人間とは、悩む生き物である。「会社」「子育て」「夫婦」「恋愛」など悩み一つとってもその悩みの原因となる種類と数の限りなさには文字通り「人の数だけ」あると言っても良い。
そんな悩みの中でも「自分はどうして人から嫌われるんだろう?」と自身の人から嫌われる理由が解らずに悩んでおられる方がいたりする。
ある父親となる方が相談にやって来た。その方の悩みというのは「子育てがうまく行かない」というものである。話の内容は「小学生になる息子一人がいるのだが、こちらの言うことを全く聞いてくれない。
私は職業として学校の教師をやっていて、そこではクラスの子どもたちをまとめて、自分で言うのもなんだが教えて導いてあげる力が大分上手い方であると思っている。
だが自身の息子だけはどうしてもそれが上手く行かない。私が家に帰るといつも息子がゲームをして困っている。『宿題は終わったのか?』と聞くと『まだ。』と私の声を横目にそのままゲームを続けようとするものだから呆れてその日は思わず怒鳴ってしまった。
目次
子どもの宿題に付き合おうとする「教育熱心」な父親
それからあの手この手で息子が勉強に向かうよう手を尽くした。息子のゲームをしている姿を見守ってあげたり、時には厳しく叱って宿題が終わってからゲームをやるよう言い聞かせることもやった。しかし、そのどれもが上手く行かないのである。息子に親の気持ちがわかるようにと、こちらも息子の宿題を手伝うこともあったし解らない問題に対しても『なぜ解らないのか?』と親身に2時間でも3時間でも子どもの宿題に付き合うこともやった。
それなのに息子の表情は全くやる気の無さそうな顔をしているからこちらも段々と焦ってしまい『もし宿題終わってもいないのに遊んでいたらゲームは没収だからな。』と子どもに対するしつけもひどくなってしまう。
そしてその日は遂にやって来た。息子が私を見かけるとまるで逃げるかのように自身の部屋に閉じこもるようになってしまったのである。そして息子の部屋に入ると、息子は私に隠れてゲームをやっていたことが分かった。
その態度に私はついに息子の持っていたゲームを取り上げ、息子が買って読んでいた漫画雑誌を目の前で破り捨てて見せた。
それからというもの、息子の私に対する態度は明らかなものとなり全く近づこうとも話しかけることも無くなった。私が家に帰るといつも自分の部屋にいることがほとんどとなり、こちらから気を向かせようと休日にはドライブに誘ったりおいしい食べ物を食べさせようと声をかけるのだが「行かない。」「いらない。」と素っ気ない言葉で返されるのが当たり前にまでなってしまった。
そしてある日私が家に帰ると息子がなんと親の貯金箱に手をかける姿を見てしまったのである。」と、ここまで長い話を話した後に「私の何処が間違っていたのでしょうか?」と最後に呟かれたのである。
このような教育熱心に自身の子どもを育てあげようとする親は何かと多い。塾や習い事、教室に通わせようとする親の姿が20年以上くらい前からほとんど変わっていないのが見てわかるだろう。ましてや「今は国際性が重要である。」からと英語の教材を自身の子どもに買い与えようとする親までもがいる。
これらの姿は一見、親の立場からしてみるとそのどれもが間違えているとは思えないものばかりだろう。しかしその愛情が子どもの心に響けば良いのだが、、、現実はなかなか上手くはいかないようである。
「ストーカー」をしていることに気付かない女性
この話とは別に「嫌われる人」というのはたくさんいることだろう。例えば恋愛における話である。
ある女性の方はとある男性のことを一目で見た瞬間とても好きになった。いわゆる「一目惚れ」というものなのだが、女性の方は「どうやって話しかけたら良いのだろうか」「誕生日はいつなのか?メールアドレスの交換はどうしたら良いのだろうか?」とあの手この手でその好きな男性に対する接近を試みる。
その姿はどんどんエスカレートしていき、ついには占いに頼ってみたり偶然を装ってその方に話しかけたりする。そして幸か不幸か、ついにその方と連絡のやり取りが出来るようなるのだが、何故か今度は上手くいかなくなる。朝起きた際に「おはようございます。」とメッセージを送り、最初は返事を返してくれていたのが徐々に雲行きが怪しくなるよう無視されることが増えて、その度にこちらから送るメッセージも多くなってしまう。
そしてついにある日「今何してます?」と言葉を送ると相手から「気持ち悪い。馬鹿なの?」と言葉が送られてその女性の方は大変ショックを受けたのだと言う。
ここまでくるともはや笑い話になってくるのだが、嫌われる方というのはやはり一定数どこにでもいるようだ。
ちなみにその女性の後日談として面白いのが、その「気持ち悪い。」と正面から言われても、まだその男性のことを好きでいようとした所である。ここまで来ると、その手のプロである恋愛・結婚カウンセリングを本職としてされている方、心の悩みについて考える私であっても手に負えないことが多い。何故なら「病気」だからである。
病気と言っても「恋の病」などという茶々なものなんかではない。れっきとした「精神的病気」である。恋愛ジャンキーとでも言うのだろうか?この方のタチの悪い所というのは無自覚であるが故に自身の行為が「ストーカー」であることに気付いていない部分にある。
そしてこのような恋愛相談をされると、私は「あなたはストーカーですね。男性だけでなく、女性たちからも嫌われてますよ。」とハッキリ言うようにしている。中途半端な言葉を入れても全く効果が無いからである。そのような方に「真実」と言う名の劇薬を投与することによって、場合にはとても傷つかれたり泣き出してしまう方もいたりするのだが。
我々は日常的に「うそ」を言うことによって人間関係を維持しようとしている部分があったりするのだが、時にはこのように「真実」を入れなければならぬ時というのもあるだろう。さもなければ、こちらまでもがその「支配性」とも呼べる価値観に侵されてしまう。学校の友人関係、グループというのはこの「支配性」による悩み、「言いたくても言えない。」悩みが多いのではないだろうか?
悩むことから逃げようとする息子
このように話していたりすると「あなたはいつも『心の悩み』をテーマに話をたくさんされていますけど、そんなに悩んでいたら疲れてきませんか?」という声が出てくるかと思われる。
確かにその言葉の言う通りである。悩むということはとても疲れてくるものなのである。大抵の方はこの「疲れる」のが嫌だから悩むことから逃げ出してしまうのだ。
私が聞いて驚いたエピソードがある。ある時たまたま、その方の話を聞くことになったのだが、ある母親と小学生になる息子との会話である。
ある日その子どもが家でゲームをしていたところ、母親が子どもに尋ねてきた。「ねぇ、今日の学校からのカバンを見たけど宿題があったんじゃない?どうするの、お母さんあんまり言わないよ?宿題やらないで、明日にでもなったらどうするの!?」
するとその息子はこう答えた。
「いいよいいよそんなに心配しなくても。
お母さんは悩みすぎなんだよ。悩みなんて悩まなければ良いんだから。悩みたい人だけが悩めば良いんだよ。」
まさか小学生にしてこのような言葉が出てくるとは、と思ったのだが。それよりも驚いたのがこの息子の、自身のことに対する責任の乏しさであろう。
「悩みは悩みたい人だけがすれば良い」。確かにその言葉の言う通りである。私は悩みについての記事を毎日ブログを通して書いてきているのだが、人の悩みを紹介した所で他の読んでおられる方々に対して「悩め悩め」というのは間違っている。これは誰の目から見ても明らかであろう。
その点に関しては、私も同意である。悩まない方はどうかと思われるが、同じように「悩みの押し売り」をしようとする方も考えものである。私は悩みについての記事を書く上でそのような「悩みを押し付ける」人になってしまわないような課題を持っている。なので人の悩み方に対する価値観についてうるさく言うつもりはないのだが...。
しかし、ここでは多少強くあったとしても記事のタイトルにもあるように「悩まない人は総じて『嫌われ者』である」と言っておきたい。総じて、というのは大方がそうであり必ずしもそうとは限らない、悩まない人も誰かしらから好かれることがあることを意味する。
もし私がそのような母親の立場に立った場合、このように話すだろう。「ならばその言葉の言う通り、宿題も悩まずやれば良いでしょう?」と。
大体この手の「悩まなければ良い」みたいな言い方をする人というのは、本当の悩みについて分かっていないからこそ言えるのではないのだろうか?要は無責任なのである。本当に思ってもいないことを適当に口にして、わかったつもりになっているのである。
どうしてわかってもいないのにわかったフリなどするのだろうか?それは本人自身も、やはり悩んでいるのである。悩んでいるのだが、その答えがなかなか見つけることができない。それに話した通り、悩むということは疲れてくるものなのでなるべくならその悩みに対してエネルギーを使いたくない。都合の良い言葉を免罪符代わりにして、結局は向き合わねばならぬことから逃げてる。己の課題から逃げ出そうとしているのだ。
悩みのない人は嫌われ者であり「害悪」だ
また、もう少しこの息子さんの言葉に言及させてもらうとすれば「悩みなんて悩まなければ良い」という考えは甘すぎるのではないだろうか?
もしこの言葉通りだとしたら、自身は「悩みなんて知りませ〜ん。」などと言っているようなものである。そのような方を、誰が好きになるとでも言うのだろうか?せいぜいこの方と同じような「悩みたくない人」くらいである。
しかし「悩みたくない人」と言っても、結局はその方も「悩みたくない」ことに対して悩んでおられるので悩まない人とは相性が悪そうである。結局「悩まない人」「悩みを知らない人」と言うのは最後「孤立」してしまう運命にあるようだ。
この孤立してしまうまでの間、その方というのは「笑顔」「笑い」「楽観」という名の「借金」をすることによって生き長らえることとなる。借金というものは恐ろしいもので、借金をしている期間が長ければ長いほどそれに伴う利子が泡のように膨れ上がってしまう。リボ払いでは無いが...。
「笑顔で過ごす」「ポジティブな言葉だけを取り込む」「嫌いな人とは付き合わない」「笑う角には福来たる」などとバカ正直に、本気でそう思っている方がいるとすれば、それは相当頭の中が悪い可哀想な方としか思いようがない。その方が笑うことも出来なくなった際にはきっと、底の見えない暗い深淵によって引きずり飲み込まれてしまうことだろう。
それは人によっては「自殺」だったり「リストカット」、「殺人」に「放火」「家庭内暴力」だったりと様々である。「悩まない人」というのは、時により意図的な犯罪者よりも「害悪」な存在になってしまうのだ。
そうならない為にも我々は時に足を止めて一度悩まなければならない。私の好きな言葉の中に『灯台に近づきすぎると難破する』という言葉がある。要は「目的地が遠い間は悩まなくても結構だが、それが近くまで来たら一度止めないと壁に激突してバラバラになってしまう」ということなのだが、悩まない人というのはつまりブレーキのない車で高速道路を160kmで走るのと対して変わらないことをしているのだ。周りの人からすると、如何に迷惑なことをしているのかが分かるだろう。
そしていよいよその方もたくさんの人から嫌われ続けて、ようやく悩むことになるのである。「どうして自分だけがこんな嫌な目に遭わなければならないのだ...」と。
その悩むタイミングというものは、保育園に通っている時から好きな仕事に打ち込んでいる何かの拍子に、または退職して老後を迎えた時など実にバラバラである。年齢など関係ないのだ。
そしてその方が専門家の所にやって来て相談されたりするのだが、その方が良くなるか自殺してしまうかはまた別の問題になってくることだろう。
とにかく「悩まない人」というのは要注意である。ネットなんかを見ていたりするといかにも「頭の中、悩みがなさそう。」な人や文章を腐るほど見かけるのだが、こうして考えてみるとその人というのは「あぁ、この人は今『心の借金』を抱え込んでいるんだな...。」「周りから大分嫌われたりしているんだろうなぁ。」とその方に対して何もイライラせずに見ることが出来るようになったりする。
もしその方が本当の悩み「孤立」に直面するまでの間、我々はその方を暖かい眼差しで見守ってあげられたら、孤立した後もきっと救われることだろう。