不信感にも繋がってくるだろうし、そのブログ、その記事が二度と同じ人の目に読まれない原因にもなる。ブログ記事の書き方には色々な方法や在り方というものがあるのかもしれないが、少なくとも「うつ病」というテーマを記事にして書く場合、おちゃらけた様子で、まるでうつ病患者をバカにするような態度で記事を書いてはいけないと思うのだ。
私がこのような固い文章で人の悩みについて語るのと同じである。もし以前書いていたふざけたような、料理記事を書いていた時のような「何々しました。」「これは良いですね〜!」などと明るい気持ちで書こうならば悩んでいる人たちから「冗談も休み休み言え!」と非難殺到することとなるだろう。
どんな記事を書こうにも、どんな態度で書いたって良い訳では無いのだ。
本当の「うつ病」を患った方の書くブログ
このように話すと「自分は良い記事、読まれるようなブログなんて書くつもりないから。」「ただのコメントみたいに、それ感覚で書いているだけだから。」などと宣う輩が一定数いたりする。そのような方たちに対して私は「ならその書いた記事を非公開にして、ご自身だけで読まれてみたらどうですか?」と言うだろう。
前にも話したが、自身の向き合わねばならない課題に対して都合の良い言葉に逃げるのは「害悪」のすることである。わかりやすい例えで言うと「お金が無いなら誰かから強奪、脅迫すれば良いんだ。」と言っているのと同じである。貧しいことを理由に人の道から外れたことに手を染める「馬鹿」なのだ。
このような方が書く記事というのは「価値が無い」と言っても良い。むしろ読まれる方にとって悪影響を及ぼしかねないだろう。それは「イライラ」する気持ちだったり「ムカつく。」「何だこの人は。いい加減な記事を書きやがって。」と人によって様々である。この方たちの気持ちを代わりに言うのであれば「ハッキリ言って迷惑」なのである。
そのような記事を書く人というのは、記事を書く以前の問題としてインターネットという「誰の目から見られてもおかしくない」「知らない人から記事を読まれるリスク」というものを少し考えた方が良いだろう。これは人としての、「人間性」の問題である。
そして、「本当にうつ病を患った方」「本当の悩みを抱えたことのある方」というものの書く記事、話す言葉というものはもう少し穏やかで、落ち着いていて静かなものである。抱えた問題に対してとやかく言う必要が無いからだ。うつ病や悩みに対してあれこれ適当なことを、愚痴を言ったりする人というのはこの辺りを履き違えているのではないだろうか?
ましてやその事を「誰かに分かって貰いたい」声を大にして「気をつけましょうねー!!」などと言うのはおかしな話だろう。人は誰かに頼る前に、まず自分が悩みに対して「どう感じたのか」「どうしてこのようになってしまったのか?」を向き合わねばならない。人に助けを求めることによって自身が抱える問題をうやむやにしてはいけないのだ。
そのことをうまく利用して問題から、悩みから逃げる為に他人を利用する人は「害人」である。悪、そのものと言っても良い。我々は誰かを助けるにしても「そのことが果たして本当にその人の為になるのか。」「助けることによってその人の中に潜む悪を助長しかねないか。」よく考えてから行動する必要があるだろう。
何でもかんでも、誰を助ければ良いという話ではないのだ。