ここで私の本業である哲学が重要になってくる。というのも哲学界ではとんでもなく有名なのだが世間ではほとんど知られていない、合理性にもとづくアプローチを支持する定説があるからだ。アメリカの哲学者ドナルド・デイヴィッドソンによって展開され、デイヴィッドソンが「寛容の原則」と呼んだものに依拠する説だ。
基本の考えは、きわめてシンプルである。人間の行為は観察できるが、動機は観察できない。人の考えていること、達成しようと努めていることは本当はわからない。だからある人の行為についてのどんな作り話も、多くの異なる話のなかで自分の目に映るものと一致する一つになるだけのことだ。では、どうやって一つの話を選ぶのか? 基本的にはその人の語ることが最善に聞こえるものを選ぶ。私たちは、ミスの原因を誰かに帰すのを最小限に抑える解釈を好む。そうでもしないと、人は単純なことに関しても、決して互いに理解しあえないだろう。
これを実例で説明させてほしい。哲学を仕事にすることの不利として、精神衛生に問題のある人を引き寄せることがある。学生が論文の代わりに、いかれたよしなしごとを書きつけたノートを提出してくるとか、教授が研究室にバリケードを築くなどは、日常茶飯事だ。もう何年も前になるが、ある同僚がこの種の難事に直面していた。当時、この同僚はドイツの偉大な哲学者にして論理学者、ゴットロープ・フレーゲに関する本を執筆中だった。大学当局がこの進行中の仕事に適切な評価を与えていないことに、とても苛立っていた。あるとき、怒りにまかせて叫んだ。「あいつらときたら、二○世紀で最も偉大な哲学者を相手にしてるのがわからないのか?」。私の友人がやんわり間違いを訂正してやろうと、こう声をかけた。「フレーゲはどちらかというと一九世紀の哲学者じゃないかな?」これに対し同僚はこう答えた。「フレーゲ? フレーゲの話じゃない。このおれのことだ」
さて、ここでいったい何が起こったか? 同僚が明らかに正しくないことを言いだした。このため友人にとって解釈上の困難が生じた。間違いがあったのは明白だ。友人は、発話者にとって最小の間違いになるように解釈を組み立てた──フレーゲの主要な業績の年代をとりちがえたと解釈したのだった。ところが、そうではなかった。発話者はもっと大きな間違いを犯していた。自分を二○世紀で最も偉大な哲学者ととりちがえたのだ。
この話の要点は、寛容な解釈をする人に問題があるというのではない。反対に、なぜそうせざるをえないかを示しているのだ。第二の解釈で進めると想像してみよう。人がこんな重大な間違いを犯すことを前提にして話を始めたら、発話者がどんなクレイジーなことを言い出すかについての解釈に、ほとんど制約が加わらない。良い解釈に決めることができなくなる。良い解釈と悪い解釈との区別をつけるすべがなくなるからだ。人間は不合理になりえないと言いたいのではない(私の元同僚という好例がある)。不合理性に訴えるどのような説明にも(哲学でよく言うように、その事実によって)大きな立証責任を負うということだ。
同じことが人の行動の理解にもあてはまる。私たちは人の行動を概して合理的と考える。そうしないと、人が何をするか、どう振る舞うと思うかの解釈にきりがなくなるからだ。もしあなたが誰かの行動について語る話が、その人がまったく不合理なように聞こえたら、問題はその人ではなく話にあるということだ。このことはあなたが正しいという可能性を排除するものではない。あなたが大きな立証責任を負うことを意味しているにすぎない。
ジョセフ・ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』NTT出版、pp. 353-5